表現の自由市場論7(公的補助要求の矛盾2)

我々弁護士会の主流的意見が世間とかなりずれていると見ている人がかなりいるでしょうし、内部的には強制加入団体が多数派の政治観による〇〇反対運動を行うことに対する不満も出てきます。
自治組織だから世間常識を気にする必要がないということでしょうが、弁護士会にに限らず、伝統的に自治権意識の強い組織の場合、(一般人より高みにあるというエリート意識が強いからか?)間違っている時流を正さねばならないという正義感を持つようになる傾向があります。
憲法学者〇〇名の声明など出すのもそうした意識の現れでしょうが、政治を決めるのは人民・・庶民大衆であるべきと日頃いっているにも拘わらず、 庶民はなにもわかっていないから間違いそうになると観ちゃいられない・・しゃしゃり出ていき教えてやるという本音・・後見人意識が出るようです。
言いたいことを言えてる組織ほど世間常識との乖離が進むので、世間が受け入れてくれない不自由感が強くなる面もあるでしょう。
映画その他業界内では警世の立派な作品を作ったのに収支が合わなくで興行に乗せられないのは、社会が間違っているという方向になりやすいのでしょうか。
個人の生き方でいえば、社会でうまくいかないのは全て自己責任と言うのでは、(ゴッホのように)苦しくて生きていけないので社会が悪い・あいつが悪いと責任転嫁するのが生きる知恵でもあるでしょう・・。
そのマグマが溜まって自己(集団)主張を社会が受け入れない「不自由自体が許せない」と言うアッピール展覧会になったのが、「不自由展」だったのでしょうか?
グループの意見が社会で受容されないときに昨日見たように国連人権員会などでいかに日本社会が歪んでいるかアッピールするNGOになり、体力系は過激派になってテロに走るのでしょうが、国内で合法的反日活動に活路を見いだすのは、まだましな方かもしれません。
例えば安保法案反対集会等を弁護士会等が自費で行うのは勝手(内部で不満があるのでそこまでやっていないと思いますが・・)としても、社会のために運動しているのだから反対運動に「公的補助を出せ」となると行き過ぎじゃないの?と言うのが大方の批判的空気ではないでしょうか?
識者はゴッホのように生前報われない例を出して「誰も芸術の評価はできない・・まして素人においてオヤ!」と言うイメージを膨らませた上で、だから不自由展の「展示内容批判は許されない」という結論に持っていきたいようです。
発表時点での自由市場評価が低い点はゴッホと同じですが、ゴッホの場合時間差で自由市場評価された場合が、表現の不自由展の場合には、同時点で自由市場評価されない不利を(市場=素人にはわからない)プロの目で再評価して製作資金補助と発表の場を与えようとする試みが大違いです。
言論自由市場論は商品交換の場の議論を比喩的に流用している以上は、その物ズバリではない・・適用できる限界等を議論しないと不正確のままでないか、というのがこのシリーズテーマですが、ゴッホの例をも同様で、ゴッホの生前評価が低かった点と「不自由展」のどこに関係があるか明らかにしないまま、比喩して不自由展批判シャットアウト・聖域化や「専門家に任せるべき」としてしまうのは、議論の目くらまし効果を狙ったもののように見えます。
