白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

レッテル貼りと教条主義3(識字欲求の有無)

日本では漢字が伝わると特定階層が文字を独り占めにせず、万葉の時代から万葉カナを工夫して防人に駆り出された庶民に至るまで(ダンテのような特殊知識層限定ではなく)自分の言葉で和歌を作り、それを詩集化されている社会でした。
万葉集には庶民の歌も収録されているように、古代から庶民も平等に文化活動に参加していましたし、この伝統が江戸時代の徘徊や浮世絵や落語、都々逸など、民衆を基盤とした数々の文化の花が開いた基礎でしょう。
万葉集に関するウイキペデイアです。

天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][4][5][注釈 1]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。

日本では古代から自国語表記に工夫を凝らし780年ころまでには万葉集という長大な和歌集が編纂される程度に日本語表記が(万葉仮名から今のひらがなになるまで日本語表記の改良が重ねられますが)一応到達していたことになります。
そしてこれが、江戸時代になって国学発達の重要な足がかりになります。
平安時代には・・ひらがなの開発・発明が知られていますが、一方で外国文字をそのまま日本語読みする方法に成功しているのが画期的でしょう。
いま英語をそのまま発音する勉強法ですが、平安人は漢字を日本語読みする訓読を発明したのです。
こういう工夫をし、成功した国は歴史上日本だけでしょう。
漢文をそのまま訓読するだけではなく、レ点や一二三四、上中下の順をつけた読み下し文が普及していた・漢文をそのまま日本語の文法に合わせて発音できるようにする工夫がほぼ完成していました。
西欧と比較すれば1300年台になってダンテがやっと自分らの言葉で神曲を書いたのが有名・自慢?という程度ですから、西欧の庶民文化がいかに遅れていたかが明らかでしょう。
その後西洋各国で自国文字が一般人に普及するには数世紀以上かかったでしょうから、大変な文化差です。
西洋では自国語による文字教育がなく、ラテン語で勉強していたので特定エリートの独占物でしたし、外国語を学ぶにはまずは定義を覚えるのが第一歩です。
英語を習うには文法も必要ですが、まずは単語の知識が第一歩なのと同じです。
自国文字がない時代の西洋では15〜600年頃までは文字を使えるには外国語を習える一握りの階層に限られていたでしょうから、単語を知っていることが自慢程度の社会に明治以降日本は近代化するためにまずは西洋にドット留学生を送り出しました。
まして、共産政権出現後の上からの学習?強制に転じると、独自の思考を巡らせる知的好奇心によるものではない・・盲目的暗記優先になるので、スローガン的な単語へ関心が行くようになったものと思われます。
留学生のお仕事は当然のようにものごとの概念定義の輸入紹介から始まったのでしょう。
舶来帰りのエリートの間では留学して学んできた西洋の単語をひけらかせば相手は黙ってしまう・・傾向が主流を占めていたからか?人権とか日民主的。平和を守れなどのレッテルで満足する始まりです。
法律学の世界では、この種の法律学研究方法を日本で「概念法学」という批判的呼び名が定着しています。
いきなり西洋思想に接したばかりでその何分の1程度しか咀嚼できないからこそ、半可通的に理解したばかりの難解な熟語を多用して(留学していない)素人をケムに巻く方式が必要であったのでしょう。
・・こういう文化背景については漱石の「我が輩は猫である」に洋行帰りらしい迷亭先生がレストランで「あちらではこうだ」とありもしないバカ話をしてレストラン経営者を困らせてきたと苦沙味先生相手に大笑いしている場面が出ています。
このような角度から読めば漱石の文明批判は鋭いものがあります。
法学分野で概念こだわる思考方法を概念法学という批判が早くからありました。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

概念法学(がいねんほうがく)とは、制定法(特にローマ法大全)を完全なものであると考え、その解釈や運用に際しては形式論理に終始する態度のことである。ローマ法学者のイェーリングが、自由法学の立場からサヴィニーらをはじめとする従前のドイツ法学理論を批判的に述べる際に使った呼称である。
転じて、現実を無視した形式論的な考察態度、いわゆる「机上の空論」を批判していう場合に用いられる。現実の裁判における基準として機能しない、または機能させることをそもそも考えていないような法的理論に対して向けられることが多い。

https://kotobank.jp/word/概念法学-(平凡社)

