利害調整能力3・問注所〜観応の擾乱

8月7日に書き始めた利害調整機関・・問注所に戻ります。
問注所に関するウイキペデイアの紹介です。

創設[編集]
元暦元年(1184年)10月20日、鎌倉に問注所が設置された。
当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた。

・・鎌倉幕府の問注所設置・・訴訟の大多数は、荘園収入の分配・公卿と地元を預かる武士団との分配争いでしたが比較的公正な裁決が多かったので貴族利用が増えた・・幕府権威が定着していったと何かで読んだ記憶です。
建武の中興が短期で瓦解し、後醍醐政権から足利政権への移行してしまったのは、後醍醐政権の裁定(論功行賞)に対する武士団の不満によるものでした。
武士の多くが足利氏の花の御所に伺候して足利氏の口利きで決めてもらった方が有利あるいは納得するようになり、朝廷に向かわなくなった・文字通り市場評価に拠ったのです。
武士団が朝廷よりも足利氏の屋敷に向かうようになると権力が事実上足利氏に集中して、幕府の機能を持ち始めると、足利家近臣で実権を握った高一族と尊氏の実弟直義との抗争が始まります。
抗争の元はと言えば高一族が急激に勢力を伸ばし過ぎた・・平家一門が約7カ国の守を抑え、あるいは殿上人の地位を占めたのが隠れた不満を引き起こしたように、足利氏一門ですらない・・側近でしかなかった高一族がいきなり各地守護になり幕府内の権力を牛耳ったことに対する(その分守護になり損ねたか取り上げられた)門閥・各地豪族の不満が尊氏の片腕と頼む弟の直義担ぎ上げ・・支持に回ったのでしょう。
君側の奸を除けという不満の旗印に直義を利用しただけのように見えます。
緒戦では御所巻きで先行した高一族の圧勝でしたが、(兄尊氏邸に逃げ込んだ三条殿=直義は頭を丸めて表向き公務引退で決着しました)すぐに全国的に高一族への反撃・旗揚げが始まり、いつのまにか直義がみやこから脱出して、岸和田城だったか(うろ覚えです)に入ります。
待ってましたとばかりに、直義派の旗揚げが燎原の火のように広がり、都落ちした高一族が血祭りにあげられて観応の擾乱第一陣がおわりました。
平治の乱における緒戦で信西入道の処刑成功と同じ展開です。
(私の憶測によれば)しかし武士団の不満は高一族が代表して怨嗟のマトになっただけのことで、根本は論功行賞や荘園支配の権限争いの裁定に対する不満ですから、第二陣が始まり、収拾のつかない「擾乱」になっていきます。
ウイキペデイアによる御所巻きの解説です。

貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)

御所巻きは年号が観応になる直前ですから、日本で言えば第二次世界大戦の前哨戦・日支事変のようなものでした。
観応の擾乱・・御所巻きに始まる高師一族と直義との抗争〜その後の尊氏(義栓)と直義の抗争も、直義がせっかく圧倒的支持を得て尊氏と高一族との抗争に勝ってもなぜか天下の権を尊氏に残したままにして有耶無耶にしてしまった(政権意欲がなかったようにも解釈されます)他、戦後処理としての論功行賞が旧弊であったことからすぐに各地豪族の人心が直義から離れていった(直義は関東御成敗式目を理想とする念が強かったとも紹介されています)ようにも見え、第二陣の足利将軍家内兄弟間抗争に発展していきます。
北条泰時によって制定された御成敗式目・および紛争裁定基準は考え抜いた立派な式目ではあったのでしょうが、もしかすると鎌倉幕府崩壊後の社会意識変化に合わなくなっていたのでしょうか?
建武元年は1334年、観応元年は1350年ですから、御成敗式目制定(1332)後約100年以上経過でその間に蒙古襲来が2回もあり、幕府体制崩壊などの大変革後ですから、荘園経営のあり方を始め社会意識はかなり変わっていた可能性があります。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。
直義が最後に支持を失っていく経緯理由についての私の意見は、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。

