消費レベルアップ2→文化発信源の多様化

話変わって,企業・・産業活動としては国際的視野で見る必要があると言うと、グローバル化推進論者か?と誤解されそうですが、物事はレッテル張りで済むような簡単なものではありません。
金融資本家がのさばり過ぎている・・高額報酬を得過ぎている反感が、反グローバリズムとなっているようです。
ところで兵器に始まってクルマの開発等多くの製品では開発費が大規模化して来て1〜2ヶ国の市場だけを相手にする規模では技術革新競争に生き残れません。
インド進出で成功しているスズキでさえ、単独では今後の開発競争に資本的・人材的に無理があって、何年か前からドイツ企業と合弁したり解消したりしているのはそのせいです。
各種生産・・あるいはウーバーのような新規業態開発では、大資本投入・・人材育成が間に合わないなどのために世界企業間でのM&Aや離合集散が激しいのですが、文化面ではその反動によるのか?個性化・・少数者だけで理解しあえる趣味・文化を楽しむ社会が始まっています。
ビッグデータの必要性。世界標準を握る必要性の面から見れば「ガラパゴス化」と言う批判を受ける現象が、個々人の生き方としては、日本発の「オタク化」コソ生き甲斐と言う現象が顕著になっているのが現在です。
多分同じ人間・・ジョブス氏が禅に関心を持っていたようなこと・・先端企業でビッグデータと格闘している若者が一方でお宅系文化にはまっている・・これが現実社会です。
この後で2項対立的思考の不毛性を書く予定ですが、2項対立を煽っても仕方がありません。
大量消費・・巨大店舗消費に飽きた文化発信時代になるとみんなと違った楽しみ方に価値がある社会になって行きます。
ちょっとした穴場(マスコミ推奨の大勢と同じ楽しみ方よりは個性で楽しむ)人気の価値がある・何万人も人が来なくても良い・・逆に1日に何万人も来られると困る観光地も大事にされるべきでしょう。
生活にゆとりが出て来ると、テレビ宣伝に合わせてみんながドット出掛けてみんなと同じように楽しむ生き方は卒業して自分流に楽しみたい人が増えてきます。
大量・画一消費社会は、有名大学での優秀者が集まる研究所で開発した売れ筋商品を廻りに負けずに入手し、有名デザイナーが「今年の流行はこれ!」と支持すると何千万人がこれを買い、遊びに出掛ける時代でしたが、これが一巡すると「自分らしい」消費をしたくなるのが普通の順序です。
飲食店やホテルでは昔から大広間的なものは敬遠されるので、大きなホテルでも細かく内部をし切って小さな部屋にしています。
デパートも早くから、広々とした平場の商品は安物で、ブティックなど細かくし切っているのが高級品と言う扱いでした。
ゆとり社会・・文化レベルが上がって来て、画一的消費は敬遠されるようになると、文化の発信源が多様化してきます。
私の子供の頃には美空ひばりなどそれぞれの分野で絶対的人気のある歌手や俳優、選手・◯◯の神様がゴロゴロいましたが、昭和40年頃からこう言う大スターはいなくなりそれぞれの分野に関心のある人だけが知っている程度になりました。
今では更に細分化の繰り返しになっていて、これがいわゆる「お宅系」と言われるようになったのでしょう。
発信源・・裾野・・ジャンルが広くなって来ると、芸大でいい成績だったかどうかどころか芸大出かどうかも問題にならない時代です。
文化発信の裾野の広さ・多様性が進むと、こう言う大学を作ったらとか研究所を作ればいいと言う・政治が口を出す時代ではなくなります。
アニメの発達を見れば分りますが、税を使ってその発達に何か貢献して来たでしょうか?
せいぜい最近になって、日本文化発信に有効だから後押ししようかと言う後追いくらいしか出来ないのが政治ではないでしょうか?
