発光ダイオード特許事件7(日本文化批判はどうなる?5)

今の価値観では分が悪いから政治運動して新たな規則ルールに変えてもらおうと言うならば政治の場で決めるべきであって、訴訟の場はは現行ルールで勝敗を決する場です。
政治で勝つには数百マンの支持でも少数政党にすぎませんが、裁判所を取り巻くにはわずか数百人も集まれば大勢力です。
訴訟を、応援団の多い方が勝つ仕組みにしてしまうのは危険です。
国会周辺への動員も同様で、わずか1〜2万人(1億人とすれば0、01〜0、02%の勢力)でも大報道して国会議決に影響を与えようとするかのような報道姿勢が見られます。
代議制民主主義は代議員の討議の結果、多数決で決める制度であって国会周辺に集まる支持者の数で決めるものではありません。
こういう組織動員勢力を過大評価するためにメデイアは、国民大多数の集団であるかのようなすり替え報道しています。
ルールがどうあるべきかの政治問題は政治の場面で民主的に決めることであり、司法は政治問題で決まったルールに原被告どちらが適合しているかを最終決定する機関であって裁判所に集まる支持者の数で決める手続きではありまん。
9月20日日経新聞朝刊では、原発事故に関する東電経営陣の無罪判決が出ていますが、天災等の発生確率に対する判断が結果的に違った場合、(いまにも大雨が降りそうな時に雨具の用意をしないような一見明白な場合に備えを怠ったのとは違い、東北大地震は文字通りの天災です)100年一回の災害でも備えをどの程度すべきかの政治責任や経営責任を問うのは別として、司法で刑事責任まで追求するセンスを疑うの私だけでしょうか?
9月9日午前5時頃に千葉市を襲った台風15号による房総半島ほぼ全域にわたる停電〜水道供給停止〜自家発電装置の燃料切れなどの連鎖による広範な災害をみてもわかりますが、台風情報は前から出ていたし、台風の規模等事前情報がありました。
そういう強力な台風があれば倒木あること等を前提に電車等は計画的に運休して備えていたということは、東電も倒木被害による電線切断や電柱の倒壊なども予想可能であったこととになります。
そうするとこの台風→停電によって人身被害を受けた人に対する犯罪者として「刑事訴追すべき」という世論になるのでしょうか?
15号台風は日本列島全体で見れば、(昨年関空を襲った台風21号より風速が遅い)東北大震災ほど想定外の想定外台風ではありません。
民事責任あるいは補償は別として、刑事責任まで追及すべきという意見は滅多にいないのではないでしょうか?
(この辺は私の根拠なき推測ですが、論理的に言えばもしも民事上の過失責任があるならば、刑事上の過失責任も問うべきという論法では、体育その他全て萎縮してしまうからです。)
崖っぷちの危険道路や丸木橋も必要性との兼ね合いで通行禁止しない・事故が起きたらその限度で対応というのが世の中のあり様ではないでしょうか?
9月20日の日経新聞43pを見ると決まり文句の「検察官役『判決国に忖度と批判』と大きく出ています。
「国に忖度」という批判論(内容を読む気がしませんが、多分中村教授同様の定型的非論理的主観意見でしょう)メデイア界にはこういう主観的意見を持っている人が多いのでこういう具体性のない感情論を報道したくて仕方ないのでしょうか?
反政府運動的訴訟で負ければ「不当判決」などの感情論的決めつけ論が横行していま
す。
合理的批判は社会発展に必要ですが、事実適示のないまま、司法が政府を「忖度」しているとか「腐っている」という感情論を煽るだけでは合理的な批判精神も育ちません。
「何が腐っている」のか忖度の根拠等の具体論がないままでは、国に忖度というのでは、個人訴訟で裁判に負けた方が「裁判官と相手が癒着している」とひがみっぽくいうの同じレベルではないでしょうか?
検察官役と書いているので弁護士・それも腕利きの弁護士でしょうが、プロ中のプロが具体的論証なしにこう言う主観論を堂々と発表するとは驚きです。
発光ダイオード事件では、「司法が腐っている」という発言は弁護士から出たものではありませんでしたが・・。
もしかして具体的論証できる資料があってその説明をしたが、メデイアは長々と引用できないので結論だけを記事にした場合もあります。
とはいえ、「忖度」などという曖昧概念を証拠でどうやって論証できたのか、理解不能です。
「凡庸な弁護士に分かるはずがない」秘術がある点が、「やりて弁護士」という評判をとっている源泉かもしれません。
こんなことを弁護士が大手新聞の前で言うのでは、司法制度の存在を前提とする弁護士自身が司法制度を否定しているようなものです。
現行司法制度を変更したり、否定したいならば、政治の世界(その前提として、司法界の実務家意見が重視されるのでその協議会等で発言すべきもの)で運動をすべきでしょう。
市民感覚が・・(上記同日の日経社説にもこの種の表現がされています)と言う感情論で訴訟をやって来たのでしょうか?
誰が市民感覚を代弁する権利があるのか?民主国家においては代議士の集合体・国会意思ではないでしょうか?
弁護士や報道機関が何の根拠で市民感覚を代表しているつもりになれるのか不思議です。
もしかして、こういう主観論に秀でた人をメデイアで持ち上げているのかな?
市民感覚と言う感情論で刑事罰が決まるのでは恐るべき社会になります。

