マイナス利回り3(消費信用2)

消費信用(南欧の資金手当問題は昨日書いたとおり、借り換えに使う資金ですから一種の消費信用に変質しています)と金利問題に戻しますと、市場原理に委ねれば、苦しいところには資金が流れ難くなって高金利となり、お金が余っている豊かな国に安全を求めて資金が流入するので、豊かな国は更に低金利で資金運用出来て益々有利になります。
ちなみに日本の企業は円高その他で6重苦などとマスコミが宣伝していますが、物ごとには裏表が必ずあります。
日本の円独歩高とは(貿易黒字あるいは投機資金流入によるものであれ、いずれにせよ)資金流入超過ということですから、資金流入→その分資金余剰で低金利になり、国内企業は資金調達が世界一有利になっています。
この話は何回も書いていますが、ある国で同じく数百億ドルの投資をするのに高金利国の企業は例えば5〜6%の金利負担で工場を新設するしかないのに、日本企業は1%前後の超低金利で資金調達して新規工場稼働出来ます。
仕入れ価格を約5%安く仕入れて競争相手と競争しているようなもの(仕入れも多くは銀行融資や保障でしていますので、金利負担の差が大きい)ですから、もの凄く有利な競争をしています。
その上仮に1割円高になると現地貨幣への両替に際しても、従来5000億円必要だったのが4500億円で済むのですから、現地への投資資金元本自体が1割少なくて済み、現地企業よりも当初から競争も同率で有利になります。
ちなみに今朝の日経朝刊11面真ん中囲み記事には、「トヨタの普通社債の発行金利が0・186%と記載されています。
大手企業のお多くは0.2%以下で資金調達していることが報じられています。
その他書き出せばキリがないですが、円高は消費者にとって有利なだけではなく企業にとっても悪いことばかりではありません。
バブルで高額の土地を買って損した人がいれば、その対極に吊り上がった高値で売り抜けて得した人がいるし、国債が1000兆円があればその対極にほぼ同額の国債保有者が国内にいて、更には国債によって形成した資産(公共工事によって出来上がった資産・・学校用地の買収など)があるのに、これを報道しないで債務ばかり報道しているのを批判してきましたがこれと同じです。
物事には裏表・バランスシート的に双方の事象があるのにマスコミはいつも一方ばかり強調する傾向があって、国民の判断材料提供者としては問題があります。
話がそれてしまいましたが、生産向けの投資資金融資の場合利潤を生むのでその分け前としての金利を期待するのは合理的ですが、低成長社会では成長率に合わせた低金利にするしかないし、・・消費者向け融資には利潤を生む余地がないのでプラス金利は合理的ではありません。
生活に困っている人に対する消費者向け融資は、本来元本の何割か返せれば上出来と言うマイナス金利であるべきです。
市場原理主義・新自由主義批判論者は、消費信用分野では正しいことを言っていることになります。
生活に困って借りたとすれば「御陰さまで、これだけ残りましたありがとう御座いました」と借りたお金の何割かだけ返せば上出来という経済原理ですから、本来消費者信用は社会保障分野の問題で市場原理を働かせては行けない分野です。
約10年前、06/04/02「社会システムの大型化と細やかなサービス4」前後で「サラ金は生活保護の一変形である」(社会保障システムの不備がサラ金禍を招いている)と言う意見を連載したことがありますので参照して下さい。
(2002年〜2010年8月31日までの旧バージョンコラムの検索は、この表紙の写真の下についている「このサイトについて」というところをクリックすると以前の方式によるコラムのアドレスが出ますのでクリックしていただければ検索できます)
サラ金問題は社会保障分野であると書いたのは上記のとおり約10年前の意見ですが、その後(私の意見が浸透したのかどうか不明ですが・・)サラ金に頼る生活苦は社会保障分野であるという認識が広がった結果、最近では(地元市会議員の配布して来たデータによると千葉市で言えば約1、8%)生活保護受給者が増え過ぎて困るほどになってきました。
私は、サラ金苦問題はその殆どが社会保障分野の問題であると書きましたが、だからと言って直ちに生活保護需給に走れと主張したのではありません。
その解決策としては06/07/02「社会の大型化と細やかなサービス7(公営住宅家賃未払いと貸し付け制度)」前後のコラムで社会保障の一環としての貸し付け制度の創設が合理的であると提案して来ました。
貸付金を社会保障の一環として考えれば、全額回収出来なくとも8割でも5割でもあるいは3割でも・・少しでも回収出来れば上出来です。
消費信用・・使ってしまう資金の場合、マイナス金利(元本割れ)で良いのじゃないかと言う応用編です。
病気高齢・障害等に入らないいわゆる「その他受給者(健康な若者がタマタマ職がないだけ)」の場合、生活保護だと一旦受給者になってしまうとそこで安住してしまうリスクがありますが、社会保障的貸付金の場合、何とか返そうと努力する人が多いので社会復帰が期待出来ます。
元金全部と利息を付けて返せと言われたら、消費信用の借り手は夜逃げか破産または生活保護に逃げるしかありません。
利息を付けて返すか破産するか、あるいは生活保護に逃げ込むかという二者択一ではなく、返せる限度で返せば良いという(これはそのとき考えついた一例に過ぎず、外にも似たような解決案があるだろうという意味で)06/07/02「社会の大型化と細やかなサービス7」を提唱していました。
私の提唱した(パソコン利用が出来るようになってコラムに書いたのは約10年前ですが、こうした意見は昭和50年代から事件処理の度に関係者に言ってました)消費信用は社会保障分野の問題であるという意識が社会一般(法律家)に一般に根付いたのは有り難いですが、苦しければ生活保護しかないという短絡的方向へ進んでしまったのは、国民や行政・関係者の工夫不足ではないでしょうか?

