江戸時代産業構造の変化3(GDP指標1)

昨日見たように大阪市場に出回る金額比率では1711年にコメ100対綿製品18だったのが、1804年以降100対105の関係に逆転しています。
しかも主力製品である縞木綿等が統計から抜けているというのです。
他の商品も同率変化かどうかまでは分かりませんが、綿に関しては大幅な比率変化です。
1800年代に入ると、(工業制手工業の発達によって)大口取引は大阪市場を通さない直接取引が一般化していったとも一般に解説されていますので、コメの経済比重は大幅低下していたことが明らかです。
今では、食品でさえもコンビニその他大手スーパーの食品工場化によって農産物や魚介類も公設市場経由はなく、大手の場合契約農家から直接仕入れが普通になっていますが、こうなってきたのはまだ数十年のことです。
魚貝類も同様です。
小池都知事就任以来、築地市場移転問題が一般の注目を浴びましたが、実はこの数十年で魚介類や、農産物の市場離れが激しく市場に頼る率が急激に減少しています。
(今でも市場経由で仕入れている業者は個人経営のレストランをちょっと大きくした程度で全国展開規模の企業で築地や太田市場購入を基本にしている企業は皆無に近いのではないでしょうか?)
千葉市中心部で見ると青果物や魚などの商店は、ほぼ壊滅状態です。
数十年前には、各地域には数店舗以上経営する個人的商売(地元スーパーや飲食店の成功者など)がありましたが、昭和末頃から平成に入った頃から大手に負けてあるいは吸収されて、地元地盤の百貨店やスーパーなど事業体の多くが姿を消しました。
領内から集めた年貢米換金の場合、今のような食品工場化=大規模購入先がないので、領内消費地の大部分を占める自分の城下町での換金だけでは外貨(幕府発行の貨幣)を稼げないので余剰分を従来通り大名は大阪市場で換金するしかなかったのでしょう。
戦国時代が終わると大名領国の一円支配確立・・農村地域内での自給自足分プラスアルファを残して徴税する関係上・領内の大規模米取引が原則として成立しません。
大大名であればあるほど、大規模に集まった米の換金には京大阪江戸三都での大消費地へ輸出するしかないのですが、そのためには直接個別大名が直接販路を求めて輸送するのは無理があるので自然発生的に大阪のコメ市場が成立したものでしょう。
江戸時代中期以降藩政改革の一環として、特産品開発→専売制は広がりますが、もともとコメを大名が年貢として取り立てた結果、(今の金曜市場で年金資金が大口運用者になっているような現象?)コメの出荷者として大名・旗本等の領主が大口市場参加者になったことから、結果的にコメの専売制度の基礎になっていたようなものです。
大阪市場に消費者(例えば江戸の町民が)が直接参加できないので、問屋が大量買い付けして各地の二次問屋〜三次問屋〜小売に分散していく・・結果的に問屋資本蓄積が発達し、問屋資本が、家内制手工業を組織化するまでの過渡期があったのです。
