白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)

昨日紹介したウイキペデイアの清水幾太郎の記事を読む限りでは、彼は左翼思考から転向したのではなく、反米という一点で節を曲げずに頑張っていたように見えます。
丸山眞男氏ら「進歩的文化人」主流は、ソ連寄りの主張では戦えない・国民支持がないのを知っていたので「反安保」(ソ連支持)よりは「議決方法が民主的でない」と論点をずらしていくことにしたのでしょうが、清水氏はこのずるいやり方が気に入らなかったようです。
米ソどちらの側についた方が良いかの綱引きで社会主義に夢を持つ純粋な人が国民支持を受けずに論争負けた場合、自己主張が日本のためになると信じているならば支持者を増やすために自己主張の説得力を増やすためにさらに努力するのが本来です。
論戦に破れたからと言って例えば「相手の声が悪いとか聞き取りにくい」とか揚げ足取りの非難しても始まりません。
「日本のための思想信条の自由」であるならば、国民に受け入れられず挽回の余地がないとわかった時点でその思想の優劣が決まったのですから、潔く結果を受け入れるべきです。
討論で負けたのに土俵外の争いに持ち込むような卑怯な真似は日本社会では許されません。
敗戦時に日本の堅固な社会組織解体を目指すGHQの威力を背景に「過去の仕組み解体主張すれば何でも良い」という左右双方が共同歩調できた良き時代に勢いを増した観念論者・進歩的文化人?の限界が最初に出たのが、サンフランシスコ講和条約の股裂事件であったでしょう。
以後いわゆる(敗戦後米ソ双方から支援されてきた)進歩的文化人?はあくまで共産主義が良いと頑張る(確かな野党)勢力と議決方法に矮小化する(日本国家を超越した背後の支配権力に擦り寄りたい)勢力に別れていったように見えます。
そのトドメになった最後の大団円になったのがいわゆる60年安保騒動だったことになります。
左翼系ではこの騒動の大規模さとその高揚感を懐かしむ(続く大騒動を期待する)高齢者が多いですが、最後の大決戦が大きな争いになるのは歴史上普通で、豊臣家が滅亡した大坂の陣が大きな合戦であったことを理由にもっと大きな合戦が起きるの期待しているようなものです。
「進歩的文化人?」と言う変な種族が60年安保以降、土俵上の勝負で負けてしまったので正々堂々の議論をする能力・自信を失い、アメリカの民主的手続き重視の論理を借用して政府の足を引っ張ることを主たる運動に変えていったのですから、姑息な争い方に反対する清水氏の方が王道というべきでしょう。
政敵の足を引っ張ることに精出すことになった勢力の方こそ、自己批判すべきだったと思われます。
これが潔くない行動として批判したら、報道界で干され、従来の仲間から仲間はずれにされてもくじけなかった清水氏こそ侠客・男の生き方です。
日本人は「難しいことはよく分からない」と言いながらも、実はしっかりと正邪を見極める能力が高いので、邪道を続ける限り野党や「進歩的文化人」支持がジリ貧になるしかなかったのです。
安保騒動・・40年前の清水幾太郎の孤立化の経緯を(ウイキペデイアの紹介記事しか知りませんが・・)見ると、ここ数年顕著になっている国会の議論・集団安保法案などで法案の中身よりは議論の時間が少ないとか議決方法が民主的でないとかばかり主張したり、経済政策その他重要法案の審議そっちのけで、森友、加計学園問題等に何年も同じテーマで堂々巡りしている、(この数日では日銀人事案について事前報道があったことを理由に難色を示すなど(・・野党の関心は人材・能力の適性に関する賛否意見であるべきでしょう)近年の野党の国会戦術・揚げ足取りばかり煽る報道界の体質の源流を見る気がします。
国会ではちょっとした政府答弁のミス等があるとその責任をはっきりしない限り、審議に応じないなど議論が全て中断する慣習になっているのは、60年安保以来の悪しき伝統になっている様子が見えます。
昨日22日の日経新聞朝刊3pにも働き方改革の1年延期方針に対して「政争している場合か」という大きな見出しがあって、見出しで見る限り批判記事が出ています。
題名しか見ていませんが、政府提出データが間違っていたことで紛糾しているようですが、内容についての議論がなく入り口でこんな資料ではどうの・・・という議論ばかりでは国会が何ためにあるかわかりません。
政権のよりどころになっているデータが違うならば、自分の主張を裏付けるデータの方が正しいと主張すればいいことです。
我々の訴訟でいえば、相手が有利に展開するために出した資料に不備があった場合、その不備を補正出来ないうちに結審した方が有利です。
例えば訴訟で大量の署名簿を提出した時に中の1名の署名に不備があってもその他数万名の署名に影響しないならば一人くらいの署名文字が読めなくともその補充調査するよりは、その分だけ撤回するかは提出者の自由です。
証拠価値を(反対尋問等で)減殺された方が、その証拠がないと負けそうな重要証拠の時には新たな証拠提出に必要な期間を待ってくださいと頼むのが普通です。
国会で野党が政府新たな資料を出すまで審議に応じないというのは、この逆をやっていることになります。
これを論理的に見れば、政府はその資料がなくとも法案の結論が左右されない・あってもなくともいいおまけの余計な発言(大臣失言)や資料に対する揚げ足取りでしかなかったという前提・・野党が問題にしている資料ミスや大臣発言は法案審議の帰趨に関係ない無駄な資料であることを野党が自己証明していることになります。
野党は政党として独自意見があればその主張をすればいいのですから、政府提出資料の一部にミスがあれば、それがなかった時にその法案の決定にどういう影響があるか、あるいは大臣の「問題』発言がその法案とどういう関係があるかを論じれば良いことです。
担当大臣が法案を十分理解していないことが時々問題になりますが、法律というのは(実務運用して見ないとどういう不都合があるか分からないのが原則で)運用するのは法ができてから一定期間経過後の現場ですので、半年〜1年で交代していくのが原則になっている担当大臣が数年先の運用を即座に想定して答えられないのは当たり前のことです。
これを前提に最近の法律では、施行数年後に実務運用を見ての見直し規定を置いている法律が増えてきました。
物理的な車や洗濯機等の機械類でも実験の繰り返しだけではわからないので、販売後実際にユーザーが使ってみてその使い勝手によって、さらに修正・磨きをかけて行くのが普通です。
「まして生身の人間相手の法律においておや!」と言うことです。