欧米諸国で近代法が展開をみた19世紀に,法的解決を形式論理による推論によって抽出しうるとする潮流がかなり共通してみられる。たとえばフランスでは,その時期に注釈学派といわれる立場が主流を占め,裁判官主観を排し法典の条文の適用のみから解決を引き出そうとするなかで概念的形式論理を重視していたし,アメリカでも,判例法から抽出された法原理・法概念に重点をおいた形式主義的な法理論が優位に立っていた(ケース・メソッドはこれを講ずる方法という一面をもつ)。

上記の通り、概念法学批判はドイツで19世紀末頃にはすでに批判されるようになったものですが、日本でも明治初期の導入期は概念から入るしかなかったのですが、一息つくとイエーリングの批判を国内でも引用するようになったようです。
概念法学とは法という抽象世界を研究する場合の方法論に対する批判でしたが、ソ連成立後の教条主義拡散運動の一昔前に学問世界で問題になっていたのが、概念法学批判だったことになりそうです。
一般人が権力によってマニュアル的思想教育受けるようになる前の時代・共産政権成立前の研究方法に対する学会内の批判でした。
20世には概念で論争する時代ではなくなっていたのに遅れて近代社会の仲間入りしたロシア〜中国、すでに概念法学避難を知っていた日本でも、レベルがまだそこまで行かない人たちが少し学習会に参加してすおrーガンっぽい字フレーズを叩き込まれると前衛・・進んだ人の仲間入りできて、労組集会に行って、反戦平和や大砲かバターか?的な決まり文句でオルグさせてもらえる・・自己満足させる道具にはなったでしょう。
こういう人は、場の空気を読めない人からイレギュラーな質問されると答えられずブチ切れる?傾向があります。
彼らはどうやって平和を守るかの議論ができないで終わりです。
隣国と仲良くすればいいと言うのですが、刑事事件を起こすような隣人がいた場合、警察を呼ばないのかの質問には答えられないままです。
そのそもこう言う人の論法によれば、警察や裁判制度が不要になるはずですが、自分は強いから自分で自分を守れるから、そんな制度はいらないと言うのでしょうか?
クリミヤ併合したロシアや、南シナ海を勝手に埋めてて軍事基地を作ったり、尖閣諸島に公然と侵入を繰り返す中国のような国々・結局は図々しく既成事実を作る人や強いもの勝ちの社会を理想とするかのようです。

レッテル貼りと教条主義2

このような教条的画一思考で満足している?国民性とはどういう民族でしょうか?
もともと日本は八百万の神々を信仰する・・多様な意見が流布している方が健全とする民族性です。
太古以来、一神教支配下にあった社会では画一思考(マニアル)を流布してくれる方が、自分で思考しないで済み、気楽でしょう。
西洋では自由平等博愛と言いだしたのはせいぜいフランス革命後のことです。
日本にくらべてなぜ思考の自由を求める気持ちが発達しなかった・遅れたのか?
10年ほど前に気候風土の単純性と思考の単純性の関係を書いたことがありますが、単純性が一神教を生み、その一神教のせいで思考の画一化をはみ出すと、異端審問によって処刑される悪循環に陥って暗黒の中世になったのではないでしょうか?
ローマ帝国崩壊後、宗教という精神世界支配を残すために、いわゆるガリア〜ゲルマニアの地を暗愚のままにして置くための工夫としてラテン語以外に自民族の民族文字の開発意欲を意図的に阻害してきたのかもしれません。
あるいは逆に文字を必要とするほどのレベルに達しないのでいつまでもその必要を感じなかったから工夫も普及もしなかったという方が本当かもしれません。
アジアで言えば朝鮮族あるいは周辺国では、漢字が伝わった時に、それを使いたい人だけが使う・自民族文字を使ってはいけないような、なんら強制もなかったのですが、日本以外には自分らの発音に合わせて文字を開発した民族がなかったようです。
朝鮮のハングルは世宗による開発が知られていますが、実際に使うようになったのは日本統治時代に教育制度を導入した日本側の意見で、朝鮮人の文字で教育した方が便利なので推進したからです。
この点についてはAugust 3, 2017,「日本統治・義務教育化によるハングルの普及」前後に連載しました。
アメリカが第一次世界大戦後、西欧文明・・植民地支配や奴隷制の批判を始めた上に工業開発力で凌駕の兆しを示していた日本を叩き潰した上でアジア諸国同様の被植民地にしてしまう計画を始動した結果、ついに対日開戦に成功し日本占領に成功しました。
その後も日本台頭阻止のため長年中韓を唆して日本の足を引っ張りあるいは中韓企業育成に精出してきました。
中国がローエンド〜セコンド製品組み立て加工を卒業あるいは離陸してアメリカの覇権に挑戦を始めると今度は日本に秋波を送り対中潰しに路線変更しました。
アメリカが先例にしているのが、ローマ帝国衰亡後キリスト教自体の浸透をバックに神聖ローマ帝国と称する一種の価値観支配体制を構築に成功し、新興の欧州大陸諸国に対する精神支配に成功した事例でしょう。
ちなみに高校時代に聞いたか大学で聞いたか忘れましたが、