思想や表現分野では何かというと「自由市場に委ねよ外部介入を許さない」というのが学者の決まり文句ですが、そういう主張者の多くが、一方で「自由市場に委ねるな!+公的資金投入せよ」「補助対象の決定は専門家が審査する」
「外部者の介入を許さない」と言う二段構えの論理をセットにしています。
企業研究ほど直接的でないにしても理系でいえば、大学や国立研究機構等の研究には巨額資金が必要ですし、巨額公費を使う以上は、多種多様な研究対象の中で、専門家の意見を聞きながらも、国策としてどの分野に(予算制約ある中で時間順を含め)優先的助成するかは、高度な政治判断が必要です。
現在でいえば国防予算やデジタル化促進、失業対策、コロナ対策でもどの分野に優先順位を与えるかなど・・。
経済学分野でも〇〇経済学が台頭している場合、その学派の見解を立証するにはある種統計データが必要とする場合、実態調査が必要になる場合もあります。
どの学派の調査に重点的予算配分するかも民意を受けた政府の判断事項です。
芸術や思想家方面だけ外部審査を許さない、政府はお金だけ出せば良いという自分勝手な主張がいつまで続くのでしょうか?
コロナ禍で乗客激減の航空会社その他企業が、どこの国でも金融支援(補助金や融資)は欲しいが国に株式を持たれる・出資だけは極力阻止したいと言うのが基本姿勢です。
その理由は経営の自由度が下がるからです。
借金は返せば自由に戻れるが、出資を受けるといつ支配が終わるか不明になるからですが、芸術も学問も、首までどっぷりと補助金に浸かっていて自由など自慢できるのか!という批判が聞こえてきそうです。
文楽や歌舞伎、能狂言等々の各分野への補助自体やめるかどの規模にするかは時の民意次第ですので、何が芸術かの基準は自分らで決めると言って天皇の肖像写真を燃やすのが自由というならば、その分野への補助金を絞ることに民意が動きそうです。
あるいはこの展覧会主催する関係者の展覧会企画への補助・協賛企業が増えるか減るかでしょう。
もともと慰安婦像を自己資金で買い取って自宅に飾りたい人がいるか疑問ですが・・。
表現・報道の自由、大学の自治、弁護士会自治等々(映画界ではエログロ映画がはびこっても「映倫」など自分らで決めると言う仕組み)です。
相撲協会やプロ野球界でも芸能界でも本当の意味の自由競争に揉まれている業界は皆、(営利企業でも)不祥事が起きると内部調査→自主処分先行が原則ですが、その対応が世論と食い違うと地盤沈下していくので世論動向に敏感です。
大手で顧客名簿情報漏洩すると法的責任以前に一人500〜1000円補償するなど率先して発表するのはこの表れです。
この数日で言えばモーリシャスで日本船籍タンカーの原油大規模流出事故ニュースが出ていますが、器量側は国際法上の賠償義務を果たすと言えば良いというのではなく、誠意を持って対応する記者会見し、政府も高官派遣対応しているのは国際世論動向が気になるからです。
自主規制とか自治とは言っても大枠は自由市場の支持に根ざしているので、自治を錦の御旗にしているグループでも世論動向無視するとその業種自体衰退しかねませんが、教条的・今風に言えば原理主義系は、せっかく自治(学問の自由)があるのに「世論に阿る必要があるのか?」と「不自由」に対する不満が高まるようです。
この種の意勢力が強い組織では(強気論ばかり横行し、常識論者は居場所をなくす「純化路線」で)世論から浮き上がる一方となり、旧社会党や昭和40年代後半以降の過激派組織になっていくようです。

