郡区市町村制

 

明治5年の大区小区制は地域の実情(歴史経緯など)を無視して人口数だけを基準にフランスの制度を性急に導入したもので実情に合わなかったことから、明治11年には元の郡区町村制に戻り、名称も旧によることになります。
第4条の区制は今の東京や政令市同様に人口多数の場合人工的にいくつかに区切る趣旨で、大都会にだけ区制が残りこれが現在の東京23区や政令市の区などの先祖になります。
郡区町村編制法

明治11年太政官布告 第17号  1878(明治11)年7月22日付

郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事

第1条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第3条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第4条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス (※)
第5条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第6条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得(※

明治初期には何もかもフランス方式で始まったのですが、形式的な大区小区制も実情に合わないことから徐々に修正されているうちに地方組織はドイツの地方制度を模範とする方式に修正されて行きます。
上記郡区市町村制への変更は大日本帝国憲法がドイツ(プロイセン)式にとして決着したのを分岐点として明治20年代中期頃から完全にドイツ式に変わって行く先がけ・萌芽だったと位置づけられます。
明治維新では当初いろんな分野でフランス式の制度・文明受容で始まったのですが、そのまま模倣するのでは無理が出て来ます。
明治10年代からあちこちで修正作業が進んでいたのですが、それでも明治23年に首の皮一枚で漸くフランス式を残して・・修正思想が有力になって来たので編纂作業中に我が国の習俗に合わせた条文にかなり変更していたのですが・・成立した民法典が成立後に大反対運動が起こって明治25年には施行延期されてしまいます。
(民法典論争についてはこれまで何回も紹介しています)
西南戦争が不平士族反乱の最後の事件になったように、民法典は社会の基礎的文化のしきたりを決めるものですから、この大論争はフランス式文明受容方向で始まった明治維新が、ドイツ式文明受容へ転換する象徴的事件・・トドメであったことになります。
民法典論争は明治25年に決着がついて施行延期が決まるのですが、これこそがフランス式文明との決別が最終的に決まった瞬間と言えるように思えます。
施行延期して出来上がった改正民法(現行法)については、大騒ぎしたにしては、内容的にそれほど変わっていないと言う意見が多いのですが、私のような半素人から見れば法典編纂の形式が大幅に変わっていることがすぐ目につきます。
この形式こそフランス式からドイツ式に変わった大きな特徴です。
ところで学派的に見ると、民法典論争はドイツ法学派とフランス法学派との論争だったのではなく、英米法学派との論争だったのですが、改正作業が終わってみるとドイツ法学に入れ替わってしまい、東大の学者層もフランス法系からドイツ法学者に入れ替わって行きます。
こうして第二次世界大戦後アメリカ系の学問が入ってくるまでは法学政治学に留まらず医学であれ、科学であれ、すべてドイツ系学者が幅を利かす時代になったのです。
明治5年に大区小区制を決めたときから戸長の仕事は戸籍事務だけではなくいわゆる末端行政事務を担当するようになりますが、このときは伝統に従って名主間の推薦による戸長でしたので、地方名望家が中心・・政治意識の高い地方政治家の卵でした。
上記郡区市町村制でも町村の長を戸長とし、戸長役場を設けましたが民選でしたから、従来通り地方名望家・豪農が就任する慣例でした。
戸長役場制度を設けても予算がないので、戸長の自宅屋敷を役場に併用する例が多かったようです。
彼らは末端の行政組織員でありながら地元利益の代弁者として政府方針に逆らう・・自由民権運動(・・今で言う野党的運動)の人材供給源にもなる矛盾した関係でした。
古代以来の草の根民主主義に馴染んで来た地方有力者にとっては、今後は中央集権制だからと言って専制的に上から押し付けてくる乱暴なやり方に不満を持ちやすい立場でした。
そこで、政府は1884年町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に・・・平均5町村を併合して?約500戸に戸長1名を置く(連合戸長役場)制度に変更すると共にこの時に戸長自宅を役場に併用することを禁止して、地元に根が生えていない人・・生粋の官吏を中央から派遣出来るようにしました。
戸籍簿も戸長の自宅から役場管理に移しました。
環我々事件に関連して古い記録が必要なときに戸長さんの家に行くと出てくることが多いのですが、この時に記録を移さないで戸長自宅に残ったままになっている地域が多かったことによるものです。
ここでは法に従って戸長と書いていますが、依頼者の話では区長さんの家に行くと・・・と話す人が多いです。
(私自身もMarch 10, 2011「末端行政組織の整備(区制1)」で書いたように区長を何故家を現す戸の長と言うようになったのか理解出来ていません)
文字を見ないで理解している人にとっては、区の長だから区長と理解している人の方が多いのです。
政府の末端組織である事を貫徹させるために民選から知事の任命による官選・・忠実な行政官に移行(明治17年5月)して行き、それ迄の民選との妥協として一応推薦された中から選ぶ制度も残しました(以下の太政官達を見て下さい)が、徐々に我が国の草の根の民主主義が次第に窒息して行くのです。

明治17年太政官達第四十一号
 戸長ハ府知事県令之ヲ選任ス 
 但町村人民ヲシテ参人乃至五人ヲ選挙セシメ府知事県令其中ニ就イテ選任スル事ヲ得ベシ此旨相達候事

この戸長制度は明治22年の市制・町村制の施行(明治21年4月17日法律第1号)によって廃止される迄続きますが、市町村制に移行すると推薦の制度がなくなり100%サラリーマン・官吏になって行ったようです。
ただし、この法律の作り方は、市制と町村制を区別して事実上二つの法律のような条文構成になっていて、地方行政組織の長は官選化したとは言うものの、独立の法主体としての規定の仕方になっているようです。
(条文自体を今のところ入手していないので、本当のところは分りません。)

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