原発問再稼働(司法の限界)8

福井地裁の仮処分決定内容不明のママ(決定書が公表されていないので)憶測による意見を書いてきましたが、10月22日日経夕刊には鹿児島地裁の仮処分決定が大きく報道されていました。
これによると「規制委の基準は妥当」と大きく出ていますので、この報道ブリが正確とすれば、基準自体が妥当どうかが争点であったことになります。
ただし23日の記事に適合性に問題がないと言う記事もありますので、報道からはよく分りません。
・24日の日経朝刊33pには約1ページを割いて基準地振動と言う指針に関する解説記事が出ましたが決定書自体は出ていません。
基準値振動概念によると原発所在地ごとにどこまでの関連要素を想定に加えるかなどの判断して行くようですから、その判断採用自体が一種の基準造りと言えないこともありません。
このように、全国共通基本的基準造りの外に現地ごとに基準造りがあり、更に分野ごとに下位の部会に基準造り(こう言う調査方式で調査しましようと部会で決めて調査すればそれも基準となります)を委ねて行くとなれば、どれが基準でどれが当てはめかの区別が明らかではありません。
これがあるときは科学者の決めた基準を司法が否定しているようにも書いているしあるときはどうでもないような書き方・・報道が混乱しているように見える原因かも知れません。
基準が妥当とする判断の場合、司法は規制委の判断を尊重して妥当性に踏み込まない・・形式上踏み込んでも結果的に尊重する場合もありますが、判断が不当と言う場合には、司法がそこまで踏み込むしかありませんが、そのような権限があるか否かに付いては、疑問があることは、22日までに書いたとおりです。
この論点に関する過去の最高裁(小法廷)の判例は以下のとおりです。
以下はウイキペデイアからの転載です。

事件名 伊方発電所原子炉設置許可処分取消 
事件番号 昭和60(行ツ)133
1992年(平成4)年10月29日
裁判要旨

1原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであつて、現在の科学技術水準に照らし、調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、判断に不合理な点があるものとして、判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。
2 (立証責任等省略)

鹿児島地裁決定は福井地裁決定に真っ向からの逆判断と言う報道の仕方からすると、福井地裁は、具体的設計や技術の不適合判断をしたのではなく、規制委の判断妥当性自体を俎上に乗せた上で、これを否定したかのように見えます。
そうすると真っ向から最高裁判断に反する決定をしたことになるのでしょうが、上記のように何が基準で何が当てはめミスかの区別が微妙なので、うまく最高裁判例を回避しながら書いているのではないでしょうか?
ところで、23日日経朝刊7pの「大機小機」には、ホーリズム(全体論)と要素還元論の違いを書いたうえで、地域・地球全滅かどうかの視点によって安全性の考え方が変わると書いています。
「大機小機」の意見はリスク率について裁判所と規制委の考え方が仮に一致しても基準そのものの考え方が福井地裁決定とは違っているのではないかと言う論旨・・ソモソモそう言う問題は裁判所で決着つけることではない・・あるいは裁判所に決定権があると言う重要論点についての意見がないまま、どちらが正しいかの意見を展開しています。

