メデイアの事実報道能力1

高裁が地裁判断を否定すると「市民感覚に反する」とか高裁で判断が変わると「司法の信頼を揺るがす」という論理脈絡のない批判社説に何故なるのか、逆に「市民感覚」で理解できない人が多いのではないでしょうか?
野党が何かある都度「市民の声を無視」と市民代表を僭称して街頭行動するのは、メデイアが何かというと「市民感覚がゆるさない」という思い込み意見と軌を一にしています。
市民・国民の声は、選挙による結果が最も正確であり、数%しか支持を受けていない政党が、自分たちの意見が「市民代表」というのは無理があるのと同様に、選挙の洗礼を受けないメデイアが独断で市民感覚を決める権利はありません。
主張説明責任については、1+1=2の論理を説明する義務はありませんが、1+1=3の結果であれば、その論理根拠を説明する義務があります。
郷原弁護士の意見によればのちに紹介引用する通り

「確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。
本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。」

というのですが、こうした現在科学の到達点・事実の有無について論理検証があってから「迷走」かどうかの意見の是非・「市民感覚」が決まることでしょう。
どこかで読んだ意見では本田氏の鑑定手法では、肝心のDNAが消失してしまう方法であって再現実験できないと紹介している意見を読んだ記憶です。
(きっちりした記憶はありません)
決定が出て問題点が具体的に指摘されている以上は、昨日紹介した意見はジャーナリスト上がりの作家らしいですから、作家としては願望を書くのは勝手ですが、報道機関・公器を標榜する以上はムード的無罪願望・不当決定主張ではなく、決定に書かれている本田鑑定や写真に関する主張などに対する問題点に対する逐一の内容に対して具体的批判すべきです。
訴訟というのは、負けさせる方に十分な反論や説明チャンスを与えて・これ以上説明ができないと言う意見表明を待ってから弁論終結するのが原則・・不意打ちをしない原則ですので、高裁が年単位で弁護側に再反論のチャンスを与えていたのにいつまでも出さないので、「あるのかないのか」釈明を求めていたところ最後に「鑑定記録を廃棄した」と表明したので「それでは」ということで「結審」したものと推測されます。
(本田鑑定は弁護側の鑑定ですから、きちんと鑑定したことを立証するための資料提出責任は弁護側にありますが・この資料提出指示に対して何年も返事を引き延ばしていた挙句に「廃棄してありません」いう回答をしたとすれば、(記録自体を読んでいないのでこの経緯が事実かどうか不明・事実とすれば)驚くべき経過(弁護士倫理として如何なものか?)ですが、弁護側の無責任な訴訟態度を紹介しないで4年間も「訴訟が迷走した」と裁判所の責任であるかのように報道するのは実上のフェイクというべきでしょう。
「迷走」というためには本田鑑定が現在科学の到達した争いのない・疑問の余地のない(1+1=2のような公理)鑑定手法であるのに高裁が無駄な説明を求めたので時間がかかったという前提を提示しなければなりません。
(昨日紹介した不当決定主張派の記事内には別の鑑定人が本田鑑定の手法では再現実験できないと「サジ」を投げたらしい経過も出ていますから・・「本田教授が再現実験に応じなかった」という何処かで読んだ意見とも符合します))そもそも事実経過を吟味しない「市民感覚」で裁判批判するのってメデイアのすることでしょうか?
健全な思想・市民感覚は、事実を提示されて初めて生じるものでしょうから、そのために民意重視社会では情報開示が重視されてきたのですし、情報伝達手段としてのメデイアの役割が大きくなってきたに過ぎません。
情報を先に入手する関係で一般人よりも意見形成が早いでしょうが、メデイアの役割は事実を正確に伝えることが第一です。
それなのに肝心の事実報道をしない、あるいは軽視して自社の主張を流布することを優先しているのではメデイアの存在意義を自己否定することになります。
高齢化社会を反映して、最近認知症のかなり進んだ人(被後見〜被保佐相当?)に関する相談が増えましたが、「こういう場合どうするか」という意見では、むしろ人生経験のある分、ついてきた子供世代よりも立派な意見を言いますが、1〜2週間前にあった事実を前提とする意見では、みんな忘れてしまっているのでトン珍カンな会話になります。
ですから高齢者との会話では問題になっているテーマに関する過去の事実関係をおさらいしてから始めるのが妥当です。
それをしないで「おじいちゃんは話にならない」とバカにするのはバカにしている方のレベルが低いことになります。
4〜5人の会食中に過去のやり取りが会話のテーマになった時に、過去のやり取りの場にいなかった人がいる時には、その会話に入れない人に対して「実は10日前にこういうことがあってねと・・」といなかった人に過去の経緯を説明してから会話に入るマナーと同じです。
数学その他のテストでいえば、どんな優秀な子供でも一人だけ別の問題を渡れされたらゼロ点になります。
ボケたと言われる老人でも判断力は情報次第によるということです。
我々シロウトは(法律専門家でも自分の担当していない判決等は、専門雑誌に掲載されるのは特報以外は約半年後ですからそれまでは)生の事実どころか整理された事実すら入手できないので、「メデイアやネットの情報によれば・・・」という仮定形の議論しかできませんし、まして専門外分野では視聴者の知的能力に関係なくメデイアがフィクションを事実のように吹聴すると、世論を誤った方向へ誘導出来てしまいます。
17日紹介した毎日新聞の報道でいえば、文字情報では一見客観的に書いていますが、動画に入ると延々と「不当決定」をなじる批判や激励ばかりです。
毎日新聞に限らずその他ネット報道を検索して表面に出るだけを見て流していくとほとんどのメデイアは毎日新聞的なニュース的構成・・目に入るのは「不当決定」と垂れ幕と言うか看板ばかりです。
メデイア界では偏った報道をしているのではなく、「そういう集会があった事実を動画で報道しているだけ」と言うことになるのでしょうが、文字からの情報入手に疎い(専門分野では難解な単語が多く)民衆のおおくが、いかに不当決定が行われたかのイメージ操作・・刷り込みを受ける報道の仕組みです。
じゃ「決定が正当」だという支持者の方も集会をひらけばその事実を対等に報道するというのでしょうが、政府.裁判所がそういう集会を企画できるはずがないので、結果的に一方的なイメージ操作になります。
この辺は、工場進出〜廃棄物処理場やマンション建設反対その他反対運動や法案反対集会や反政府デモばかり報道するのと同じ問題があります。
こういうのって公平な事実報道と言えるのでしょうか?
集会を行なっていることやその集会で「〇〇反対」の意見が発表されていること自体は事実としても、そういう発言ばかり洪水のように流すと、肝心の工場進出による地元メリットや推進派意見が全く報道されません。
廃棄物処理場の必要性などのメリットデメリットの公平な解説がないと、情緒に与える影響では偏るイメージです。

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