現在でも公設の魚市場や青果物では、セリ参加資格のある仲買人がセリを通じてまとめ買いして、その仲買人から各個人商店が買って帰る仕組みです。
このように家内制手工業を組織化したのが問屋資本でしたが、すぐにこれが直取引拡大によって問屋資本から離れて行きます。
家内制手工業の初期イメージは、今は姿を消しましたが、私の高校時代以降・・昭和3〜40年台に一般的であった家庭内内職が十数人規模の雇い人利用規模に変わった程度の光景でしょうか?
家内制手工業がさらに成長して工場制手工業に脱皮していくといわゆる産業資本家が勃興し、問屋資本による家内制手工業が淘汰されていきます。
これに比例して工業製品の直接取引が始まり、大阪市場を経由しなくなってきたのが天保の改革頃の経済状況でした。
製鉄や車造船テレビみんなそうですが、工業製品は市場での競りによる取引ではなく相対取引が原則です。
以上のように綿製品等の主要製品が大阪市場離れを起こしていたにも関わらず、大阪市場だけで見てもコメの比率が綿製品にくらべて大幅低下していたことがわかります。
徳川政権樹立当時コメ収益を基本(実は当時もコメだけを基準にしたのではないので厳密には複雑・・コメを基準値とした換算であったと思われます)として、幕府や大名家の格式・経済力差・軍役基準を決めていた物差しでは、1800年頃には対応できない時代が来ていたのです。
まして約100年前の1600年代初期との比較データが出ていませんが、幕府草創期に決めた石高との比較では、まるで基準になっていなかったと思われます。
9月4日に唐津藩の石高が表6万石に対して実高25万石と紹介しましたが、幕藩体制確立時の当初格付けは意味をなさなくなっていたことがわかるでしょう。
「鉄は国家なり」とか建艦競争の時代には「造船力」で国力を測る時代がありましたが今は違います。
200年前の大企業が200年間リーデングカンパニーであり続けているか・・仮にリーデイングカンパニーであり続けているとした場合、主力商品入れ変えに成功しているからこそ生き残っているのでしょう。
江戸時代270年間に主力商品産業が入れ替わっていたのです。
最近では旧来型GDP数値にこだわるのは意味がないのではないか?という印象を持つ人が増えていると思いますが・・。
そういうメデイアの意見を見かけませんが・・。
いわゆる失われた20年論では、GDPの上昇率が低いという主張ですが、個人の生き方で言えば、収入や売り上げ前年比なん%増で嬉しいのは青壮年期のことで、一定以上の年齢や年収になれば、これ以上売り上げ増や新店舗展開のために長時間働くよりは、この辺でスピードを緩めたいと考え若い頃の行動パターンを修正するのは不合理ではありません。
(個人で見れば、ある日救急車で運ばれるまで猛烈社員を続けるのは愚の骨頂です)
国家や社会も生き物?としては同様で、一定の高原状態に達すれば現状維持するのが合理的であり、ゴムが伸びきっている状態で際限のない成長を目指してある日突然ゴムが切れるような事態・・急激な国家破綻を招くより合理的です。