発光ダイオード特許事件5(日本文化批判はどうなる?3)

中村教授に批判攻撃された日亜化学と日本文化の修復可能性に戻します。
個人的事件でも同じですが、訴訟外で相手方の悪口雑言を口外した人とは、訴訟で形式上和解しても
「二度と付き合いたくない」
というのが普通の人の行動でしょう。
4〜5年前あるいは昨年扱った労働事件も、企業側はあいつは元々グータラで・・と言いたがるのですが、弁護士としては事情聴取で得た元従業員の良い点を最大限を活かした言い方で「期待していたのに残念なことになった・・」という態度で相手に接するし、相手弁護士も「本人は会社には感謝しているが残業手当不足分だけいただけたらいいのです」・というスタンスでお互い冷静にデータチェックを進め円満和解に至る例が多いのです。
お互い当事者の不満タラタラの主張を吐き出さないのが礼儀ですし、悪口を言いたいだけ言って恨みを残しても意味のないことです。
中村教授は感情に走って(弁護士のアドバイスを振り切って?あるいは知恵をつけといて弁護士は無関係を装っているのか不明ですが)独自記者会見を開いたのでしょうか?
ところで
「ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。」
と何か日本社会が失ったものがが大きいような記事の書き方です。
彼を支持して来たメデイアの発想でノーベル賞受賞でリベンジした・・この勢いで修復を申し出ればうまくいくのではないかと言う、あくまでパワーゲーム的思考だったのでしょうか?
3名ものノーベル賞同時受賞で沸く日本に帰れば、「屈辱的和解」を飲まざる得ず米国での研究生活に没頭すると言って日本から去らざるを得なかった彼にとっては、凱旋将軍のような気分になったでしょう。
修復を求めるとは言いながら同時に研究のエネルギーは(自分を正当に評価しないことに対する)「怒り」(日亜化学と日本社会?)だと明言している点を日亜化学が重視したような解説もありました。
日本では評価されず屈辱的結果になったが、ノーベル賞受賞出来たではないかというリベンジ論で帰ってきたことになります。
しかしこの論理には飛躍があります。
同時受賞の他の2人も同じダイオードの受賞者であり赤崎氏だったかはむしろ草分け的存在ですが、彼ら二人が高額報酬を得て中村氏だけが程評価されなかったというなら日本社会は偏っていることになるのでしょうが、彼ら2人は大学に残って組織内の名誉で満足して生きているのです。
ノーベル賞を受賞したと言っても200億円もくれるわけではなく名誉が主たるご褒美である日本の対応と変わりません。
勝者の気分で日本に帰ってみると、早速中村氏は米国人であって日本人ではないというネット批判の洗礼を受けました。
誰とでも仲良くできれば仲良くしたいのは人情ですが、一定限度を超えた人とは金輪際付き合いたくない」というのも一つの見識です。
隣国とは仲良い方がいいのですが、際限ない悪態には堪忍しきれない・・対韓関係では我慢の限界・「もう近所付き合いしたくない」というのが今の国民大方の意見でしょう。
企業側・日本全体にとっては、ノーベル賞受賞者は世界にゴマンといますので誰と付き合うかを選べますので、「こういう人柄の人と共同作業するのは金輪際はごめんだ」と事実上宣言されたということでしょうか。
日亜化学との真の和解ない限り日本社会が受け入れない・他企業も近づけないということでしょうか?
大々的メデイア露出を繰り返した結果、日亜化学・ひいては日本社会を足蹴にして出て行ったイメージ?(当時の論争・どういうやりとりがあったか報道の一部しか知らないので正確には不明ですが・・)が日本社会で定着しているようです。
中村氏が、日本など相手にできないと国を飛びだし米国籍をとってしまった反日?イメージ定着してしまったものを今更払拭するのは大変でしょう。
屈辱的和解を受け入れた時に「日本司法は腐っている」(・・日本など相手にしない・・)「研究に没頭する」と見栄を切った彼がノーベル掌受賞を機に、日亜化学との修復を何故望み、門前払いされて何故「落胆」するのでしょうか?
日本という信仰集団からの離脱効果・・今になって心に沁みているということでしょうか?
この辺は日本教ともいうべき宗教心みたいなものですから、外国人には理解し難いことでしょう。
外国人でも優秀ならば日本企業は付き合うのですが・・彼に限って付き合えないというのは、日本教・集団倫理を積極的に裏切った男としてのわだかまり・・軋轢があるのでしょう。
彼が日本国籍を喪失している場合、日本国籍を再取得したいといっても、「日亜化学との関係修復していただけませんか?」と暗黙のニュアンスが伝わっているのかもしれません。
外国人の国籍取得は一定の要件をクリアーした時に大臣が許可できるだけであって法律要件クリアー=許可ではありません。
許可は政治裁量によるので、政治的な反対が多いと簡単ではありません。
韓国は感情9割みたいなところがあって、「言い過ぎる不利」に気がつかないようで、・今の韓国に対する日本人多くの感情は、ついにもう付き合いきれない・ダメだという段階になってしまったのと似ています。
韓国国民は日本の怒りの深さに焦っているようですが、(日米から離反して、北朝鮮と中国につく戦略の文政権にとってはその方が好都合でしょうが・・)詫びを入れるどころか開きなおって日本非難を拡大する一方ですので、いよいよ相手にされなくなるでしょう。
中村教授は元日本人として「さあどうする?」というところです。