原発問再稼働(司法の限界)7

福井地裁が違憲無効と判断したのならばマスコミに大きく出ますので、マスコミ報道に一切現われてないことから違憲判断したのではないことが明らかです。
規制委の設定基準が間違っていると言う理由ではなく、規制委が自ら設定した基準に当該原発が適合していないのに、適合していると言うミス判断をしていると言う認定が次に考えられます。
仮に適合性の事実認定をした結果であれば、これは裁判所の権限ですから、裁判所の判断自体を批判するのは的外れになります。
規制委が基準・ルール造りとその当てはめ権限の双方を兼任になっているところに、社会の受け取り方・規制委が決めた基準を司法が否定する権利があるのかと言う・・「規制委の判断を尊重すべき」と言うミスリード?による世論が形成され易いのかも知れません。
ルールを作った人がそのルールに一番詳しいのですが、それと具体的当てはめ能力とは違います。
ルールを作った人が、野球やテニス等の現場・・スポーツの審判を出来る訳がないと言えば分りよいでしょうか?
芸術家・創作する人と、と目利き・評論家とは別です。
ですから、古くから(人権問題以前に、我が国でも鎌倉時代から訴訟は別建てでした)国会(法製造者)と裁判所が別になっています。
事故直後の興奮状態で厳し過ぎる基準を作ってしまい、今になってみると「無茶すぎたかな」と反省して適合条件の当てはめ認定を緩めると自分の作ったルール違反になってしまいます。
ルールが時代に合わなくなれば、ルール自体を改正するしかありません。
今回の再稼働申請が、規制委員会が作った安全基準に適合していないのに、「適合する」と言う間違った判定をしている場合文字どおり一般の行政訴訟のテーマになります。
一般に行政組織の当てはめには一定の裁量権がありますが、裁量権を逸脱した場合、司法がその誤りを是正する権限があります。
もしもその理由による仮処分決定であるならば、地裁の不適合判断自体が誤りかどうかは上級審(や本案判決)で是正されるだけのことであって、司法が介入すること自体何ら問題がないでしょう。
いろんな行政過程において行なわれる許可申請が却下された場合に、不服のある申請人が不許可処分取り消しを求められるのと裏表の関係です。
今回の福井地裁の申し立ては再稼働許可決定取り消し訴訟を本案とする仮処分であったと思われます。
そうとすれば、決定自体を冷静に受け止めて・・政治問題化して大騒ぎするのはマスコミの行き過ぎです・・普通の裁判同様に上訴するなどして行くしかないことになります。
基準の妥当性ではなく、実際の設計や工事が基準に適合しているかどうかの技術問題に過ぎないのであれば、その結果が重大であろうとも、危険が大きい場合放置できません。
国威を賭けたリニアーモーターカーであれ宇宙ロケットであれ、新幹線や飛行機でも、危険な技術ミスが見つかってそれが危険であれば打ち上げ延期・走行・飛行中止するしかないのは当然です。
危険かどうか・・基準には一定の幅があるので、許容範囲の誤差かどうかの判断は微妙になります。
劣化部品を使っていて、あるいは設計どおりの工事をしていない・・手抜き工事の危険があっても、原発だけ稼働し続けるべきだと言う国民総意はあり得ないでしょう。
本当に技術ミスがあるかどうか・・あるいは許された誤差の範囲内かどうかは人が裁く以上判断ミスがあり得るので、上訴して(本件は仮処分と報道されていますので、本案訴訟で)再判断を仰ぐことになっていますから、それによるしかありません。
高裁(または本案訴訟)の判断待ちしていると時間がかかり過ぎるのは、一般のどんな事件でも同じですから原発に限った話ではありません。
だから2審があっても一審判断(や仮処分)がそれなりに重視され、意味があるのです。

原発問再稼働(司法の限界)6

医療や建築基準、耐震基準など、事件後に過去の支配的意見がどの辺にあったかの判定は専門外の司法機関にも可能ですが、現在錯綜している各種意見のどれが支配意見であると判定するのは(物理的にも憲法論的にも)無理があります。
建築基準であれ製鉄所製造工程の危険回避(労災)基準や出来上がった車やエアバッグの安全基準であれ、経済政策であれ、専門家グループの推奨する基準から、政治がその責任において経済政策であれば少数意見であっても気に入った政策を採用するのは勝手ですが、どれが支配意見であると公式認定するべきものではありません。
仮に論理的にこれが可能・司法部に特定学会の学者全体よりも有能な人がいるとしても、学問の自由との兼ね合いで、司法が現在の「学界の支配意見がこれだ=これであるべきだ」と権力的に決めるのは憲法上も問題が大きいでしょう。
原発再稼働の是非に関する仮処分決定は、この原発ではまだ事故が起きていないので、作成された指針そのものが現在の科学水準に照らして許されないと言う判断になったのでしょうか?
数値的に言えば、現在の科学水準では安全性が80%しか認められないのに、90%の安全性があるとしている場合、その水準判定が間違っている結果ひいては国民の総意形成に誤った情報を与えてしまうことになります。
過去のことならば専門外の司法が、過去の文献を見たり専門家の鑑定意見を徴するなどして判断し易いですが、現在進行形の関連学会の安全水準の議論の内で、どの意見が正しいかを外野が判定するのは無理があります。
全ての学問において少数意見があり、多数意見があるのが普通でしょうが、同時進行形の指針造りに対して圧倒的多数意見が50%の危険があると主張しているのに規制委の委員が少数意見によって、危険は10〜20%しかないとして指針造りをしていた場合、これは誤り・・「裁量権の逸脱」だと言う判断になるでしょうが、現在進行形の学会の論争に付いてどれが多数意見でどれが少数意見だと誰が断定出来るのでしょうか?
逆に多数意見が10%しか危険がないと言う場合、これを提示した上で、それで再開するかどうかは国民の意見次第ですと国民判断を求める場合、司法がこの指針造りは(少数意見によるべきだ」と言う権利はありません。
一人でも反対があったらやめよう2〜3割反対があったらやめようとなど、何割の反対でやめるかは国民が判断すべきことです。
そうとすれば今回の司法判断(福井地裁の仮処分決定)は、規制委の規制基準自体が現在の学会(専門家集団)の水準から大幅に逸脱していると言う判断になったとは思われません。
国民総意の顕現する場である国会同意人事(多数決ではありません)によって選任された専門家集団である規制委と言う存在・・言うならばこの委員会の決める指針は現在の標準的科学水準であると国会でオーソライズされていることになる筈です。
これを門外漢の裁判官が数人程度(鑑定意見は何百人から徴する訳ではありません)の反対科学者の意見で「反対論法が正しい規制委の判断は誤りだ」と決めつけるのは、非民主的・越権的判断になります。
国会同意人事によるとは言え、民意に直接依拠しない(選挙の洗礼を受けている政治家そのものではない)専門家が構成する規制委制度は、国会(国民総意による直接規制)の手を離れて、規制委が厳し過ぎる基準を作って、事実上再稼働しないようにも出来るし・・逆にいくらでも緩く出来る点が問題です。
今度の仮処分は、基準造りが間違っていると言うのではなく、規制委が自ら設定した基準に当該原発が適合していないのに、適合していると言うミス判断をしていると言う認定が考えられますし、(繰り返し書いてるように今のところ決定書がマスコミに公表されていないのでどう言う理由で仮処分が出たのかはっきりしないのでこのコラムでは、憶測意見です)このように理解するのが相当でしょう。
仮に適合性の事実認定であれば、これは裁判所の権限ですから、これを批判するのは的外れになります。
規制委が基準・ルール造りとその当てはめ権限の双方を兼任になっているところに、社会の受け取り方・規制委が決めた基準を司法が非難する権利があるのかと言う・・「規制委の判断を尊重すべき」と言うミスリード?による世論が形成され易いのかも知れません。
ルールを作った人がそのルールに一番詳しいのですが、それと具体的当てはめ能力とは違います。
ルールを作った人が、野球やテニス等の現場・・スポーツの審判を出来る訳がないと言えば分りよいでしょうか?
芸術家・創作する人と、と目利き・評論家とは別です。
ですから、古くから(人権問題以前に、我が国でも鎌倉時代から訴訟は別建てでした)国会(法製造者)と裁判所が別になっています。