江戸時代産業構造の変化2(工場制手工業)

昨日引用の続きです。

そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。
これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。
量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。
織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。
マニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)
中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩と長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。
「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。
田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」
だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。
定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ

上記意見でも定信の改革?の時代錯誤性を書いています。

藩が主役になる産業・・専売制度は長州が有名ですが、例えば阿波徳島に旅行した時に見学した藍屋敷・・の藍の専売制度もそのような一例でしょう。
産業構造変化については、木綿産業限定ですが具体的記述のある以下の論文がネットで見つかりました。
https://repository.kulib.kyotou.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdf

昭 和 62年 9・10月 京都大学経済学会
江戸後期における農村工業の発達 日本経済近代化の歴史的前提としての一一 中 村 哲
II 近世社会〔江戸時代の社会〉の経済的性格と木綿
日本では,中世社会〈鎌倉・室町附代〉と近世社会〔江戸時代〉は封建社会 という点で共通した面をもっているが,他面,非常に異質である。経済的側面 におけるもっとも大きな相違は,商品経済の発達であるυ
・・・幕末開港以後の主要 貿易品,すなわち輸出の生糸,茶,輸入の綿織物,砂精などは, もともと日本 にはなかったものであれ中世には輸入品であり,中世末から近世初に国屋化 されたのである。低技術の生糸は古代からあったが. 15位紀から発達した高級 絹織物である酉陣織の原料となる生糸はすべて輸入であり中世末,近世前期 (16~’17世紀)においては生糸は最大の輸入品であった。
木綿は・・・日本で国産化されたのは. 15世紀末からで 16世紀に全国に普及した。最初は かなり高価であったと思われるが,普及するにつれて大衆衣料となった。
この木綿をはじめとして,中世末から近世初にかけて,それまで輸入品であっ た砂糖,たばこ,茶,絹織物,生糸,磁器などが国産化されていった。
それによって日本人の生活が大きく変った。国産化された場合,農民でも生活するためには,商品経済関係に入 らなければならなくなったのである。
・・・木綿は16世紀, とくにその後半か ら急速に全国に普及し, 17世紀の初めに庶民衣料としての地位を確立したとみ られる。
ところがこの頃から商品生産としての綿作(原綿栽培), 綿工業は畿内(大阪,京都を中心とする地域で,当時,日本で経済的にもっとも進んでい た)に集中する傾向がみられ,畿内では農工の分離が始まる。
北陸,東北,九 州など綿作の立地条件のよくないところは畿内から大量の原綿を買い入れ,原 綿から綿糸を作って綿織物にするようになり,東北J 九州という後進的な農村 も全国的な商品経済のネットワークの中に入ることになる。
・・・1714年に大阪に集められた商品は銀44万貫余と いう巨額に達するが,そのうも35.8%は蔵米, 即ち年貢米であった。幕府,藩 は農民からとり立てた多量の年貢米を大阪に送って販売し,その金で大阪で必 要な物資を買うか,江戸や国元(自分の領国〕に送金して財政を維持していた。

上記によれば1714年(吉宗の将軍就任1716年の2年前)時点で、大阪の商品取引高中で米の比率はすでに35、8%しかなかったことがわかります。
引用続きです。

III 近世後期 (18世紀後半以後〉の商品経済の発展
近世的経済構造は18世紀中期以後解体してゆく。
文化・文政期には,主要商品しかわからないが, 米以外の商品の中で,集荷量の不明のものが,判明する商品と同じ割合でこの 1世紀聞に増加したものと仮定すると,文化・文政期には蔵米は 150万石(1 石は約 5ブッシェル〉で1714年の112万石より増えているが,価額では全商品の13.7%に低下している。
他の商品のふえ方がはるかに多いことと,米の他の 商品に対する相対価格が下ったためである。
蔵米を 100として, 1711年に綿関係商品は18 であったが, 1736年に31となり, 1804~29年には 105 となっている。つまり木綿 関係商品が蔵米より多額になっているのである。
しかもこの資料には 18 4~29 年の綿関係商品には相当多額にあったと思われる縞木綿〔先染の綿織物〉と綿糸が欠けている。 蔵米と綿関係商品はたんに物として(素材的に)ちがう(米と衣料というように〉ということだけでなしその経済的性質が本質的にちがっている。

江戸時代産業構造の変化1

同時期の水野家の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。
浜松は家康の本拠地であったことからか?転封に際しては実高による損得よりは格式獲得のために?大名が数年ごとに変わっていたとようで、領内産業構造改革の気持ちが乏しかった分成長力が低いのか、交易窓口の長崎に近い九州との距離で変化差がついたのか今のところ私には不明です。
当時の日本各大名家の実高表を知りませんが、列島の位置関係で見れば、西から東〜東北に移るに従い構造改革の波及が遅くなっている印象です。
例えば私が育った頃にどこの小学校にもあった?薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像が目に焼き付いていますが、彼は1856年70歳で死亡ですから、水野忠邦とほぼ同時代人で天保年間中心に活躍した偉人です。
(小田原藩で生まれ育った人で中高年期に今の栃木県中心に活躍)
彼の事績を見ると、経営才覚の良さもありますが、活躍の場の関係で成功例の多くは農産物増産・・農村振興政策でした。
このあとでhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdfの論文を紹介しますが、和泉国や尾張の国では同時期にはすでに今でいう農村工業地帯が成立していたのに比べれば、幕府直轄地を含めた東国の後進性が明らかです。
参考までに長州・・毛利家のGDPを見ると以下の通りです。

(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?