世界的大芸術家一人育てるのは、文化の遅れた共産圏でも集中投資で間に合いましたが・・裾野の広い草の根の文化発信時代になると、庶民の生活水準底上げ・伝統・歴史の重みがモノを言って来ます。
土が豊か(気候風土が豊か)であると大木1本(大スター人)だけ育つのではなく多様な植物が繁茂し、育ちます。
他方で、生活利便性商品・・合理化が進めば進むほど良い分野では、競合他社より燃費性能がちょっとでも良いとその何百倍もの販売格差が出る・・グローバルスタンダードを握った方が世界を席巻出来ます。
電気自動車や自動運転が始まると、少しでも先に開発出来た方が有利です。
利便性の進歩自体は、生活利便性が増しゆとりのある生活が出来るので、反対する理由がありません。
我が家で言えばウオッシュレットの恩恵を受け、冷暖房、ネット注文でお花が届く・・都内は勿論、京都でも行きたければ新幹線で楽に行けるなど快適な生活が出来るので、家事や移動にかける時間短縮の結果ゆったりと文化を楽しめるのです。
企業では・・寸秒も無駄にしない生き方が奨励されますが、家に帰るとローテクにはまるのも1つの生き方です・・社会全体がローテクでは今のネットを駆使した利便性を享受出来ません。
個々人の生き方とグローバル化の必要な企業活動は分離して来たと言うべきでしょうか?
そして日本は文化発信国家になって行くのが良いと言うのが私の意見です。
自動運転の実現にはグローバル化が必要ですが、出来上がったものをキュートに仕上げて行くのは文化力ですから、最後は日本の文化力が国際収支に影響してくるのです。
ジーンズはアメリカ発祥であっても今では、良い物は日本でしか作れません。
その内ジャズも日本が最高になっているでしょうが、そのためには基礎文化力・・民が豊かでないと良いものが育ちません。
07/03/03「超高齢化社会の生き方5(多様な生き方を保障する社会1)」その他かなりのテーマごとに「多様な生き方の出来る社会に」と言うテーマで書いてきましたが、多様な生き方を認めるゆとり社会でこそ多様な文化発信が成り立つのです。

消費レベルアップ1→小さな政府へ5

内需拡大・消費レベルアップのためにもインフラ整備は必要ですが、(あちこちに美術館や芸術ホール等の整備も重要です・・これによる文化レベルアップは、数世代以上の長期的効果を見なければ分りません。
ただし、以下に書くアニメの発達が美術館や劇場の設置とどう言う関係があるか分りません・・識者がアタマで考えて何か投資すればある文化が生まれる訳ではない・・自然発生的なところ(民を豊にするしかない)があるのが文化です。
ふすま絵その他は豪荘な建物の発達と関係があるでしょうが、俳諧や、能狂言、文楽や浮世絵や落語江戸期に発達した書籍出版などが、政府が文化発達のために何かした結果?ではないでしょう。
少しは関係があるとしても能のようにせいぜい政府が保護した程度・・後追いが原則です。
歌舞伎や浮世絵あるいは書籍出版はどちらかと言うと禁遏の影響の方が大きかったと思います。
アニメが日本文化発信に役立つと気が付いてその後押しをするのは政治の領分でしょうが、アニメが産業として育ったのは鳥羽僧正の鳥獣戯画巻以来千年単位の伝統文化が基礎にあって、若者に生活のゆとりがあるからですし、政府による成長投資があったからではありません。
(今の若者にゆとりがある訳がないと反論されるでしょうが、若者自身非正規等で困っているとしても豊かな親世代の恩恵を受けて育っていて漫画を書いて,または友達の書いた漫画を楽しむ「ゆとり」があることは確かです)
政府が応援するどころか、数十年前には「いい青年になっても電車で漫画を読んでいる」と眉をひそめる論調が主流でした。
こうした分野の競争が主流になって来ると、仮に政府が後押ししてもその効果は1政権や2政権の間に効果が出る訳がないので、政策効果の有無を議論をすること自体間違っています。
アベノミクスの効果が出ているor出ていないと言う議論が盛んですが、こう言う議論が疑問なく行なわれていること自体で、経済学者は今でも政府の仕事は短期の成長戦略実現のためにあると思い込んでいる・・この目的実現ためには従来どおりの税収が必要であると考えているように見えます。