表現の自由市場論5(ゴッホは例外か?2)

ところで生活パターン等民衆生活様式や苦悩等が変わるから芸術の市場評価が変わるのですが、後の評価が優れていると言えるかはまだ不明ではないでしょうか?
歴史評価でわかるように時代が変われば評価も変わる・百年後に評価が上がっても二百年後にはまた下がっていることが多いものです。
歴史評価ほど芸術評価が変わらないのは権力=政治との距離感・民衆の心(本音)は政権交代によっては変わらないからです。
硬直した政治制度の場合、政権交代はダム決壊のように一気に崩壊しますが、社会変化は徐々に進んでいて民衆の心情も生活変化に合わせて徐々に変わっていく状態・政権交代によっては一気に変わりません。
我が国の場合、どの時代でも民衆直結政治・・ボトムアップ社会でしたので政治体制変化によって、過去の文化が無価値になることはない・・(中国の場合王朝崩壊ごとに前王朝の文物を全否定・・破却埋めてしまう習慣・・何も残っていないので、中国王朝の遺物を見たければ日本に来るしかないと言われますが、)新しい時代の芽吹きは政権交代前から起きているので新たなヒダが増えるだけの社会と16日に書いた所以です。
江戸時代には前期安土桃山時代の文化を承継発展させたものですし、江戸時代から明治維新への変化は外来文化が怒涛のように入った点で劇的でしたが、それでも民衆・文化人を含めて洋風文化を江戸時代にかなり取り込んできたので民衆が見事に適応できたのです。
明治初期中期には、江戸文化の深い理解を背景にしていた漱石等の文豪、俳句を生き返らせた正岡子規や歌舞伎の河竹黙阿弥等後世に残る名作の数々、洋式軍隊でさえ、幕藩体制下の武士道精神が基礎的規律として働いていて一糸乱れぬ展開可能な軍隊(超音速・デジタル化等々精密化すればするほど、動物的運動体形成能力が有利に働くでしょう)スポーツで言えばサッカーなど阿吽の呼吸で大量の人員が一糸乱れぬ行動が得意な体質は100年〜2百年でできるものではありません。
産業界も江戸職人の精密加工技術の粋を工業技術に活かすなど文化の連続性が明らかです。
絵画だけでなく意匠系では粋を尊ぶ文化が、今でも国際的な優位性がありますが、将来の我が国文化の発展の礎になるでしょう。
いつも書く例ですが、夏に冬物を着ていたら「きちがい」かと思われますが、冬になれば、真夏に冬物を着ていた人が先見の明があったと言えるかは別問題です。
芸術といっても受け皿社会と無縁ではありえないので、ゴッホとか先駆者といってもホンの少し変化の予兆を早く嗅ぎ取ったので次代に高評価を受けた程度の時間差でしょう。
秋口に早めに季節感を取り入れればおシャレですが、真冬物を着ればダサいだけです。
日本の場合・・時代による精神の病み具合の変化がそんなに大きくありません。
詩歌でいえば、万葉集〜古今〜新古今、連歌〜俳諧〜俳句〜明治以降の新体詩、現代詩などどんどん変わっていきますが、だからと言って万葉の心も俳聖の精神も明治維新当時の漱石の文体や藤村の詩情などが否定されるわけではなく新たな襞が積み上がっていく社会です。
啄木的心情に対する
ただし都会人2〜3世以降が増えてきたので、現在では地方出身者の心情を背景にする啄木的心情に共感を覚える人は減っていくし共感度合いは下がるでしょうが・・。
理解はできるので、否定までする人はいません。
日本ではこの程度の差です。
思想家憲法学者芸術家、革新系文化人が金科玉条的に持ち出す、言論表現自由市場論は、自由競争に委ねるべきと言いながら市場蔑視公的資金を求める(庶民蔑視・エリート意識を前提にしている)体質を抱えている点で矛盾を抱えています。
自由市場で評価されない弱点カバーのために、彼ら主流派にとっては公的補助が必須ですが、「公的資金注入対象審査は業界自主規制審査によるべきで、外部介入を許さない」という主張です。
これが大学の自治、教授会の自治、学問の自由その他自治を求めるグループの基本主張です。
8月14日書いたように市場評価も専門家の審査も現時点での近未来の評価を取り込んでいるものですから、今回の「不自由」展出品作品審査は現在主流派審査員が行う以上(五十〜百年先の芸術家がタイムスリップして審査員になるのではない以上は)、現在価値観による評価になるしかないので、後世高評価される芸術作品としての審査に合格した作品を出品して評価を市場に求めるのは不可能です。
ゴッホを持ち出すのは目くらましでいかないように見えます。
不自由展については、制作費補助金が出る前提で制作したのに補助金が後で出ないと言われると困るという報道がありましたので、製作費さえママならない不自由をかこつ作品展ということになりそうです。
権力による自由市場妨害がない社会では、制作コストさえまかなえれば自由市場参加可能です。
制作費も出ない程度の評価をうけている以上、本来の自由市場論によれば市場退出が原則です
ラーメン屋寿司屋、あるいは製造販売業でもすべてコスト分以上の売り上げがなければ市場退出が原則です。
お歴々が、思想表現の自由市場論を掲げる以上は、プロが採算割れすれば市場退出すべきでしょう。
政治を否定しながら、政治力で延命させようとしているとすれば、邪道そのものです。