(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石? | 公益財団法人 芸備協会

・・・石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。

各藩がそれぞれの環境に合わせて改革に精出していたのですが、会津など東北系は生産増政策でも稲作の普及に成功するかどうかが藩政改革の中心であったのに対し、西国大名系は・・家内制手工業やサービス系への構造変化に対応できていた違いのように見えます。
例えば以下の記述です。
いわゆる家内製手工業の発生・成長がどうなっていたかの関心で検索すると以下のネット記事がありましたのでこれを紹介します。
読んでみると私の考えているのとほぼ同内容というか、学校教育で知る程度の常識紹介かな?ですので、大方引用紹介します。
ただし、その次に紹介する中村氏の京大論文のような具体的データ記載引用先がなく、誰かの意見の受け売り的意見でしかないように見えるものの、分かり良い説明です。

2017-10-12

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。
江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。
これによって大成功を収めた藩が薩摩藩と長州藩。いよいよ明治維新の地殻変動が水面下ではじまったのです。
18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。
「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。
実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。
これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。
時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。
今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。
例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。
しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。
この副業形態を農村家内工業と言います。例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。
・・人間には欲がありますから、やはり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。
庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。
問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

以下引用明日に続く

規模追及と民度2

EUが成立した当初人口約2億と言われ,本日現在ネタ帳によるとアメリカの場合,93年当時は260.15万人であり16年は323.98万人です。)アメリカの人口(市場規模)に対抗出来るようになったと話題になっていました。
(検索しても何故かEU成立当時の総人口が出ませんが,イギリスは後から加入した記憶ですから当時の独仏伊あわせても約1億5000万ですからそんなところだったでしょう)
マスコミではEU結成は独仏間の戦争の惨禍を繰り返さないためと言うきれいごと中心報道ですが,元は石炭鉄鋼連盟から始まったように市場統合・戦後植民地と言う囲い込み可能な市場を失って大規模市場を持つ米国と格差が開く一方になった・衰退に直面した西欧がキリスト教圏での共同市場創設による対抗の動きのグランドヴィジョンだったのです。
経済統合・・競争力回復が主要目的だったからこそ国家統合よりも先に貨幣統合・・ユーロ創設と(低賃金労働者の)移動の自由・シェンゲン協定を急いだことも分ります。
企業で言えば,大きいことは良いことだと言う思潮がはやり,売上何兆円企業でないと生き残れないと言う動きで、その頃クライスラーその他世界企業の大統合がはやりました。
その頃今後は本拠地市場2億人を単位とする時代が来た・1億あまりしか人口のない日本は苦しくなると言う意見を読んだ記憶です。
2億人程度の本拠地市場で新規事業の揺籃期に大事に育てて・一定規模に育ててから世界に打って出る必要があると言う意見がマスコミを賑わしていました。
アメリカはEUの人口挑戦に負けないようにその後も移民を入れて対抗し,EUもその後領域的に東方拡大を続けるとともに移民受け入れも進めました。
(植民地ではなく対等な合併・連合に切り替えただけ?)
この結果2015年の暫定値ではEU人口は5億820万人と発表されていますので、もの凄い膨張で,上記ネタ帳のデータによるアメリカの現人口を大幅に追い越して人口競争では大成功していたことが分ります。
