司法権の限界15・謙抑性3

法は元々国民主権思想=国民の代表である国会が作るものであって、司法が法を作ることは憲法では予定されていません。
司法の限界・自制の必要性に対する関心で16年3月11日以降このシリーズを書いてきましたが、タマタマ日経新聞3月20日朝刊2pに「縮む政治と膨らむ司法」の大きな囲み記事で重要事項が全て国会ではなく、(選挙制度や沖縄普天間基地訴訟や家族のあり方等々)司法が最終的に決めて行く社会になっていると言うテーマの記事が出ました。
(この辺・・ここから先は3月に書いていた原稿が先送りになっていた分が、今・・8ヶ月遅れになっているので、引用新聞記事が古くなっています)
マスコミは司法に対する批判は控えめですから結論を書いていませんが、司法に対する賞讃記事と言うよりは、最近司法がのさばり過ぎていないか?と言う私と同様の関心が背景にあるように思われます。
マスコミも私にとって批判対象ばかりではなく、意外に評価出来る意見もあります。
有明海の干拓事業も本来政治で決めるべきことを司法権が無自覚に介入して来たことによって、これを利用する勢力の思惑によって、司法判断が区々に分かれてしまい、矛盾関係になって収拾のつかない状態になっています。
司法は当事者が上告しない限り独自に最高裁で統一意見を出せません・・政治勢力の思惑によって、有利な判決を悪用しようと思えば、民主党政権時代の菅元総理のように上告させなければ高裁で確定させてしまえます。
司法と言うのは誰かが訴え出ない限り自分から進んで(職権で)裁けない仕組みですから、いつでも最高裁で統一見解を出せる訳ではありません。
民事では、関係者がいくら困っていても当事者からの申し立てがない限り裁判所が進んで裁判に出来ない仕組みです(民訴246条)し、刑事件でさえも検察官からの公訴提起がない限り裁判所が勝手に裁判(刑訴378条1項3号)出来ません。
同じく高裁も最高裁も当事者から不服申し立てがない限り裁判が始まりません。
民事訴訟法
(判決事項)
第二百四十六条  裁判所は、当事者が申し立てていない事項について、判決をすることができない。
刑事訴訟法
第三百七十八条  左の事由があることを理由として控訴の申立をした場合には、控訴趣意書に、訴訟記録及び原裁判所において取り調べた証拠に現われている事実であつてその事由があることを信ずるに足りるものを援用しなければならない。
一  不法に管轄又は管轄違を認めたこと。
二  不法に、公訴を受理し、又はこれを棄却したこと。
三  審判の請求を受けた事件について判決をせず、又は審判の請求を受けない事件について判決をしたこと。
四  判決に理由を附せず、又は理由にくいちがいがあること。
たまたま諫早訴訟が矛盾関係で確定してしまったのは、直接的には当事者である政治家(菅政権)の介入で変なところで敢えて確定させてしまったことによるもので、司法に責任がないと言うスタンスですが、ソモソモ、政治問題に司法が乗っかって行くことが間違いだったように私は考えています。
・・裁判所は政治論争の場ではないとして、政治論を相手にしないスタンスで望むべきだったのです。
訴えさえあれば何でも口出しをするのではなく、砂川事件判決のようにこれは「政治の領分に司法は関知しない」と、謙抑性を発揮すべきだったのでないかの反省が必要です。
司法が出しゃばり過ぎていないかの意見を上記新聞記事には書いてはいませんが、マスコミがここまで書くようになったことを司法関係者にとっては心すべき段階に来ています。
介護責任・・家族に鉄道事故の損害賠償義務があると言う名古屋高裁の判断も社会の実態から見ておかしなものでしたが、仮処分ではなかったので、すぐに効力が出ずに最後に最高裁で覆ったので実害がありませんでしたが、ここでは特に仮処分の即時効発生の実害を書いています。
もしも介護責任の裁判も仮処分申請していて認められていれば、即時に効果が出てしまっていたことになりますが、この事件の場合にはまだ金銭支払だけのことですので最後に負ければ鉄道会社には支払能力があるので実害はなかったでしょう。
原発の場合、4年も5年も停止させておいて最後に負けたときに住民側にはその巨額損害賠償能力がないことは明らかです。
こう言う重大な結果の出る事柄について・・算数のように百人いれば百人の意見の一致している自明のことではなく国論の分裂していることについて、仮処分で執行してしまうことに対する間違いの恐れがないと言う自信が何故あるかの疑問です。
話題が変わりますが、隣人訴訟の三重地裁、原発仮処分の出た大津地裁、福井地裁など小規模裁判所では、非常識な裁判が連続する印象を持ちませんか?
