大臣・官と公僕思想の両立?

ここで本来のテーマ・公僕と臣・官の関係に戻ります。
現憲法では国家公務員は国民全体の公僕であって天皇の臣や官ではなくなったように思ってきたのですが、憲法に大臣や官名を残した以上、「大臣や官名のある公務員に限っては、戦後も天皇の臣であり官僚は臣下である大臣の任命する官である」と言うDNAを残した印象になります。
国民主権や法の下の平等原理と天皇の存在は一見矛盾するものの、憲法が天皇制度を残した以上は、その限度で憲法違反にならないというのと同じ解釈をすべきでしょうか?
ちなみに大臣とは大和朝廷始まって以来いつの頃からか不明なほど古くから、「おおまえつぎみ」だったかの万葉カナで表記される地位でこれに「大臣」という漢字を当てるようになっていたようで由来がはっきりしないほど古くからの地位です。
神話段階ですが、武内宿禰が初代の大臣でその後ウイキペデイアヤマト王権の大臣によると以下の通りです。

武内宿禰の後裔を称する葛城氏(かつらぎし)、平群氏(へぐりし)、巨勢氏(こせし)、蘇我氏(そがし)などの有力氏族出身者が大臣となった。

と言われます。
(神話)以来、天皇の代変わりごとに天皇によって親任される臣下トップの地位であり続け、代々(よよ)を経て蘇我馬子など蘇我氏の特別な地位に連動して行ったようです。
600年頃に冠位12階を定めた時も蘇我氏は冠位12階の埒外・・誰を冠位(のちの官位?)12階の冠位に就けるかの人事権は大臣である蘇我氏と皇族トップの聖徳太子の連名で行なっていたと言われ、皇族と大臣蘇我氏とは、冠位12階に優越する地位だったと言われています。
大臣は天皇の臣に官位を授ける実質的権限者だったようです。
冠位12階に関するウイキペデイアの解説によれば、以下の通りです。

冠位を与える形式的な授与者は天皇である[11]。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。
学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[12]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、両者の共同とする学者が多い[13]。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。
馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]。

ということで、蘇我氏・聖徳太子(実存したとすれば)の時代には、大臣は官吏の任免や格付け等の権限を持つものだったようです。
蘇我氏が専横だったから乙巳の変が起きたかのように習いますが、いつの時代でも・・その後もいわゆる除目は天皇が一人考えて実施したのではなく、太政大臣等の時の実力者の専権事項だったでしょう。
それが今につながりますが、明治憲法以降は平安時代と違い大臣が増えて内閣の仕事が増えたので太政大臣が全て決めるのではなく、国家公務員の採用・任免権者は原則(人事院、会計検査院等の例外がありますが)として各省大臣となり所管事務職限定の任命権となっています。
いずれにせよ人事権は大臣にある点は、蘇我氏や藤原氏が大臣として事実上百官(といっても当時の規模は知れていましたので)の官位を定めていたのと同じです。

国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)
(任命権者)
第五十五条 任命権は、法律に別段の定めのある場合を除いては、内閣、各大臣(内閣総理大臣及び各省大臣をいう。以下同じ。)、会計検査院長及び人事院総裁並びに宮内庁長官及び各外局の長に属するものとする。これらの機関の長の有する任命権は、その部内の機関に属する官職に限られ、内閣の有する任命権は、その直属する機関(内閣府を除く。)に属する官職に限られる。ただし、外局の長(国家行政組織法第七条第五項に規定する実施庁以外の庁にあつては、外局の幹部職)に対する任命権は、各大臣に属する。