上記のとおりEU全体の過去の人口統計が出ませんので,タマタマ出た14年のドイツ人口を見ますと,以下のとおりです。
p.reuters.com/article/ger-idJPKCN0Q90KB20150804
[ベルリン 3日 ロイター] – ドイツ連邦統計局によると、ドイツ在住の移民の数が2014年には3.7%増加し、過去最高の1100万人に達した。全人口の5分の1が何らかの移民のバックグラウンドをもっていることになる。
移民の多くは、ポーランド、ルーマニア、イタリア、ブルガリア、ハンガリーなど欧州連合(EU)諸国の出身。
2014年の移民人口は、2011年比で約10%(約150万人)増加。移民人口を除いたドイツ人の人口は逆に同1.4%減少した。」
移民概念がはっきりしませんが、一定年限までの国籍取得者も含むルーツを言うのか、国籍取得者を除くとすれば過去30年間累計すれば国籍取得者は膨大でしょうから,流入人口数は膨大です・・兎も角こんな状態です。 
フランスでは「移民とは」以下の分類で外国生まれの国籍取得者を含まないようですから,フランスで生まれた2世で国籍取得したものは含まないことになります。
http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2014_5/france_01.html
「フランスにおいて「外国人」とはフランス国籍を持たずにフランスに居住する全外国人がこれにあたる。フランス国内で外国人を親として出生し、フランス国籍取得を決めていない者も含まれる。これに対して、「移民」は出生地及び国籍の2重の基準により定義される 。つまり、(1)現在フランスに居住しているものの、外国において外国人として出生した者、(2)フランス国籍を取得後も外国において外国人として出生した事実に基づき移民の一部として類型される。」
ドイツ移民の統計ルールも仮にフランスと(EU)同基準であれば,オヤがドイツ国籍を取得した二世以降の場合には移民数としてカウントされていないことになります。
ドイツ人口の2割が移民とは言っても、既に移民2世が増えているでしょうから,2世以降を移民に含めれば,もっと多くの人が含まれていることになります。
「ドイツ、フランス等で出生率が上向いたのを見習え」とマスコミが報道しますが,アラブアジア系移民の出生率が高いのが普通ですが、独仏国籍取得者の生んだ子はドイツ、フランス人の出生率に数えるとすれば、実態(生粋のフランス人等の出生率でみれば)は怪しいところがあります。
しかも上記のとおりドイツではこれを含めても出生率が下がっていると書かれています。
話がEUやアメリカの人口増加政策に流れましたが,EU結成に成功した1993年前後頃からソ連崩壊・・中国の改革開放が始まり世界市場が急拡大し,消費人口・・購買力による発言力としては、アメリかもEUも中国に遠く及ばない存在になってしまいました。
言わば焼け石に水だったことになります。
一方で生産設備その他の自動化・コンピューター化が進んだ結果、比喩的に言えば熟練度2〜3点でも電化製品等の生産に従事出来るようになって来たので、中国その他の新興国でもテレビ冷蔵庫〜クルマでさえその他製造設備を先進国が投資さえすれば作れるようになったので,先進工業国の独占生産体制が崩れて来ました。
半導体で世界を席巻していた日本は今では,半導体製造設備輸出国になっていて半導体製造現場は中国等に移っているのを見れば分ります。
中国やインド、バングラデシュ、ブラジル等の練度2〜3点の低レベル労働力でも汎用品を作れるようになって来て、(先進国の優位性は製造設備があることだったのです)彼らが世界生産市場に参入して来ると今度は賃金格差によって先進国が負け始めました・・逆輸入の開始です。
人口さえ多ければ市場規模や,生産従事者数で有利と言う前提が揺らぎ始めるとアメリカの移民受入れ策やEU拡大政策に無理が出て来ます。
自動化,ロボット化の工夫による生産性向上努力は成功しても、半年もしない内に中国の工場でも取り入れられるのでは,いわゆるイタチごっこで人件費平準化圧力から逃れられません。
生産性向上の工夫努力の手を抜いて安い人件費・・移民に頼るか海外移転しかないと言うのが、世界の潮流・・アメリカ式発想だったことになります。
新興国対策として人口大国の地位を維持するために移民を受入れるようになる=低賃金競争するための移民受入れ政策に変質すると元々の国民・ピープルの賃金下げ圧力になり元々のピープルに犠牲を強いることになります。
製品で言えば品質競争ではなく、安売り競争のパターンに陥るとその業界はダメになると言われていますが,さしあたりしわ寄せが下請け泣かせや弱い労働者・・人件費圧縮→非正規化の加速→中間層縮小になります。
ついにこれの限界が来たのがイギリスのEU離脱決定であり、EU全体での移民反対論の盛り上がりとアメリカの移民排斥を煽るトランプ氏の当選です。
新興国の低賃金攻勢→輸入物価下落・デフレ圧力に対して移民を排斥しても,金利引き下げてもどうなる訳でもない・・金融緩和は無駄な努力であり,政治的に見ればヒステリー症状だと言うのが私のこれまでの意見です。

