融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

外国文物導入(やまと心)3

仏教を文字その他文化吸収目的の国家機関・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形・・が主目的だったのを、本来の宗教(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、真言宗、天台宗祖の派生から、日蓮、浄土系民族宗教が発展して行くのです。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょうという程度の位置付けです。
クリスマスを祝ったのちに大晦日〜元旦の初詣(神社仏閣どこへ行こうとも)何の矛盾も感じません。
七五三では神社に行きその翌日には近所の葬儀があればお寺に行くし、結婚式は神社でもキリスト教の教会式でも良い・要は神仏(超越的霊力を持つ存在)に祝福されればいいという考えです。
生命の根源に関わるときは神であろうと仏であろうとも超越的存在に頼りたいのが日本人の心です。
私の子供たちも近所にキリスト系の幼稚園があった時にはそこへ通わせましたが、私がキリスト教徒になった気持ちは一切ありませんし、3人目の子供も当時の自宅近く(約100メートル足らず)にあった幼稚園に通いましたが、何系だったか記憶すらしていません。
幼稚園もキリスト系でもお寺でも良い・その都度自宅近くて便利なのが第一選別基準です。
一神教のキリスト教やイスラム教徒がこういう社会に根付くには、「お寺に出入りする人は教会にくるな!」とは言えないので、自然に他宗教徒も受け入れるしかない・日本にいる限りいろんな神々の存在を受け入れるしかないのではないでしょうか?
明治以降の文明開化運動による欧米文化の大量流入や敗戦以降の米国文物大量流入もその一つでしょう。
明治以降の文物流入に対する受容モデルを表すためには、和魂洋才という熟語が知られています。
和魂洋才の受容方式が古代からあったのか?です。
和魂洋才とはテクニックを取り入れるだけで精神を取り入れるものではないという主張ですからそう言わねばならない圧倒的先進技術が入ったからこそ必要な主張だったでしょう。
そんなことが可能か?生活スタイルが変われば価値意識も変わるのではないか?
キリスト教の思想を深く理解しないと欧米の行動パターンや文物の理解を真にできないというのが戦後の風潮でした。
中国が開放し「文化度が上れば自然に欧米流儀に従うはず」という期待論調もこの延長論ですが、中国は簡単に政治スタイルを変えず逆行し始めたので欧米にとっては思惑が違ってこまっている状態です。
日本で和魂洋才の主張原型が始まったのは、その必要性が高まった時期・・いわゆる国学の発生の頃からでしょうか?
朱子学が浸透しすぎて画一理解の弊害・・やおよろずの価値観を基本とする大和心には馴染まない面が際立ってきたので、反動的に大和心を掘り起こす国学の発生につながったのではないでしょうか。
このように少しずつ日本の心に合うものだけ無意識のうちに入れていたのに対し、明朝崩壊後亡命学者等が大挙流入→儒学が「体系的」に導入され徳川幕府は昌平坂学問所設立し、(大学の頭」という役職まで置いて)徐々に日本思想界を席巻→統制作用を及ぼし始めました。
大學の頭に関するhttps://dictionary.goo.ne.jp/jn/132691/meaning/m0u/からの引用です

2 江戸時代、昌平坂学問所の長官。元禄4年(1691)林信篤(鳳岡)が任命され、以後代々林家が世襲。

こうなると談論風発や八百万の神的に、多様な意見を許す思考になれた日本民族にとっては、窮屈過ぎる不満が発生します。これが国学・大和心を見直そうという運動のエネルギーになったと思われます。
局面が違いますが、文武両道とうるさかった松平定信の政治に対して「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌で揶揄された違和感です。
教養人の政治は一面的になり過ぎてかえって国民を苦しめることが多いものです。
現在韓国の文政権が、庶民の生活水準底上げのために経済原理によらず強制的に最低賃金引き上げに踏み切りました。
一見人権尊重のようですが、このために零細企業が雇用を縮小し、廃業するようになって失業を増やして大混乱になっています。
頭でっかちな一方的な政治は、一面的な理に走り過ぎて多様な矛盾意見を包括できないからでしょう。
ちなみにエリート政治家松平定信の改革はほんの短期間・6年間で頓挫しています。
同じくエリート官僚・・水野の天保の改革はわずか2年で失脚でした。
これに対して享保の改革は2〜30年と息の長い改革・被支配層の支持を受けたので長かったのでしょう)だったのでこれが徳川政権260年を持たせた原動力です。
吉宗は、生まれつきの貴種として養育されず家臣の子供として育ってからお城に引き取られたので、世事に通じていた点が大きな違いだったのではないでしょうか。
もともと素質自体が実務向きであって、歌道などの風流なことには向いていなかったと言われますが、その分思い切った改革ができたようです。
思い切った改革が必要になった背景を見ておきます。
幕藩体制・・・家康〜秀忠〜家光の草創期を制度的にまとめたのが知恵伊豆こと松平信綱でした。
いわゆる知恵伊豆と言われ幕藩体制確立に功のある松平伊豆守信綱は物事は重箱の隅をほじくるような政治はいけない、緩やかな政治が肝要と述べていました。