利害調整能力2

宗家の源為義自身ヘマの連続だったようなイメージでしたので小さくなっていて、公卿社会の嫌がらせの矢面に立った経験がないので、頼みの摂関家が力を失うとどこの国にもある宮廷内の複雑な争いに自分で関わるようになりましたが、うまく立ち回れなかったのでしょう。
こうした時間経過と、摂関家の弱体化目的で動いていた白河〜後白河の流れの中で源氏に対する当て馬として平家贔屓されてきたことに対する摂関家の冷ややかな目の中で台頭した伊勢平氏に比べれば、源氏一門は宮中での陰湿な嫌がらせの経験が少なかったでしょう。
平氏の方が宮廷工作では一日の長・有利に立ち回る能力が磨かれていたと思われます。
清盛が播磨守〜安芸の守など行政職を歴任していくのに対して義朝は左馬頭といういわば軍事部門に登用されたのも実は適材適所だったように見えます。
昨日紹介した通り、子供の頃の頼朝の官位も兵衛系です。
物語しか読んだことがなく史実か否か不明ですが、悪源太義平にしろ、為朝にしろなんとなく地方で粗野に?跋扈するにふさわしい猛者で、都人相手に虚々実々のな駆け引きになじまないイメージです。
木曽義仲が京都に出たときに都人の笑い者にされる場面・・人の良さが出ていますが、一方で「木曽殿最後」で見えるように主従の誓いの美しさ・・武士社会では心の通う善き人であったに違いないでしょう。
武士とはこういうものだ・貴族の真似をする必要がないと開き直り、(新しい時代到来の明らかにし、)官位を受けなかった上に武家の棟梁として鎌倉に本拠を構えた頼朝の偉大さです。
清盛に戻しますと、保元平治の乱の処し方の大成功によって都での揉め事の解決には清盛の武力に頼るしかない状態になった以降、ちょっとした政変のたびに「〇〇の守」等の官職を平氏一門がほぼ独占的に就任した上に、旧公卿勢力もなお侮れないので彼らにも(和歌を習うなど)気を使わねばならないので、貴族化する一方で地方武士にとっては裏切られた気持ちでナオのこと不満です。
この恨み節の代表的表現が地下人の代表ではなくなったという「平家の公達」という呼称でしょう。
韓国文在寅大統領の弱みは、労組支持にたよるためにその期待を裏切れない(労組の場合、次世代ホープではなくかげり行く勢力ですが・・)のと同じで贔屓の引き倒しになってきたのです。
不満武士層を支持勢力にして挙兵した頼朝は、政権を事実上掌握すると真っ先に?問注所を作ったのは、この塩梅がうまくいかないと政権がもたないことを知っていたからでしょう。
これまで何回も書いてきましたが、政治とは利害調整が本務です。
政権批判だけで政権を運よく奪いとっても、その後の利害調整能力がないと政権を維持出来ません。
日本野党や韓国の与野党は、あちら立てればこちら立たずの利害調整能力がないのが欠点です。
自社2大政党・55年体制のころには、水と油の二大政党では、いつまでたっても政権交代ができない・・英米並みの方向性が同じ与野党が必要という議論が一般的でした。理念が違うから政権交代できないのではなく、一方は批判だけで具体的な利害調整をしたことがないからいざ政権をとってもどうして良いか判らず右往左往するのが目に見えていたので、国民は怖くて任せられません。
民主主義を守れ、平和主義・国民を大事にする政党というお題目だけで具体的政治をできるはずがないのです。
韓国の場合、国民が成熟していないので大統領を選んでもすぐに不満で我慢ができなくなるのが難点です。
韓国歴代大統領は、任期満了近くになるとどうにもならない不人気穴埋めのために反日を煽るしかなくなるのが、任期満了直前の常套手段になっていました。
日本は困った国だと思いながらも仕方ないか!と相手にしないできたのですが、大統領が変わる都度前大統領より一歩ずつ過激化しないと国民への訴求力がないので、過激化の限界がきたので、李明博元大統領がついに竹島上陸の他に禁じ手の天皇攻撃まで始めたので、さすがに日本が騒然としました。
その大騒ぎを起こして任期満了になったあとを継いだ前朴大統領はさらに一歩進めて慰安婦騒動を国際問題に拡大・告げ口外交を繰り返したので、戦後初めて日本も反撃を開始したことにより国際世論動向では日本優勢になってきました。
米国が仲介に乗り出したので、(せっかく日本優勢になっていたのに・・不満な人が多かったので?)日本は「不可逆的」という修飾語付きであれば合意しても良いという条件を出して韓国も不名誉な条件をつけられても(完敗よりは良い?ということで)ようやく日韓合意となりました。