原発再稼働(専門家の限界)5

4月19日に書いたように実際に建築工事や医療行為を施行したときによりどころにした基準が間違っていた結果被害が生じても、その行為当時の科学基準に合致していれば後になってその基準が間違っていることが分っても基準策定者や行為者責任を問わないのが司法である・・司法は絶対的価値を探求するべき場ではなく法的基準探求の場でしかありません。
薬害エイズ訴訟は基準造りに過失がなかったかの事例ですが、全てそう言う基準で裁判しています。
似たような基準として、刑事司法制度は絶対的真実探求目的ではないという制度の意味を「07/05/03法曹一元 5(判検交流)(李下に冠を正さず)」で解説したことがあります。
絶対的正義探求の場であるならば、少数意見の方が正しいと言う判定もあり得ますが、司法権はそう言う役割ではありません。
原発再稼働可否に関する規制委員会の審査は、事故が起きる前の判断ですから、過去の一定時期ではなく現時点の判断とすれば、何が現在の支配意見にあたるかはその学会で決めることであって、現在進行中・・論争中の多様な意見の中から、司法が外部からこの人の意見(判定方法)が正しいと決める権利や能力はないでしょう。
現在の原発基準設置に関する安全度判断を仮に数値的に表現出来るとすれば、ABCDE~Xの論者によってA方法によれば90%安全、B方法によれば80%安全、C方法によれば70%安全〜D〜E〜F〜E〜Xと順次安全度が下がって行く場合、どの検査方法や論理構成が妥当かを関連学会の外野が判定出来ません。
(事故が起きた後の後講釈・・当時どの説が支配的であったかを認定するのは簡単ですが・・)
現在進行形の支配意見の集約は、関連学会や関連技術者で話し合って関連学会等の「総意」で決めて戴くしかないでしょう。
(上記パーセントは、比喩的に書いているだけであって東北大震災級の大津波となれば、実際には事例が少な過ぎて統計処理に馴染み難いので、パーセントで主張出来る責任のある人は滅多にいないでしょう)
原子力学会や地震学会、放射線関係者等の総意でABCD〜Xまでの多様な意見のうち、仮に60%の安全度があるとする意見を採用して判定することが学会で可能とした場合、この決定とは別に何%の安全度で稼働を許容するかを決めるのは誰でしょうか?
政治意思(国民総意)として、80%の安全度が必要と決まっていれば、上記決定の場合稼働できません。
どの程度の安全度で稼働を許容するかは、国民総意で決めることであって、専門家集団は何%のリスクがあるか、何%の安全度があるかの判定意見を言えるだけです。
司法は、事実を認定して法に当てはめる仕事ですが、100%安全でなければいけないとか90%の安全度は良いけれども80%の安全度では行けないとか50%の安全度でも良いとかを司法が決める分野ではありません。
この許容度は国民総意・・国会で決めるべきです。
この安全度リスク度がどのくらいかを決めるにはどこか集約するところが必要なので、自然発生的集団に委ねるのではなく、公権的権威を持たせるために、「規制委」というものが設けられたものと思われます。
ところで、規制委に関連学会全研究者の参加は物理的に不可能ですから、一定数に定員を絞るための人選に付いて一応問題にする余地があり得ます。
そこで、規制委の人選に付いては党派性のないように制度設計されている・・国会同意人事になっているので、与党権力者の多数意見で決められない・・国会全員?の総意が要件になっています。
国会多数決が民主国家では一応国民総意となっていることから比べると、より厳重な絞りがかかっているので「総意」性が高まっています。
ですから、仮に委員の傾向が推進派中心であろうとも抑制派中心であろうとも、国会の同意人事で選任された以上は国民総意による人選だったと見るべきでしょう。
与野党合意・・国民総意によって選任された規制委の基準造りに対して、人選が偏っていると異を唱える権限が司法にあるとは思えません。
(企業不祥事に際して企業が好きな人を検証委員として頼むのとは、性質が違います)