外国文物導入と大和心2(鑑真和上とその後)

法華堂に関するhttp://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance5.htmlの解説です。

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

2月堂の修二会に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/では以下の通りです。

古来は旧暦1月に行われる法会である。
農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。

以上の通り日本列島に伝わる古来からの祈願行事を、仏教行事に取り込んだにすぎません。
仏教が土着信仰に打ち勝って土着信仰行事が減ったのではなく、仏教が逆に土着信仰行事に浸透されているのが実態です。
仏教を文字その他文化吸収目的で導入したのは明治維新で、御雇外国人を導入して西洋法や科学知識導入に精出したのと本質が同じだったでしょう。
この普及を図るために国家機関としての・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形を見ても分かります。
これを日本風にアレンジして日本の土着信仰にも合うように(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、この意味で日本の精神界の合理化に大きな影響を与えた大事件だったと思います。
合理化仕切れない人間の弱い部分・・今でも残る「叶わぬ時の神頼み」・・・「神も仏も無いものか!」とか「厄除け信仰」がなくならないのが現状です。
その救済には密教の秘法に頼る部分が必要だったのでしょう
真言宗、天台宗が日本の宗教意識の体系化の足場を築きますが、シュウアhである以上一定の競争がるのは当然として、他宗派排斥を目標にするような宗教ではなかったか乏しかったように思われます。
その結果、日蓮、浄土系民族宗教等に裾野を広げていき日本人の精神性が豊かになって行ったのでしょう。
日蓮系は日本の宗教には珍しい排他闘争的宗教でしたが、(中世に限らず戦後創価学会の「折伏が激しかったすが・・)今は創価学会もおとなしくなりました。
日本列島でいる限り、周囲と円満にやっていくのが知恵のある生き方と悟ったのでしょう。
政治の世界でも公明党が政権与党になって約15〜20年かな?すっかりおとなしくなっています。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょう・・なにかいいことがあれば取り入れたらいいし・・という程度の位置付けです。
共産党も理屈一辺倒の強面では日本時に浸透できないとわかって、「歌って踊って民青」というフレーズがが昭和40年代のソフト路線でしたが今はどうなっているか知りません。
仏教が中国に入った時点では、環境の厳しい西域を通じて入ったことから、キリストや現在のイスラムのように戒律が厳しかったでしょう。
鑑真和上が戒律を伝えるために千里の波頭を超えて日本へ渡海した故事はよく知られています。
鳩摩羅什の漢訳は西暦400年頃で鑑真和上の来日は750〜60年ころ・・聖武上皇・孝謙天皇の時です。
中国に漢訳が伝わって数百年で鑑真が来日したことになります。
当時日本では私度僧が多く、戒律制度の確立が要望されていたと言われます。
鑑真に関するウイキペデイアの記事です。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
要するに聖武天皇は東大寺筆頭に全国に国分寺を設置するためには公認僧侶資格設定を急いでいたのです。
明治政府が帝大を作っても教授になる人材がいないとどうにもならないので御雇外国人を招請したのと同じでした、
南北朝時代の戦乱に明け暮れる中国に受け入れられたのでしょうが、その中国よりも日本の方が将来性があると見極めたのでしょうか?
ところで、日本仏教の礎を築いた弘法大師は私度僧出身だったのですから、皮肉なものです。
観音信仰が奈良〜平安時代に入って隆盛を見るのは、私度僧出身で人心に通じていたからこそ、なし得たのかもしれません。
日本に来た時の険しい仏教がようやく日本化したことによるものでしょう。
観音菩薩に限らず文殊、地蔵、月光や日光その他の菩薩も皆柔和な顔貌になって行きます。
救いを求める以上はごついより、美しくて優しい方が日本人なら誰にとってもいいでしょう。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象(御神体の多くが背後の山になっている神様より救済してくれるお方が具象化されてよかったと思われます・)とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都諸宗派というものの勉強する学科名称程度の違いでした。

法学部で言えば、民法専門や、商法専門教授という程度の違いでしょう。

融通むげ3(外国文物導入と大和心1)

