希望の党の評価(東京10区の選挙結果)

民進党や共産党は相手を批判するのは慣れているが政策を練り上げる・利害調整能力不足・・そもそも調整の経験がないのが特徴です。
「草の根の意見を大切に!」とスローガンだけは立派ですが、自分らは頭が良いと思い込んでいる・・前衛思想が基本ですから、バカな庶民意見など問題にしない基本が染み込んでいます。
「正しいことは正しい・だからこれを理解しないのは無知蒙昧なだけ・そんなバカな奴の意見など聞いても仕方がない・・押しつぶせばいい」というだけの単純論理・レーニン〜スターリンに連なる政敵抹殺・粛清正当化体質です。
銃口から権力が生まれるというテーゼです。
日本にもそういう脳構造の硬い人が一定数いるのは当然で、(安全・綺麗な社会といっても一定の犯罪が存在するように民度というのは比率の問題です)これが唯我独尊的政党の岩盤的支持基盤です。
三派系全学連の内ゲバ〜浅間山荘・連合赤軍事件も、意見の違う相手を受け入れない基本体質が行き着いた結果お互い・・殺し合うしかない・スターリン粛清の小型版になったものです。
この種の脳構造の人たちにはもともと違った意見の存在を認められない脳構造ですから、利害調整する気がないので独裁体制=恐怖政治に親和性があることが分かります。
共産主義国家=共産主義という一つの思想で統治する主張ですから、共産主義以外の思想を許さない・・独裁制になりキリスト教その他の宗教禁止したのは論理必然だったことになります。
独裁政治を主張する政党が政権を取れば独裁政治するのは当たり前です。
エリートによる指導を前提とする独善思想に凝り固まっているグループ・政党の高学歴信奉‥・党幹部や代議士候補に高学歴思考・医師・弁護士等を優先する体質もその表れです。
安保法制や特定秘密保護法関連のシリーズでも書きましたが、「憲法学者多数が違憲と言っている」という宣伝を繰り広げて、「素人は黙ってろ」と言わんかのように一般人にまともな議論をさせない思考停止誘導の政治活動方法も同根です。
安倍総理が東大卒でないことをメデイアなどでしきりに揶揄していたのもその現れでしょうし、希望の党結党騒動もメデイア応援によるスローガン・パフォーマンスだけの選挙・真面目な議論抜きの姿勢が顕著でした。
「欧米の言論の自由や民主主義.人道思想は日本列島では古代から行ってきたことに西欧が数千年以上も遅れて気がついて自慢している滑稽なものである」という意見を繰り返し書いてきましたが、わが列島民族の多くは未熟さを自己証明しているような(ポピュリズム)甘言・スローガン程度には簡単に踊りませんので、欧米の真似をしたら進んでいるかのように振る舞うイメージ頼りの政党は短時間の経過でジリ貧になるしかありません。
合理的政策提示能力のないメデイア合作によるムード幻想ふりまきにの氾濫に国民がすぐに冷めてしまったものの、慌てて作った公約は「自分の党はどういう経済政策をする」「何をする」という具体性のない空疎さから、やむなく安倍政権打倒とかアベノミクスは失敗などの批判しかなくなっていました。
使い古した「森加計問題」を言うしかなくなった時点で選挙せんを「投げた」と見るべきでしょう。
希望の党にも公約があったのですが、あまりにも幼稚すぎてメデイアも報道できなかったし希望の党の立候補者自身恥ずかしくて支持者説明できない状態が続いていました。
せいぜい伝わってくるのは「リセット」するとスローガンだけでした。
この後で公約政策集の一部を紹介しますが、読んで見ると何か主張しても言いっ放しで実現するべきプロセスを説明できない・幼稚園児が将来「〇〇になりたい」というのと似ています・・この程度のことしか言えない集団が、政党を名乗るのは無理があります。
幼稚園児の夢と違い政治家の発言に重みがあるのは、それが具体的政治に直結できる準備が済んでいる前提があるからですが、政党の公約でありながら実現性のないことを言うのでは(割安メニューだけ書いてあって店内に入ると料理提供の準備のないレストランのようで)虚偽広告・不正商法と変わりません。
ムード戦略が失速していく中で追い詰められた最後の奇策が、政策を決めないママでの希望の党への合流でした。
小池氏はこの1年間都政を停滞させた印象しかなくて何をしたか不明のまま都政そっちのけ・・実績を示す時期が来たのでそこから食い散らかして逃げる印象をまず受けたのは選挙結果を見ると私だけではなかったようです。
11月9日に紹介した文春の意見も同旨ですし、支持率急低下にたまらず11月14日ついに代表辞任表明に至ったのですが、小池氏の合理的実現性のないメデイア受けだけ狙った行動・我欲が目立ってしまった旗揚げは、その弱点を狙った老練な?民進党政治家に利用されて民進党系議員の延命に寄与しただけの結果になりました。
メデイアがしきりに小池氏を老獪な政治家と宣伝しますが、これまでメデイアの意向に沿って振り付けによって踊っていただけ・・地元密着がなくとも選挙には強かったに過ぎなかったように見えます。
小池氏は・・ドロドロした地元利害調整に汗を書いたことがない・これが身近な政治家(自民党都連)の間で人望のないと言われてきた理由でしょうし、利害調整の必要な政治家としての能力は素人政治家の域を出てない・・大差がなかったのではないでしょうか?
だから自民党政治家に比べれば稚拙な民進党系議員にすら「赤子の手をひねるかのように」手もなく利用されてしまったのです。
何よりも都内の小選挙区で惨敗どころか、これまで小池氏が連続当選して来た本拠地の選挙区で小池氏が都知事選立候補以来協力して来た元自民党の代議士若狭氏を立候補させたのに、若狭氏を大敗・落選させてしまったのですから、都民は小池氏も若狭氏も自民党員であるから当選させて来たにすぎない・個人支持・信望がほとんどなかったことが分かります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%AC%AC10%E5%8C%BA