中国軍に解放してほしい日本人がいるか? 1

中韓等による日本非難の言語の多くは、自分らが日頃したいと持っている悪行を日本がしたことにすり替える・真逆の意味が多いという理解が今の日本では普通になっているのではないでしょうか?
人民解放論は支配者による搾取構造を前提にして異民族領域への侵略→支配を合理化するものですが、日本は古代から中ソが世界支配を正当化する図式の前提たる搾取構造社会ではありません。
指導者とは何か事業をするときにこれをみんなで心を一つにするようにまとめていく能力のある人のことで私利私欲のために動く人ではありません。
また多くの事業業績は集団協力があってこそ実現できるので、総大将や代表者・・旗振り役・・巨石を移動させるために修羅というもので運ぶのが知られています。
石の上で力を合わせるために音頭を取る人がいますが、彼一人の力で巨石が動くのではありません・・このように各種事業は旗振り役が重要ですが、彼は集団を代表して栄誉を受けるに過ぎないと言う点も民族の常識化しているからです。
この人のおかげで一つの事業を成し遂げられたと思う人が出るとうまく行くし、後世偉人として尊敬されます。
奈良の大仏の像立に成功できたのは、それまで朝廷権威による布教形態を無視して独自布教していたことで弾圧されていた・・・最後は行基の指導力を利用するために朝廷が僧としての最高位を授与していますが・・)行基の指導力だとして今だに尊崇されています。
その他、各分野で中興の祖となどと尊崇される人は、自己利益・豪邸を建てて名をなしたのではなく清廉潔白の権化みたいな人ばかりです。
ところで、民族利益とは何か?
異民族支配に成功することではありません。
搾取構造の最たるものは異民族支配でしょうが、我が国では縄文の昔からこういう不当な利益を目的に行動すること自体意味嫌われる社会です。
みんなで労力提供して稲作の為の灌漑施設を作り、ようやくコメを収穫できるようにした場合に、地域住民みんな利益享受できる共同体利益を増進することです。
卑近な例で言えば、日頃から住む自宅周辺や町を綺麗にして気持ちよく暮らすのもその例です。
千年単位で形成した文化その他を含めた幅広い総合的概念が民族利益というものでしょう。
地方旅行すると、郷土の偉人の顕彰碑や資料館があることが多いのでいつもよく見てくるのですが、地元共同利益アップにいかに貢献するかによって人徳が決まる社会ですし、この逆もあるので日本人では子々孫々に恥をかかせない生き方が基本価値観になっています。
また多くの事業業績は集団協力があってこそ実現できるので、総大将や代表者は集団を代表して栄誉を受けるに過ぎないと言う点も民族の常識化しているからです。
百の地元貢献・もたらした功績で代表者個人が百の対価を得たのでは、不当利得であり、尊敬されません。
その代表者の次順位幹部はまだ名を残せるでしょうが、そのまた下の中堅協力者の努力に報いるには結局は当時は顕彰するしかなかったのでしょう。