オーナーと管理者の分配4(利害調整能力1)

平治の乱以降の政治は、清盛の意向によるしかない・・武士の力なしに何も決められなくなった事実が明らかにされました。
こうなれば従来貴族層有利な裁定が多かったと思って不満に思っていた武士団の期待が高まります。
ところが清盛はいきなりの政権奪取だったのでこの辺の準備がなかったか?気が付かなかった結果か不明ですが、先ずは平家一門の官位昇進中心で「平家にあらずんば人にあらず」とまで揶揄されるほど身贔屓が露骨すぎたようです。
信西が身内の栄達に邁進した結果、院政派と天皇派の争いを超越した公卿社会共通の怨嗟の的になった教訓を活かさなかったのでしょう。
その上に、平家以外にも少しは気配りしたとしても官位斡旋くらいしかなかったので、官位昇進など関係ない地方武士団の失望を買ったでしょう。
頼朝はこの点を教訓にした結果か?天下を掌握してからも自分の官位昇進を全く受け付けない・・官位返上まではしないまでも朝廷の権威無視?のまま・のちに鎌倉殿と言われるまで左(すけ)殿と言われています。
ちなみに、三条殿とか鳥羽殿とかいうのは外部からの呼称であり、鎌倉殿と言うのは、鎌倉以外から見た表現・・朝廷周辺の外部からの文章表記のことで、鎌倉幕府内・・特に政子が鎌倉殿と言うはずがないので、一般には死亡まで「すけ」殿が普通であったでしょう。
ちなみに佐殿とは頼朝が子供の(11〜2歳)頃平治の乱で義朝が賊軍になるまでのホンのわずかの間に任じられていた官名・・右兵衛権佐のままということです。
清盛に戻しますと、官位斡旋に関しては源頼政の不満を吸収するために四位から三位(殿上人)に引き上げたことが知られていますので、源三位頼政に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
『平家物語』 巻第四 「鵺」
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。
史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時74歳であった。
翌治承3年(1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。

もともと平氏は源氏に比べて、地元密着性が低かったのかな?
(平将門の乱は平氏同士の調整能力不足で起きたものでしたし、頼朝挙兵に馳せ参じたた千葉氏も平氏でしたが、相馬御厨の管理権争いで平家が当てにならなかった)
その代わり宮廷多数派工作に慣れていたので天皇家同士、藤原氏同士の争いにうまく適応できた面もあったでしょう。
保元平治の争いは、上皇と天皇の二大勢力の他に旧来勢力というか、公卿旧勢力不満の三つ巴でした。
平家物語を読むと源氏はいかにも坂東武者そのままで垢抜けないイメージですが、源氏は摂関家の下で武士の分際を弁えて忠実に振る舞ってきた・・各地荘園で地方の揉め事を処理する経験を積み実務能力に長ける→その分京での公卿相手の複雑交渉不慣れだったでしょう。
(伊勢)平氏の場合、忠盛の時からジワジワと貴族社会に足を踏み入れていた・その分叩かれ嫌がらせされましたが、複雑な争いが始まると過去に公卿社会に揉まれた経験が生きてきます。
源氏は摂関家の良き忠犬としての役割に特化してきたし、たまたま当時不祥事が続き小さくなっている状態で波乱の時期に遭遇しました。
ウイキペデイアの記事引用です

源為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

オーナーと管理者の分配3(武士の台頭1)