GDP競争に税を使う時代は終ったことを書いてきました。
先行者利益・・即物的生産力では後進国の模倣による追いつく速度の方が早いのが原則ですので,植民地支配のように被支配国生産を禁止するなど不正がない限り、先進国は早晩並ばれ、追いついた方が活力があるので先行者は没落して行きます。
先進国(デパート言えば三越が)においてはいつの時代でも新たな消費モデル・文化モデルの提示に成功してこそ、その地位を維持出来るのであって、この提示が出来ない限り追い着かれ追い越され廃墟になって行くしかない・・メソポタミアであれ、ローマであれどこであれ栄えた国が滅びるのはこの原理によります。
京のみやこが長年その地位を維持出来ていたのは「みやび」の独占による文化発進力で勝負出来ていたからです。
国民レベルが低くとも体力さえあればある程度出来る・・生産力競争を卒業して消費文化競争→この結果生まれた優れた文化製品輸出であれば、(文化は何世代と言うように)簡単には追いつけませんし、国民レベルの違いが出て来ます。
幸い日本は遣唐使の昔から相手国の文化の粋を選別して持ち帰る能力に優れていましたし、戦後敗戦で廃墟になった直後でも日本は西欧の良いものしか買わない国民性・・文化でした。
消費する国が発言力のある時代になると、輸出ばかりで内需の少ない・・買い物しない国は喜ばれません・・内需率が重要になります。
貿易黒字・将来買うことが出来るようにするのが目的ですから、純債権国になってから何十年も黒字ばかり稼ぐのは能ではありません。
毎年長者番付に載る富豪が昨年より何%増えたと言う程度の成長率の問題にこだわっているのは滑稽です。
成長率・・GDP算出方法自体この後で書くように現地生産の進展で、本来の国力を表さなくなって久しいのです。
労働者賃金も現地従業員指導のために出向すると現地子会社の支払給与になる・・どちらかと言うと高給取りの国内就労者が減り、支払給与がなくなったことになりますが、
国内にいる家族には夫の給与は従来どおり振り込んで来る・・むしろ海外出張手当?分として海外子会社からの支給が増えて余計払ってくれるのが普通です。この家族は無収入世帯になり(フィリッピン人が海外にメードになって出稼ぎしているのと同じ)海外出稼ぎ送金によって生活している分類になるのかな?
いろんな意味で従来は国内生産にカウントされいた多くの分野が皆海外生産の統計に変わっている・・企業実力としては同じことが、別会社として計算されるようになって来ると全体が不明なので、企業会計では連結決算が普通になってきました。
国の実力も連結で見ないと分らない時代になっているのに、日本国単体の売上・生産力で見て・・時代遅れのGDP競争しても意味がありません。
昭和40年代に入って都内から工場がドンドン追い出されて地方に出て行き、今では都内の工場は滅多に見かけませんが、都内の生産が減ったからと言って東京の活力がなくなったと言う人はいないでしょう。
デパートで言えば本店売上が日本一でも国内支店数が競合他社の10分の1しかなくて全体の売上では7〜8番目でしかないのでは意味がないのですが、今のGDP競争・信仰は支店売上にあたる海外売上を見ないで本店売上競争のデータで1喜一憂していることになります。
トヨタ、ホンダ、コマツ・日立などで言えば、世界全体の売上増減が主要テーマであり、国内販売だけで企業の将来性を判断する人は滅多にいないでしょう。
国内生産力が前年比何%の成長をがどうなったと言うGDP論争は、「井の中の蛙」のような議論で意味がないことが分ります。
国民に必要なことは前年比生活水準が良くなったか・その持続性が(国際収支大赤字ではその先貧困が待っていますので楽しめません)どうかでしょう。
生活水準とは結局のところ(パンを人の3杯食べられれば良いと言うのではなく)消費水準の文化度です。

消費力アップ4と世界的減税潮流の基礎1

減税→小さな政府論・・消費力アップには財政投資はいらない・・邪魔だと言うのが世界の潮流であり、それが正しい方向です。