「ローマは三たび世界を支配した。」
「一度はローマ帝国として2度目はローマ教皇をトップとする精神支配で、3度目はローマ法で!」

というものでした。
法治国家と言えば聞こえが良いですが、専制支配効率化の道具として法家の思想が中国戦国時代に始まり、秦の始皇帝によって全面採用されたこと・・マニュアル化の始まりであったことをこのコラムで何回か紹介している通りです。
日本の民法はローマ法→ナポレオン法典経由の法典と言われているように結果的にローマ帝国の法=命令が日本社会の基本を律していることになりますし、戦後アメリカ法がどっと入ってきたのはアメリカ議会で決めたことを結果的に日本人も守るしかない・・支配貫徹の進行を表していました。
中国やロシアがアメリカ最高裁によって確立してきた人権に関するルールを無視するのは、アメリカ支配に属したくないという意思表示です。 中国による知財剽窃し放題も、ロシアによるクリミア併合もそんなアメリカの決めたルールがどうした!という態度表明でしょうし、安倍総理の言う「価値観外交」とは、アメリカの価値観に従う陣営の構築という意味になるのでしょう。
秀吉による惣無事令を「なんぼのもんじゃ」と小田原北条氏が無視して真田攻めを実行したことによって秀吉の小田原攻めとなり、秀吉の天下が定まりました。
対して、ロシアが何の名分もなく強盗のようにクリミヤ併合してもほんの形だけの経済制裁程度ですから、アメリカの足元を見た中国も気楽に南シナ海で公然と軍事基地設置工事を実施して既成事実化をしました。
核兵器さえ持ってれば何をしても許されるという風潮が広がり、北朝鮮も強気のまま現在に至っています。 現在は宗教の力に頼るのではなく技術開発力に頼るしかない・・車社会化やIT化が進めばそれに適したルールが必要なように技術開発力で先行する国のルールが国際基準を制するようになるのでアメリカは挑戦者中国のハイテク開発潰しに必死です。
西洋中世の停滞に戻りますと、長年自国言語の文字表現が普及していなかったことによる面、この制約も大きかったのではないでしょうか?
レベルが低いから自国言語を文字化する需要がなかったとも言えますが、独自文字の普及がないとある事象に対する掘り下げた思考をする道具がないので外国の文字を使える階層と使えない階層との格差が開きますおよそ千年に及ぶ長期間文字に親しめた階層と、文字を学ぶ機会がない階層が同じ地域社会で劃然と別れてしかもそれが領主層と農奴的身分差になっていた場合、異人種のような関係になっていてもおかしくありません。
これが今でも欧米で牢固として根を張っているエリートとその他の別人種的格差意識(の原点になったのではないでしょうか?
ホワイトカラーはブルーカラーと食事すら一緒にしないなど、日本企業が欧米に企業進出すると「驚く第一歩」と言われます。
例えば、西洋では、1300年ころになって初めてダンテが神曲をトスカナ地方の方言で書いたのがルネッサンスの始まりかな?
日本ではすでに西暦700年代に編纂されている万葉集に比べておそるべき後進性です。
ウイキペデイアによる紹介です。

『神曲』地獄篇は、1304年から1308年頃に執筆されたと考えられている。1319年には、地獄篇と煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていたことが分かっている。天国篇は1316年頃から死の直前、1321年にかけて完成された。『神曲』は、当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由である。

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