パルコや銀座シックスなど、全館統一セールをやるシステムの場合、売り上げの%での支払いで良い(営業マンの一部固定給一部歩合の逆張りで、最低固定金プラス売り上げの%にする)代わりに売り上げ代金を大家?運営主体が直接管理する仕組みになっています。
これを仕入れ管理まで徹底したのがフランチャイズシステムでしょう。
コンピューター処理等利用によって、帳簿管理が精緻になっているからできる事でしょう。
魅力が低いのに出店料納付歩合が高すぎる場合、テナントが応募しないか撤退が続き空きスペースが増える・・市場競争が働きますので、契約内容に政府介入の余地が低くなっています。
奈良時代から明治維新まで農業収入が社会の基本であった場合には、簡単に追い出すわけには行かないので現地実情に通じた現地預かり所・・現地支配人の裁量に委ねるしかなくなったのでしょう。
観応の擾乱に関する本を読んだ時に寺院領だったか、八条院領だったかで洪水被害による減免願いがあちらこちから出ている文書を読んだ記憶(他の文書の付属だったかの思い違いかもしませんが)です。
それにしても、2〜3年連続の凶作とか程度を超える減収報告で怪しいと思ってもどうして良いかわからないときに、源氏や平氏の棟梁に訴えて適当な解決をしてもらう時代に入っていたのでしょう。
平安末期になると武力解決に限らず日常紛争でさえも最終解決は武家の棟梁に委ねるしない状態になっていたので、鎌倉幕府が問注所を公に設けるしかなくなったようです。
秩序・法とは何かですが、正義がこれ!と決めたら強制執行する力をバックにしてこそ成立するものですから力のない政府には法の貫徹が不可能です。
非武装平和論・道徳教育さえすれば違法行為がなくなるならば警察力不要なのと同じで、違法行為を違法と断じて強制排除できる権力確立があってこそ平和が守れるのです。
パックスアメリカーナとかいう通り豊臣秀吉のような「天下人」が惣無事令を出さない限り、各地の小競り合いや大規模戦争は防げません。
政府権力が弱くなり実効性がなくなると、政府権力に頼れない各地で自衛のための武士が勃興したのでしょう。
政治権力の肝は「物事の最終解決を俺にまかせろ!ということですから、朝廷・・摂関家や院、寺社等の荘園領主が、地元武力に保持者に頼むしか解決できなくなると、地元武士で解決不能な大きな争いは武士のトップに頼まないと決められなくなった時点で、朝廷や摂関家は政治権力者の体をなさなくなっていたことになります。
保元平治の乱に戻ります。
平安末期には地元有力者・・元は飾り物の国司にかわって郡司さんが仕切っていたようですが、小作料・年貢?収入の取り立てに始まって不確定要素が大きすぎて、強制力の必要な場面が増えると地下人としてたくましく勃興してきた武士層が郡司さんにかわっていったように思われます。
平安時代から始まっていた武士への管理委託が、平安末期になると荘園本部の管理能力を超えてきたので現場に精通する武士のいいなりになっていたのでしょう。
保元平治の乱では朝廷内両勢力も貴族層である藤原氏内部争いも同じ・・両派に別れて戦ったものの武士の力を借りないと決着がつかないこと自体が、社会の実質決定権が武士の意向によるものに変わっていたのが表面化したことになります。
当時解決すべきテーマは、荘園経営を足元から食いつぶし始めていた武士の台頭(氏長者になっても地元武士団に食われ中央への貢納が減ってきた点)にあったので、この地殻変動に関する本来の争いが後醍醐天皇の建武の新政後の南北朝時代まで続きます。
この減ってきた収入源の奪い合いのため荘園オーナー同士・仲間内で揉め事を起こし、その解決に中間搾取している武士の力を借りたためにさらに武士の力が増大するしか無くなったことになります。
新井白石や松平定信、水野忠邦が、新産業を起こす努力をせずに質素倹約に邁進すると、経済活動が縮小してしまい、結果的に幕府経済の土台を蝕んで幕末に向かって行ったのと同じです。
管理を預かる武士団が中央へ納付する年貢が減る一方で朝廷貴族層の喫緊の課題は朝廷・荘園収入の維持拡大だったでしょうが、これの解決には武士上位者の協力が必要になっていたようです。

オーナーと管理者の分配(リクシル騒動)2

この種リスクは消費者分野だけではなく、プロとプロの関係・・大手企業間でも昨年だったか発覚したリクシルの中国小会社の現地責任者の不正経理(使い込み)で巨額損失受け、その後代表者解任騒動に発展しているのがその例でしょう。
https://toyokeizai.net/articles/-/285558?page=2

