司法権の限界16・謙抑性4(民主主義の基礎1)

司法権のあり方に戻りますと、日経新聞に出ていた訴訟手続外の「心象風景」を重視する裁判官が増えて来ると結局はマスコミさえ味方に付ければ、民意を知るために行なわれた選挙の結果を覆すことが出来る・・政治の負けを挽回できる図式になります。
こう言う繰り返しの結果、政治論争をドンドン司法に広げて行くと政治と司法の限界がなくなってきます。
この結果・・司法権が肥大して行き政治論争のうち重要なテーマであればあるほど憲法違反の言いがかりをつけ易いことですから、重要事項については全て司法権が最終決定する場になってしまいます。
16年3月27日紹介したように右翼から批判されている日経新聞でさえも「裁判所が国民心象を認定する・・」危惧を示しているように民意吸収の場になってしまって良いか・・裁判所周辺デモやマスコミ報道だけを民意のように誤解させてしまう訴訟戦術は民意を覆す=国民主権の憲法理念を空洞化させてしまう・・民主主義を破壊する悪い戦術ではないかの疑問が生じます。
こう言う実質的憲法破壊勢力を見ると、何かと憲法違反と言い立てる集団構成員に多いように見える・・冗談みたいな集団です。
買収に応じる役人が悪いのは当然としても、これを誘惑する贈賄提供する方も汚職罪として処罰されるになっているように、民意は選挙で決めるべきが憲法の原理なのに選挙結果無視の裁判を求めるのが日常化すると民主主義が死滅します。
憲法は下位目的の運動に誘惑される裁判官個人の責任だけと言い切れるのでしょうか?
人権団体?がアメリカの大統領選挙の結果を認めないと言う主張で、連日激しい反トランプデモを繰り広げていますが、人権団体の主張は憲法をより所にすることが多いのでですが、出たばかりの選挙結果を認めないと言うデモをする人たちが憲法を拠り所に運動する集団って、どこかおかしい印象です。
選挙後の政策が憲法に反すると言うならば分りますが、選挙後まだ何もしていない選挙の翌日から、反トランプ運動するのでは、何のための選挙だったのか・選挙制度否定論と同じです。
自分の意見に合わない集団には表現の自由や人権を認める必要がないと言う(気に入らないデモは暴力的妨害しても良いし、中ソの核実験や公害・人権侵害等々不都合な事柄には一切触れないなど)偏頗な我が国の人権団体と同じ偏頗集団に見えます。
大統領選挙後のアメリカの騒動を見ていると、サッカーの試合に負けた方のフーリガンが暴れているようで、我が国のような落ち着いた民主主義社会(・・合議を尽くす社会)になるには、数千年単位で遅れているから無理が出て来たと見えます。
過去何世紀もアメリカが何とかなっていたのは、産業革命後必要になった豊富な資源+労働力の(移民をドンドン入れることによって補給する)供給力、右肩上がりの成長経済によって、不満が隠されていたに過ぎません。
アメリカの成長ドンか・・ニクソンショック後で言えば約30年以上経過で遂に国民亀裂を隠し切れなくなって来た印象です。
中国でもサウジでも、どこでも成長しておこぼれをある程度分配出来ている限り不満は起きません・・。
配分が減り大災害や敗戦などで、国民が困り切った極限状態で国民がどのような行動をとるかで民度・・元々の信頼関係が試されます。
イザとなれば、団結するのか分裂するのか、略奪に走るのか助け合うのか、国外脱出に走るのかが民度・信頼関係の簡単なバロメーターです。
中国でも韓国でも少しでもお金を造り、子供を如何にして国外脱出させるかが大きな目標になっている社会です。
民主主義とは本来「信なくんば立たず」信頼関係があってこそ定着するものです。
信頼していないがお金をくれる(補助金などで分配してくれる)限度で支持すると言うのでは、実質的賄賂を合法化しただけの社会です。
実利優先社会では、相手が落ち目になると(あるいは韓国やアメリカの大統領のように任期満了近くなるとレームダック状態になります)潮が引くように去って行きます。
論語