先進国では生産力アップよりは消費力アップがテーマであれば、政府が税で資金を集めて需要創出→生産力増強するのではなく、消費者のニーズを探りつつニーズに敏感な民間が生産して行くしかありません。
江戸時代には藩も幕府も財政は赤字で(今の国債のように豪商から借りて)苦しみ、上は質素倹約・・贅沢出来ずに、その分民は豊かでした・これこそが民中心・消費時代のあるべき姿です。
中国王朝やフランスの宮廷など民が飢えに苦しんでも華美な生活を誇り宮廷文化(だけ)が盛んでしたが、日本の場合庶民文化が栄え豊かになる一方で今も支配層や天皇家も質素倹約が上に立つものの努めとなっているのはこの歴史によります。
江戸時代の浮世絵や落語や盆栽各種娯楽が多方面で発達した文化力・需要は、政府が創出したものではなくニーズに敏感な民間が適応して来たのです。
レッセフェールと言う学問を知らない頃から、日本では昔から民の力を信じて実践してきました。
西欧が近代に入って漸く気が付いた人道主義とかと動物愛護の思想以前から日本では人道に反する虐待をしたり動植物を粗雑に扱う文化ではありません。
消費力アップ論によれば、税収=政府の役割をへらして消費者・国民の選択に委ねるのが正しい方向であり、これに応じて政府の役割を縮小して行くのが正しい方向です。
先進国で減税の機運が強くなって来たのは(マスコミは金持ちの強欲と非難し,それでも足りずにタクスヘイブンなどとスケープゴート化して騒いでいますが・・)税の縮小は政府の機能縮小の現実に適合しているのであって、大衆迎合主義と言う批判は政府の役割を従来どおり維持したい立場による一方の立場の宣伝に過ぎません。
「財政赤字をどうするのだ」という脅迫も税収が減ったならば、成長目的の政府機能.財政支出を縮小すればいいことですから、縮小すべきか否かの議論を先にすべきであって、この議論を飛ばしている点怪しいところがあります。
飽くまで旧来型政府の役割を維持したい勢力・・日本の官僚マスコミは減税要求の潮流を大衆迎合主義とか大金持ちが肥え太るばかりと批判しながらも減税の潮流に抗し切れないことから、これとセットで赤字財政をどうするのだと言う脅しを使い法人税と所得税の減税分を補填すべく所得税等を払っていなかった別の階層に対する増税をしようとしているのが消費税強化論になります。
所得税・法人税の課税対象は比較的所得の高い階層(一定所得以下の人は課税されない仕組み)ですが、彼らに対する課税を減税した分、政府の役割を縮小すれば無理がありません。
従来どおりに成長目的の役割を果たそうとすれば別の階層から取るしかないので、対象になるのは所得の低い階層(従来の非課税層)しかありません。
現代では所得格差を是正する税制の所得再分配機能が言われていますが、所得税を減税して消費税で穴埋めすれば、再分配機能の逆張りになります。
税の原初的機能は底辺層から搾り取るだけ絞ってそれを支配層に再分配して来たのが税の成り立ちからの原則的機能でですが民主国家ではこれを表に出せないので、格好付けに貧者にも気持ちだけ配って、再分配機能があるとこじつけて来たに過ぎません。
この点は消費税アップする都度、生活必需品を限定除外して弱者のために配慮したとお茶を濁しているのと同じパターンです。
消費税問題では部分的に除外部分を大宣伝しますが、所得のある人から税を取る代わりに所得のない階層からも税を取ろうとする原則・・骨格は変わりません。
宗教家が貧者の1灯と言って庶民からお金を吸い取りながら、豪華なローマ法王庁を見れば分かりますが..施餓鬼というか時々スープを振る舞う偽善と同じです。
所得税免除(課税限度額の引き上げ)が行き過ぎて来たので?もう一度形を変えて底辺層から徴収しようとするのが消費税の思想ですが、近年格差拡大が社会問題になって来たのは底辺層から税を取り他方で高額所得層に対する減税が進んで来た結果によります。
日本の格差がそれほどではないのは、消費税率をアップ出来なくて穴埋めに国債や郵貯を利用して来た(国民がお金を持っていることが重要ですが・・)・財政赤字によってファイナンス出来た幸運によります。
金欠で苦しんだ江戸幕府や各藩は、海外から借りずに国内資金で間にあわせていた点は今と同じです。
