実存主義2(と唯物史観)

実存主義といえば、このコラムで紹介したことがありますが私が司法試験受験の頃刑法と刑訴の基本書にさせていただいていた団藤重光氏の刑法理論(人格・行状責任論)がピタリ実存哲学的傾向とどこか似ていたのでなじみやすくこれを愛読して受験したので、今でもその基本書で身につけた精神・人の生き方で(三つ子の魂百まで?)物事を理解しています。
団藤重光に関するウイキペデイアの一部引用です。

“責任”
責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した
以上のように、団藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない刑法学の基礎を形成した。

個人的には、古来から「家貧しゅうして孝子あらわる」と言い、高杉晋作の辞世の句に望東尼が付けた「すみなすものは心なりけり」という心情でしたので、環境はどちらにも左右する筈・・主体的人格形成責任重視の団藤理論になびいて行ったのです。
ウイキペデイアの解説で思い出しましたが、大学で受けた刑法学の講義は戦前優勢だった新派理論(主観主義)の刑法学で、環境が全てとは言わないものの環境(生い立ち)重視理論でした。
統計的には、経済困窮(景気変動)と犯罪率に相関関係があるでしょうし、親が不良だと子供も不良になる?裕福な家庭の子は進学率が高く・貧困の連鎖があるのも事実でしょうが全て環境のセイにして個別事件を処罰しなくて良いわけではないし、個別事件では別に考えるべきことです。
環境重視の政治主張は今でもメデイア界では主流かな?
東大生に裕福家庭が多いとかのキャンペインが数年おきに行われ、格差社会の拡大や貧困連鎖に対する警鐘がしょっちゅう行われますし、この数年では、日本の是枝監督「万引き家族」や韓国「パラサイト半地下家族」を描く映画が相次いで国際賞を受賞しています。
「下部構造が上部構造を規定する」というスローガンを信じる人たちにとっては、スローガン化し、単純で訴求し易い・・政治主張し易いからでしょう。
こういう決まり切ったスローガン運動に対する批判が一般化してくると「下部構造が上部構造を規定する」という図式理解で批判するのは勉強不足だという再批判が行われているようです。
以下はhttps://ch.nicovideo.jp/great/blomaga/ar908008の部分引用です
かぼちゃ丸のブロマガ

マルクスとエンゲルスによる唯物史観批判、「下部構造が上部構造を規定する」という誤解


これをみれば、

こんなこと言ってる人がダメダメだということがよくわかるはずです。

まとめ
以上、唯物史観のよくある誤解について、簡単に説明をしてきました。現在、批判されがちなマルクス史観というものが多くの誤解に基づいていることが分かったんじゃないでしょうか。

また今回はあまり詳しく調べませんでしたが、マルクス史観の誤解の裏にはやはりソヴィエトの影響力が強いと思います。レーニン、スターリンをはじめとした歴代ソヴィエト主導者は、コミンテルンを通じて、誤ったマルクス史観を世の中に広めてしまった。

しかし、以上のことから「真のマルクス唯物史観は現代でも生きている」と言うのはやはり無理があると思います。実際、マルクス史観でもっとも肝心要の共産革命は西ヨーロッパでは起きてないわけですしね

というのですが、一般人の政治主張当否の場では仮に下部構造→上部構造の図式主張している左翼系運動家が、レーニンの主張をマルクスの主張と誤解している場合でも、誰の主張によるかを究明することにどれだけ意味があるでしょう。
この論者の意見では、マルクスは、経済批判で唯物史観発表以降徐々に修正しているのでそれはマルクスの意見ではないというようですが、そうであれば唯物史観は間違っていると反論する方の人が正しいのであって、唯物史観に対する批判者がマルクス理論を誤解していると逆批判される筋合いではないでしょう。
論点は、上部構造が下部構造に規定されている式の唯物史観主張が正しいかどうかであって、一般人には下部構造に規定されていると図式論がマルクスの意見か、レーニンの意見かなど関心がないでしょう。

自然人と法人2(実存主義)

現行民法制定の起草委員であった富井政章氏の現行民法典編纂過程に関する民法言論がネットに出ています。
ウイキペデイアによれば富井政章氏は以下の経歴です。

民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[1]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。