マイナス利回り2(消費信用1)

食費等の純然たる消費信用では借りた資金から利潤・メリットを生み出さないのですから、(種モミを貸せば秋には何倍もの収穫が期待出来ますが、その日その日に食べてしまう食糧として、食用米を貸しても秋に米粒が増えて戻ることはありません)使ってしまった物を満額返すのさえ大変ですから、さらに金利を上乗せして回収するのは無理になります。
投資資金ではなく消費目的の資金を貸す方から見れば、信用のない・・元々返すのには無理のある人に貸すので焦げ付きリスクが高くなることから、市場原理からすればリスクの高い分金利を高くしないとペイしません。
スペインやギリシャ国債の値下がり=金利高騰を見ても分るように、資金の必要に迫られているところは苦しいので高金利を払うどころではないのに、苦しいところに限って高金利になります。
南欧諸国の資金需要は(付加価値を生み出す)新規投資資金需要ではなく、借換債のための資金需要ですから消費信用化していることによります。
消費信用として貸す以上はリターンを求めるのではなく、万物は無価値化するという原理に戻って、社会保障・恩恵的運用・・「元本の何割かだけでも返してくれたら良いですよ」と言う運用が必要です。
市場原理と万物の価値が減少する自然界の原理とは、本質的に矛盾関係になります。
ここ10年近く新自由主義経済悪玉論(負け組を作るな!と言うアッピール)が盛んですが、この主張者の多くは旧社会党系人権運動家に多いことから見ても、弱者の空間に市場原理を持ち込む領域の広がりに危機感を抱いているからかも知れません。
弁護士で言えば消費者系運動家がこの範疇に入るのは、こうした分類をすれば理解可能です。
現在社会は資本主義的利潤追求システムと個人間の情義に基づく(原則無償)システムが共存する社会ですから、どちらに比重をおくか・・その境界移動の激しさに対する反発とも言えます。
里山が荒廃して行き・山奥まで人が進出して熊などの生息域が荒らされ、動物のすみかがなくなりつつあることに対する危機感と似ています。
1994年のアニメ映画「平成狸合戦ポンポコ」を見たことがありますが、人権活動家と里山保全・自然を守れ関連活動家と心情的にかなり重なっているように見えるのは偶然の一致でしょうか?
法の世界ではご存知のように個人間の利潤追求を目的としない社会関係を律するのが民法で、飽くなき利潤追求・・商的世界(会社関連条文が商法から独立して6〜7年前に独立の会社法になりましたが、本籍は商の世界です)を律するのが商法世界です。
民法では委任でも貸金でも特約がない限り無償(無利息)が原則ですが、商の世界では以下に紹介するように特約がなくとも、何かをすれば必ず報酬請求権があり、お金を借りれば金利がつくことが法で決められている、まさに市場経済を前提としています。