保険の赤字も何故赤字で運用出来ているかと言えば、国債等によるファイナンス(幕府や各藩が税を取らずに豪商から借りていたのと同じ)が出来ていたからです。
日本の財政や保険赤字が可能であったのは、国債や郵貯の資金出し手は(小金持ちを含めて基本は)お金持ちですから、金持ちから税・強制力を用いなくとも事実上所得移転が行なわれて来たから格差拡大も進みませんでした。
ここ数日書いたように金融緩和によって資金が海外に逃げるようになっている・・金融商品も貿易商品ですから…金利が実勢よりも安くされるのは国民にとっては国内金融商品が割高になり、海外の割安な→利回りの良い商品を買うことになります・・。
資金が海外に逃げて資金吸い上げが行き詰まって来た結果、日銀による国債買い戻しや株式市場介入に走っているのですが、このままでは資金が金利の高い海外に逃げるばかりでどうにもならない・・、いよいよ諸外国並みに消費税を引き上げるか政府機能縮小するしかなくなって来たようです。
(2択ならば、税収を上げるよりは政府予算を減らして財政政策機能を縮小すべきです)
トランプ氏は法人税と所得税の大幅減税を公約にし、他方で対外プレゼンスを減らす主張をしているのは主張が一貫しています。
例えば増減税同額・・減税分同額の企業補助金を減らすから資金手当は大丈夫と良く報道されるのは、一見首尾一貫していますがそれでは何のための減税か意味不明です。

消費力アップと消費税増税論の矛盾3

8月14日の日経新聞朝刊1面には戦時公債が紙くずになった例を書いて危機感を煽っていますし、3pにも、GDP比250%にもなっているのは先進国では日本だけだと書いています。
敗戦後の超インフレは、戦争中対外貯金がないまま無制限に公債を発行していたので・・敗戦=対外開放の結果、言わば円が大暴落した結果による・・・ソ連崩壊時のソ連の混乱同様であって、これを資本・通貨取引を自由化している今の日本に当てはめるのは、事例の違うものを、あたかも同じであるかのような報道・・虚偽報道に類するものです。
世界最大の純債権国になっている今の日本を戦前の貧困時代に当てはめて不安を煽るのは一種の虚偽誘導です。
何回も書いているように債務国が消費拡大したら破綻が待っていますが、豊かな国はこの際貯蓄を崩してでも消費拡大し、国民の生活水準を上げる努力すべきです。
ましてこの20年間日本は国際収支黒字の連続・対外純債権を増やし続けているのですからこの増加ペースを落とす程度で良いのです。
これまで書いているように純債権国である限りコップの中の嵐・・お父さんが10〜20億円の預金のある息子に生活費負担させないで毎月20万円借り続けて親の年収以上の債務になっている・・借金を息子に残すのかと騒いでいるようなものでマンガチックです。
一家のトータル収入・貯蓄が債務を上回っていれば将来何の心配もありません。
10億の金融資産のある人が今株を売るのは損だと考えて、金融資産をそのままにして1億借金してある企業に出資した場合、その債務が年収の2倍であろうと3倍になろうと支払力に関係がないことが明らかです。
マスコミは意味のないことを比較対象に持ち出して頻りに大変なことになると主張しています。
紙幣大量印刷の結果円が暴落すれば債務国の場合返済資金がなくて困りますが、債権国の場合対外資産評価が円の下がる率に比例して上がるので、日本人・・日本企業にとっては大儲けするだけで損しません。
借金の額が単独で意味あるのでなく、バランスシート上どう言う関係にあるかで判断すべきは企業会計の常識です。
国債を日銀が何%引き受けているかではなく、心配するべき基準は国際収支の推移・・対外純資産がどうなるかの問題です。
この種の議論は何回も書いてきました。
デフォルトリスクは国債保有率やGDP比率に関係がなく対外純債権の有無にかかわるとしても、東証の株式保有比率に占める公的資金の比率がドンドン上がって行くとどうなるでしょうか?
日銀や年金資金・・公的資金による買い受けが増えて行き究極のパターン・・99%占有率になると株式市場はどうなるのでしょうか?