著書発行は1922年ですが、自分が明治29年成立の民法典起草委員であったときの歴史証言になる論文です。
以下私権の享有主体に関する部分の引用です。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%8E%9F%E8%AB%96

民法原論 第一巻総論
作者:富井政章
1922年
第3編 私権の主体[編集]
第1章 汎論
権利の主体たることを得る者は法律上人格を有する者即ち自然人及び法人の二とす。
何れも法律に依りで人格を有する者なるが故に法律上人と称すべき者なることは一なりといえども民法は便宜上世俗普通の慣例に従い人なる語を狭義に用ヰたり。即ち民法に所謂人とは法人に対し専ら自然人のみを指すものと解すべし。
権利の主体たることを得るを称して権利能力と謂う。
民法に所謂私権の享有とは即ちこれなり。権利能力は法人に対してその範囲に制限ある外何人といえどもこれを有するを原則とし身分,宗旨,姓,年齢等に依りで差別あることなし。即ち私法上においては各権利の主体たることを得るものとす。
而して権利の目的物たることを得す。
この公の秩序に関する原則にして何人といえどもその人格を放棄することを許さざるなり。彼の奴隷及び准死の制度の如きは既に歴史上の事迹に属し近世の立法例は特にこの原則を明示することを必要とせざるに至り。
但し私権を享有する程度には差別あり。或一定の身分を有すること又は受刑の結果等に因り特種の権利能力を失う場合なきに非ず然りといえどもこれ何れも特例にして人格を具有せざる一階級の者あることを認める趣旨に非さるなり。
権利能力に対するものを行為能力と謂う。
行為能力とは法律上の効果即ち権利の得喪を生ずべき行為を為す適格を謂う。行為能力に法律行為能力と不法行為能力の二種類あり。何れも意思の発動に外ならざるが故に権利能力と異なりで意思能力を具えさる者はこれを有せず。例えば嬰児又は喪失者の如し民法において無能力者とは法律行為能力を制限せられたる者を謂うなり。

人は権利の主体であり客体たるを得ず・・すなわち人身売買・・奴隷制禁止の思想です。
民法制定の沿革部分(引用しませんが)によれば、旧民法と新民法の違いは細かい解釈の変更ではなく総論を置き、重複を避けるなど体型整備が基本でドイツのパングステンシステムを採用した程度の変更であったことが分かります。
ボワソナード民法(旧民法)はもともとナポレオン法典・・近代市民法の原理を骨格にするもので、新民法(現行法も)近代法の精神等の内容面で大きな変更がなかったようです。
以上によると「私権の享有は出生に始まる」との大宣言(人種性別等によらず全面的平等理念)は、明治初年頃には日本社会の支配的意見だったことがわかります。
世襲というか設計図(今風に言えばDNA配列)が生まれる前から書かれている人生も辛いものでしょうが、実存哲学のように自分で切り開く自由も辛いものです。
「能力次第だから自由にしろ」と言われ、自由恋愛と言われても自分で相手や職場を探せる能力ある人は限られる・・環境のせいにする逃げ場がないのは、凡人にはつらいもので、精神疾患が増えます。
サルトルはこれを「自由の終身刑」とも主張しているようです。
楽直入氏の日経連載「私の履歴書」が今日で終わりましたが、楽焼きの伝統を承継する楽家の長男として生まれた(伝統承継の義務?)苦しみを経て成長していく過程に心打たれますが、それでも家業(生まれる前から書かれている設計図通り)生きるかは慣習・利権継承の問題であって法が強制するものではない・家の伝統を守らず別の道に進むかを決める決定権は本人にあります。
徳川期に大老の家柄に生まれた酒井抱一が栄光の武門を世襲する恩恵を受けるより、一介の絵師になったように、世襲制といってもリアルにみれば、世襲の恩恵より大きなチャンス(個人能力)があればその権利を拒否し枠外に踏み出すことが可能な社会でした。
世襲制といっても世襲する義務があるのではなく、相続権?を行使するかどうか自由のある社会でした。
たまたま安定成長時代に入ったので、よほどの才能がある人以外には将来が保証された相続を選ぶ人が多かった時代だったという程度のことでしょう。
大老というビッグネームを捨てた(跡取りではなかったので、ハードルが低かった)彼以外にも、西行に始まり、芭蕉、平賀源内その他武士・世襲の家禄)を捨てて、文化人になって行った人(山東京伝や滝沢馬琴など)が一杯います。
楽直入氏の生き方を読むとまさに実存者の行き方です。
苦しかったといえば、高名な彫刻家を父に持つ高村光太郎も「僕の前に道はない・・」と同じような苦しみを抱き続けたのでしょう。
高村光太郎氏も父の権威に反発しながらも、詩だけでなく結局?彫刻もやっています。
戦後思想界を風靡したサルトルの実存主義は、行動主義でもあったので・・共産革命や市民・学生運動に結びつく傾向があってソ連崩壊後輝きを失って行きますが、私にとっては青春の一コマ・・セピア色の残映です。

