袴田事件3(メデイア・日経新聞2)

日経社説にたいする批判の続きです。
1審の判断に対して不服のある方が上訴して上級審の判断を仰ぐ仕組みも合理的であって、1審限りで終わりにすべきとは思えません。
社説最後の文脈からすると「元被告の方に不利な時だけ上訴権を認めて検察には認めるな!というようなニュアンスが感じられますが、中国や西欧の抑圧社会を前提にした権力に抑圧される被害者が被告人という図式的理解しているのでしょうか?
日本の刑事裁判の実情で、権力による庶民抑圧の刑事事件が何%あるでしょうか?
99、99%普通の市民が被害者になった事件が一般的刑事事件になっているのです。
権力者による庶民抑圧の刑事事件ではなく、ちょっとしたことで暴力を振るったり相手の人権を無視した(交通事故だって多くは)粗暴な人による人権被害が中心です。
犯罪には被害者がいるのであって、検察は公益・被害者の代弁者である立場を無視した意見です。
人権の多くはその行使の仕方によっては他の人権を侵害することになる(表現自由と名誉毀損の関係や道路交通法など)ので、この世の中には多種多様な法律があるのですが、そのほとんど全部が、人権と人権の衝突時における調整のためにあると言っても過言ではありません。
調整ルールは第一次的には、民事法で処理されますが悪質すぎる場合には刑事罰で調整し悪質な人権侵害を起こさないようにしているのです。
民事は個々人が自分で訴訟するしかないのですが、刑事になると殺されている場合もあり、人身売買その他暴力系被害者の多くはで自分で反撃できないことから公益を代表する検察官が処罰を求める仕組みです。
今千葉県でベトナム人の小学生が殺された事件が審理を終結したばかりですが、検察官の背後には被害者の親が必死に見守っている姿があって心打たれます。
加害者不明のことが多くてもこのように刑事事件には間違いなく被害者がいるのです。
事実の有無をきっちり調べた上の無罪ならばいいですが、確定判決まで行った以上は、これを取り消すには、証拠が捏造であれ何であれ、「無罪にさえなればいい」という一方的人権論は大間違いです。
社説を個別に見ていきますと
第一に
「死刑か無実かという正反対の結論」と刺激的に書いていますが、再審手続きは死刑になった場合だけではないので、このようなイメージから入る主張は冷静な議論であるべき社説の格式を落としています。
本件再審手続き申し立ては犯人性の有無が争点ですから、白と黒・二択しかありえないのは、被告人がその争い型を選択した結果です。
たまたま袴田再審事件は、死刑判決に対する無罪主張の再審申し立てだから、有罪か無罪→死刑か無罪かになるだけのことです。

刑事訴訟法
第四百三十五条 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる
1〜5略
六 有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。

上記の通り「原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」という理由で申立した場合には、中間的結論がありうるでしょうがその選択権は被告人が握っているのであって、被告人が「無罪になる証拠が見つかった」という申立てをしたから白か黒の二択になっているだけで制度の欠陥ではありません。
法制度通り解釈すれば、確定判決を取り消すべき新たな証拠が「あったかなかったか」の二択でしかないことは仕方がないことです。
第二に内容を見ておきますと、
「同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。」
というのですが、実は同じ証拠によって別の判断になったのではありません。
「シャツに不着した血痕」という証拠は共通ですが、1.2審で新たな証拠かどうか争われたのは、「シャツに不着した血痕」の有無ではなく、50年前の血痕をDNA鑑定できるかどうかだったのです。
鑑定意見の合理性(科学発見新技術開発のルールに合致しているか)が争点であってその点に関して1〜2審で結論・評価を異にしたらなぜ司法の信頼を失うか不思議です。
証拠を合理的に検討する視点を無視して同じ証拠を見る人によって違うのはおかしいというのですが、「見る視点の違い」と言ってもボヤ〜っと見た結果の違いではなく、DNA分析根拠を明らかにするべく努力したものの鑑定人がこれに協力しなかった結果を踏まえて信用性否定を判定しているのです。
「同じ証拠」と言っても証拠のナイフを直感的に見て、えいやっと結果を決めるのではなく、今の時代ではそのナイフに付着した血痕がだれの血痕かという鑑定の基礎になったデータの違いで両鑑定の優劣を決める時代です。
証拠という意味の時代的違いを言えば、昔は犯行現場近くに落ちていたナイフに血痕があれば目視で血痕さえあればその先の事実究明がなく裁判官がどう判断するかだけだったのですが、その後血痕があっても動物の血液か人間の血液かが分かるようになり、血液型の違い、さらにはDNA鑑定と微細化する一方です。
比喩的に言えば、100倍の顕微鏡で見ている時には、甲乙丙誰の血液かの区別がつかなかったのに、10万倍の倍率で見れば甲乙丙の違いがわかるようになったということです。
こういう場合、「同じ血痕で判断が異なるのはおかしい」とはいえません。
一方が10倍の倍率で論理チェックしたが、他方が100倍の倍率で論理を掘り下げて見直したら鑑定資料のずさんさがわかり鑑定が信用できないとなったとすればどちらの信用性が高いか明らかです。
地裁で動物の血液を被害者の血液と認定していたのを高裁でより精度の高い検査をしたら動物の血液と認定しても「同じ証拠で意見が分かれる」のではありません・・この場合に同じ証拠と言えるのは、同じ血液検査を利用した場合です。
目撃証言でアジア人というだけで犯人を決めるよりは、現場録音をチェックして何語を話していたかによってアジア系の何国人であるかを絞り込み、さらには防犯カメラ等に映った身長や体格着衣(同じ背広を着ていてもどう言う色柄かなど)等で絞り込むなどしていくのが合理的です。
何事も上位概念で決めるよりはさらに下位の細かな分類を利用した方が正確に決まっています。
日経社説は「同じ証拠」といいますが、上記のように地裁と高裁では評価対象が違うようです。
高祭は鑑定手法の合理性を問題視していてその再現実験のための鑑定資料や鑑定時の記録提出を求めたのに鑑定人がこれに応じなかったというのですが、地裁は頭から鑑定意見を信じてしまったような書きぶりです。
これでは地裁は鑑定結果を見ただけで判断し、高裁は鑑定結果よりは結論を見出した鑑定過程の合理性の有無を判断したのですから、地裁と高裁が同じ証拠を見て判断したと言えないでしょう。
袴田再審事件では同一資料をどのように分析するかによって結論が変わるからこそ、一審以来鑑定をして来たのです。

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