ため池を作る場合を考えると巨大な資金負担があり、完成と同時に地元に恩恵があるわけではないので褒美を払う資金が枯渇している点もある上に、ため池の効能は子々孫々が継続的に享受するものです。
ため池も灌漑設備も完成と同時に100%受益できるわけではないので対価も受益に応じて払うのが合理的ですが、当時今のようにストックオプション制度もなかったので、地域住民が将来に渡って受ける受益対価も将来の分割払い・・世襲的地位(将来の家禄が保証されても主家が滅びたらおしまい・ストックオプションと同じ)を付与するのが普通でした。
世襲した方は、地元民から祖先の功績を褒められ立派な人だったと尊敬されるので、自然に自分も先祖に恥じないような行動を心がけます。
名主、庄屋や豪族の地位は上記のように地元の役に立ってこそのものですから役立たずになれば、下剋上にあって地位を失っても仕方ないという社会意識が定着していったのでしょう。
その結果現世利益は名目的であり、名誉で受けるのが99%みたいな対価方式が日本社会で定着したのでしょう。
日本では今の企業経営も同じですが、成功に応じて上位者の給与がちょっと上がる程度(百の功績に対して2〜30くらいの報酬、残りは後世子孫への名誉)であって、功績以上の報酬=搾取率の低い社会です。
せっかく(渇水対策のため池を作り洪水対策の堤防を築いたり)事業に成功しても自分の功績以上に私腹を肥やすなどもってのほか(ある程度の対価は必要ですが)ゴーン氏のように対価以上のものを貪るような恥ずかしいことは社会が許しません。
もともと功績評価は地域の子々孫々にどのような福利を残したかが基準ですから、欲をかくと却って子孫が恥をかきます。
この価値観の違いが大きく出たのが発光ダイオード発明の特許に対する企業の報奨金が少なすぎると争うことになった訴訟でしょう。
日本社会は紙一重程度の技術差の人材がひしめいて、その技術集団意見のすり合わせ・協力・集団成果の上に物事の実現が図られる社会です。
例えば、・・ある商品売上増には営業課長一人の能力によるだけではなく部下の功績も無視できませんので、何かの実績をあげた代表選手だけがヒーロー化されますが、実は集合智の目印になったに過ぎないという考え方が基本です。
何かで表彰された時に約99%の人が皆様の協力を得て・・「おかげ様で・・」と謝辞を述べるのはこの価値観によります。
発光ダイオード訴訟についてhttps://ironna.jp/article/407が発明対価について論点整理してすっきり書いていますので明日引用します。

異民族直接支配5(ロシア革命とユダヤ人2)

以下の記事は人名等具体的でしかもユダヤ主導を隠す必要性にも触れていますので、長くなりますが一部引用しておきます。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/582c8b494f27d9e823500007cf87432c