上記の通り、大臣は冠位12階以前の大昔から現在に至るまで官吏の任命権者です。
法制度は政治権力闘争と妥協の結果であることは、国会運営を見ればわかる通りですし、現憲法制定過程も、大戦後の余韻下でのGHQと日本側との政治力学で決まったものですから、あちこちに妥協の産物・矛盾が残っていてもおかしくないでしょう。
国民主権は認めるが、民意によって選ばれる政治家トップは天皇の「大臣」であり、その大臣が官吏任免権を持つという形式的な組織関係だけは残したいという政治交渉が成立したのでしょう。
国民主権国家になっても、それと国民意識は違う・・天皇直属の官僚は天皇の臣であるという意識/誇りを残す狙いがあったのでしょうか。
日本国憲法では、総理は国会での使命に基づくものの、総理と最高裁長官だけは天皇の直接任命制としているのは、明治維新直後の二官八省制度・・神祇官と太政官の二官だけ天皇の直接任命・親任制度と外観が似ています。
太政官は今の総理大臣に該当し、神祇官は、神の裁き=最高裁長官に擬することがこじつけて的・・法律論でなく妄想的推論が可能です。
裁判所はイギリスではキングズベンチと言い、裁判結果は王権・世俗権威の発現ですからその権力を認めない人にとっては弾圧でしかないのですが、日本では「神のみぞ知る」という謙虚な気持ちが今もあり、裁判で決まれば双方不満でも裁判で決まった以上は仕方ないと受け入れる精神土壌です。
福田赳夫元総理が自民党総裁選に敗れた時に「神の声にも変な声がある」という迷言を吐きながらも「神の声」に従ったことがあります。

豪族連合体日本の官と臣2

鎌倉〜足利政権同様に徳川幕藩体制も多数の旧豊臣家家臣団やその他大名の協力があってこそ出来上がったもので連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制確立により連合政権の本質が隠され、表向き主君と臣下の関係化していましたが、(ほとんどんどの大名・・島津でさえ公式には、徳川の旧制松平姓にされていました)幕末黒船来航や北辺の海防に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に連合政権の本質が噴出しました。
外様大名を中心に独自の異国対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定参加権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、対応策に関する議論が無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行ったのは、大元に連合政権の本質があったからです。
有力諸侯の協議が行われるようになっても江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、政争の舞台が京都に移ったこと自体が象徴しているように、京都での政争では徳川家が一方的な主催者の地位を降りていたことを象徴しています
京都での協議結果が帰趨を決するようになると、幕府は老中に一任できず幕府のエース一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なものでしかなく、上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。
一橋慶喜は優秀の誉れ高かったのですが、何となく秀吉政権の三成のように実務官僚的能力は高かったでしょうが、育ちが良すぎて?政治能力が低かったイメージです。
乱世に活躍し政権樹立に功績のあった豪族や大名家と政権樹立後実務処理に必要な人材は違うのはどこの国でも時代でも同じです。
官制というのは安定期に政権運営に維持に必要な実務官僚に必要な格式・・企業でいえば職制のことでしょう。
事務官僚の職域が多くなるにつれて、任命官僚も増えてくるので天皇がいちいち親任出来なくなった・その分を認証官にしたのではないでしょうか?
明治になって法治国家の体制を整えるためには、各地に裁判官、検察官などの配置が必要ですので官名を持つものがいきなり増えました。
イギリス法では裁判所をキングズベンチクイーンベンチと習いますが・・生殺与奪の権=裁判権こそが、最高権力者が保持すべきという原理の表明です。
戦前の裁判も天皇の名において処罰する仕組みでした。