商法
(報酬請求権)
第五百十二条  商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる。
(利息請求権)
第五百十三条  商人間において金銭の消費貸借をしたときは、貸主は、法定利息(次条の法定利率による利息をいう。以下同じ。)を請求することができる。
2  商人がその営業の範囲内において他人のために金銭の立替えをしたときは、その立替えの日以後の法定利息を請求することができる。

最近は何もかも商的分野(親子で解決していた介護でさえ他人に頼んで対価を支払う形式が主流です・・介護自体が商行為という意味ではなく対価形式になったという意味で商「的」と書いています)が増えて来て無償行為が減ってきました。
まさに民と商の精神境界・領域が大きく変わりつつあり、民(無償行為)の分野が浸食されて大幅に減りつつある社会と言えます。
平和な江戸時代に商人層が発達しましたが、彼らが最下位で遇されていたように、利潤目的の行為は近代社会になって生まれて来た新たな行動パターンで、我が国の過去の何千年の道徳規準にはない価値観ですので冷遇されていたことになります。
明治以降列強に伍して行くために国家自体が貿易の主体となって(しかも儲けない限り赤字では大変です)行くしかなかったのですから、商(儲け追及)を(幕府もお金の重要性を知っていましたが、飽くまで表向きは重視しない態度でした)正面から重視する価値観に転換されたことになります。
その後150年近くもたっているのに、商・利潤追求行為を蔑む根強い気風があることは今でも変わりません。
我が国では、未だに物造りに対する価値・ウエートの強いことと関連があるかも知れません。
愛情をもっとも期待している介護についてまで対価関係になって来ると(道徳観の違いだけではなく)心に隙間が出来るので、無償のボランティアが発達して来たのはその穴埋め作用でしょう。
東北大震災で無償の助け合い活動が多くの感銘を呼んだのは、失われつつある無償行為への挽歌かも知れません。
今後交際相手のない独身が増えて来て、兄弟姉妹もいない中高年者が増えると完全無償の人間関係が激減して行きます。
ペットを中心にした疑似愛情関係・・人間同士の新たな関係が増えて来るのでしょうが、こればかりはボランティア頼りというわけには行きません。

発電所の消費地立地4(コンパクト化3)