本居宣長の大和心とは何かです。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これだけでは宣長の著作をじっくり読み込んだ人にしか意味不明・・理解困難です。
美の本質は
「もののあはれ」
とも言うようですが、ここまで来れば私のような並みの日本人にもある程度理解可能です。
しかし「もののあはれ」と日本の心のあり方とはどういう関係があるのでしょうか?
文学表現としては何となく分かりそうですが、私の関心は人が守るべき法・道徳のあり方です。
そこで国学と何か?江戸時代中期頃になってなぜ興ったかの疑問から入っていきます。
思いつき的私の意見ですが、明治の欧米文化が入って反動的に日本画が興ったのと同じ視点です。
縄文時代から日本列島には太平洋諸島沿いあるいは現中国の沿海部や朝鮮半島から少しづつ渡来人が入ってもその都度包摂同化してきました・そもそも日本人とは長期間かけてアジアの多様な人種が同化融合して出来上がった民族でしょう。
縄文時代が1万数千年前から始まり、キリスト紀元後数世紀の古墳時代に至るまでの長い時間軸を経て日本列島に住む人たちの共通的基本思考・・・結局は遠い先祖の出身地が違っても1万年前後もその地に住めば、その地の気候風土にあった同じ生き方価値観が形成されていったように思われます。
文字利用が徐々に入り、続いて仏教や儒教が入ってもその都度断片的であったために(律令制が制度として入ってもなし崩し的に融解しています)時間をかけていわゆる大和心に包摂消化して取り込んできたように思われます。
東大寺2月堂行事をこの後で見るように、仏教の教理に関係なく日本列島に住む人にとって重要な行事が東大寺にとって最も重要有名行事として残っているのです。
仏教の力で日本土着信仰を廃止するのではなく、仏教が逆に日本列島人の要求を取り込むことによって生き残って来たと言えるでしょう。
蘇我versus 物部の最終決戦を宗教戦争のごとく習いましたが、蘇我氏が仏教というより大陸文化導入に積極的だったというだけのことなのに、結果からあたかも(西洋的一神教の型にはめて?)宗教戦争であったかのようにイメージづけている可能性があります。
これは一神教的宗教意識に基づき・仏教と古代信仰が両立できないものとして後付けイメージによる解説ではないでしょうか?
古代の蘇我V物部の決戦を宗教戦争的に理解する解釈が朱子学による思想統一に反発した江戸時代の国学誕生前から行われてきたのかを知りたいものです。
それまでいろんな文物が入って来てもそれに強制されることなく、禅宗であれ水墨画であれ良い面があれば吸収すれば程度の意識できたので、(武士が 禅宗に帰依したからと言ってもその前からある各宗派を禁止しません)ある宗教を入れるかどうかで国を挙げての戦争したという歴史教育がおかしいと思います。
平安時代に真言や天台宗が入っても、その前からある南都仏教宗派に強制することもありませんでした。
飛鳥〜奈良時代の仏教導入が進んだのは文字文化や絵画彫刻音楽等々の総合文化導入に効率が良いからそうしただけであって、諸外国のように統治の手段として民衆の心を掴むための宗教導入ではありませんでした。
権力者はいつも政権維持に心を砕いているので、統治利用の意図皆無ということはあり得ませんが、それを主目的にしたとは言い切れないという意味です。
政権にはそういう仏教利用の意図があったかもしれませんが、実態は国分寺全国配置は列島人全般の文化レベルアップが主目的で古代からの土着信仰を否定するものではなかったはずです。
あるいはそういう意図があったので地元に根付くことができず、各地国分寺が自然消滅したのかもれません。
政権側としては、わざわざ土着信仰を否定して各地で悶着を起こす必要性がない・・マイナスでしょうから、各地信仰 (非征服部族の氏神)を尊重してきた大和朝廷が、わざわざ外来宗教を地方に押し付ける必要がなかったでしょうから、逆に宗教性を希薄化させる宣伝・地方民も文字を学べるようにするなどの宣伝をしてきたはずです。
明治維新でキリスト教文化を導入しても、日本古来信仰・各地の鎮守様信仰否定と関係がなかったように、仏教は日本列島古代からの信仰(自然への畏敬心)と並存したからこそ各地に浸透できたのでしょう。
葬式仏教言われようと厄除けであろうと、死者の霊魂や先祖を大事にする土着信仰を取り入れるしかなかったのです。
国宝重文級の仏像展が次々とあるので、しょっちゅう東博等に見に行きますが、元はといえば、12神将に代表されるようなおっかない仏像中心だったのでしょうが、気の小さな私などは足元に踏みつけられている邪鬼の方が気になって仕方ないので柔和な大日如来など如来系に目が行きます。
こういう日本人が多いからか、日本に来ると時間の経過で修行途中であるはずの菩薩でも観音菩薩・ほとんどが女性美の極致を競うかのように秀麗な佇まいに変わっていく感じです。
教科書の挿絵でしか見たことのなかった狩野芳崖の悲母観音の実物を簡単に見られるようになったのがありがたい時代ですが、実物を見ると観音さまにヒゲが生えているのに驚きますが、菩薩とは厳しい修行に耐えられるごつい人が本来だったのでしょう。
その目で古仏像など見ると観音様にはヒゲがありますが、日本人の多くは観音様といえば母親のように何をしても許してくれる優しさの極致のイメージを抱いているのでないでしょうか?
その願望の結果、不空羂索観音とか千手観音や千眼観音とか救いの方法が無限にあるかのようなイメージの・・しかもいかに優しく美しいかを競う観音像が続々と作られてきたのです。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都(法華宗・華厳宗など)諸宗派というものの勉強する学科名称・・法律で言えば民法専門家商法専門家程度の違いでした。