大日本帝国憲法
第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

地方の裁判官であろうと上司の代理で判決を宣告するのではなく、天皇の名において国家意思の表示するとなれば官を名乗らせるしかなかったからでしょう。
ちなみにここで言う裁判所とは、法学用語では官署としての裁判所ではなく、受訴裁判所・・裁判を担当する(裁判所を構成するのは事案によって3名のこともあれば1名のこともありますが)裁判官のことです。
法廷で日常「裁判所はこう考えますが・・・」とか「裁判所としては〇〇についてをもう少し主張をお願いしたい・・〇〇を提出していただきいのですが・・」と言う発言は「〇〇地方裁判所」という建物のある官署をいうのではなく、その担当裁判官(合議事件の場合合議体)の意見という意味です。
例えばある地方裁判所に民事部が5部あって、その中に裁判体が10数個ある場合、その一つ一つが裁判所であり、一つの判決や証人採用決定や却下、次回期日決定ごとに、地裁全部の裁判官が集まって合議して決めるのは無理があることがわかるでしょう。
裁判官一人の担当する裁判では、その一人の裁判官が決めればそれが〇〇地裁の判決であり決定であり命令としての効力が生じます。
豪族代表でなくとも朝廷内で何かの職務を持つ中で一定の職域以上に補職できる枠を官位で決めるようになって、(中国では官位と補職関係は厳格だったようですが、我が国はアバウトだったようです・・例えば三位以上でないと殿上人になれないなど)こういう合理化の結果官位制度が生まれたと思われますが、官位をいただけるのは当初天皇の直接任命職だけだった可能性がありますが、次第に人数が増えてきたので直接任命は一定の官位までとなり、例えば三位までになり4位以下は認証するだけの官となって行ったのかも知れません。
千葉市の場合、法律上議会承認を要する委員の場合、担当局長や秘書室長などの立会いで、市長から直接辞令書が交付される1種の儀式が行われますが、議会経由しない委員任命の場合、辞令書が第1回委員会の机上に置かれているだけで市長からの直接任命式はありません。
官名授与対象がインフレ現象で?増えすぎたので認証官という制度が生まれ、明治以降地裁裁判官等がどんどん増えていくと膨大になるので認証式すら必要のない官が生じるようになったのかもしれません。

豪族連合体日本の官と臣1

ついでに「事務員」という場合の意味を考えてみますと、経団連や〇〇協会の会員企業の代表者の会議体構成員と、業界団体で雇用されている事務局員とは出身母体が違い文字通り格が違います。
事務局が肥大化し官僚機構化・専門化してきて事務局見解が事実上幅を利かすことがあっても、あくまで「過去の議事録ではこういう議論が行われています」と紹介するだけであって会員の会議自体に口を挟む余地がありません。
裁判所や検察庁も事務官と裁判官や検察官とは確然たる区別があり事務局トップの事務局長になっても、平の裁判官・検察官よりも格式が低く、一般的に敬語で接するのが原則です。
ただし最高裁では事務総長だけでなく中間管理職まで裁判官を補職する事になっているので、事務部門事実上優位の逆転現象をなくすようにしています。
日弁連では事務総長・事務次長までは弁護士からの政治?任用です。
朝廷は豪族連合ですから合議体構成員になれるのは会員である豪族代表者・貴族のみであり、事務部門はその補助業務でしかありません。
国民主権国家に変身した戦後憲法においては、国民の選挙による洗礼を受けた政治家のみが政治決定できる各省大臣となり、あるいは政治的決断で決めていくのが不都合な分野では逆に民意の洗礼を受けないままで、すなわち政治的独立性を保持できるような工夫をした特別な資格による裁判官と検察官等の中間的な専門職を官といい、それ以外は事務局員でしかないという区分けをしたようです。
雇用面で言えば各省大臣任命により大臣の指揮監督を受けるものは官ではないが、次官のみは内閣の関与を受けるようにして「官」名に合わせたようです。
ちなみに最高裁判事は内閣が任命しますが、政治的思惑で任命すると中立性に問題が生じるので、実質は最高裁内で決めた推薦によって形式上内閣の任命する運用になっています。
その代わり国民審査を受けることにして間接的に民意を担保しています。

憲法

第七十九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
第八十条 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。