罪刑法定主義2(生麦事件)

日本人が当然知っているべきモラルを知らない外国人が来るようになった場合、日本人ならば当然知っているべきモラルの同一性がありません。
例えば、薩摩藩が幕末に起こした生麦事件が有名ですが、大名行列に乗馬で乗り入れるなど日本人から見れば「不敬」そのものでしょうが、外国人から見ればいきなり斬り殺されて大騒ぎになったものです。
乗り入れた英国人一行の方は、前方から東海道筋を道路いっぱいに進んで来る久光の行列を見て困惑したらしいですが、(通訳が随行していなかったのが事件発生の大きな原因だったでしょう)どうして良いか分からずにいると、先払いの者から身振りで道路脇によれと言われたように思って・・現在よくある光景・・山道や狭い道路で対向車に出くわすとお互い左右に避けながらゆっくり進むような感覚で脇によって進めば行列も右脇に寄ってくれるのかと思って騎馬のまま進んで行ったようです。
道が狭く久光の行列が道一杯に進んでくるので、結果的に英国人の騎馬グループと行列が衝突する形になり、先行の足軽などが馬を避ける結果、次第に行列の中程まで(すなわち久光の籠近くまで)行列をかき分けて乗り入れてしまう結果、護衛の武士団は黙って見過ごせない・・血相変えた戦闘モード満々の武士団の殺到に直面した英国人一行が馬主を巡らして引き返そうとしたが時すでに遅し!大事件に発展した瞬間だったらしいです。
日本の場合、古代から牛車や行列が行き合えば、身分格式の低い方が道を譲り脇に控えるのが礼儀でしたし、これは江戸城内の廊下で大名同士が出会っても同じルールです。
西欧でも例えば、西洋由来の軍隊組織では初見の人同士では相手の階級の見分けが付かないので肩章襟章等外見で階級が分かるようにしていて、階級の低い方が最敬礼して脇に下がって見送る仕組みです。
英国でも似たようなルールがあった・・・格上格下の礼儀ルールは洋の東西を問わず同じとしても、よそから来た英国人が島津の行列かどうか(旗印や家紋程度で分かるはずもないし)の判断もつかない上にそれが分かったからと言って、島津が何ほどの家柄か、自分と比較して自分がよけるべきかどうかの判断までは付かなかったでしょう。
ましてこの時、島津久光が700人もの軍勢を率いて江戸に出て来て、公武合体論に基づく一橋慶喜の将軍後見職任命や春嶽の政事総裁職任命等を迫って実現させて意気軒昂な帰路(は400人)でした。
こういう事情も全く知らなかったでしょう。
ただ、今でも、個人が何らかの集団とぶつかりそうになれば、言葉が通じなければ集団の通過を待つのが普通で、まして危なそうな軍の列であればなおさらではないでしょうか?
この辺に英国人側に常識論で見ても、一定の落ち度があったように見るのは、日本人としての贔屓目かも知れません。
この事件処理で幕府が英国の要求する巨額の賠償金を払ったものの、薩摩側はこれに応じなかったので薩英戦争につながるのですが、このように、大名行列と出会ったときの礼儀ルールをきちんと法令化していれば相手国からの文句に対する立場が大きく違っていた・・こんな危険な国だから、不平等条約が必要という論拠にされて明治以降の不平等条約解消が難航した下地でした。
人権擁護のためではなく国内的には権力意思貫徹には周知が前提・・対外的には国家主権確保のためにも、生類哀れみの例のような明文法が必要になります。