南原繁氏の超国家・普遍思想4と現実との乖離1

南原氏にとっては戦前の方が現実世界と折り合えず観念論で呻吟していたはずなのに、戦後実務で大きな力を振るえるようになっていた結果、現実対応能力が逆に下がったとすれば不思議です。
わたし的にうがった見方をすれば、敗戦直後から米軍の覚え目出たく南原氏が鍛え抜いたプロテスタント的価値観で思った通りの理想的発言をし会議を主導すれば、そのまま米国の意向に合致するという気楽な立場が続いていたからと思われます。
現憲法制定経過を正月明けから紹介してきましたが、松本案をホイットニーに突き返されると、後はGHQ草案通りの内容に合うように日本側は、いかに日本語で憲法条項を作るかに忙殺されていったのですが、神道指令にもとずく日本側うけいれ方針・教育〜思想改革案も背後のGHQの意向を前提した南原氏の提案が何らの抵抗もなく字句修正程度の応答でどん決まって行ったであろうことは想像に難くありません。
軍政をバックにしているので米国の意向にさえ合えば政治につきものの複雑な利害調整不要・・押し通せたので、サンフランシスコ講和条約・・全面講和か片面講和の論争は、アメリカのお墨付意見ではどうにもならなくなった・・彼初めての現実経験だったからかも知れません。
彼にとっては占領政策に迎合していたのではなく、かねてからの自己理論通りの発言をしたら次々とその通りになっただけですから、実務とのハザマで苦しんだ経験がなかったし政治力もなかったのでしょう。(哲学者と政治力には親和性がないのが普通です)
現実と理念の相克についての厳しい議論がなくなったという昨日紹介した西田論文の批判もその通りだったかもしれません。
米ソ対決が起きると理想論通り(国際平和・みんなが一致して平和を祝うに越したことがない)に行かない事態出現で、理想論通りの全面講和論を主張した結果「曲学阿世の徒」という名指し批判を受けたことになります。
非武装平和論も、理想国家は現実に存在しないので戸締りが必要という実際を無視した意見の始まりです。
実態無視といえば晢学者の常と言えるでしょうが、具体的政治決定に反対すれば、その決定がない場合に生じる現実・・どこか勢力の損得・利害があります。
本人としては純粋な哲理に基づいているつもりでも、社会的地位に基づいて発言する以上はその発言の結果生じる利害のために意見を言っていると見られるのが普通です。
以後南原氏は歴史の表舞台から消えていき、門下生の丸山真男氏らがなおその余韻で頑張りますが、60年安保を境に影響力を失い・「過去のバイブル化」していきます。
そして19日紹介したように、近年では南原氏の愛弟子丸山眞男の「神格化」した「超国家主義」という流行語自体GHQの神道指令を鸚鵡返しに言っただけのことで学問とは言えない・・何らの事実根拠もなかったという趣旨の批判論文がネット上で公開される(思想の自由市場が始まった結果?)ようになっています。
出版界で絶大な威力を持つ丸山真男批判を発行できる書店がないのかもしれませんし、19日紹介したネットはどこの誰が書いているのか見てみると匿名になっている・内容的には素人とは思えませんが、その道の専門家と言えるかまではわかりません。
専門的緻密な論証では一般読者にとっつきにくいので、あえてラフに書いているのかも知れませんし、
専門家として名前を出すほどの自信がないから匿名なのか?もわかりません。
そもそも基礎的前提としている「しらす」という概念は魅力的(日本人の心に親和的)ではあるものの(私の勉強不足が原因でしょうが)根拠がはっきりしませんし、それに基づいて教育勅語が出来ているという根拠(井上氏がそういう思想で起草したか?起草者にそういう具体的意識がなかったが、そう読むべきというのかも)も不明です。
そういう疑問を持ってみるとその他事実関係についてもきっちりした論証を経たものかどうか不安になってきます。
歴史小説を書くにはある程度までは歴史事実を調査して書くものでしょうが、その先は想像をふくらませて家康や秀吉の人物像を描くものであって、いわば史実の断片を利用して創作しているにすぎません。
ド素人の私には歴史小説を読むとこれだけ調査して書けるものだと感心し、小説の描く信長像や秀吉、家康像をそのまま純朴に史実のように信じ込みますが、実は小説家は断片を都合よくつないでいるだけで専門家の批判に耐えるかどうかは不明です。
専門家から小説を見ればいわば事実認識についてはアマチュアの域を出ていないことが多いのです。
ネット時代になって素人と言うか専門外の玄人ばりの思いつき意見を簡単に発表できるようになりましたが、それを「百花繚乱」というのか「徒花ばかり」(言い方によればフェイクでしょう)というかの時代が来ています。
素人のフィクションに反論する必要もないので、小説家の文章を歴史家が放置しているだけのことで、専門家の反論がないのが正しい証拠にはなりません。
塩野七生の「〇〇人の物語」シリーズが有名ですが、専門家から見ると「いいとこどりに資料を利用したフィクション」を本当の歴史のように「変な誤解が広まって困る」という歴史家の意見(文書ではなく講演など)がありますが、私の例で言えば、吉川英治の宮本武蔵や山岡荘八や海音寺潮五郎の家康や武将像・・藤沢周平の描く江戸時代の武士像等によって、当時の思考回路をイメージ的に理解したり、横山光暉の三国志で中国人の国民性を理解する傾向があります。
はっきりしたフィクションでさえも上記のようにじんわりした国民に対する洗脳効果があるのでバカになりませんが、現実政治に絡んだフィクションを事実のように主張しておいてあとであれは「フィクション」と言われても困ります。
これが国家間大事件になったのが慰安婦騒動の元を作った「吉田調書」でしょう。
以上の点を割り引いてこのコラム読者には理解して欲しいのですが、19日紹介した丸山真男批判記事は、ド素人の私のレベルから見れば、概ね論理的に見えますが前提事実の論証がその道の専門家から見てどうなっているのか(論証済みだから省略しているのか?)不明を前提にした上で、こういう批判がネット上で公になっているという程度の紹介になります。
戦後思想界の寵児でベストセラーにさえなっていた清水幾太郎氏が、安保騒動にたいする批判意見を書くようになると仲間外れにされ出版界から干されていた事実は日本における「思想の自由市場」ってどんな程度の自由があるかの参考になります。
ウイキペデイアで清水幾太郎を見ると以下の通りです。