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
書き下し文
子貢(しこう)、政(せい)を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者(さんしゃ)に於(おい)て何(いず)れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者(にしゃ)に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆死あり、民は信なくんば立たず。
イザとなると何から順に棄てますかと聞かれて孔子様が、先ずは「兵力」次に「食糧」→「信頼は最後まで死守すべし」と言うことです。
孔子様は兵や食糧よりも、最上の政治は「信」であると喝破しています。
我が国では、このフレーズが好きな人が多い・・そうあるべきと考えている政治家が多いので人口に膾炙していますが、肝腎の中国では個人・人民としては最優先選択肢は食糧=財貨でしょう。
諸子百家時代には中国でも立派な考えが出たコトを何回も書いていますが、肝腎の中国現地では良いものを誰も顧みない・下劣な考えが尊重される民族になり下がったのは構成する民度によります。
今でも中国に立派な人が皆無とは思えません・・要は民族総合評価時代になっているので、少しくらい立派な人がいても埋没して守銭奴的中国人ばかり目立つのです。
立派な古典を読んでも、その中のどこに感動するかは読む人の能力によるのと同じです。
シックな洋服と成金趣味の洋服がある場合どちらを選ぶかは客の品性が決めます。
現在中国の為政者としては、不満を抑えるためとあちこちに武張るコトによって国益・国富を損じても平気・・兵力を棄てるよりは兵力拡大が優先課題のようですが・・上記孔子様の意見によれば、上中下のランクで言えば最下策です。
他方国民の関心は食糧・実利・守銭奴的関心が際立った民族ですが、為政者は外国に威張るために国富を損じる=国民の腹に入るものが減っても兵力強大化に邁進しているのは矛盾関係ですから、経済破綻が現実化して来ると無理が来ます。
欧米の自慢する民主主義と言っても「相互信頼」によるものではなく実利で民心を釣る政治ですから、中国人民同様の中〜下等度の民度向けです。
アメリカの「スクラップ&ビルド」と言うとなんか格好いい印象で教えられましたが、状況が悪くなるとその町をゴーストタウンにして棄てて行く安易な実利社会を表現するものです。

司法権の限界15・謙抑性3

法は元々国民主権思想=国民の代表である国会が作るものであって、司法が法を作ることは憲法では予定されていません。
司法の限界・自制の必要性に対する関心で16年3月11日以降このシリーズを書いてきましたが、タマタマ日経新聞3月20日朝刊2pに「縮む政治と膨らむ司法」の大きな囲み記事で重要事項が全て国会ではなく、(選挙制度や沖縄普天間基地訴訟や家族のあり方等々)司法が最終的に決めて行く社会になっていると言うテーマの記事が出ました。
(この辺・・ここから先は3月に書いていた原稿が先送りになっていた分が、今・・8ヶ月遅れになっているので、引用新聞記事が古くなっています)
マスコミは司法に対する批判は控えめですから結論を書いていませんが、司法に対する賞讃記事と言うよりは、最近司法がのさばり過ぎていないか?と言う私と同様の関心が背景にあるように思われます。
マスコミも私にとって批判対象ばかりではなく、意外に評価出来る意見もあります。
有明海の干拓事業も本来政治で決めるべきことを司法権が無自覚に介入して来たことによって、これを利用する勢力の思惑によって、司法判断が区々に分かれてしまい、矛盾関係になって収拾のつかない状態になっています。
司法は当事者が上告しない限り独自に最高裁で統一意見を出せません・・政治勢力の思惑によって、有利な判決を悪用しようと思えば、民主党政権時代の菅元総理のように上告させなければ高裁で確定させてしまえます。