因みに官(天皇の直接の部下)を任命するのは天皇の権能そのものでしょうが、親任官と認証制度の始まりを以下の通り(あくまで根拠ない想像ですが、)想像して見ました。
大和朝廷の始まりは中国や中東〜欧州のように専制的権力を持つ仕組みではなく周辺豪族・漢書にいういわゆる「百余国」間でヘゲモニーで勝ち残った程度の覇者でしかなかったと思われます。
大和朝廷草創期とその前については神話レベルしか記録がないので、紀元前約1世紀頃の文字記録では上記の通り日本列島には「百余国」があったとしか分かりませんが、朝廷秩序の亜流である武家政権秩序が大崩壊した戦国時代をその再現として想定してみます。
ただし以下の記述は学問的意見に基づくのではなく、素人の私の直感想像によるものです。
戦国大名草創期から、織豊政権を経て徳川政権樹立〜幕末期までを見ても日本ではいつも豪族の連合体的性質を維持してきました。
例えば上杉謙信や織田信長の例で見ると、まずそれぞれの一族内闘争を勝ち抜き、(現在での地方制度で言えば1〜2郡程度の地域支配権確立後)尾張や越後国内での諸豪族の支持集めに勝ってヘゲモニー争いを勝ち抜いていき(スポーツで言えば県大会)国内統一に成功すると今度は周辺隣国への侵略開始していき、戦国時代後期には数カ国レベルの支配者・地域大国が全国規模で発生して最後の全国大会・制覇になります。
このように初期戦国大名は、地元豪族・国人層の支持取り付けによってなりたっているので(今の代議士が地元後援会支持でなりたっているのと同様)いつも気を使う存在です。
戦国大名=戦闘集団である以上戦闘状態では指揮命令が必須ですが、日常業務的には連合体・業界団体のような関係です。
この様にしてあちこちで地域大国が出現し最後に信長の天下が、始まるかに見えた時にも、家康の支持その他国内諸大名とのやりとりがあって権力を維持できていたし、光秀は天下諸大名の支持取り付けに失敗したので三日天下に終わったものです。
後継の秀吉政権も最大のカウンター勢力家康との小牧長久手の戦いで、決定的勝利を収めることができず、朝日姫を人質として送ることでようやく出仕して貰えるようになったものです。
このように日本では権力者はいつも配下に入った武将への気配りを欠かせない状態で幕末まで来ました。
有力武将上がりの連合体で政権ができるので運営参加権者は同業者組合の役員会や総会は事業主の集まりのように豪族代表でしょうが、事務を担当するのは事務局です。
朝廷あるいは織豊政権・徳川将軍家でも実務処理作業が増えてくるので、内部事務官僚が必要になり事務官僚に相応の職務=権限付与が必要になります。
豊臣政権では家康や前田利家などの大老の他に実務官僚.五奉行などの官僚組織が出来上がり、そこで頭角を現した実務官僚の石田三成らと、戦国時代を生き抜いた武断派との確執が起きました。
しかし秀吉以後乱世の兆しが起きると豪族連合の本質が表面化し、三成ら事務官僚の影響力は背景に退くので本来のプレーヤーではなくなったのです。
三成がそのまま引き下がれば家康による豊臣政権乗っ取りはスムースだったでしょうが、それでは政権の名分がなく鎌倉幕府の北条執権家みたいな黒子役しかできないので、むしろ決戦による政権交代を求めるために必要な標的として家康が三成を匿い、三成の旗揚げを誘導してので関ヶ原の決戦に引きずり込めたのですが、その点は話題がそれるのでこの程度にします。

徳川体制も連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制下で連合の本質が隠され、一見主君と臣下の関係貸していましたが、黒船来航に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に外様大名を中心に対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行きました。
有力諸侯の協議江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、清掃の舞台が京都の映ったこと自体が象徴しているように、京都での協議結果が帰趨を決するようになると幕府もこれを無視できず一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なもので上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。

