袴田再審事件4(メデイア対応3)

日経社説は地裁〜高裁で(同じ証拠が見る人が変わる)と正反対に変わるのでは、司法の信頼が揺らぐと主張しますが、同じ付着した血痕でも、事件直後頃には実用化されていなかったより精密なDNA 鑑定によって結論が180度変わったときにはメデイア界こぞって賞賛していたとすれば、高裁でDNA鑑定の鑑定手法が問題になり鑑定結果が否定された時だけ「同一証拠で180度度変わるのが何故「司法の信頼を揺るがす」と主張できるのか不明です。
社説では1審で無罪方向になったときには気付かなかった鑑定の正確性の疑問点が新たに問題になっていたことを故意に伏せている感じです。
犯人性否定根拠になった鑑定が科学的根拠に基づかなければ1審の鑑定を根拠にした結論が否定されるのは当たり前であって、当たり前のことを決定したら何故司法の信頼が揺らぐのか意味不明です。
再審開始決定をメデイア界がこぞって歓迎したことの「かっこ悪さ」を隠す意味があるのでしょうか?
朝日新聞が主張する根拠なき「市民感覚」同様の意識が日経でも背後で作用しているのでしょうか?
刑事制度は被害者にも人権があることを前提に人権被害を最小化するためにを加害者を処罰する制度ですが、メデイアの言う「市民感覚」とは刑事制度が被告人の人権だけに焦点を当てるようなイメージを受けます。
加害者でないのに処罰されるのも人権問題ですが、そのために厳密な手続きを経て加害行為が認定される仕組みになっているのであって、被告人の人権強調の結果、その手続きに乗せることを否定することを目的にした人権擁護活動になると本末転倒です。
地裁と高裁で判断を分けたの「おお括りに言えば付着した血痕」ですが、訴訟での最重要証拠は「鑑定書」という証拠の信用性です。
正確にいうならば、「鑑定書の評価で結論が別れた」というべきでしょうが、地裁はそこにメスを入れていなかったような印象です。
高裁決定書自体に争点整理で書いているはずですから、日経社説を起案する人物が高卒程度以上の国語力あればこの点を誤解する余地がないにも拘らず、これを端折って「同一証拠」と暗に付着物をイメージさせているのは、朝日ほど露骨ではないものの一定方向への世論誘導意図が感じられます。
ただ日経のために有利に考えると「政治意図はそれほど強くない」・この後でメデイア界の人材が各分野の掘り下げ能力アップ・国民レベルアップについて行けてないのではないかの視点で少し書きますが、特定方向へ国民を誘導する報道姿勢が国民意識とずれてきたことと事実認識(掘り下げ)能力の欠如とが相まって事実に反する表現が目立つようになった原因と思われます。
掘り下げ能力不足により事実を正確に把握できない結果、不正確な事実を報道しているのは、意図的虚偽ではないとしても、事実を正確に報道していない結果は虚偽報道と同じです。
まして日頃主張している一定方向ばかり、
(各種人権・・表現の自由があっても名誉棄損はX、通行の自由があっても交通法規違反はX、生きる権利と相手を殺しても良い権利とは違いますが.・・本件でいえば殺人犯人かどうかの事実認定が先決問題ですが、人権保障ばかり情緒的に訴えて肝心の「犯人かどうかの判断を基準を緩めろ」という意見・・バランス論を取らない)
不正確報道を繰り返していると、意図的・故意的不正確報道メデイアの疑いを持たれるようになります。
日経新聞社説を見ると引用した朝日のように「市民感覚」などで切り捨てないで事実関係を書こうとしているように見えますが、結局は「同じ証拠(には違いないですが)で・・」という大雑把な主張で本当の争点をぼかしているのは、本田鑑定が合理的鑑定経過によるかどうかという掘り下げレベルの違いで結論が違っていることを理解できていないからでしょうか?
仮に「同じ証拠」の主張が正しいとしても上級審で違う評価がありえて、覆ることがあるからこそ、上訴制度があるのですから、違う評価が出たことそのものを批判するのでは三審制の原理を無視した暴論(改正論?)ですが、他方で「無罪方向なら間違っていてもいいじゃないか!」というようなイメージ強調があるので、結果的に朝日同様の一方への肩入れ姿勢が顕著です。
今はネット社会で半年待たなくとも詳細経緯がそのままネット報道される時代になっているのに、袴田再審事件の報道を見ると朝日新聞社内(他のメデイアも)ではまだ事実無視の・・情緒や思い込みだけのアナウンスで世論を誘導してきた成功体験で生きてきた人材が幅を利かしている状態が浮き彫りです。
朝日新聞の読者がこのような事実無根の断定的意見を喜んで受け入れているから、こういう表層的記事が続いているのでしょう。
そういえば、私自身若い頃には洗脳されていた結果か知りませんが、朝日新聞を購読していましたが、昭和61年始めに転居した機会に日経新聞に切り替えました。
その頃はまだ政治意見の相違まで気がつきませんでしたが、朝日新聞の記事はどの分野でも政治であれ社会・文化評論であれ、事実を掘り下げたかっちりした記事がない・・ムード中心記事に飽き足らなくなって日経新聞に切り替えた・「日経の方が同じテーマや結論でも論旨がカッチリしていていいぞ!」と若手弁護士に話していたことを思い出しました。
今になると(日経の方がちょっとマシですが)こんな乗り換え推奨をすると、反朝日・反左翼か?と色目で見られる時代ですが、当時(1980年代)はまだ慰安婦騒動もなく牧歌的時代でした。
朝日の読者離れは、思想レベルによるだけでなく論理レベルでも30年前から客が逃げつつあったのです。
これが思想レベルで批判を受けるようになると、化学成果(小保方騒動)でいえば、結果発表だけではなく、実験経過の合理性まで説明しない(データ廃棄したのでは)と合理的成果と受け止められなくなったのと同じ問題で、「市民感覚で理解しがたい」というには「こう言う事実」に対する「市民感覚でこうだ」と言う論拠まで示さないと普通レベルの人は物足りなくなる時代です。
高裁では、鑑定経過の信用性が重要問題になっているのに、何年も資料提出を出し渋っていた挙句に、最後に、「一審判決前に廃棄した」という回答になったとすれば、(鑑定経過が争点になってから慌てて廃棄したのではないかとの疑いが濃厚と思うのが普通です。
それを明らかにするために高裁決定でわざわざ「一審段階で廃棄していたとの回答があった」と(多分)記録化したのでしょう。
ただし上記は17日に紹介引用した郷原氏の本田鑑定に対する高裁事件推移の要約主張(のちに紹介)によるもので、決定書自体を私は読んでいません。
多分決定自体にはそこまで書かないので、弁論調書とうの進行記録にでているたぐいと思われます。
本当に廃棄していたとしても一審の決定も出ない内に決定の決め手になる新証拠である鑑定資料や分析記録を廃棄してしまう鑑定人がいるだろうか?再現実験にも協力しないような鑑定に合理性があるだろうか?くらいは常識人であれば「市民感覚」でわかることです。
メデイア関係者は根拠なく視聴者をバカにしている傾向が見られますが、実は市民レベルが上がってメデイア関係者を追い越しているのに気がついていないのではないでしょうか。

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