司法と言うのは誰かが訴え出ない限り自分から進んで(職権で)裁けない仕組みですから、いつでも最高裁で統一見解を出せる訳ではありません。
民事では、関係者がいくら困っていても当事者からの申し立てがない限り裁判所が進んで裁判に出来ない仕組みです(民訴246条)し、刑事件でさえも検察官からの公訴提起がない限り裁判所が勝手に裁判(刑訴378条1項3号)出来ません。
同じく高裁も最高裁も当事者から不服申し立てがない限り裁判が始まりません。
民事訴訟法
(判決事項)
第二百四十六条  裁判所は、当事者が申し立てていない事項について、判決をすることができない。
刑事訴訟法
第三百七十八条  左の事由があることを理由として控訴の申立をした場合には、控訴趣意書に、訴訟記録及び原裁判所において取り調べた証拠に現われている事実であつてその事由があることを信ずるに足りるものを援用しなければならない。
一  不法に管轄又は管轄違を認めたこと。
二  不法に、公訴を受理し、又はこれを棄却したこと。
三  審判の請求を受けた事件について判決をせず、又は審判の請求を受けない事件について判決をしたこと。
四  判決に理由を附せず、又は理由にくいちがいがあること。
たまたま諫早訴訟が矛盾関係で確定してしまったのは、直接的には当事者である政治家(菅政権)の介入で変なところで敢えて確定させてしまったことによるもので、司法に責任がないと言うスタンスですが、ソモソモ、政治問題に司法が乗っかって行くことが間違いだったように私は考えています。
・・裁判所は政治論争の場ではないとして、政治論を相手にしないスタンスで望むべきだったのです。
訴えさえあれば何でも口出しをするのではなく、砂川事件判決のようにこれは「政治の領分に司法は関知しない」と、謙抑性を発揮すべきだったのでないかの反省が必要です。
司法が出しゃばり過ぎていないかの意見を上記新聞記事には書いてはいませんが、マスコミがここまで書くようになったことを司法関係者にとっては心すべき段階に来ています。
介護責任・・家族に鉄道事故の損害賠償義務があると言う名古屋高裁の判断も社会の実態から見ておかしなものでしたが、仮処分ではなかったので、すぐに効力が出ずに最後に最高裁で覆ったので実害がありませんでしたが、ここでは特に仮処分の即時効発生の実害を書いています。
もしも介護責任の裁判も仮処分申請していて認められていれば、即時に効果が出てしまっていたことになりますが、この事件の場合にはまだ金銭支払だけのことですので最後に負ければ鉄道会社には支払能力があるので実害はなかったでしょう。
原発の場合、4年も5年も停止させておいて最後に負けたときに住民側にはその巨額損害賠償能力がないことは明らかです。
こう言う重大な結果の出る事柄について・・算数のように百人いれば百人の意見の一致している自明のことではなく国論の分裂していることについて、仮処分で執行してしまうことに対する間違いの恐れがないと言う自信が何故あるかの疑問です。
話題が変わりますが、隣人訴訟の三重地裁、原発仮処分の出た大津地裁、福井地裁など小規模裁判所では、非常識な裁判が連続する印象を持ちませんか?
何回も書きますが、原発賛成か否定すべきかの結論が非常識と言うのではなく、神様しか分らないようなことは民意・・政治で決めるべきなのに裁判所が神様になったつもりで決めるのが非常識でないかと言うだけです。
民主主義とはそう言うことであって、民意の多数で決めて行くしかないのです。
多数の民意獲得に負けた方が敗者復活戦のように司法を利用するのは邪道ですし、これに便乗して司法が口出しするのも邪道です。
反対派が全国津々浦々で仮処分を仕掛けると、どこか一件でもこれに引っかかって停止の仮処分が出る可能性があります。
しかも仮処分の場合即時効があるので、(僻地立地特性のある原発や自衛隊基地→小さな裁判所が原則)左翼系は色めき立っていますし、(既に全国で裁判闘争?を始めています)大津地裁の決定が出るとこれを嫌気してすぐに電力株下落になっています。