産業構造の変化3と民度1

小作人ではなくむしろ地元で大きな屋敷を構える地位のある人の話ですが,数日前に相談に来た人の例を紹介します。
数十年前にオヤがある事業者の保証していてその企業が倒産したために先祖代々の家屋敷が競売になり,已むなく長女の夫に落札して貰い屋敷を守ってもらったことがあります・・この親自体が私の依頼者で私がその整理に関与した件です・・。
平成の初め頃にその人が亡くなっていて、その長男が別件で数日前に相談に来たのですが,その人が相談のついでに現況を話すのを聞いていると(自分は長男なので)長女から「あなたは家を守る義務がある」と言われて今でも(両親が亡くなって)無人になっている実家に月に1〜2回帰って、庭の手入れをしたり、(日本は草むしりだけでも大変な手間です)土蔵の壁が壊れたと言っては補修したり長屋門が壊れたといえば何百万も掛けて治していると言う話でした。
今でも名義は長女の夫のママらしいですが,長女の夫も頼まれて買ってやっただけで本当は自分のものではない・・ということで家に勝手に入らない・一種の名義貸ししている意識らしいです。
子世代に変わったと言っても相談者は現に都会地に住む元校長先生(もう70になっているという話です)ですが、故郷・千葉県の「奥地」では今でもこう言う意識で生きています。
明治になって始まった小作地主関係も似たようなもので,オヤが買ったときの経緯・・暗黙の合意を知らない次世代が法律相談すると・西欧の所有権の「絶対性」しか知らない法律家は,登記を見て自分の物だから「売ろうと小作人を追い出そうと勝手じゃないの」となって・小作人無視の売買等の紛争が頻発し始めます。
税金を払えないと相談されて私が助けてやろうと言って買い取った後に「自分の名義になったから他人に売ろうと追い出そうと自由だ」と言うのでは,救済してやったことになりません・・。
実際の正義に反することから,政府も保護せざるを得なくなって小作人や借地人保護立法が制定されて来たのであって、(土地を買った人は借地人をそのまま引き継ぐのが法の原則です)元々の道義に反したことをしなければそう言う法律は不要です。
言わばシャイロックのように「胸の肉1ポンド寄越せ」と言うのと同じで,タマタマ正義に反した主張を臆面もなくする人が時々出て来る社会になったから,これを防ぐために小作人や借地人保護法が必要になったにすぎません・・何回も書きますが,人権擁護の憲法や法律制度が出来た社会が進んだ社会ではありません・・・道義を守らない人の多い社会とい言うことで逆です。
和牛や果物その他のトッピンが生まれたのは,農協(はアメリカ方式の後追いで協同→大規模仕入れ・大規模出荷、その他大規模化追及ばかりした)の指導によるのではなく自営農民が仕事の合間に工夫して来たことによります。
研究部門は別に作るから製造現場・下層労働者の工夫はいらない・・現場は何も考えずラインの仕事をロボットのようにしていれば良いと言うのが階層分化を基本とする欧米式ですが,この方式では小作人より羊の方が良いとなれば,簡単に小作人を追い出して羊に入れ変えたり、移民の方が人件費が安いとなれば,移民に入れ替えて行く・・今後は移民どころかロボットで良い社会になります。
日本でも欧米の真似をして後追いをすることが進歩的と言う学校教育に従った農協がその代表ですが,この種考え方は大方失敗しています。
アメリカの大規模粗放生産が良いとなれば,狭い農地の大規模化を図り真似をする・・何でも後追いしているのでは・・ダイブ前に書きましたが、日本の場合最大の関東平野でも河岸段丘平野ですから,ましてその他小規模平野では水平面の必要な水田の大規模化は限界があります。