産業構造や社会生活が複雑化してくると、技術的規制は日常常識では判断しかねるので明文化して起き、プロでもその都度確認する必要が起きてきます。
建物建築でも「家はこういうものだ」「柱と柱の間隔は一間にきまってる」という経験による工事では間違うので、今ではいちいち図面を確認しながら作業していく必要があるのと同じです。
社会の仕組み=商品の種類が単純な時代には、いわゆる名僧知識の禅問答的御託宣で間に合ったしょうが、商品経済が複雑化してくると、具体的ルールや細則がないと現場でどうして良いか・個々人の裁量で行うと精密な機械が故障する時代になってきました。
精密部品・・普通の電化製品でも寸法は何センチ何ミリまでピタリ合っていないと不具合が起きる時代ですが、法制度もこれに比例して細かく細かくなる一方です。
世の中になぜ専門家が増えてくるかといえば、法律家でも金融商品取引ルール証券取引ルール、道路交通法、原子力安全規則などなど分野ごとに膨大精密すぎて、税務関係は税理士などそれぞれの専門家が必要な時代=それだけ法令(だけで足りずその先の規則、細則〜ガイドライン(別紙技術基準)等々分野ごとに細かくなっているからです。
これに加えて人の移動広域化・・異民族間移動の場合、元々の基準である道義意識も違ってくるので技術的規制だけでなくいわゆる自然犯でさえも明文化していないと外国人には、思いがけないことで処罰を受けるリスクが増えます。
現在では金融・証券取引や道路交通法あるいは各種環境規制や食品衛生や建築などの安全基準 のように専門化してくると、明文法に処罰すると書いていない限り処罰できないようにしてくれ・という逆転現象が起きてきます。
早くルールを明文してくれないと商品開発しても普及(ドローン利用のサービスや車自動運転、電子通貨関係など)できないという逆転現象が起きています。
罪刑法定主義が人権擁護という政治論より、産業発展によりいろんな分野でのルール化が求められるようになったことが、ルール化が進んだ基礎事情でしょう。
西洋では、絶対君主制・・恣意的処罰が横行したので絶対君主から領民の人権を守るために生まれたと習いますが、我が国の場合、支配者が慣習法や道徳律に反するルールを新たに決めた場合、特別な法令が必要な社会が到来していた・逆方向からの発達であったし、これが今の潮流と理解すべきではないでしょうか?
中国は独裁・専制・法治国家でなく人治国家と揶揄されていますが、商品経済が進み、産業構造が高度化すると政治家の思いつきで製造基準を変えられない・・精密ルール化は避けられないはずですので技術基準の法令化・ルール化が進む点は、同じではないでしょうか?
問題は(共産党幹部であろうとなかろうと、)誰もが等しく「ルールを守らねばならない」という法の下の平等ルールを守れるか次第ではないでしょうか?
そのためには司法権独立が必須ですが、中国政府は香港の覆面禁止条例無効判断をした高裁判決を否定する主張をしているようで、政府が司法権を軽視しているようでは、法を守る気がないと自己主張しているようなものでこれこそを重視すべきです。
諸葛孔明の故事に「泣いて馬謖を斬る」という故事がありますが、上に立つものは自分の決めたルールを守らないのでは、配下がルール・命令を聞かなくなるからです。

旧刑法2(罪刑法定主義1)