2017-07-05 10:28:20 | ユダヤ的価値観
●ロシア革命にユダヤ人多数が参加
●トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフら枚挙にいとまなし
ロシアの社会主義運動の中心部にいたのは、ユダヤ人だった。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人はポグロムと呼ばれる虐待・虐殺を受けた。
多数のユダヤ人が出国してアメリカ等に移民した。
ユダヤ人に対する迫害を阻止するには、ロマノフ王朝を打倒しなければならないとする急進的な革命思想が広がった。
将来のパレスチナへの移住よりも、現在の体制からの解放が追求された。そのため、多くのユダヤ人が革命運動に参加するようになった。シオニズムより共産主義という選択である。
19世紀末から20世紀初めのイギリスの論壇で活躍したヒレア・ベロックは、作家、歴史家、社会評論家として知られる。ベロックは、1922年に出版した『ユダヤ人』で、ロシア革命を「ユダヤ革命(the Jewish revolution)」と表現した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。
レーニン(本名ウリヤーノフ)自身はユダヤ人ではなかったが、母方の祖母がユダヤ人だった。4分の1がユダヤ人というクォーターである。妻のクループスカヤは純粋なユダヤ人だった。それゆえ、レーニンはユダヤ人の民族集団に近く、ユダヤ人と非ユダヤ人を結合するのに適した背景を持っていたと言えよう。
ロシア革命で最も象徴的なユダヤ人は、10月革命を軍事的に成功させたトロツキー(本名ブロンシュタイン)である。
またそれ以外に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ウリツキー、ラディックが有名であり、他にスベルドルフ、リトヴィーノフ、メシュコフスキー、ステクロフ、マルトフ、ダーセフ、スハノフ、ラジェヌキイ、ボグダノフ、ゴーレフらが挙げられる。ブハーリンについては、ユダヤ系だという説とそうではないという説がある。
ボルシェヴィキの幹部だけでなく一般党員においても、ユダヤ人は目立つ存在だった。党大会の代議員の15%から20%がユダヤ人だったといわれる。1920年の時点で、ソ連政府の各委員会は委員の約8割がユダヤ人だったという説もある。
ボルシェヴィキが政権を奪取すると、これを撃破しようとする白ロシア軍は、ボルシェヴィキだけでなく、全ユダヤ人を敵として取り扱った。ウクライナの内戦は、ユダヤ人の歴史で最も大規模なポグロムに発展し、6~7万人のユダヤ人が殺害された。東欧でもボルシェヴィキとユダヤ人は同一視され、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア等でユダヤ人迫害が行われた。
しかし、ロシアのユダヤ人が全員、共産主義者なのではなく、ボルシェヴィキに参加したユダヤ人は、脱ユダヤ教的なユダヤ人だった。ボルシェヴィキは、帝政ロシアで、ユダヤ教徒の目標と利益に積極的に敵対する唯一の政党だった。
最高指導者のレーニンは、ユダヤ民族主義・シオニズムを批判し、プロレタリア国際主義を推進した。
レーニンは「ユダヤ人の民族性という概念は、ユダヤ人プロレタリアートの利益に反する」「ユダヤ人の民族的文化というスローガンを提唱する者は、プロレタリアートの敵、ユダヤ人の古いカースト的地位の支持者、ラビとブルジョワジーの共犯者である」と批判した。
それゆえ、レーニンはユダヤ人のみの利益のために革命を起こしたのではない。あくまでプロレアリア国際主義の原則のもとに革命を起こした。
実際、一般のユダヤ人は、ボルシェヴィキのユダヤ人によって苦しめられた。彼らは革命によって被害を蒙った。
ケレンスキー臨時政府は、ユダヤ人に完全な投票権と市民権を与えた。その政権が続けば、ユダヤ人は多くのものを獲得できただろう。
だが、ユダヤ人にとって、デモクラシーを否定し、武力で政権を奪うボルシェヴィキのクーデタは、時計の針の逆回転となった。ユダヤ人の多数が粛清され、生き延びた人のうち約30万人は国境を越えて亡命した。
1919年8月にユダヤ人の宗教的共同体は解散させられた。
それらが持つ財産は没収され、大多数のシナゴーグは閉鎖された。脱ユダヤ教的なユダヤ人は、ユダヤ文化の特異性のすべての徴候を撲滅しようとした。ロシアにおけるシオニズムの根絶を図り、1920年以降ロシア人シオニストが何千人も強制収容所に送られた。
彼らのほとんどは、出所できなかった。ユダヤ人共産主義者が、ユダヤ人によるシオニズムを弾圧したのである。

ユダヤ批判が高まったのでロシア革命に対する支持を失わないためにレーニンは「泣いて馬謖を斬った」のでしょうか?
レーニンはグローバル支配完成というユダヤの大義のために目先ユダヤ人優遇を封印するだけではなく逆に少数ユダヤ人を冷遇して、いかにもユダヤのための革命ではないというプロパガンダに成功しました。
経済政治運営でレーニンが、「一歩前進2歩後退」ネップ戦略を発表したのに通じるものがあります。
共産圏だけでなく、米国であれどんな強大国・強力な国家統制体制を構築しても事実に基づかないプロパガンダは、いつかはメッキが剥がれ「地」が出てくる・・色あせる時期がきます。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道4(秀才の限界5)