裁判闘争と言う一般に利用されている標語自体から明らかなように,裁判闘争を仕掛ける勢力は、政治問題を司法に持ち込んで「闘争の場」にしようとしていることを自白しています。
以下は、国民救援会「裁判闘争に勝つ」とは何か 」
  第21回裁判勝利をめざす全国交流集会 記念講演からの引用です。
「・・私たちは裁判で必ず市民、国民、労働者に支持署名を求めますが、裁判での法廷闘争ですべてが決せられるのであれば、何も法廷外で汗水垂らして署名集めなんてすることはないです。やはり主戦場は法廷の外なんです。裁判官ほど世論を気にする官僚というのはいないんじゃないでしょうか。そこに支持される判決を自分が書くという勇気が求められるわけです。その勇気は、ビラまき、宣伝、報道、要請、署名などによって、「こんなにもあなたの勇気を支え、支持している国民がいますよ」ということを見える形で裁判所に示すことで培われ、その中で、裁判官が正義と公平を貫く判決というものを模索し、決断していくんだという ことを強調したいと思います。」
上記講演者の貴重な運動が日本社会の人権擁護に役立って来た結果・功績自体を私もある程度敬意を持って認めますが、このような訴訟手続外の「場外闘争」が原則になって来ると、司法判断の名を借りた政治運動そのものになるリスクもあります。
政治と司法のけじめを誰が・・どのような基準でつけるかの問題が起きます。
政治で負けたらそのテーマを司法に持ち込み、司法でも負けそうになると場外のマスコミによって勝負する・・マスコミを牛耳れば良いと言う戦術が多用され、更には国連でロビー活動して、国連調査官を招聘するなど際限がありません。
マスコミに干されると困るので、誰も本当の意見を言えません(マスコミに出る識者はマスコミの振り付けどおりしか発言していません)が国民は真実を知っている・これが明らかになるのがサイレンとマジョリテイー→秘密選挙の醍醐味です。
結局は左翼支配のマスコミによる歴史修正主義者・レイテイストなどなどのレッテル張りが横行しているので、怖くてマスコミの意に反した意見や疑問を一切言えないマスコミ空間・・言論の自由が死んでいる状態を表したのが、9日に判明したアメリカ大統領選の結果です。
大統領選の結果に関しては国益に絡んでの議論が活発ですが、民主主義の動向と言う視点で見るとマスコミの作り上げた虚構民主主義の敗退が大きなテーマになるべきです。
マスコミ主導のグロ−バリズム拡大・・移民増加その他各種人権保護と言う名の下に気に入らない意見をレイシストやネオナチその他のレッテル張りで国民の発言を封じて来たコトに対する不満を抱いていたのに、マスコミはこれを黙殺し続けていた結果、選挙(EUでもマスコミの必死の誘導にも関わらず移民流入反対論が大きくなっています)で覆った点です。
日本ではネット言論ではマスコミに迎合しない人が早くからトランプ氏優勢を論じている人がいましたが、日本を含めて世界中のマスコミ・論者はこぞってクリントン支持の方向で、低レベル報道に如何にもどちらも人気がないかの報道に終始してトランプ氏の正当な正論を取り上げていませんでした。
トランプ氏のイメージ悪化に努力していましたが、米国民の多くの人がトランプ氏を支持していたことを(私の知る限り)全ての世論調査会社が敢えて虚偽報道していたかあるいは見誤っていた・・国民が怖くて本音を言えないほど言論空間が窒息していることを証明しました。
(イギリスのEU離脱国民投票も同様ですが、世論調査会社が虚偽報道していたとは思えませんので・・何故調査能力が落ちているかの点検が必須です)
EU離脱〜EUの難民反対〜今回のアメリカの動きは、選挙で認められなくとも、マスコミを抱き込んで報道を続ければ司法がそれに呼応して修正する図式の構築を目指す人権活動家の運動の行過ぎた結果に国民がノーを突きつけたのではないでしょうか?