解散日:2017年9月28日  投票日:2017年10月22日
当日有権者数:470,938人 最終投票率:52.95%(前回比:-0.61ポイント)

当落 候補者名 年齢 所属党派 新旧 得票数 得票率 惜敗率 推薦・支持 重複
鈴木隼人 40 自由民主党 91,146票
37.4%
―― 公明党
鈴木庸介 41 立憲民主党 70,168票
28.8%
77.0%
若狭勝 60 希望の党 57,901票
23.7%
63.5%
岸良信 62 日本共産党 20,828票
8.5%
22.9%
小山徹 42 無所属 2,107票
0.9%
2.3% ×
吉井利光 35 幸福実現党 1,744票
0.7%
1.9%

当日有権者数:人 最終投票率:34.85%(前回比:-18.71ポイント)

当落 候補者名 年齢 所属党派 新旧 得票数 得票率 推薦・支持
若狭勝 59 自由民主党 75,755票
60.3%
公明党
鈴木庸介 40 民進党 47,141票
37.5%
生活者ネット社会民主党
吉井利光 34 幸福実現党 2,824票
2.2%
    • 若狭は比例東京ブロック単独から鞍替え

上記2回の選挙を見れば分かるように、東京10区に出た自民立候補者は前回の選挙に出ていないので、小池氏と若狭氏の離党→希望の党結党により、今回の選挙で急遽他の地区から来た飛び込み・・現地に接点のない人と思われますが、それでも小池氏の盤石の地盤であったはずの10区で若狭氏を圧勝しています。
鈴木ハヤト氏に関するウィキペデアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%9A%BC%E4%BA%BA_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)

2014年、経済産業省を退職し、同年12月2日、第47回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックから自由民主党名簿第25位で出馬して、初当選を果たす。
2017年の第48回衆議院議員総選挙で自民党公認候補として東京10区から出馬。都民ファーストの会を支援するため自民党を離脱し、希望の党の公認候補となった若狭勝に比例復活も許さず、小選挙区初当選を果たした。セガサミーホールディングスの里見治総帥の娘婿である[3]。

上記によれば、鈴木氏は文字通り1年生議員で、しかも小選挙区では出馬すらできていない・・比例単独立候補で前回の自民党大勝の余禄で当選できた程度の人に見えます。
この程度の知名度のない若手が、小池氏の生え抜き側近として脚光を浴びている若狭氏相手の選挙区に飛び込んで圧勝したことにな
ります。

郡区市町村制

 

明治5年の大区小区制は地域の実情(歴史経緯など)を無視して人口数だけを基準にフランスの制度を性急に導入したもので実情に合わなかったことから、明治11年には元の郡区町村制に戻り、名称も旧によることになります。
第4条の区制は今の東京や政令市同様に人口多数の場合人工的にいくつかに区切る趣旨で、大都会にだけ区制が残りこれが現在の東京23区や政令市の区などの先祖になります。
郡区町村編制法

明治11年太政官布告 第17号  1878(明治11)年7月22日付

郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事

第1条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第3条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第4条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス (※)
第5条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第6条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得(※