表現の自由市場論(愛知トリエンナーレ展)2

大学でも共産主義思想の本丸というべき経済学でいえば、戦後すぐから、いわゆるマルクス経済学が大学教育界の主流でした。
(第一の原因は戦後占領政策によって右翼系学者が追放されてしまい、左右バランスで成り立っていた各種学界内のバランスが崩れ、左翼系学者がほぼ占領状態になったことが大本の原因です)
一旦学内で左翼駅独占の根をはるとその系列弟子以外の学者候補が出ないので、この再生産になる仕組みです。
戦後5〜60年経過で他大学出身の公募が始まっても、その間に東大等の旧帝大有力大学の系列化が進んでいるので、地方大学出身者が公募で東大助教授になっても、その恩師自体が東大や京大から来た先生の愛弟子だったりするので、3世代ぶりの本家直参に返り咲いた程度の意識になるのではないでしょうか?
この種の関心で私が経済原論講義を聞いた土方成美教授とはどういう系列の学者であったか今まで考えたこともなかったので、念のためウイキペデイアで見ました。
もちろん右も左もわからない時でしたので、何もわからずただぼやーっと講義を聞いていただけですが、効用逓減の法則の講義を不思議に感銘を受けた記憶だけが残っています。
ウイキペデイアによるとなんと戦前東大経済学部長の経歴を持ち、学部内で以下ウイキペデイア記載の通りの抗争事件を起こして喧嘩両成敗的に休職命令を受けて下野したという歴史上かなりの著名事件の主役だったことを初めて知りました。
この事件は南原繁だったか学問の自由、大学の自治のテーマだったかの関連コラムで少し書いた記憶ですが、恩師?土方教授が主役だったとは知らず、いつどこに書いたか忘れました。
ウイキペデイアの記事からです。

土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 – 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。専攻は理論経済学、財政学
21年6月教授。
「統制経済」の概念を日本で初めて提唱したという[2]。この語は、自由主義経済の欠陥を政府の手で統制するという意味のものであり、「計画経済」とは異なるものであるとする。また、日本経済の実証研究も行なっており、これは当時誰も手をつけていない分野だったという
1933年4月-1936年3月、1937年4月-1938年3月まで経済学部長。1937年の学部長在任時には学部内左派の矢内原忠雄の言動を批判。辞職に追い込むきっかけを作る。この頃の経済学部では土方の国家主義派(革新派)と河合栄治郎らの自由主義派、及び大内兵衛の左派の派閥抗争が激化しており、河合については著書発禁を受けての処分も待たれているところであった。そこで、1938年末に新たな東京帝国大学総長へ就任した平賀譲による、いわゆる平賀粛学のため、「大学の綱紀紊乱」と「東大再建の障害」との理由で1939年2月13日、休職発令される(休職期間満了後、免官)。
東京帝国大学時代の弟子に難波田春夫がいる[6

難波田春夫関するウイキペデイアです。

兵庫県出身。東京帝国大学経済学部卒業と共に母校の助手となる。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である[1]。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回して助教授に昇進、1945年には経済学研究所所長となるが公職追放で大学を追われる。
追放解除後の1952年に東洋大学教授。その後、東京都立商科短期大学・早稲田大学・大東文化大学教授を歴任する傍ら内外経済調査室理事長を務め、関東学園大学・酒田短期大学では学長となった。
ヴェルナー・ゾンバルトの社会経済学をいち早く日本に紹介し、共同体に基づく統制経済を主張。その独特の主張には、学界のみならず財界や政界に少なからず支持者を獲得した。『国家と経済』に感銘した読者の一人であった慶応大生の伊藤淳二(元カネボウ会長)が、太平洋戦争(大東亜戦争)出征前に難波田(当時東京帝大助教授)を訪問して教えを請い、以後私淑した[要出典]。
1991年9月1日死去。享年85。
弟子に武井昭、田村正勝(早稲田大学教授)など