株式は債務ではないので、国債のような支払能力は問題になりません・・そんなことよりは、投資のリターン予想・・収益予想に基づく合理的相場ではないとなれば、民間投資家は怖くて寄り付かない・・民間からの資金流入が細ってしまった場合に経済活動がどうなるかの問題です。
政府や偉い経済学者に言わせれば、
「民間投資など当てにならない・・頭の良い自分たちが将来性のある分野に選別投資するから心配するな」
と言う立場で税で強制的に資金を吸い上げては、彼らの考える成長株に投資している意味では一貫している・・大した自信家です。
しかし、将来思想が変わるかも知れませんが、今のところ「レッセフェール」の方が正しいと言うのが真理ですから、彼らのよって立つ信条がレッセフェールよりも正しいと信じる所以を力説してもらう必要があります。
現在の普遍的真理によれば、優秀な学者や官僚が投資先を選別することが続くと大方失敗する・・国民資産を毀損する比率が高い・・損する可能性が高いでしょう。
バブル崩壊以降「エリートに資金の使い方を任せろ」と言う信条による政府・マスコミ誘導の結果、ドンドン政府が資金を使って来た結果、政府資金が底をついて来たのでその穴うめが迫られたのが、この10〜20年ほどの財政赤字論です。
タマタマ財政の壁に直面したならば、この機会に立ち止まって旧来政策(官僚が有望な産業を見極めて応援するのが正しいのか?)の見直しをする良いチャンスとすべきではないでしょうか?
赤字(資金不足)だと大騒ぎしていながら、逆に政府の投資を増やしたいのが今の政治風潮です・・安倍政権の参院選挙後の補正予算案を見れば、一部消費拡大のための商品券配布を強調していますが大筋は輸出用の港湾整備その他インフラ整備や助成金拡大などの政府役割増大を目指していることが明らかです。
http://mainichi.jp/articles/20160602/k00/00m/020/064000c
第2次補正予算案
今秋最大10兆円 商品券発行も
・・主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で合意した「政策総動員」の一環で、足踏みが続く国内景気をテコ入れする狙い・・・
ネット検索ではこの程度しか出ませんが、今朝の日経新聞朝刊7pの「インフレで財政を救えるか」の欄の中には28兆円と出ています。
まだ国会が開かれていないので、憶測記事段階と思われます。
ところで、これ以上に企業税や所得税を上げられない・・むしろ世界中で法人税や所得税の減税競争が始まっています。
それでも飽き足らない国際資本がタクスヘイブン利用になった(やり過ぎた)ので、我慢出来なくなって来た政府がこれを叩く動き(パナマ文書)が出て来ましたが、要点は減税に資本家が悪乗りし過ぎたと言うだけであって、減税傾向が止まる様子が見えません。
トランプ氏は法人税と所得税の大幅減税を公約にしていますし、これに引っ張られてヒラリー氏も減税公約を4〜5日前に発表しました。
減税論の行きつくところは小さな政府しか有りません。

官製相場の限界1(金利)

目標とすべき先進国の産業モデルのある新興国と違って産業振興も政府が主導すれば成功出来る保障はありません・・。
日本は模倣すべき国のない先端産業国であり民間資金余剰国ですし、仮に資金不足国でも本当に脈のある事業ならば、世界の投資家が放っておきません・・M&Aも盛んです・・どこの投資家も見向きもしない投資を政府がやればどうなるものでない・・結果的に失敗する可能性の方が高いでしょう。
※宇宙探査その他政府がやれるべき分野,社会保障のようにやるべき分野が一杯あることはこれまでも書いています・・何もかもやめるべきと言うのはなく、「産業振興は民間に委ねてこの分野の財政支出をなくして行くべき・・税収削減すべき」と言う意見です。
政府が資金を吸い上げるのは良くない→消費税増税反対論の続きです。
とりわけ消費増が目標になって来ると供給側が計画し宣伝さえすれば売れる訳でない・・必需品供給時代は供給者の意向、政府の計画が有効な場合が多いですが、面白そうだから手に取る時代になるとそうは行きません。
日本は室町〜江戸時代から消費者向けに面白いものを工夫しては(朝顔の花1つとってもこれが「朝顔か?」とびっくりするほど変わった変化を楽しんで来ました)消費を盛り上げる文化が進んで来た社会です。