資金導入と企業誘致1

観光客はせいぜい数泊から1週間しか宿泊しませんし、食事や交通費も団体旅行向けで割安ですが、工場や店舗進出等になるとかなりのチームが長期間滞在してあちこち見て回ったりして(タクシー移動など・食事も高級レストランなど割高消費です)お金を使った挙げ句に何億と言う用地買収資金が入り、その後工事費や雇用が生まれます。
開業してもすぐには利益がでないので、更に数年程度は資金投入が続きます。
観光客がバッグ等お土産を買うのとは桁違いの出費・・外貨の流入です。
内需向け企業進出を認めるとその分既存商店が廃業したり失業が増えることもありますが、ユニチャームなど元々中国に存在しないおむつやクーラーなどの進出を認めてもは地元業者の廃業はありません。
この辺は改革開放時に松下などの家電や電子工業進出も似たようなものでした。
地元業者が真似して似たような商売を始めるチャンスになれば良いと言う思惑でしょう。
仮に廃業淘汰があっても、同じ程度の外資による雇用が増えるのでトータル五分五分ですし、一般的に操業開始後数年程度は採算が取れないので外資注入が増える一方でうまい話です。
数年して外資が定着して儲けられるようになると儲けが国内に滞留しないで本国送金されてしまいますが、そんな先(そのときになれば難癖を付けて金を搾り取れば良いという発想もあるでしょう)のことよりも、今は目先資金が欲しい・・それほど中国政府は困っているのでしょう。
その頃には家電業界のように模倣企業が国内で成長しているので、市場競争で勝てるだろうと言う長期展望があるのかも知れません。
ハイアールがサンヨーを買収したことから分るように当時家電業界が中国現地企業と市場競争で負け始めていたので、松下からコレ以上の投資をして貰う必要がない・・御用済みとして反日暴動の標的としたのです。
用済みの松下(パナソニック)を標的にしたことが、民族一体感が強い日本企業全体の投資縮小に動くとは想定外だったでしょう。
80年代の改革開放時には今よりも困窮していたのですが、国民の消費レベルが低かったので輸出基地としての工場進出以外は認めないと言う強気の姿勢を貫徹できました。
今は国民が豊かになったと言うか経験してしまったので、輸出不振で失業者が増大しているときに政府はやせ我慢できず、なりふり構っていられなくなったのです。
最早輸出基地としての中国に魅力を感じない状況で、輸出条件を出しているとどこも投資しません。
昨日紹介したようにズバリ資本金そのものが欲しいと言う前提で、自由貿易特区・・金融資本進出を認めるしかなくなりました。
(良く言えば中国経済が強くなって外資金融機関が入っても金融支配されない自信がついたと言う表向きの主張でしょう。)
従来は工場投資などの長期資金しか認めなかったのですが、バブル崩壊が迫り資金不足が顕在化して来たので背に腹は代えられなくなった・・早くゲンキンが欲しくなったと言うことでしょう。
今朝の日経朝刊3ページには、自由貿易特区につられたらしく三菱UFJ銀行一社だけでも今年の7月始めで362億円の増資実行したと書いています。
反日暴動時には最早外資などいらないと言う誤ったおごりがあったのでしょうが、実際には何の技術も身に付いていないし、まだ資金も足りない・・導入・技術移転がないと経済が立ち行かないことが分りました。
中国企業自体が海外進出するにしても、もう少し外資(日本)と仲良くして一段の技術の移転がないとどうにもならないことが分った感じです。
韓国の場合、日本との交流が約20年間長いので、中国よりも数段高いレベルの技術移転が進んでいるので、中国ほどすぐにネを上げるような状態ではありませんが、このまま日本との冷却化進み、絶えざる日本からの新規技術移転が途絶えると中国と似たような状態に陥る点は変わりません。
この点はサムスン電子の将来に関連してJuly 9, 2014に少し書きました。
韓国は中国に比べて技術移転レベルが数段高いところまで吸収しているだけであって、自前で何かを工夫して行く社会でない点が変わらないからです。
ところで、輸出不振が一定期間経過すれば内需向け外資導入も失速して行きます。
外資の払った資金や輸出で儲けたお金の両輪で国内消費が盛り上がって来たのですが、輸出不振で人員削減がドンドン始まると内需だって持ちません。 

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