以上の通りで学派というか?系統は弟子がいる限り絶えないのです。
現在日経新聞で連載中の元ユネスコ事務局長を務めた松浦晃一郎氏の私の履歴書でも、アメリカでケインズ経済学でさえも時代遅れ扱いで新自由主義論が隆盛になっているの日本に帰ったときかいつの時期の感想か忘れましたが、まだ大学ではマルクス経済学中心なのに驚いたというか落胆したというか?の客観状況描写を書いていました。
以下昨日引用のhttps://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190902/

<p style=”padding-left: 40px;”>浜崎洋介】の続きです。

(3)左陣営で「不自由」を強いられた作品に比して、右陣営で「不自由」を強いられてきた作品を積極的に展示していないという点(この点については、呉智英氏が、以下のサイトでまことに適切な批評を書いておられます。https://www.news-postseven.com/archives/20190826_1438197.html

商品でいえば業界審査を通さない新商品の市場投入が許されないという仕組みです。
これが自由市場と言えるのでしょうか?
比喩というのは、誰か気の利いた政治家が注目を浴びるために用いるキャッチフレーズであって、それが一世を風靡した後は、その適用限界を研究して行くのが思想家あるいは実務研究家の役割ではないでしょうか?
例えば「人民の人民による人民のための政治」というゲテイスバーグ演説も同じで、これは大衆を酔い痴れさせるためのレトリックに過ぎず、その具体的適用範囲方法(3権分立が良いか代議制の場合、大統領制か議院内閣制か直接制かなどを決めていくのは分野別専門家の活躍分野なのと同様です。

人種差別反対とか平和を守れ等のスローガンの繰り返しであれば庶民大衆の不満表明と同じで、平和を守るにはどうすべきか、格差是正するには、社会の仕組みをどうすれば良いかの具体策の研究・提言こそが専門家に求められているのです。

民意・サイレントマジョリテイ2

ネット報道のレベルが低い、けしからんというよりメデイアが電波独占を良いことに間接的に政治を誘導してきたことをネット利用で誰もが発信力を持つようになるとこれの真似を始めた・新規参入である分洗練されていないし、匿名性があるので表現が露骨になります。
長年大手メデイアが電波独占に乗じて巧妙に世論誘導してきた地位に風穴が空いたことは確かでしょう。
大手メデイアによる世論誘導がそれほど効果をあげていない時には大手メデイアの誘導方向と民意(選挙結果)に大きな乖離が生じます。
この乖離を表現する英語がサイレントマジョリテイーという熟語です。
ウイキペデイアによるとサイレントマジョリテイと英語で言ったのは70年代のニクソン大統領が最初らしいですが、日本ではその前から岸総理が、その意味の発言をしているらしいです。
もっと遡れば、帝大7博士の煽った日露開戦論と講和反対運動でしょう。
7博士が反対しているのをメデイアが火をつけ煽ったから民衆暴動に発展したものです。
政治とメデイアのシリーズの関連でApril 10, 2018 12:00 am「7博士意見書と学問の自由1」のコラムでウイキメデイアに以下のような記事が乗っていたのを引用しました。

このとき伊藤博文が、
「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。

政治の現場を知らない・世間知らずの学者の意見など聞いてられないという意見を述べてることを紹介運用したことがありますが、マスコミが7博士意見書を大規模報道したので騒ぎを大きくしたものです。
以下の通り7博士意見書の研究論文にはマスコミと学者のタイアップした初めての?事件として以下の意見があります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/70/0/70_KJ00004554284/_pdf

「帝大七博士事件」をめぐる輿論と世論®   メディアと学者の相利共生の事例として
宮 武 実 知 子(関西大学非常勤講師)