原発問題(専門家の限界)4

一人でも反対の場合、再稼働を認めないと言うときの一人とは、規制委委員の内一人だけなのか、規制委員会委員だけではなく関連学会や現場関係技術者まで含むのかにもよりますが、幅広く委員会外に反対意見があればそれを採用すべきとなれば、どの範囲までの人を加えるかの問題もあります。
国論が大きく割れているテーマでは(何百人もいる関連研究者のうちに反対論者が一人や二人いるのが当然予測出来ますから)反対論者が一人でもいたら再稼働禁止と言う法律が仮にあれば、事実上禁止法を制定したのと同じ効果になってしまいます。
福島原発大被害発生後満4年経過した現在でも、国民総意が即時廃炉、段階的廃止・・古い分は即時廃炉しても新しい分は運転していて寿命が来る都度新設しないで縮小して行く・・その他国論がまとまらず、揺れている状態です。
国論が定まらない状態では、政権も明確な意思表示出来ないのは民主国家運営としてある程度仕方のないことです。
経済運営では国論が定まらなくとも、政権はABC~Xの意見うちどれを採用するかを相当期間内に選択して行くしかありませんが、原発政策は、相稼働を認めなくとも、あるいは廃炉に決めても危険な使用済み燃料棒が即時にこの世からなくなる訳ではありません。
冷却が止まると危険性がある点は、・・急いで廃炉かどうか決めても危険な使用済み済み燃料棒をすぐにどうにか出来る性質のものではないので、国論が揺れている以上は時間軸を多くとって慎重に国論の行方を見定めること自体は妥当であり、優柔不断・・小田原評定的非難に当たりません。
国論が定まらない状態の震災直後に制定された新規制法の基準がより厳しくなったとしても、全面即時禁止法と同様の効果がある「一人でも反対意見があれば再開を許容すべきではない」と言う基準が法制定されているとは到底考えられません。
せいぜい変更あったとしても単なる多数意見(過半数)ではなく、全体の2〜3割以上反対があれば多数意見を採用しない・・危険とするなどの段階的基準設定する程度ではないでしょうか?
(憶測だけではなくこの後で規制委員会設置法の条文を見て行きます)
会社法その他の組織法(身近なところではマンション法など)では、議長の裁量に留まらず、解散その他重大決定は特別多数制度(3分の2以上や5分の4以上など・・マンション法では厳し過ぎて老朽マンションの建て替えが進まないので最近要件緩和されたと言う記憶です)が採用・・法律上強制されていますが、原発規制法に会社法のような明文の規定がない限り、大方の意見によって決めて良いことになるのでしょう。
こう言う法律がない場合に、司法が独断でもっとも厳しい少数意見によるべきだと判断することは許されません。
ですからまさか、(仮処分決定書自体見ていないので分りませんが)こう言う基準で停止命令を出した訳ではないでしょう。

会社法(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(株主総会の決議)
第309条 株主総会の決議は、定款に別段の定めがある場合を除き、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数をもって行う。
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げる株主総会の決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(3分の1以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の3分の2(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない。この場合においては、当該決議の要件に加えて、一定の数以上の株主の賛成を要する旨その他の要件を定款で定めることを妨げない。
以下各号省略

法の明文がない場合にも、実務上効果がはっきりしていない・よく分らないことに関する重要決定事項に付いて、多数の反対意見が噴出すると(賛成者多数の場合でも)直ちに「決」をとらないでもう少し慎重議論しましょうと議長・委員長が引き取ることが多いのですが、これは議長の裁量行為であり、一定の議論を尽くした結果であればその場で議決しても裁量権の濫用にはならないでしょう。

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