官と臣(公僕を兼ねる?)2

民主国家・・選挙によって数年〜最大10年単位の権力移動をうまく乗り切る政治力は、室町幕府で管領経験のある(支流ですが)細川家の得意技というべきでしょう。
19世紀以降の国際政治は流動化して今の政治同様で国際情勢も変転とどまるところを知らずの状態でしたが、李氏朝鮮では宗主国清朝の顔色を窺うしか経験がなく多国間動向を読む経験がありませんでした。
この結果右往左往して宗主国の許可がなければ開国できないなどと言い張り、思考停止の大義名分にしていましたが、日清戦争の結果日本の要求で清朝が朝鮮の独立を認めたので、思考停止政策が破綻しました。
この辺は以前下関条約の条項引用して説明しました。
上記条約で独立した以上、属国でないという意味で大韓帝国と称し、同時に日本と天皇表示を問題視して長年受領拒否してきた(これが征韓論を引き起こしたキッカケでした)日本国書を受け入れることになりました。
独立により独自外交権があるというか、独自外交意思表示するより外なくなったのですが、自力による独立を勝ち取ったものではないので実はどういう外交をして良いか全く不明・ロシア公館に逃げ込んだり右往左往した挙句にロシアからも見放され、欧米列強合議で保護国化→外交権制約しないと国際紛争の種になるばかりということで結局日本が引き受けることになったものです。
こういう無茶苦茶な民族を引き受けると大変なので事情をよく知る伊藤博文が反対していたことがよく知られています。
戦後日本が手を引くと米ソは各半分を引き受けましたが、ソ連は朝鮮戦争を契機にして早々に手を引き、義勇軍を派遣した中国が行きがかり上関わってきましたが、中国も辟易していてできれば縁を切りたい・あるいは「深入りしない」と基本姿勢のようです。
米韓関係も同様で米国も辟易状態ですが、どこの移住先のどこの民族ともうまくいかないのは、朝鮮人は長期的な信義を守る意識が低すぎるところにあるようです。
人間関係の経験が浅い、目先が見えすぎて国際信用を損なう方向になっていますが、仁義をどのように切りながら泳ぎ切るかのノウハウを身につけるには長い経験がいることでしょう。
新憲法に戻りますと、「臣民」の権利義務が国民に変わっただけであって、新憲法でも臣や官の単語・・大臣という単語が残り裁判官という官名も残っていますし国家公務員法には、各省次官、政務官あるいは長官等の官名も明記されています。
ですから、官民共同というのは(精神がおかしいというだけで)法律上間違いではありません。

憲法
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一〜四項略
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
1〜3号略
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
第六章 司法
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

新憲法では臣民の権利義務や臣民の総意と言えないが、人民総意とも言いたくないので?「国民の総意」に変えたのですが、国務「大臣」・総理「大臣」や裁判「官」等の旧用語を残した点ついては、09/19/03(2003年)「日本国憲法下の総理大臣5(憲法32)「新しい酒は新しい皮衣に5」前後で用語変更の不完全さを連載しました。
単語の技術的問題だけではなく、当時GHQとの政治駆け引きの結果?その限度で旧憲法の大臣と官との関係が憲法上も残っている・・大和朝廷草創期以来の「大臣」や官の精神自体が新憲法に承継されたことになるのでしょうか?
結果から見ると、現行法では大臣までは「臣」であり、その次の地位→各省次官+政務官、外局・・・国税庁等の各種長官等の組織トップ、裁判官、検察官までを官と言い、局長以下は「官」とは言わず官僚と言うようです。
私独自の直感的共通理解で見ると上司の補助者としての職務ではなく、その官職名の決定で公権力効果が生じる官職の場合を「官」と呼称する共通性があるように思われます。
ただし近年増設された政務官等は、何の公式最終決定権もない(稟議書に加判する列に入っただけ?)ので官名の安売り現象の一例でしょうか?
各省次官も対外的公式決定権がないのですが、歴史を辿ると明治憲法時代に各省次官が置かれていた・・大臣.公卿の仲間?であったのが、戦後民主的洗礼を得てないので「事務」次官格下げとなって、官名が残った様に理解できます。
律令制で次官級を「スケ」太政官制ではスケを大輔小輔、具体的には左右大臣の次官である大中小納言階級までの貴族が就任できる地位でした。
江戸時代で言えば、大納言家は将軍に次ぐ格式で御三家の尾張と紀州家が大納言、水戸家は中納言家でした。
明治憲法体制の「次官」を徳川家の大中少納言の横滑りだったとすれば、かなりの格式であったことが分かるでしょう。
これがただの事務官僚扱いになったので、ものすごい格落ちです。

官と臣2(公僕を兼ねる?1)

現憲法の公務員は国民全体に対する奉仕者ですが、一君万民思想下では臣民は天皇家への奉仕者ですから、天皇家と臣民とは(今風に言えば労使関係の)対立可能性を内包していたことになります。
これの危惧があって、日本では戦後も公務員の争議権を厳しく制限してきました。
フランスでは警官もデモする権利があり、裁判官のデモもあると学生時代に聞いて驚いたものです。

国家公務員法
(昭和二十二年法律第百二十号)