反グローバリズム・格差反対とマスコミは宣伝しますが、今の時代完全鎖国は不可能ですから反グローバルと言っても程度問題でしかありませんし、格差反対と言うだけでどうなるものでもありません。
金融資本・ユダヤ支配反対の意味もあったでしょうが、さしあたりの対象は金融資本の手先となっているマスコミに対する反マスコミがテストされる結果の選挙であったと言うのが私の印象です。
正々堂々と論争して政党が国政の場で負けた以上は潔く結果に従うべきであって姑息な土俵外の邪魔・ケチを付けるべきではない・・これが民主主議のルールだと言う意見を11月4日まで書いて来ました。
クリントン氏が有利と言う筋書きのときにマスコミが投票結果を認めるのか?とトランプ氏に畳み掛けていたことをその頃紹介しましたが、トランプ氏が勝つと民主党支持者が認められないと言う抗議?でナチスを模した左翼系得意のレッテル張りをして、頻りにデモを繰り広げている様子が報道されています。
マスコミとしては、負けを認められなくて、トランプ氏には民意の支持がないと言う虚構を強調したいのでしょう。
選挙に負けた方が何の根拠で「認められない」と言うデモをしているのか不思議です。
左翼系・マスコミはじぶんの都合によって「民意」だ「人権」だと言うご都合主義があることをこの数日書いて来ましたが、その本質がアメリカでも出ています。

司法権の限界14・謙抑性2

国家としてのあるべき制度論に戻りますと、何でも裁判で決着を付ける・・今年の春に出た原発仮処分について、国論の割れている重要テーマを選挙の洗礼を受けていない裁判所が最終決定するのは国民主権の原理から見ておかしな制度であること、ましてや、過疎地の裁判官が仮処分で決めて一時停止させてしまうのは司法権の乱用ではないか?と言う関心で書いてきました。
「裁判官の良心とは何か?」から入って、「April 7, 2016「司法権の限界13(人材と身分保障1」から身分保障〜「裁判闘争と合法的テロ?1」〜「地方自治制度の悪用2(国家意思の不貫徹)」を書いている途中でテーマが横に逸れていましたが このシリーズのテーマと基礎思考が同じ・・その続きでもあるし、ある程度繰り返しになっています。
沖縄の普天間基地移転が裁判で争われているのも、公有水面埋め立て工事許可権限・取り消し権限が知事にある・・国は県の構成員・・住民や企業ではないのに、国が県の許可を受けねばならない変な仕組みを前提に裁判しているようですから、この仕組み自体が狂っているから漫画っぽい争いになっているのです。
※ただし沖縄での知事と国の訴訟内容を直截知っている訳ではありませんので、本当の争点を知りません・・ここは憶測にわたる意見です。
http://www.news24.jp/feature/110/feature110_01.html2016年7月22日 12:20
「米軍普天間基地の名護市辺野古への移設をめぐり、国が指示した「埋め立て承認取り消しの撤回」を行わないのは違法だとして、22日、国が沖縄県を再提訴した。移設については、国と県が法廷で対立していたが、今年3月、和解が成立していた。」
上記によると国に指示権があるとしても、知事が従わないときには裁判しないと効果が出ない制度らしいです・・この裁判の必要により、工事が約2年遅れると言う見通しもあります。
・この辺のテーマは今年の春頃原発運転停止仮処分が出たときにMarch 26, 2016「高浜原発停止と司法権の限界1」以下で書き始め、その後国家的テーマについて過疎地の裁判官→過疎地自治体首長・が決めるべきことか?
・・地元にも大きな影響があるので、ある程度地元意見を尊重すべきですが、最終決定権まで地元住民持つことが妥当かのテーマで、April 20, 2016「地方自治制度の悪用2(国家意思の不貫徹)」前後で連載しました。
以上考えて行くと、自治体の各種の許認可事項については、国を何故例外扱いの制度設計にしていないのか?の疑問です。
占領軍は地方自治を置き土産として決めただけでしたが、その後を受け継いだ学者が拡大発展させて中央政府をがんじがらめにして各地の自治体の協力がないと政府が何も出来ないようにドンドンとガン細胞のように拡大させて来た印象を受けます。
国策として国権の最高機関である国会の議論の結果、過半数以上の支持で決まったことでも、全国の一部・人口比で言えば数百分の1もない過疎地の1つが反対すると全国的国防網に穴があいてしまう仕組みが統一国家のあり方として合理的である筈がありません。
与那国島の例で言えば人口1500ですから約8万分の1の人口です。