明治初期には何もかもフランス方式で始まったのですが、形式的な大区小区制も実情に合わないことから徐々に修正されているうちに地方組織はドイツの地方制度を模範とする方式に修正されて行きます。
上記郡区市町村制への変更は大日本帝国憲法がドイツ(プロイセン)式にとして決着したのを分岐点として明治20年代中期頃から完全にドイツ式に変わって行く先がけ・萌芽だったと位置づけられます。
明治維新では当初いろんな分野でフランス式の制度・文明受容で始まったのですが、そのまま模倣するのでは無理が出て来ます。
明治10年代からあちこちで修正作業が進んでいたのですが、それでも明治23年に首の皮一枚で漸くフランス式を残して・・修正思想が有力になって来たので編纂作業中に我が国の習俗に合わせた条文にかなり変更していたのですが・・成立した民法典が成立後に大反対運動が起こって明治25年には施行延期されてしまいます。
(民法典論争についてはこれまで何回も紹介しています)
西南戦争が不平士族反乱の最後の事件になったように、民法典は社会の基礎的文化のしきたりを決めるものですから、この大論争はフランス式文明受容方向で始まった明治維新が、ドイツ式文明受容へ転換する象徴的事件・・トドメであったことになります。
民法典論争は明治25年に決着がついて施行延期が決まるのですが、これこそがフランス式文明との決別が最終的に決まった瞬間と言えるように思えます。
施行延期して出来上がった改正民法(現行法)については、大騒ぎしたにしては、内容的にそれほど変わっていないと言う意見が多いのですが、私のような半素人から見れば法典編纂の形式が大幅に変わっていることがすぐ目につきます。
この形式こそフランス式からドイツ式に変わった大きな特徴です。
ところで学派的に見ると、民法典論争はドイツ法学派とフランス法学派との論争だったのではなく、英米法学派との論争だったのですが、改正作業が終わってみるとドイツ法学に入れ替わってしまい、東大の学者層もフランス法系からドイツ法学者に入れ替わって行きます。
こうして第二次世界大戦後アメリカ系の学問が入ってくるまでは法学政治学に留まらず医学であれ、科学であれ、すべてドイツ系学者が幅を利かす時代になったのです。
明治5年に大区小区制を決めたときから戸長の仕事は戸籍事務だけではなくいわゆる末端行政事務を担当するようになりますが、このときは伝統に従って名主間の推薦による戸長でしたので、地方名望家が中心・・政治意識の高い地方政治家の卵でした。
上記郡区市町村制でも町村の長を戸長とし、戸長役場を設けましたが民選でしたから、従来通り地方名望家・豪農が就任する慣例でした。
戸長役場制度を設けても予算がないので、戸長の自宅屋敷を役場に併用する例が多かったようです。
彼らは末端の行政組織員でありながら地元利益の代弁者として政府方針に逆らう・・自由民権運動(・・今で言う野党的運動)の人材供給源にもなる矛盾した関係でした。
古代以来の草の根民主主義に馴染んで来た地方有力者にとっては、今後は中央集権制だからと言って専制的に上から押し付けてくる乱暴なやり方に不満を持ちやすい立場でした。
そこで、政府は1884年町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に・・・平均5町村を併合して?約500戸に戸長1名を置く(連合戸長役場)制度に変更すると共にこの時に戸長自宅を役場に併用することを禁止して、地元に根が生えていない人・・生粋の官吏を中央から派遣出来るようにしました。
戸籍簿も戸長の自宅から役場管理に移しました。
環我々事件に関連して古い記録が必要なときに戸長さんの家に行くと出てくることが多いのですが、この時に記録を移さないで戸長自宅に残ったままになっている地域が多かったことによるものです。
ここでは法に従って戸長と書いていますが、依頼者の話では区長さんの家に行くと・・・と話す人が多いです。
(私自身もMarch 10, 2011「末端行政組織の整備(区制1)」で書いたように区長を何故家を現す戸の長と言うようになったのか理解出来ていません)
文字を見ないで理解している人にとっては、区の長だから区長と理解している人の方が多いのです。
政府の末端組織である事を貫徹させるために民選から知事の任命による官選・・忠実な行政官に移行(明治17年5月)して行き、それ迄の民選との妥協として一応推薦された中から選ぶ制度も残しました(以下の太政官達を見て下さい)が、徐々に我が国の草の根の民主主義が次第に窒息して行くのです。

明治17年太政官達第四十一号
 戸長ハ府知事県令之ヲ選任ス 
 但町村人民ヲシテ参人乃至五人ヲ選挙セシメ府知事県令其中ニ就イテ選任スル事ヲ得ベシ此旨相達候事

この戸長制度は明治22年の市制・町村制の施行(明治21年4月17日法律第1号)によって廃止される迄続きますが、市町村制に移行すると推薦の制度がなくなり100%サラリーマン・官吏になって行ったようです。
ただし、この法律の作り方は、市制と町村制を区別して事実上二つの法律のような条文構成になっていて、地方行政組織の長は官選化したとは言うものの、独立の法主体としての規定の仕方になっているようです。
(条文自体を今のところ入手していないので、本当のところは分りません。)

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