民主主義2の基礎・信頼関係

西欧的近代社会に適応しようとした帝政ロシアが農奴解放に徐々に践み切ると,・・構造改革は普通は既得権益層・大貴族との利害衝突になりますが・・大貴族に対する配慮の結果、農奴の方はそれほど解放がすすまないと言う不満があり・・社会が大混乱に陥るのが普通です・・が帝政ロシア失速の始まりです。
この結果金融的にユダヤ系に締め上げられていった経緯についてはロシアのデフォルトのテーマで最近書きましたが、社会がうまく行かなくなると騒乱→革命になったのが帝政ロシアでしたし、第一次大戦の敗北でドイツ帝国も崩壊しました。
うまく行かなくなると騒乱→革命になったのが帝政ロシアでしたし、第一次大戦の敗北でドイツ帝国も崩壊しました。
中国清朝も変法自彊運動に始まり時代適応しようと努力すると、却って内部混乱が始まり軍閥が横行して結局瓦解してしまいました。
蒋介石軍も、共産軍も最後まで勝ち残った軍閥の生き残りだったと見るのが正確でしょう。
韓国はアメリカ支配下にあった関係で、実力不相応に民主政体化しましたがその無理が出て来ていますし、台湾もアメリカの影響で国民党一党独裁からうまく脱皮しましたが、北朝鮮や中共・・共産政権ではまだそのままですから、軍閥的発想が未だに抜けないから昨日紹介した孔子の策によれば、最下策にあたる軍備増強第一に考えるのです。
アメリカでは何年か前のミズーリの水害のときの報道を見ると,混乱に乗じてすぐに略奪が始まる程度の国です。
昨日の報道では反トランプデモがすぐに暴徒化しています。
野口英世を例にしてこのコラムを書いた頃・・アメリカ社会を見た直感では、少なくともアメリカは日本より500年前後遅れていると書いていた記憶ですが、その後相次いだ縄文時代の新発見を参考にすると数千年単位前から助け合い・循環型社会が出来ていたことが分って来ました。
今ではアメリカ(に限らず世界中)は日本に比べて数千年単位・・何周回遅れの社会が日本に教訓を垂れるなどおこがましいと言う考えで意見を何回か書いています。
循環型社会・公害に敏感な社会・・ゴミ処理能力と社会の相互信頼関係は根っこが同じです。
我が国の場合、あれだけ戦争で無茶苦茶に負けても、国民の側から政府に対する不満や責任追及論は全く起きませんでした・・。
不満を言う前に占領軍が来たので、それに対する対応に追われて不満を考える暇がなかっただけと言う意見もあるでしょうが・・。
日本に将来がないからと言って国外脱出するどころか、食うや食わずになっている本国に海外から何百万人も帰って来て復興に精出しました・・。
ウイキペデイアの記事です。
「敗戦時には軍人・民間人計660万人以上が海外に在住し、引揚げした日本人は1946年末までに500万人にのぼったが、残留日本人の数や実態については現在も不明である」
その分食糧難が一時的に酷くなりましたが、「困るから帰って来ないで」と言う人・・文句を言う人はいませんでした・・お父さんや弟が戦地から無事返って来てみんな喜んだものです。
食糧が絶対的に不足していたのに騒乱も犯罪もそれほど起きず、みんな黙って復興に励んでいましたし、裁判官が配給だけに頼って飢え死にした事件もありました。
(ただし、後記のとおり無茶な要求をして皇居に押し掛けた「共産党員」もいましたが・・ほんの一部でした)
1911年3月11日の東北大震災でも、みんな黙って救いを待っているのを世界中の人が驚いていましたが、戦後一時期田中角栄氏のようなゲンキンな人が幅を利かす社会になっていたように見えていたのですが、民族の血として脈々として繋がっていた同胞意識が底流で全く変わっていなかったコトが分りました。
(このときもホンの一部とは言え、泥棒していた人もいました・終戦直後犯罪率は当然上がりましたし(食糧不足・配給だけでは生きて行けないので、配給がいの食糧を求めていたので、やみ取り引きの検挙・・犯罪も増えます・・全員が海外から引き上げた訳ではないでしょうが、民度を言う場合ゼロを言うのではなく、こうした危機時に起きる比率が重要です。)
戦死者を悼む心・・靖国神社についてもアメリカや中韓を刺激すると言う間接的追及論や失言騒動をマスコミが起こすのが限界です。
このマスコミの煽りに対して共感しないで不愉快に思っている人の方が多かった結果が出たのがいわゆる慰安婦問題に対する大反撃です。
アメリカの攻撃に完敗しても天皇制を死守し、勇敢に戦った自分の父を尊敬している人が大多数・・そういう民族です。
「朕はたらふく食ってるぞ!なんじ臣民飢えて死ね」と言うプラカードの標語が何故か心に残っているのは、あまりにも日本臣民の心からかけ離れた不届きで罰当たりな標語を掲げて皇居に押し掛けた違和感からでしょうか?
本日現在のウイキペデイアによると以下のとおりです。
「プラカード事件(プラカードじけん)とは、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業[1]社員・松島松太郎が掲げた「ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」
そもそも国内の食糧総生産量が人口に見合わず、戦前は台湾や朝鮮半島から輸入していたため、また外地からの復員の分、人口が増えるわけであり、満足な供給には無理があった。農民も復員してきているとは言え、今すぐに食糧が増えるわけではなく、誰が大臣になっても解決策は無かった。大会翌日の5月20日、GHQ最高司令官マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し、社会党と共産党を牽制した。これによりデモ隊は霧散した。
既にGHQはこの食糧不足の危機的状況を把握しており、最も欠乏していた北海道から順次、食料供給を始めており、食糧問題の特別使節団として派遣されていたハーバート・フーヴァー元大統領は、90万トン近い食料を日本に供給すべき、と進言しており、実際に実行されている。 このデモはそれらを無視した形で、当初から政治的目的を持って行われた。」
戦争に負けたからと言って(恐れ多くも)天皇陛下の名を呼び捨てに書いて、皇居に押し掛け天皇に対して直截面会を求めるなどるなど日本国民の多くにとってあるまじき行為ですから・・その表現にショックを受けた人が多かった・・共産党系はソモソモ日本民族の一体感を持っていない人の集まり・・権力が弱ればその隙を突きたい人たちであることを自己証明した事件だったかも知れません。
「イザ鎌倉!」と言うときに「待ってました!」とばかりに敵方に馳せ参じる武士のような人も一定率いるでしょう。
今でもそうですが、選挙の結果を無視したデモ呼びかけで国会前に5000人〜1万人も集まると民意を証明していると左翼系文化人が自慢しますが、当時の1億人口の内暴徒が皇居前に1〜2万人集まったとしてもそれが当時の日本人の大方の意思だったことには到底なりません。
民族分断したいアメリカの入れ知恵で、戦争責任追及論に迎合するグループは今でも文化人には多いですが、そう言う使嗾に乗る人は国民の中の例外に留まっています。
選挙結果こそ掛け値のない民意ですが、社会党支持率が2%前後しかない状態が、実際を証明しています。

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