10月16日に紹介した災害対策法に「協力」と言う文言が明記されていますが、政府が決めてもあらゆることで各自治体に協力を求めるしか出来ないのが戦後法制度の骨格です。
今は末端の拒否権が上記のとおり事実上(裁判その他の是正手続が一応ありますが・・)認められている上に、住民が拒否するかどうか決める投票資格が3ヶ月前からその自治体に居住していれば良いと言う緩い要件・・その上外国人にまで投票権を認める自治体がある・・与那国島の例を紹介して書いています。
ここで司法権の謙抑性に戻りますが、March 29, 2016,司法権の限界4(謙抑性1)の続きです。
原発稼働基準は、政治の手続に則って新基準が合法的に設定されているとした場合、司法権はこの基準に合致するかどうかしか判断する権利がない・・基準そのものを批判して政治決定を「間違っている」と決定するのは憲法の予定する司法権限の逸脱であって、許されないと思います。
喩えば、金融政策でもその結果どうなるかを必ずしも専門家も分っていません・・市場が専門家の予想どおり動く保障はありませんが、専門家の意見で兎も角やって見るしかないものです。
私有財産権侵害といえば憲法問題ですから、何でも気に入らなければ裁判出来ることになってしまいます。
司法が日銀の金融緩和決定が(いくら何でもマイナス金利は行き過ぎだとして)間違っている(最近はやりの「国民の理解を得られていない」と言う理由で?)として、(金利が下がるのは預金者の権利侵害には違いないですが・・・)停止を命じるのは、司法権の逸脱です。
年末の日韓合意で言えば、間違っている・・憲法違反として、司法権が無効判決する事自体が許されません。
社会のあり方(無限に近い膨大な要素判断が必要)の判断は民意を受けた政治・国会意思→法で決めて行くべきであって、司法が法の内容が民意にあっているかどうかを決めつける権利がありません。
法と言うものの多くは実際上の必要性が認識されてから、利害関係者双方の綱引きの結果規制法が制定されるのが一般的ですから、実際の不都合発生よりも遅れるのは仕方がないことです。
法がないからと言って利害調整する機関・民意吸収の場でない司法権が前もって判断するのは憲法上許されません。
これが罪刑法定主義の基礎理念で、人権保障の意味で、一般に事後法処罰は出来ないと言われますが、それは結果的効果から見た意見に過ぎません。
法理論・本質的には、司法と政治を分ける基礎思想・・司法は過去の事実を見て当時の状況から見て、違憲判断や有罪判決するのが原則的業務で、将来こうなるべきとして法改正を要求することは許されません。
最近出た非嫡出子の相続分が半分しかない点に関する違憲決定も、当該事件の相続開始時に既に差別するべき合理性が失なわれていた・・国民意識が変化していたと言う過去の事実認定です。
最高裁判所大法廷平成25年9月4日決定
「・・・以上を総合すれば,遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。」

上記のとおり、判決時の約12年前の事実認定であって将来このようにすべきと言う判決ではありません。

司法権の限界4(謙抑性1)

大学入試はテストによるしかない・・しかもテストにもルールがある・問題を予め教えたり、個人的耳打ち情報や裏金・コネで特定生徒の合格を決めたらいけないように、裁判も訴訟手続に出た資料以外の材料を判断材料にするのがいけないのが基本です。
野球や相撲でも大方ルールがあり、裁判には勿論ルールがある・・これを決めているのが訴訟法です。
訴訟手続を踏んで出されていない心象風景を判断材料にするのはルール違反です・・野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つのであって、別の人が投げた球を打ってもホームランやヒットにカウントされませんし、料理コンペでは同じ具材条件で競うものであって、こっそり別の調味料を加えるのはルール違反です。
ましてや政治決定の優劣を最終審査する権利は司法にはありません。
料理審査員が政治に口出ししているようなものです。
料理やスポーツ等の審査員が政治意見を言っても国家意思にはならず影響力程度のことですが、司法が判決で政治を持ち込むと国家意思の最終決定・・権力行使になるので、性質が違ってきます。
司法権の限界を越える=越権行為をする裁判官は一部の不心得者に限定されるとしても、仮に裁判官全体の一部の人でも自分の個人的主張を通すために裁判形式を利用すると、国家権力・強制力として効力が生じるので大変な影響力があります。