ちょっと話題がずれますが、皇族に対する罪というか、やってはいけないことは、日本民族にとっては法以前の自明の存在であるべきでした。
内乱・いわゆる謀反や親殺しが許されないことも同じでしょう。
内乱罪等を明記するようになった前提として考えられることは、まず西洋で発達した罪刑法定主義の思想・明文なければ処罰できない・・明文化するかしないかの論争があったはずです。
ボワソナード主導の立法作業でしたので、当然西欧の到達していた法思想を前提に行った筈ですが、法以前の存在であると思われていた皇族に対するルールを明文化=これを国会(国民の意思)で決めたときに限り初めて犯罪になることには抵抗があってもおかしくありません。
天皇の超法規的神格否定につながるものでそれ自体が明治政府にとっては大事件で大きな論争があってもおかしくなかったと思われますが、民法典のような大した政治論争ももなく?すんなり法制定されるまで行ったように見えます。
当時の国民意識では、討幕のための旗印として王政復古を掲げたものの、実際には古代からの象徴天皇程度の意識・・敗戦直前のような極端な神格化意識がなかったからではないでしょうか?
王政復古を看板にする明治維新体制は時代錯誤性が大きかったのですが、新政府は看板の建前上古代律令制に基づく二官八省制を一時採用しましたが、維新直後三治政治〜廃藩置県に始まる地方と中央関係組み替えによる地方組織整備などどんどん変えていく(司法官などの人材育成→西欧留学性派遣による世界の法常識の吸収も焦眉の急でした)中で、中央政体も二官八省制をどんどん形骸化していきます。
こうした明治初年の新政府体制再構築過程を紹介してきましたが、(旧刑法編纂や刑事法制や司法制度整備もその一環として紹介していたものです)これらを法制度として整える必要から司法卿ができ、並行して神祇官などの二官八省体制を改組して現行の各省体制の基礎を作っていくなど、実務面では着実に近代化が進んでいたので明治維新が成功したと思われます。
古代から連綿と続く天皇制の根本に関しても近代化の動きの総決算が明治憲法制定ですから、その下準備的各種法整備の一環である刑法制定作業においても政権の目指す本音の方向に動いて行くしかなかったのでしょう。
政権の要路にある人々は、政府・権力というものは民族全体の無言の賛同によって成り立っていることを知っていたし朝廷に対する尊崇の念も法で強制するものではないと心の底で知っていたでしょう。
ちなみに戦後皇族に対する罪全部がなくなったのは、天皇制存在の理由は国民の支持(といっても賛否を問う形式論ではなく、暗黙のこうあるべしという民族の価値観)によるのであるから、特別な法類型を決めなくとも良いのでないか!という意見であったように記憶していますが、あるいは尊属殺事件の憲法解釈であったかも知れません。
明治維新前の刑罰制度を大雑把に言えば、常識に属することは、明文で決めなくとも処罰できる・・「人を殺したり物を盗むな!」という御法度がなくとも、そんな道徳があると知らなかったと言わせない基本社会であったと言えるでしょう。
こういう社会の場合、法網を潜る(工夫)余地がありません。
中国の場合「天網恢々疎にして漏らさず」という古代からの名フレーズがあり、現在では、「上に政策あれば下に対策あり」「上有政策、下有対策」と言われるように法対策が盛んです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit

中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。
以下略

上記には4個の主張があるのですが、私に言わせれば中国人は私益あって公益意識がないというに尽きると思っています。
我が国では、公益=地域共同体→日本民族の共同利益を守るための道徳が先にあるのですから、明文法規はその例外的位置付け・・書いていないことにこそ真善美があると考える国民性です。
物事の理解には余白を重んじる・・音楽で言えば絶え間ない音の連続も綺麗ですが、お琴では「手事」と言いますが、あくまで手先の技のことです)むしろ音のない「間」を重んじ、沈黙は金といい、眼光紙背に徹するというようにすべて基礎的原理が同じです。
知識をいくら並べても限界があるデータのない先や余白から物ごとの本質を見抜く力にこそ価値があるのです。
詩で言えば余韻を重んじる点では、俳句こそがその最高形態でしょうか?
我が国では、法網をくぐる工夫をすること自体「恥ずべきこと」という意識ですから、タックスヘイブンとか法にさえ触れなければ何をしても良いという発想には驚きます。
中世以降の「非理法権天の法理」を紹介してきましたが、次第に権力が強くなってきて、道義や慣習任せにしないで権力者の定めるルールが最優先するようになると「犬を追い払ってはいけない」などの新ルールは社会常識的道徳律では気がつかないことになります。
為政者が、新たに今度これも禁止するから・・と決めた場合(禁中諸法度→紫衣事件は事前に「お達し」していたのに、従来慣習法?でやったのに何が悪い?と開き直った事件でした)知らない人が多くなるので、周知のために御法度を定めて江戸時代以降の各種御法度や生類哀れみの令・・注意を促すという仕組だったことになります。
価値観同一社会では、天皇家や徳川家に対して日本の道徳から見て許されない行為が何かの規定がなくとも、慣習を変えるとか、常識に反する新たな制定ルールだけお達し・公布すればよかったのでしょう。