消費地である東京に製鉄や発電所を立地しないのは、汚いものや危険な公害型産業を遠くへ追いやる意識が底流にあるからではないでしょうか。
安全性に問題がないならば、(原発は別としても火力発電所くらいは)東京の消費量から言えば、各区に1基くらいずつの大型発電所あるいは東京湾岸エリアに千葉にある火力発電所程度の大きさのものをいくつかまとめて造っても良い筈です。
東京のど真ん中に造ることによって送電ロスが減り、身近に生活する都民の厳しい意識が、より安全で効率の良い発電所(CO2排出削減努力)に変えて行けます。
民主党以前の政府や電力業界が主張していたように本当に原発が安全ならば、大量消費地に近い東京湾岸に多数立地するのが合理的です。
都内に立地する気が全くない・・こんなことを主張するのは狂気の沙汰と思う人が多いとすれば、誰も安全神話など信じていないし科学技術の発展を誰も信じていないことになります。
June 11, 2011「巨額交付金と事前準備3」前後からJune30 2011「交付金の分配」までの連載で、地元では巨額の交付金を得ていたので、危険性があることを前提にした損害賠償の前渡し金だったのではないかと書きましたが、都内に原発を造るなんて論外だという意見が普通だとすれば、過疎地への原発交付金は、やはり危険手当だったのではないかとなります。
電気の場合、利用場所において操作が簡便になりクリ−ンになったのでツイ誤解しがちですが、遠くでエネルギー変換出来るようになったことによって、目の前から見えなくなって危険性のごまかしが利いているだけではないでしょうか?
(蜂蜜はうまいが蜂から蜜をとる作業は危険です)
産業革命以降原産地と消費地との距離を離して行きさえすれば、消費者にとっては安全になる仕組みが考案され・すなわち輸送コスト安+鮮度維持技術の発達によります・・アフリカ沖のマグロの刺身を東京で食べられる時代です・・安全になった錯覚が生じていたのですが、今回の原発事故によって、危険なものをどんなに遠くへ持って行っても放射能汚染は地球規模の問題ですから、ごまかしが利かなくなりました。
今後は距離で何とかするのではなく、規模のスモール化と管理技術を磨いて行くしかないでしょう。
極小化・・今の火力発電所の一基当たりの規模を1000分の1程度にすれば事故があっても大したことがないでしょうし、燃料も原油そのまま使わないで爆発し難いように別のものに変換してから使うなど工夫が発達します。
原発もウラン自体を別のものに加工して原発で使う段階で事故があっても安全化するなどの工夫が発達するべきでしょう。
電気の場合スイッチオン・オフが瞬時に出来るのは利用場所においてだけであって、発電現場ではスイッチで瞬時に発電したり瞬時に停止出来ない・・一旦止めたら再運転するのは大変なことから見ても象徴的です。
(原子炉はどのようにして廃炉するかすら分っていないのに、発電だけ始めてしまったようです)
これからは、危険なもの汚いものを遠くの見えないところに持って行って安全になったように錯覚して安心しているのではなく、如何に制御して安全化し、且つコンパクトにして身近においても安全にするかの工夫・技術開発が望まれます。
我が国の清潔度・感性の高さは世界一級ですが、これは1月2日に炭火の利用例で書いたように古くから、使用の場と造る場をウマく切り分ける技術が発達していたからです。
現在ウオッシュレットが発達してからのトイレのクリ−ン化はやはり世界に冠たるものですが、これなどもわが国の分離の成功例でしょう。
今では身近・台所の隣にトイレがあっても、汚いと思う人は滅多にいないでしょう。
かと言って家の裏で汲取業者一人が汚物を処理しているのではなく、今は下水を通じて流れて行き、各自治体ごとの週末処理場でも機械化しているので、担当者が汚い非衛生な目に遭っている訳ではありません。
台所のクリーン化・コンパクト化はガス、水道、電気の発達とゴミ処理技術の発達に負うところが大きいでしょう。
小金井市長がゴミ処理問題で引責辞職せざるを得なくなった事例でも明らかなように、クリーン化は自前で後始末までしてこそ完結出来ます。
電力も東京都等大消費地が自前で発電すべきであり、電気は消費地生産の方向で管理技術を磨いて行くことが、これからの主要課題であり、(今のところ電力はすべての産業の文明化の基礎ですから・・)この解決が国際競争力の維持に繋がると思われます。
この問題はまだまだ書きたいけれども、大災害に負けずに奮起して欲しい正月特別番組としてはここで一旦終わりにして、(このコラムは前日・6日に書いて翌午前零時にオープンしていますので)明日から年末(12月30日)までのテーマに戻ります。
ちなみに私の事務所は例年通り1月6日から仕事始めですが、仕事に出れば初日から晩まで来客予定が詰まっていました。
昨年地元老人会から相続問題の講演・解説を頼まれて、ウイークデイは仕事の予定が一杯なので困ると言ったところ、町内の役員としては私がとっくに隠退していると思っていたらしく(土日の方が家族団らんのために時間を取れないからウイークデイの方が良いと思っていたようです)、こちらが逆に驚いてしまったことがあります。
私はまだまだ50代くらいの気分で仕事をバリバリしているつもりですが・・・・まだ若いと思っているのは自分だけかも知れません。

発電所の消費地立地3(コンパクト化2)