医師の独断による安楽死実行は、規範的効力がなく逆に規範により処罰される犯罪行為としてのインパクトでしかない・・被害者は個々人だけですが、国家意思としての司法決定は全国民の行動規範・・法の解釈となるので影響が大きくなります。
民間や行政組織は組織的決定を経ないで外部発表するのはルール違反ですが、司法・・裁判官は単独(多くは単独事件ですし、合議体でも対等者間ではなく経験10年以上の格差のある先輩後輩の3人でしかないことをMarch 12, 201「個人責任と組織の関係3(仮処分制度の領域1)」のコラムで紹介しました)で国家意思として強制力を持つところが大違いです。
医師は病気を治すのが本業ですが、人の生死に関連しているうちに生死を左右出来る権利があるかのように振る舞うようになると怖いものです。
医師の個人信念で安楽死をさせている事件が時々殺人罪のニュースになりますが、医師は生死の場に多く関わっているだけであって、生死を決める優越的判断権を有している訳ではありません。
テーマがズレますので簡潔に法的整理すれば、「自死」に関してどう言う場合に自己決定権を認めるべきかその援助を容認するかの国民合意形成分野です。
刑法
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条  人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
国民合意がないのに、特定医師あるいは医師会が勝手に国民意思を決めて実行する権利はありません。
このように一定の力を持つと限界をはみ出す人が生じ易くなります。
武道家がグレて違法行為に走ってしまうのに対抗する姿三四郎の映画や、チャンバラ映画のようなものです。
27日に紹介した日経新聞の「春秋の筆法?」によれば、大津地裁の仮処分決定は「国民の心象風景を認定しているように見える」ようですが、司法権には国民意思を認定して法をどのように創造すべきかを決める権利がなく、既存の法に該当するかどうかを「訴訟手続によって得た証拠を「自由心証」で評価した事実認定権限しかありません。
訴訟手続によらない心象形成・・独断決定は禁止されています。
とは言っても条文自体の解釈・・学問的甲論乙駁も定説もない分野では、裁判官の個人信条が反映され易くなる危険があります。
名古屋だったか三重県だったかで友人の子供を預かった間に起きた事故で、損害賠償を認めた事例が世間を騒がせました。
名古屋高裁の妻や長男夫婦の介護責任を認定した事件のように司法判断がおかしい・・司法権がそう言うことまで決めていいのかの疑問を持つ人が多いでしょう。
国民的議論がまだ熟していない段階で、司法が勇気を持って?率先判断を示すと「法」を創造することになります。
憲法上司法の最終決定が国の最終決定となることから、国は司法の決定に従わねばならない・・これを是正する方法がない分・・その分司法には自己規制・・謙抑性と言われています・・が要請されます。
憲法が司法に法解釈の最終決定権を与えた・最終決定機関と言うとはこれが誤っていても是正する手段が用意されていないことになりますから、その代わりに内在原理として自己規制・謙抑性が要請される原理ですが、最近これが狂っていないか、社会的に疑問をもたれる判例が時々出ます。
社会のあり方に関して国民議論が熟していない上に法の基準がない場合には、司法が率先して基準・法を定立しようとするのはおこがましい・・国民主権原理に反しています。

司法権の限界2((良心に従う義務)

いつ地震が来るかその程度も分らないならば専門家がいらないか?と言うとそうではなく、確定出来ないと言うだけで専門家情報はそれなりに意味があります。
喩えば、インテリジェンス情報で言えば、それをどういう風に深読みし現実政治に応用するかは政治家の役割と言うだけで専門情報自体不要でありません。
あるいは大規模地震予測不能との比較で言えば、競馬は走ってみないと分らないと言うのが一般的理解で、そうとすれば生まれて直ぐの庭先取引あるいは競り段階ではケイバ馬の将来の個別勝敗はなおさら予測不能な例ですが、それでもプロの世界では海のものとも山のものとも分らない段階の庭先取引が主流になっている・・その後一定の競り値がついていて、競りでも値がつかないようなバカ安い馬が三冠馬どころかG1でさえ勝つ確率がゼロに近い実態を見れば、一人一人で見れば、当たり外れは大きいものの大勢のプロの目による平均値になれば、結果的に大方の馬主の予想があたっていると言えます。
ですから「不確定」と言ってもプロの方が不確定の幅が狭いことになります。