何回も書きますが、原発賛成か否定すべきかの結論が非常識と言うのではなく、神様しか分らないようなことは民意・・政治で決めるべきなのに裁判所が神様になったつもりで決めるのが非常識でないかと言うだけです。
民主主義とはそう言うことであって、民意の多数で決めて行くしかないのです。
多数の民意獲得に負けた方が敗者復活戦のように司法を利用するのは邪道ですし、これに便乗して司法が口出しするのも邪道です。
反対派が全国津々浦々で仮処分を仕掛けると、どこか一件でもこれに引っかかって停止の仮処分が出る可能性があります。
しかも仮処分の場合即時効があるので、(僻地立地特性のある原発や自衛隊基地→小さな裁判所が原則)左翼系は色めき立っていますし、(既に全国で裁判闘争?を始めています)大津地裁の決定が出るとこれを嫌気してすぐに電力株下落になっています。
裁判闘争と言う一般に利用されている標語自体から明らかなように,裁判闘争を仕掛ける勢力は、政治問題を司法に持ち込んで「闘争の場」にしようとしていることを自白しています。
以下は、国民救援会「裁判闘争に勝つ」とは何か 」
  第21回裁判勝利をめざす全国交流集会 記念講演からの引用です。
「・・私たちは裁判で必ず市民、国民、労働者に支持署名を求めますが、裁判での法廷闘争ですべてが決せられるのであれば、何も法廷外で汗水垂らして署名集めなんてすることはないです。やはり主戦場は法廷の外なんです。裁判官ほど世論を気にする官僚というのはいないんじゃないでしょうか。そこに支持される判決を自分が書くという勇気が求められるわけです。その勇気は、ビラまき、宣伝、報道、要請、署名などによって、「こんなにもあなたの勇気を支え、支持している国民がいますよ」ということを見える形で裁判所に示すことで培われ、その中で、裁判官が正義と公平を貫く判決というものを模索し、決断していくんだという ことを強調したいと思います。」
上記講演者の貴重な運動が日本社会の人権擁護に役立って来た結果・功績自体を私もある程度敬意を持って認めますが、このような訴訟手続外の「場外闘争」が原則になって来ると、司法判断の名を借りた政治運動そのものになるリスクもあります。
政治と司法のけじめを誰が・・どのような基準でつけるかの問題が起きます。
政治で負けたらそのテーマを司法に持ち込み、司法でも負けそうになると場外のマスコミによって勝負する・・マスコミを牛耳れば良いと言う戦術が多用され、更には国連でロビー活動して、国連調査官を招聘するなど際限がありません。
マスコミに干されると困るので、誰も本当の意見を言えません(マスコミに出る識者はマスコミの振り付けどおりしか発言していません)が国民は真実を知っている・これが明らかになるのがサイレンとマジョリテイー→秘密選挙の醍醐味です。
結局は左翼支配のマスコミによる歴史修正主義者・レイテイストなどなどのレッテル張りが横行しているので、怖くてマスコミの意に反した意見や疑問を一切言えないマスコミ空間・・言論の自由が死んでいる状態を表したのが、9日に判明したアメリカ大統領選の結果です。
大統領選の結果に関しては国益に絡んでの議論が活発ですが、民主主義の動向と言う視点で見るとマスコミの作り上げた虚構民主主義の敗退が大きなテーマになるべきです。
マスコミ主導のグロ−バリズム拡大・・移民増加その他各種人権保護と言う名の下に気に入らない意見をレイシストやネオナチその他のレッテル張りで国民の発言を封じて来たコトに対する不満を抱いていたのに、マスコミはこれを黙殺し続けていた結果、選挙(EUでもマスコミの必死の誘導にも関わらず移民流入反対論が大きくなっています)で覆った点です。
日本ではネット言論ではマスコミに迎合しない人が早くからトランプ氏優勢を論じている人がいましたが、日本を含めて世界中のマスコミ・論者はこぞってクリントン支持の方向で、低レベル報道に如何にもどちらも人気がないかの報道に終始してトランプ氏の正当な正論を取り上げていませんでした。
トランプ氏のイメージ悪化に努力していましたが、米国民の多くの人がトランプ氏を支持していたことを(私の知る限り)全ての世論調査会社が敢えて虚偽報道していたかあるいは見誤っていた・・国民が怖くて本音を言えないほど言論空間が窒息していることを証明しました。
(イギリスのEU離脱国民投票も同様ですが、世論調査会社が虚偽報道していたとは思えませんので・・何故調査能力が落ちているかの点検が必須です)
EU離脱〜EUの難民反対〜今回のアメリカの動きは、選挙で認められなくとも、マスコミを抱き込んで報道を続ければ司法がそれに呼応して修正する図式の構築を目指す人権活動家の運動の行過ぎた結果に国民がノーを突きつけたのではないでしょうか?
反グローバリズム・格差反対とマスコミは宣伝しますが、今の時代完全鎖国は不可能ですから反グローバルと言っても程度問題でしかありませんし、格差反対と言うだけでどうなるものでもありません。
金融資本・ユダヤ支配反対の意味もあったでしょうが、さしあたりの対象は金融資本の手先となっているマスコミに対する反マスコミがテストされる結果の選挙であったと言うのが私の印象です。
正々堂々と論争して政党が国政の場で負けた以上は潔く結果に従うべきであって姑息な土俵外の邪魔・ケチを付けるべきではない・・これが民主主議のルールだと言う意見を11月4日まで書いて来ました。
クリントン氏が有利と言う筋書きのときにマスコミが投票結果を認めるのか?とトランプ氏に畳み掛けていたことをその頃紹介しましたが、トランプ氏が勝つと民主党支持者が認められないと言う抗議?でナチスを模した左翼系得意のレッテル張りをして、頻りにデモを繰り広げている様子が報道されています。
マスコミとしては、負けを認められなくて、トランプ氏には民意の支持がないと言う虚構を強調したいのでしょう。
選挙に負けた方が何の根拠で「認められない」と言うデモをしているのか不思議です。
左翼系・マスコミはじぶんの都合によって「民意」だ「人権」だと言うご都合主義があることをこの数日書いて来ましたが、その本質がアメリカでも出ています。

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