産業発展の歴史はすべての分野での小型化競争の歴史でもありますので、先ず発電部門で日本が超小型化競争・・効率化競争に入ることが重要です。
独占(九電力体制)維持のために電力業界ではそんな研究はしたくないでしょうから、今の九電力体制のままでは望み薄ですが・・我が国はものを小さくして行く技術特性のある国民性ですので、この分野の競争にまじめに取り組めば必ずや世界に先駆けた開発に成功して有力な輸出商品になる筈です。
また電気関連はすべての利便設備の基礎ですから、基礎技術が他国よりも早く進化すればそれだけいろんな業種での競争が有利になります。
いきなり今の大型発電所と同効率で、各家庭で使う程度の発電機の小型化までは無理でも、大型ビル4〜5個あるいは数街区規模に供給する程度の中型火力発電所の効率化を工夫出来れば、送電ロスや送電線の建設や維持コストが殆どなくなります。
また、発電所が細かく大量に分散していれば、1カ所の事故があってもその影響は限定的ですし、網の目のようにある隣接発電所からの融通で間に合わせられるので補完性も優れています。
一カ所の事故で大規模な停電が起きる心配がなく、災害やテロに対する安全性も優れています。
ところで、今のところ大型発電所しか効率上造れないとする意見が正しいとしても、(電力会社の独占維持のために発電装置小型化の研究開発費が出ないとすれば、日本にとって不幸なことです)送電ロスをなくし、テロその他の災害ダメージを少なくするには各消費地ごとに大型発電所を分散するのが合理的です。
福島原発では6号機までもあって更に増設する予定で今回の事故になったのですが、1基当たり一定規模の大型発電が必要なことと、一カ所に6〜10号機までも集中して造る必要性とは一致しません。
せいぜい1号機だけよりは集中管理出来て(所長が一人で済むなど)管理コストが安くなる程度でしょう。
管理費合理化程度ならば、送電ロスや膨大な送電網の維持管理費との損得の外に、一カ所がパーになると大規模停電になるリスク等と比較すれば、危機管理上から見ても分散立地する方が合理的です。
10号機まで集中すれば一カ所の警備で済みますが、その一カ所からの送電延長距離が伸びるので長大化した一カ所でもテロに遭うと全部停まってしまうリスクがあって、長大な線に沿った警備や保守維持に苦しむことになります。
超高圧線は山奥・稜線を利用しているので、警備の車が巡回するには不向きで歩いて巡回するしかないのですが、毎日1回も巡回し切れないでしょうし、巡回の合間を縫ってテロリストが潜伏して破壊するのは簡単です。
道らしい道がない場所ばかりなので、破壊されてから修復に駆けつけるにも(資材の搬入にも重機を使えないなど)日数を要します。
火力発電所も同じで、大型化の必要性だけから首都圏の需要を、千葉や神奈川県の大規模火力発電所ですべて賄う必要まではないでしょう。
仮に今のところ大型発電機しか効率が悪くて造れないとしても、最大消費地である東京都区内(輸入原油や石炭に頼る・・大量の海水を使うとしても東京にも海岸がありますよ)に全く発電所を造らないことの説明にはなりません。

発電所の消費地立地2(コンパクト化1)