 メディアが知識人を「利用する」にはいくつかの効果が期待されるからである, と大井浩一は指摘する。第一に,メディアの論調・主張の説得力を増すための「補 強材料」,第二に,その記事への読者の信頼性を高める「権威づけ」,第三に,読 者にアピールする「読み物」,第四に,珍しい知識人を登場させる「特ダネ」効 果であるという (31) 。確かに当時,大学教授が新聞紙上で忌憚ない時節を公開するこ と自体が「特ダネ」であったし,記事の「補強材料」になると同時に「権威づけ」 効果も十分であった。学者の側でも,ジャーナリズムの場に登場することで自説 に喝采を浴びること,輿論の代表として振る舞いつつ時局を左右できる力を実感 できることは,いろいろな意味で大いに魅力あることであったろう。大学教授と メディアは,相互利用を始めたのである。

戦後では吉田総理がサンフランシスコ講和会議に反対した東大学長南原繁に対して投げつけた?「曲学阿世」論が有名です。
この頃はまだ米軍占領下だったので、曲学阿世の論(馬鹿言うな!)で一蹴して終わりだったのでしょう。
これが60年安保になると大手メデイアの影響力が桁違いに大きくなってきます。
サイレントマジョリテイーに関するウイキペデイア記載の60年安保当時の岸総理発言録です。

声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて、日本の民主政治の将来を考えて処置すべきことが私は首相に課せられているいちばん大きな責任だと思ってます。今は「声ある声」だけです[5][6]。
— 岸信介、1960年5月28日記者会見
安保反対運動に参加していない国民が多数派であり、彼らを声なき声という詭弁で表現し、国民世論は安保反対運動支持は少数派と述べた・・・
サイレントマジョリティーである無党派層の声を判断するために後継の池田勇人首相が1960年10月24日に断行した総選挙安保解散選挙では、岸が提唱して池田が発展させた所得倍増計画などの経済政策の恩恵を受けていた世論の自民党への安泰ムードが支配し、自民党は296議席を獲得する圧勝をした。
マクロン大統領の発言[編集]
フランスのエマニュエル・マクロン大統領もフランスで影響力を誇る労働組合などからデモや抗議活動を受けているが、それ以外のフランス世論の6割以上がマクロン大統領を「方向性が明確」と支持している。マクロン大統領は「政府はサイレントマジョリティーに支持されている」と表明している[1][10]。

サイレントマジョリテイー論があるにも関わらず、大手メデイアは黙殺して表現の「自由」市場独占を武器にその意向に従わない与党を国民大多数の意見無視する政府というレッテル貼りをしてきました。

奥田愛基氏意見4(議員である前に個人?2)