富永健一は、清水の『社会学講義』こそが戦後日本の最初の体系的社会学書と評している[3]。
「私は学生時代に、清水幾太郎のこの本(『社会学講義』)を何度くりかえし読んだかわからない。じっさい1950年代において、清水ほど社会学の戦後世代に強い印象を与えた社会学者は他にいなかった。この世代には、清水の『社会学講義』をむさぼり読んだ経験をもつものが多いのではないか。それほど、この本が戦後日本の社会学の形成に果たした役割は大きかった。 — 『戦後日本の社会学』」
林達夫とならぶ優れた日本語の書き手としても評価され、清水自身も『論文の書き方』(岩波新書)をはじめ、文章の書き方を論じた著書を執筆している。
1959年3月に刊行した『論文の書き方』は、初版3万部が即日完売、2刷3万部、3刷3万部も完売、1959年のベストセラー第2位、1987年までの累計130万部。2008年時点でも、永六輔『大往生』、大野晋『日本語練習帳』に次いで、岩波新書の売り上げベスト3に入っている[4]。
昭和30年代半ばころまでは、清水の文章は中学校や高校の国語の教科書にもよく掲載されていた[5]。
・・・
『日本よ 国家たれ:核の選択』では反米という観点から平和運動を批判、平和運動からの振幅の大きさが論議を呼ぶと共に、核武装の主張をめぐって猪木正道らと論争。・・・・
60年安保時に丸山真男は、強行採決は議会政治の破壊だとして反安保改定阻止運動を、反安保から民主主義擁護に目標転換するが、清水は1960年5月23日日本ジャーナリスト会議の事務所に翌日の教育会館の会合の打ち合わせに行った際に、「日高六郎etcみんな小生を警戒している。(中略)この打ち合わせの会で私は、『民主主義擁護』という話を初めて聞いた。・・・・
進歩的文化人の目標転換に水をかける内容であり、吉野源三郎を含む『世界』編集部から原稿の掲載を断られる。
『世界』常連執筆者の清水は、以後「最も遠い雑誌になった」と述懐しており、『世界』(1966年9月号)に、「安倍能成学習院院長追悼の辞」を寄稿した以外は、『世界』に執筆していない[1
・・・『諸君!』に自伝「わが人生の断片」を連載(1973年7月号から1975年7月号まで)、平和問題談話会と60年安保改定阻止運動の内幕や、丸山真男など60年安保を共に戦った人々への反感などが書かれており、後年この自伝により多くの友人を失ったと述懐している

 

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