カイロ宣言と米国朝鮮政策1(日本道義否定)

朝鮮半島の北半分がソ連圏に入ったので北の朝鮮人は、古代価値観を基本にして生きているソ連・ロシア民族支配をすんなり受け入れて安心したでしょうが、日々食うのに忙しい・・人口の90%以上を占める庶民にとって政治意見を言えないことや表現の自由の制限など日常何の不自由も感じないことを24〜25日に書いてきました。
表現の自由にこだわる芸術家でも普通の芸術活動である限り・同時代の緊迫した時代精神気分を表しているなどの評価を後世に受けるとしても、その程度のことで表現が規制されるとは考えにくく、99、99%の芸術家は政治などに関係なく、創作活動を自由にできてきたと思われます。
明治以降の漱石、島崎藤村の詩集などの文壇、日本画に表現の自由による制約を見る人は少ないでしょう。
江戸時代に世界に冠たる文化発達繚乱したのは、西洋近代の権力分立・人権思想の有無と関係なかったのです。
そもそも芸術家自体人口の1%もいないでしょう。
アメリカ占領下に入った南半分(現韓国)は、微温的な日本統治という緩衝装置がなくなり欧米価値観ストレートな政治文化の浸透に見舞われたことになります。
米国の中南米、南ベトナムその他各地支配・指導は、現地民族ごとの微妙な気持ちの汲み取り能力に欠けた・いわゆる投票箱民主主義・あんちょこな民主主義の押し付けが国情に合わない結果、多くの国で失敗の連続でした。
米国の対日戦争の大義として朝鮮民族の日本隷属からの解放を宣伝してきた米国としては、朝鮮占領政策では日本が進めていた以上の急速な近代化を目ざす必要に迫られていたことは、推測に難くありません。
朝鮮族の対日不満の源泉は旧特権階層の権益剥奪と教育の機会均等・四民平等・を徹底すれば国民大多数のストレス社会化が進みます。
自由競争社会化すればするほど、底辺層の方が富士の裾野のように最大多数になるのが原理です。
日本の場合文明開化によって新たな職域が量産され、失業した武士の多くを吸収しましたし、産業構造変化までひと世代程度の期間余裕があったので、紡績〜繊維から家電組み立てなどの構造変化も1世代以上の時間軸があり次世代がうまく適応できてきました。
新興国の場合工場設備丸ごと導入パターンですから、最新技術導入があんちょこな分に比例して産業構造・主役が変わって行く構造変化が5〜6年サイクルでくるので、日本に追いつくスピードは自慢でしょうが、それに比例してどんどん振り落とされ置いていかれる人が増えてストレス過多社会になって行きます。
ルーズベルト政権は対日開戦の大義名分として日本の朝鮮人民に対する過酷な植民地支配〜中国での南京虐殺などを国内外で大宣伝してきました。
対日開戦を奴隷状態にある悲惨な朝鮮人民解放戦と位置付けてきたのです。
フセインが大量破壊兵器を隠していると称してイラク侵攻を正当化したのと同じ手口です。
競争社会に対する不満を吸収する方向で米軍支配による「日本支配がひどかった」という反日宣伝が不満に火をつける形で、ガス抜きしていく効果を発揮していたと思われます。
アメリカの対日プロパガンダの公式記録がカイロ宣言に出ています。
1943年に出された連合国のカイロ宣言の一部・対朝鮮関連部分のみ紹介します。
カイロ宣言に関するウイキペデイアの記事からです。

対日方針を協議するため1943年(昭和18年)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
以下はカイロ宣言の日本語訳[1]。
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

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