寛政の改革や天保の改革はいずれも儒教が目標とする聖人・・帝王の自己抑制・・質素倹約奢侈禁止中心で、新たな進歩の芽を規制したことが特徴です。
もっとも定信は人足寄場を作るなど一定の新規改革をしていますし、忠邦も前将軍家斉の濫費政治を徹底排除・・濫費に加担してきた閣老粛清をするなど清新政治を目指しています。
(後記庄内藩国替え騒動の時にミズノの責任を問うために登場禁止処分した老中に対する復讐だったとすれば却って恨みを買い政敵を作ります)
日本ではこういう粛清はもっとも嫌われます・・迫ってきた国防の危機対処のために国防の基礎体力増強のために、江戸大阪周辺の旗本や譜代の入り組んだ小領地を上知(と言っても取り上げっ放しではなく遠隔地との交換です)させ・・一円支配復活による幕府軍事力強化策などしていますが、こういう利害の絡んだ国内政治は人望のない場合強硬策のみでは上手くいかないものです・・。
この後で庄内藩に対する順次領地交換命令に対する地元民による反対運動を紹介しますが、同じ石高同士の交換でも実高の違いが大きいので、損をする藩が出てくる上に藩札の処理で損をする人や大名貸の取りはぐれリスクから領民も反対する・・まして幕閣に顔の効くものがうまい汁を吸える疑いまで生じると・・為政者の信用が欠かせません。
水野の場合には庄内藩騒動で裏で工作していた点を暴かれて信用失墜したばかりでしたので、人望的に無理な政策だったのでしょう。
ここでは、大方の方向性を直感的に表現したものです。
寛政〜天保の改革を見ると、なんとなく漢の王莽による儒教信奉の理念重視の新規政策が空回りに終わって、短期政権に終わったのと似た印象を受けます。
帝王は自分が奢侈に走り怠惰では困る点は今も同じ・健康のために車に乗らず自分の足を使うのも生き方の一つですが、国民が、電話やITを駆使して手間を惜しむ?便利になるのを規制する必要はありません。
朱子学エリートが紀元前の儒学を基礎にした教科書?通りの理想?実現のために政治を支配すると寛政や天保の改革?のような時代錯誤になり幕府崩壊を早めたことになります。
ちなみに徳川政権中期以降幕府に限らず各大名家も産業構造変化・・農業収入に頼る限界による財政難を克服するために各大名家では競って藩政改革・・に走ります。
藩政改革は、商業社会化に応じた前向き改革が中心・・主として特産品の産出努力に精出して相応の成功を収めていますが、幕府・定信や水野の改革は質素倹約中心でしたので方向を誤ったと言うべきでしょう。
ちなみに定信が幕政に乗り出すに当たって成功体験として喧伝されているのは、天明の飢饉に際して備荒米を放出した善政ですが、当時の経済矛盾・・産業構造変化に対応するための改革をしないと体制が持たない危機発生の原因は、貨幣経済の発達と農業依存の財政収入体制の矛盾関係にあったのですから、備荒米放出程度の実績では5〜6周回遅れの古代的政治・儒教でいう帝王学・質素倹約の儒教道徳を実践して自慢していただけのことです。
西洋列強が押し寄せてきている危急存亡のときに時代遅れの改悪?ばかりしていたので、幕府がどんどん信用をなくしていったことになります。
幕府要人は奥州白河藩主や会津やあるいは彦根など、経済変化の主流から外れた地域の経営しか知らない経営者(大名)が中心であったことが、時代逆行の安政の大獄を生み時代についていけなくなった大きな原因でしょう。
韓国文政権の最低賃金引き上げ策の頭でっかち性をどこかで書きましたが、定信や忠邦は上地令や公定賃金などで失敗ばかりである点も似ています。
親会社の改革が失敗ばかりで子会社(各大名家)の改革ばかり上手くいっている大企業の最後のようなものです。
各大名家は、9月2日に書いたように関ヶ原後、領地内の生産高アップに努力して約100年間で耕地面積を倍増していたと言われていますが、100年経過後は米の生産高競争では無理が出てきたので、新規収入源確保のために特産品創出にしのぎを削るようになっていました。
例えば水野忠邦の出身地唐津藩では表高6万石に対して、実高25万石あったと言われています。
唐津藩に関するウイキペデイア解説の一部です。

・・・・入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。

水野忠邦に関するウイキペデイアの引用です。

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

上記の通り唐津藩は表高6万石に対して実高25万3000石ですから、この間のGDP伸び率の大きさがわかるでしょう。
同時期の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。

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