その他全ての分野で小規模・細やかな対応こそが日本人の特性であり,末端の人まで生き甲斐を生み出す原動力ですから、これを活かして世界に打って出る工夫しかないのです。
野球の王選手の一本足打法のように何かに大成功した人はその個性を活かしていることが多いのですから,人真似では2〜3流にしかなりません。
粗放・大規模農業やベルトコンベアー式大量画一生産方式は、アメリカの大地と流入人材=未熟練労働者に頼る社会にマッチした製法に過ぎません。
狭い国土と細かな変化のある気候風土に対応して一人一人の工夫努力が生きる日本社会が,個々の工夫努力を度外視した粗放大量生産を真似しても意味がないどころか、その生産方式に最も適した国を先頭にした序列の最後尾に付くしかありません。
日本のように民度の高いクニが民度の低いクニの真似をしても意味がありません。
中国の改革解放以来低賃金競争が世界で始まったのですが,海外工場移転をして国内の生産方式まで低賃金対応をして来ませんでした。
この国内構造変化中の国内生産力が落ちますが,この間に必要な資金を海外進出工場で稼ぎ出しながら・・この間の海外債権増加及び所得収支黒字は巨大なモノがあります・・凌いで来たのは大正解と言うべきでしょう。
企業・デパートで言えば本店改造中の売上減を支店網の売上で補填していたようなものです。
海外展開で儲けが出ていれば,海外の儲けで本店や国内工場のコンセプトを新しい時代に合うように変えて行くことが可能ですが、これを本店や国内工場の赤字補填に使っているとその先の展望がありません。
国全体で言えば,海外の儲けを本国人の高額賃金の穴埋めに充てているとその内海外からの送金が減って行き・なくなると大変なことになります。
サウジや資源国は原油代金等で実力以上に高額賃金(または無税でインフラ整備)を払って来たので、資源優位性が縮小し始めると大変です。
アメリカもこれまでの成功体験・極上の有利な条件がオセロゲームのように全部裏返しになりつつあることが重要です。
大量・画一・粗放生産=従来比喩的にいえば、10点の能力以上しか生産に従事出来ないときにベルトコンベエアー方式導入によって5〜6点の人も働けるようになる・・この結果、職人と言えない程度の未熟連労働者の大量投入が可能になりました。
加えて豊富な資源・五大湖周辺に大規模な石炭、鉄鋼資源があったし、その後石油の時代が来るとテキサス等には大規模な油田が開発されましたので国内で効率よく大規模工場が立地出来たことがアメリカの強みでした。
ところが、生産方式の機械化がさらに進むとアメリカが勃興した当時には比喩的に言えば,5点以上の能力が必要・・これに対応出来たのがいわゆる先進国だけだったのが,更に機械化が進んだ結果、もっと低レベルの比喩的に言えば2〜3点の未熟練者でも生産に参加出来るようになった・・労働力供給上の優位性が新興国に移ってしまったのです。
資源大国の地位も運輸能力・コストの向上によって,資源に直結した工場立地の必要性が低下した・・戦後遠隔地のサウジ(原油ではその他中東・北アフリカやロシア、ベネズエラ等に拡大する一方)やオーストラリア(石炭鉄鉱石・食糧)に広がっていますし,アメリカのダントツの優位性縮小傾向が明らかです。
人口・・労働力数的にも中国の解放前には,ソ連を除けば先進国ではダントツの一位でした。
(私が中学生の頃(1955年過ぎ)に初めて習った社会科の知識・記憶ではアメリカが1億8000万前後で日本を除く西欧諸国の大国・・英国5000万あまり、仏4300万前後でした)

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