革新系野党の候補者はどちらかといえば党中央の決めた落下傘候補らしく見え、地元でシコシコと票を稼ぐ人材に頼らない傾向が強いのは、党中央のイデオロギーの強化戦略性が強いからでしょうか?
党中央指名による?と結果的に弁の立つ医師弁護士学者等高学歴者を表に立てる傾向になる素地でしょうか?
民主主義社会における説得力とは、自分の主張に拘る人よりも選挙民の気持ちもよく聞いてくれるしこの人の言うことなら任せて見ようかとなる信頼される人格です。
革新系野党の候補者はどちらかといえば党中央の決めた落下傘候補で、地元でシコシコと票を稼ぐ人材に頼らない傾向が強いのは、党中央のイデオロギーの強化戦略性が強いからでしょうか?
民主国家においては誰が信頼に足る人かを決めるのは、選挙区内で身近に知る人が民意を吸収するその道のプロとして、国政を委ねるに足る人として投票し、代議士の集積した国会でさらにプロ同士の目で見た信頼に足る人を選出するのが議院内閣制の醍醐味です。
直接選出の大統領制の場合、国民99、99%がその人を直接知らないで投票を迫られるので、マスメデイアの露出度・メデイア人気・報道(フェイクニュース)次第で決まる傾向があり、メデイアの作り出した虚像・人気度が地元選出代議士の代わりになりかねません。
この結果メデイアを第四の権力という呼称が生まれてきたことになります。
革新系野党はメデイア受けする人材発掘に熱心ですし、メデイアと親和性が高いのは、一つには党中央支配が強く地元支持基盤構築に関心が低い面と繋がっているのかもしれません。
選挙区選挙を通り抜けてきた政治家は、民意を体で感じ取る能力と付託された民意を実現するに足る説得力に長けた人であるとの地元お墨付きを得ているその道のプロというべきです。
名門高校や大学に入学できて有頂天になってダメになる学生がいないとは限りませんが、多くは合格認定に恥じないようになお一層励みます。
学生は遊んでいてもすぐに除籍されませんし、被雇用者の場合も仕事が上手くいかなくともすぐ解雇になりませんが、政治家は次の選挙で(小選挙区の場合2番では落ちます)落選失職ですが、営業マンに例えれば、地区営業成績ナンバー2であれば、直ちに失職する厳しい採点を受ける職業です。
保守系政治家の場合、一種の自営業的選挙ですので小選挙区の衆議院議員は制度的に民意吸収に敏感であり、それに沿うように一生懸命に働かない限り次がない厳しい職務です。
党中央指名で、しかも支持基盤が党員だけの岩盤の選挙をしている場合、地元民意吸収より党員集会や支持労組ご機嫌伺い回りが重要業務になりますので大きな違いです。
どちらが民主主義国家の代議士の選出方法のあるべき姿として正道か、邪道かは明らかです。
こういう厳しい制度バックのある保守系政治家と違い、民意支持の裏付けもない彼が、国民過半数の反対といい、それを認めない政治家を政治家になる前の個人の方がマシと言う意味?で「個人に戻れ」というのは、(当選してレベルが下がったと言うのか?)無礼というか、小さな子供が「お前の母さんデベソ」といっている程度の意味しかないでしょう。
職業人としての国会議員に戻りますと、民意吸収のプロとして地元の人望を受けて国会審議に参加している以上、その信頼に応える義務があります。
職人に限らず金融商品販売員、不動産屋従業員もデパート店員も寿司屋もラーメン屋もそれぞれの道のプロとして商品提供する以上は、相応の職務能力を発揮すべきで「素人でした」では済みません。
車の運転でさえ免許を持って運転する以上は、免許取得前の運動能力レベルとは違った交通ルールに従った運転が要求されます。
一定の職務につく以上は、天然自然の能力をそのまま出すのではなく、職業的規格によって修正された職務能力を発揮すべき義務があります。
その職務を離れた家庭や旅先での言動との違いです。
国会審議行為は、代議士として国民の負託を実現する職務行為ですので代議士としての国民負託を離れ個人感情で勝手に言動する自由がある筈がありません。
あるラーメンチェーン店の店主に組織と関係ない好きなラーメンを作れと言ってるようなのものです。
民主党連立政権に参加していた福島瑞穂氏が辺野古移設閣議決定に応じなかったのは、社民党の代表としての言動である以上与党連立政権関係に直結する効果を含め党内熟議を経た上の言動であったはずです。
奥田氏の主張を見ると共産党の基本体質を前提すれば、(中央の指導より民意を重視すべきという)成り立つ意見を自民党政治家に講釈を垂れている印象です。
若いので民主主義政治の仕組みや社会常識.実態を知らないのは当然だ・・内容が未熟すぎるとの批判はおかしいと言う意見もあるでしょうが、社会の基本的あり方すら知らない未熟者を推薦した野党の責任はどうなるかとなります。
閣僚が無能すぎるという批判に対して、A大臣はまだ10歳だ、その割によくやっているという弁護が成り立つのでしょうか?
一定の役割を担当するのに適任として選任すれば、年齢性別、家族関係や身体能力いかんにかかわらず、その職務を果たす能力があるべきで、大臣の不祥事がある都度総理の任命責任を野党やメデイアがしょっちゅう追及してきたのはこの論理によります。
野党推薦である以上、野党の主張レベルと見られるのは覚悟の上の推薦というべきでしょう。

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