第九十八条 職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
○2 職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。
○3 職員で同盟罷業その他前項の規定に違反する行為をした者は、その行為の開始とともに、国に対し、法令に基いて保有する任命又は雇用上の権利をもつて、対抗することができない。
附 則
第十六条 労働組合法(昭和二十四年法律第百七十四号)、労働関係調整法(昭和二十一年法律第二十五号)、労働基準法(昭和二十二年法律第四十九号)、船員法(昭和二十二年法律第百号)、最低賃金法(昭和三十四年法律第百三十七号)、じん肺法(昭和三十五年法律第三十号)、労働安全衛生法(昭和四十七年法律第五十七号)及び船員災害防止活動の促進に関する法律(昭和四十二年法律第六十一号)並びにこれらの法律に基いて発せられる命令は、第二条の一般職に属する職員には、これを適用しない。

上記に対して地方公務員法は労働法原則適用を前提として、58条に労働法規の除外規定を置いているようです。

地方公務員法

(他の法律の適用除外等)
第五十八条 労働組合法(昭和二十四年法律第百七十四号)、労働関係調整法(昭和二十一年法律第二十五号)及び最低賃金法(昭和三十四年法律第百三十七号)並びにこれらに基く命令の規定は、職員に関して適用しない。
2号以下省略

日本で戦後臣民という法律用語が国民に変わり天皇の臣〜官から公務員という単語に変えても、もともと臣・官であった同じ人間が今日から公僕である公務員になったとしても意識が簡単に変わらない上に、変わらない意識を温存するために?国家公務員法や地方公務員法という一般労働者と別扱いする特別法を同時に作ったことになります。
幕末会津藩が、リスクが大きく割の悪い京都守護職を引き受けるのは損な役回りになるのが明白だったので家中では慎重論が強かったのですが、藩祖以来の将軍家との特別な関係重視・「本家の危急存亡のときに役に立たずにどうする!」「義」を重んじる論が大勢を制して、ついに京都出兵に応じて最後は賊軍の汚名を被ることになりました。
一般譜代大名や親藩と血の濃さが違うのだ!ということだったでしょう。
今でもこの種の浪花節的?美学・生き様は日本人の心打つものがあります。
豊臣秀吉死後着々と豊臣政権を蚕食していく徳川家康の策謀に豊臣恩顧の子飼い大名が次々となびいていく中で、身を挺して抵抗していく小身の石田三成の美学・・石田三成を最後まで応援した大谷刑部の友情の美学、大坂の陣で最後まで戦い切った真田幸村の義勇に心惹かれるのです。
根強い忠臣蔵人気は、徳川初期以降国学として支配力を持った朱子学普及による忠義の心によるのではなく、(大義名分として幕府の掲げる忠義の実行だと言うことになっていますが)本音はそれ以前からある日本民族に備わっている滅びゆくものへ「義を尽くす」ことに対する美学でしょう。
平家物語の最も心打つ場面・「木曽殿最後」の主従再会場面も同じですが、(朱子学などまだない時代)信頼で結ばれた「義」を重んじる滅びゆく美学です。
判官贔屓と言う熟語があるのは、彼が赫赫たる戦果を挙げたからではなく、(田舎育ちで複雑な貴族社会の駆け引きを知らない義経が老獪な後白河に手玉に取られてしまったことによるとしても)不幸な言いがかりで?滅びて行くことに対する国民の哀惜の情によります。
豊臣家恩顧の「義」をコケにして見え透いた利に従って率先して裏切った(福島正則を筆頭とする)有力大名が徳川体制確立後次々と改易されますが、家康がずるい・酷いというよりは、「こんな奴は用済みになれば切られて当然」という評価で国民は同情しません。
明治以降は憲法はどうであれ、民意重視ですから政権が短命で、安倍総理が7〜8年が史上最長らしいですから、現在政治家は子々孫々までの忠義立ては不可能でいつもその次を考えながら強いものにつき生き残る高度な政治力が必要です。
かといって、主と仰いだ総理が落ち目になると率先して裏切っているのではそう言う人間は次の政権でも、誰も信用してくれないので強い方につきたいものの過去の恩顧やしがらみを無視できません。
この辺の微妙な観点から徐々に軸足をズラしていくしたたかさが戦国時代以上に求められます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC