慰安婦=性奴隷論の説明責任3(言葉のすり替え3)

世界の慰安婦を見てきましたが、軍・慰安婦の日本の歴史については以下の通りです。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/慰安婦_日本軍慰安婦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/30 06:11 UTC 版)
本軍将兵を追いかけて川を渡る慰安婦[291]

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前史

日本軍の公娼に関する初期の動きとしては、陸軍『軍医学雑誌』1901年4月号に「軍指定の妓楼をつくり、兵士の遊郭への出入りを公認すべし」との提案がなされ、北海道の中島遊郭のように住民の3年間にわたる反対運動を押し切って連隊の設置にともない遊郭が造られた例がある。同様に軍と深い関係にある遊郭は舞鶴や呉、松山、宇都宮、横須賀にも見られた[292]

第一次上海事変以降

1931年満州事変が勃発し、翌1932年には第一次上海事変が発生、日本(海)軍専用の初の慰安所が上海に設置され[293][294]岡村寧次大将は強姦対策として慰安所を創設した

1938年には、上海に開設していた日本海軍の軍用慰安所を参考に、日本陸軍初の軍用(特殊)慰安所が上海に設置された[302]

「昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。」

1932年長崎県の女性を騙して上海の慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が婦女誘拐海外移送罪で逮捕された(1937年大審院で有罪判決[304][305])。

日華事変以降

売春斡旋業者と日本軍・日本政府

1937年7月7日盧溝橋事件が勃発し、日中全面戦争がはじまると、軍慰安所の増設が始まるとともに、売春斡旋業者の取締が強化され、1937年8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された[27]

このように慰安所設置が進むに連れて悪徳業者がはびこる弊害・・人身売買になりやすい性質を懸念して、政府は取り締まり強化していたことがわかります。
戸塚弁護士は、上記取り締まり判決を持って日本でも違法だったから「奴隷」だという根拠にしているようですが、論理が逆でしょう。
日本は、売春するとは知らず連れて来られるリスクが大きいので、厳重取り締まりしていた逆の証拠ではないでしょうか?
取り締まりに精出していることと軍の強制連行とは逆の関係(逆にこういう取り締まりをしていない国の方が人身売買を助長しているという)と理解するべきではないでしょうか?
(日本の慰安婦訴訟で「慰安婦がドラム缶に入れられてジープで移動したと証言した」と言われますが、ジープという証言から朝鮮戦争時の米軍慰安婦のことであったことが明らかになっているようです。)
「どっちが奴隷扱いだよ!というのが、日本人の反応でしょう。
世界の戦場につきものの諸外国の戦場売春婦?を比較すると、騙されてきたのではないか?という場合に果敢に謙虚し刑事処罰するなど悪徳業者を処罰するのに熱心であった日本だけが「性奴隷」と糾弾され専念も許せないと言われるかが不明になります。
ところでここ数十年では法的技術が発達して、例えば、アフリカ象の保護には、象牙密売の取り締まり→象牙売買自体の禁止に進んできたのが抜本的です。
日本が、そもそも戦場売春婦自体を禁止すればよかったと今になると言われそうですが、今の法技術で言えば、売買春行為自体を禁止処罰するのが抜本的ですが、当時の法技術ではそういう法技術がなかったのです。
いろんな規制は悪徳業者をまず取り締まることから始めるのが普通であって、(違法建築でも家を取り壊せというのは滅多になくて業者の資格停止等から入っていくのが原則です)これまで見たきた諸外国の例を見れば日本の方が、人権尊重してしっかりやってきた方でしょう。
日本だけ性奴隷と非難される要素がありません。
まして売春行為は「人類最古の職業」といわれるほどの歴史があって、相手が希少絶滅危惧種・・動植物と違う人間ですので、人間には自分の職業を選ぶ権利もあり全面禁止・綺麗事だけではうまく行きません。
日本では18歳を基準に管理売春だけが禁止され、児童の場合に限って全面禁止している限度です。

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