一般民家の屋根上の太陽光発電は自家使用する限り送電ロスがないので、その点(発電コストは別に論じるべきですが・・)では合理的ですが、個人の場合自家用分を越えて発電すると、売電すると言っても少な過ぎるので送電コストが高すぎます。
企業・事業所と違い家庭では、昼間不在が多くて自宅のために発電時間帯には殆ど電気を使わないので、この時間帯に発電するのではミスマッチとなります。
昼間発電分を自家使用出来ない・・送電するには高圧化しないとロス率が高いのですが、住宅街には超高圧化する仕組みがありませんし、少量ずつ変圧するにはコスト割れです。
(現在は山間立地の高圧線から市街地に近づくに連れていくつかの変電所を経て順次低圧化する仕組みですが、その逆の変圧システムがありませんし、抵抗の少ない高性能電線も家庭近くに張り巡らせていません)
低電圧のままで且つ少量送電コストに関する画期的技術進歩あるいは昼間の電気エネルギーの蓄電コストが画期的にならないと家庭の余剰電力は無駄になる感じです。
広告では1年間に自宅でどれだけ発電出来て電気代がどれだけ少なくなると宣伝していますが、これらは一般家庭では昼間自宅には猫しかいない時間帯に最高の発電量になる現実を無視した前提で広告していることになります。
現在の技術では火力発電は大型発電所でないと発電効率が悪いとされていますが、もしかしたら危険なものを大都市から切り離すための口実か、あるいは独占的電力体制維持の口実でこのような意見が流布している・・その方向の工夫・改良意見・研究をさせたくないだけかが分りません。
(もしかしたらその混合でしょう)
仮に大型の方が効率が良いとすれば、今のところ各ビル(または一定街区)ごとの小型発電は今のところ現実的ではないことになりますが、(そう言う議論をすること自体現実を知らない青い意見としてバカにされます)今回の原発事故を教訓にするならば、現状に甘んじて怠慢を決め込むことは許されません。
今後は、都市内に発電設備を分散立地出来るように小型化してでも効率の良い発電システムの構築・工夫が必要です。
9電力体制・・独占維持のために小型化→分散立地へ研究が進まないとすれば、9電力体のシステムを何とかしないと行けません。
日本の技術開発は学者がするのではなく企業・現場の改良によることが多いので、我が国では電力供給が独占企業になっている関係で、独占企業にとっては利害の反する小型化研究→分散立地化への意欲・動機がないとすれば、我が国は小型化技術で世界をリードするどころか、小型化・スマート化で世界で最も遅れた国になってしまうかも知れません。
これを打破するのは政治の仕事で、戦後の緊急事態・・傾斜生産時代が終わったのですから、電力供給を自由競争体制に戻すべきでしょう。
今流行の議論は発電と送電シスムの分離論ですが、これでは社会発展に必要な小型化への研究インセンイブにはなり難いでしょう。
生活利便性の進化はコンパクト化であると元旦以来書いてきましたが、小型化は無理だと始めから諦めないで部品その他小さくして行く工夫・努力次第で将来的には今の10〜20〜100分の1程度の小型電所を生み出して行くことが必要です。
小型化して、発電所が身近になれば、その安全性・環境負荷を極小化する技術も磨かれます。
現在大型発電機しか造れない・・小型の自家発電装置はもの凄く効率が悪い・・ひいては環境負荷が大きいし割高であることから、大型病院や工場でもホンの短時間の自家発電能力しか用意出来ていませんので、昨年の震災のように長期間停電するとお手上げになります。
送電ロス防止目的だけではなく危機対応のためにも、画期的な小型化技術の開発努力は必須でこの先端技術を開発すれば、世界に向けた大型輸出産業に育って行くでしょう。
小型発電機自体は既にあるので、これから必要とされているのは大型発電所での発電効率に負けない・環境負荷の小さい発電機・システム作りです。
いきなり大型と同効率で100〜200分の1の小型発電機を造る必要がなく、現在病院や工場等に非常用に準備している短時間の発電機の効率を少しずつアップして、性能向上して行けば、輸出産業に育って行くでしょう。
現在の発電機の持久時間を延ばすことによって、昨年のような短時間の計画?停電でも(その停電時間より少し長い自家発電装置があれば結局ストップしないで済むので)工場や店舗の操業を全面的にストップしなくても済んだことになります。
自家発電への切り替えに時間がかかる・・しかも10〜20年に一回も稼働しないとイザと言うときに動かないなどの問題があります。
しょっ中試運転しているとそのコストがバカにならないし、数時間の運転で問題がなくとも長時間になると別の問題が起きるなどリスクが大きすぎて信頼性がイマイチです。
現在の発想・別の発電機の準備や蓄電池に蓄電(電池への変換時点でのロス率の高さから)しておく発想はコスト上問題があり過ぎます。
素人考えですが、非常時の切り替えや、ときどきの試運転ではなく、車のバッテリ−のように日々使う蓄電システムにしておく必要があります。
・・水で言えばプール内を循環してから供給する体制・そのプール蓄積分を4〜5日間の余裕にしておけば、停電しても切り替える必要がなくそのままプール蓄積分がカラになるまで4〜5日間稼働出来るので維持コスト不要です。
プール蓄積分の容量を少しずつ増やして行くことで(我が国はこの種の技術革新は得意です)行く行くは10〜15日分として増やして行けるし、バッテリー自体の大きさを小さくしてどこにでも設置出来るようになって行けるでしょう。
昨年の計画停電が批判されていますが、需要側にこれに対する備え・危機管理がなかったことによるもので計画停電自体が悪かったとは言い切れません。
ただし、社会に自家発電や蓄電システムがない状況・・備えがない・・電力側がそうした方面の発達を妨害しておきながら、一定時間ごとの停電を実施してしまった点は乱暴だったことになります。
例えば鉄道を含めた各種事業所では5〜6時間以上の自家発電装備するのが標準社会になっていれば、(しかも上記のように自動的に切り替えられるように使い勝手の良いシスム構築がされていたならば)毎日3〜4時間の停電が計画的に行われても何の混乱もなかったことになります。
一戸建て住宅では、トイレや電話その他いわゆるライフラインだけ別系統にして24〜48時間程度持久出来るような蓄電池を普及させておくべきだったでしょう。
一定規模以上のマンション等集合住宅では(高層マンションだけではなく高齢者が増えるとエレベーターの停止は死活問題です)まとめて100時間程度運転出来る自家発電装置または、上記蓄電システム準備の義務づけが有効です。
(年月をかけてこの準備時間を順次延ばして行けば良いのです。)
マスコミは民主党政権は危機管理能力がないと決まり文句のように批判していますが、危機管理の備えがなくてオタオタするのは事故が起きたときの政権の責任ではなく、こうした準備は社会意識の醸成から始めて何十年もかかるものですから、歴代政権・数十年前からの各界オピニオンリーダー・指導的立場だった人たちの連帯責任です。

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