着物の柄であれ役者の似顔絵や村のお祭りであれ、俳諧や都々逸などお上が進めた結果ではなく庶民の工夫が花開いているのです。
石油ショックのように供給側の事件でも、一時的に政府が下支えする必要だった事は確かですが、これは一時の出血手当でしかなく、原油相場の急上昇に対応・・脱却するには、民間の省エネで努力に待つしかなかったのです。
消費増が期待されている以上は、政府が出来ることはホンの僅か・・むしろ庶民からし金を奪いの活力を妨害しない方が有効でしょう。
戦後の赤字国債に関するウイキペデイアの記事からです。
「1965年度の補正予算で赤字国債の発行を認める1年限りの特例公債法が制定され、赤字国債が戦後初めて発行された。その後は10年間は赤字国債の発行はなかったが、1975年度に再び発行されて以降は1989年度まで特例法の制定を続け赤字国債が発行された。
1990年度にはその年の臨時特別公債を除く赤字国債の発行額がゼロになり、1993年度まで発行額ゼロが続くものの、1994年度から再び発行されその後に至っている」
赤字国債発行には戦後だけでも、上記のとおり・・75年は石油ショックであり、93年以降はバブル崩壊ですが、93年以降政府が資金不足に陥った経過を私なりに以下のとおり整理しました。
    記
(1)中国の市場参加による20年以上にわたるデフレ圧力(石油ショックによる石油値上がりと低賃金中国の市場参加による商品値下がりは、交易条件悪化ショックでは同じです)・・に対して、衝撃緩和のために長年財政投入をして来た結果財政赤字が巨額になってしまった。
この必要性は中国との格差がなくなるまでですから、人件費その他生活水準格差がある限りこの衝撃緩和の必要性が続きます。
※ 最近対中ショックが薄らいでいるのは中国の人件費アップによります。
(2)衝撃緩和目的の資金投入は、賃金で言えば中国人件費との差額補填(直截的施策で言えば、社内失業を実施する企業への雇用調整助成金・・その他間接的政策は一杯あります)・・言わば後ろ向き支出ですから財政支出に対応する資産が何も形成されていない・・国債の種類で言えば建設国債ではなく赤字国債になるしかありません。
(3)ショック緩和の資金ファイナンスするために増税出来ないので(これまで書いているように増税すると国内消費抑制になってしまうので)低金利(郵貯や国債の低金利)で資金を国民から吸収する政治を続けて来たが、臨時的な筈の衝撃緩和策が20年にも及んで来ると(個人で言えば臨時出費のために月給では間に合わずサラ金に借りるような事態が20年も続く?)債務総額が増えて来たので低金利でも支払リスクが無視出来なくなって来た。
(4)金利が徐々に下がるに連れて国民の国債・郵貯離れが生じて来たので、穴埋めのために日銀や年金資金による買い受けが常態化・・拡大して来た。
(5)それでも不安があったのでプライマリーディーラー制度を設けて一定量の買い受け強制をして来たが、禁じ手とも言うべきマイナス金利まで来るとさすがに国債や郵貯を通じた庶民からの資金吸収能力がなくなってしまった→エンドユーザー不在のままでは日銀買い戻しをしない残り一定枠を小売り・再販するのは無理が出て来た・・売れないまま自己保有継続しているリスクが大き過ぎるようになってきた。(三菱の特別資格返上)
(6)(マイナス金利採用時には、予めこうなることは予想されていたでしょうが)ここまでくると三菱を脅す・・嫌がらせで引き止めるのは無理があるし、かと言って、今更実勢相場・・投資家が自腹で買ってくれそうな相場まで戻すと日本経済は大混乱です。
金利も市場需給に委ねるべきなのに、金利の官製相場造り(中央銀行による基準金利操縦)はドンキホーテのように滑稽ですが、誰もその滑稽さを書いていませんが遂に無理が明からさまになって来たのです。
「毒を食らわば皿まで」と言いますが、ここまで来ると新規発行国債を100%日銀が買い戻す運用・・直接引き受けをするしかなくなってきました。
国債の場合、既発行国債を日銀が100%保有しても、結果的に紙幣発行の歯止めがなくなったというだけであって、それがどう言うことになるのか実はよく分っていません。

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