リクシル、対立の根底に海外買収攻勢の「失敗」
問われているのは「ガバナンス」だけではない
・・・
当時、藤森氏は「LIXILを本物のグローバル企業に生まれ変わらせる」と自信満々に語っていた。だが「海外子会社について実態をしっかり調べたり適切に管理したりできる人材は、日本の本社では皆無に近かった」と、内情に詳しい関係者は話す。
海外事業に精通した生え抜き社員はほとんどおらず、藤森氏は買収先の経営を以前からの現地経営陣に任せていたという。LIXIL本社のマネジメント能力不足は明らかで、買収後の海外子会社では軒並み業績悪化や不祥事に見舞われている。
巨額の損失を計上したジョウユウ事件
例えば2014年1月に買収したドイツのグローエ。2015年4月には同社の中国子会社ジョウユウ(LIXILから見ると孫会社)で不正会計が発覚した。実はグローエ経営陣は、2009年にジョウユウに一部出資(2013年に子会社化)した時点から主要な財務情報に十分なアクセスができない状態だったにもかかわらず、LIXILに報告すらしていなかったのだ。
ジョウユウは実際には債務超過で、その破綻処理を迫られた結果、LIXILは関係会社投資の減損損失や債務保証関連損失などで総額608億円もの損失を計上。この時、LIXILは社外取締役と外部有識者による特別調査委員会を立ち上げ事実関係を調査したが、報告書は概要しか公表せず、全文を開示していない。

ドイツの子会社だった時から帳簿開示すら応じなかったというのでは、リクシルが買収時にどういう審査していたのか?驚くばかりですが、これはある程度信用できる会計基準が現在確立しているから言えることです。
源平時代に戻りますと、他人に任せるに足る管理システム(帳簿制度などあるはずもないし)が整わないので、リクシルの国外企業買収と同じような状態に陥っていた・現地管理の武士から届けられる「つかみ金持参」で荘園領主は我慢していたのでしょう。
ちなみに管理システムがきっちりしない時代には、売り上げ(農作物の場合収穫の何割)の何%という比率による収納制度は無理があるので、支配を委ねる代わりに収入の増減に関係なく年間固定金(租庸調)収納システム・一種の請け負いシステムしかなかったはずです。
今で言えば、レストランや小売店の売り上げに関係なく、土地や建物を貸して地代家賃をもらう仕組みがこれです。
貸店舗などでは、売り上げ増減で地代家賃が上下しない・・売り上げ減で家賃を払えないなら出て行ってくれという簡単システムですが、これは廃業すればいい・・・どこかへ働きに出る仕組みがある・・あるいは生活保護システムが機能しているからできることです。
農業社会の場合、凶作は広範な地域・関東平野全部とか東方地域全部などの天候不順によるのですから、どんな凶作でも一定量納付しろ・納付できないならどこでも知らないところへ流れていけ!というのでは、受け皿になる他の産業未発達なので社会が崩壊します。
そこで減免騒動・・あるいは納付しない実力行使が起きると、個々の農民の能力不足や怠慢とは違うので領主の方が折れざるを得ない状態になります。
この現状把握次第ですから京都にいる荘園領主や預かり所の信西入道のような公卿には実態不明で手に負えません。
そこで実情に詳しく実力行使能力も兼ね備えた武士に現地管理を依頼するしかない状態が増えてきたのです。
近代法では以下の通り法制化されています。

民法(明治二十九年法律第八十九号)
第五章 永小作権
(永小作権の内容)
第二百七十条 永小作人は、小作料を支払って他人の土地において耕作又は牧畜をする権利を有する。
(賃貸借に関する規定の準用)
第二百七十三条 永小作人の義務については、この章の規定及び設定行為で定めるもののほか、その性質に反しない限り、賃貸借に関する規定を準用する。
(小作料の減免)
第二百七十四条 永小作人は、不可抗力により収益について損失を受けたときであっても、小作料の免除又は減額を請求することができない。
(永小作権の放棄)
第二百七十五条 永小作人は、不可抗力によって、引き続き三年以上全く収益を得ず、又は五年以上小作料より少ない収益を得たときは、その権利を放棄することができる。
(永小作権の消滅請求)
第二百七十六条 永小作人が引き続き二年以上小作料の支払を怠ったときは、土地の所有者は、永小作権の消滅を請求することができる。
(永小作権に関する慣習)
第二百七十七条 第二百七十一条から前条までの規定と異なる慣習があるときは、その慣習に従う。

上記によれば、1年間納付しなくとも出て行ってくれ(農地を返せ)と言えない仕組みになっているし、2年間未納になれば、消滅請求出来る(任意引き渡しがない場合、訴訟が必要です)ようになっています。

※民法は現行法ですが、農地の場合戦後農地法ができて大幅に変更されています。
戦後永小作権の新規設定は皆無に近いと思われますが、明治30年代における小作関係の法的意識だったでしょうから参考のために引用しました

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