以上のように分らないなりに専門家の識見・・それも大勢の総合判断が重要になります。
それぞれの専門分野の知識・情報を総合すれば良いかと言うと、科学的に決め切れない分野こそ科学者の総合判断を前提にゴーかストップか静観するかの最終判断は、民意を吸収している政治家が担当するべきです。
専門家の意見は重要ですが、民意吸収や利害調整能力のない専門家が最終決定するのは(国民主権原理からして)行き過ぎで、民意を受けた政治とのミックスで決めて行くのが合理的です。
今では、いろんな分野で専門化が進んでいるので、各種審議会や委員会等の透明的制度設計で決めて行くしかない分野が多くなっているのはそれ自体合理的です。
原発の安全性等は、・・地震学者のみならず設備そのものの安全性・・それには地震波がどのように作用すると原子炉の構造(に対する深い知見)にどのような作用を及ぼすかなど総合的知見が必須です・・マサに各種専門家と政治家決断力の合作が必要な分野です。
これを「裁判官と科学者の合作」あるいは「裁判官が上段の席にいてせいぜい2〜3人の学者意見を参考として聞いた上で裁定する」方が優越性があるとする根拠は何か?です。
科学者総動員の英知を結集した上での政治決定に対して、実害の生じる前の段階で失敗しないとは言い切れないと言う論理を前面に出して、失敗可能性がある限り司法権が事前停止命令できるとなれば、人間活動の全否定に繋がりかねないので神様のような超越的権限を憲法が与えていることになります。
元は審判は神判でもあり神託から始まったものとしても、これが王権そのものとなった(イギリスでキングズベンチと言うのがその名残です)ものの、次第に合理化されて王権の恣意によることは出来ない専門家の職分になって行きました。
その後王権が制限され遂には国民主権国家になって行ったことは周知のとおりですが、これは経済分野の市場原理・「神の手」論の政治分野への応用です。
民意の総合をどうやって知るか?
裁判で事実を知るために訴訟手続があるように民意を知る手続としては選挙制度があって、これによって選任された政治家が民意の代表者となり国会で民意の総合的結果としての法を創造する仕組みです。
司法の分野においては、民意を直截吸収することを逆に禁止され、専門家は、法廷に現れた証拠のみを前提に判定するように手続法(証拠法則)が整備され、しかも法・憲法と良心に従って判断する義務が課せられています。
専門家・・司法官が従うように義務づけられている法は、民意を吸収した国会で作ったものですし憲法も国会経由で作られます。
以上によれば、司法官は「法・憲法と良心」に反して直截民意を慮って判断することは許されません。
憲法は、国会を唯一の民意吸収装置として位置づけた上で、国権の最高機関と定めているのであって、民主主義国家においては至極当然のことです。
三権分立と言うのは、学者が比喩的に言っているだけであって、日本は国民主権国家であり、国民意思を反映する国会が最高意思決定機関である・この決定意思=法に従うべきは疑いを容れません。

憲法
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第七十六条  すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2  特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3  すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

日経新聞3月12日朝刊一面の「春秋」欄によれば、司法が福島原発事故について国民が感じている重みを自由「心証」でなく「心象」風景として感じたことを反映したのだろうという趣旨で書いています。
大手新聞によるこの時点での遠慮がちで洗練された評価が見えて面白い書き方です。
※ただし、翌13日朝刊社説では、明白に仮処分決定を批判する意見を書いていますので、この間に決定書を吟味出来たのでしょう。
憲法は司法権が「国民心象を感じ取る能力」が政治家よりすぐれているとは認めていない・・心象感受性を特に高いとして司法権に優越する権利を与えていません。
むしろ上記のとおり、司法官は厳格な証拠法則に従って入手した証拠以外から私的に入手した証拠で事実認定してはいけないルールですから、「心象風景」と言う私的な感想や主観で判断するのは憲法で定められた「法と良心のみに従う」義務に違反しています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC