文化発信源の多様化4(西欧の限界2)

経済発展と文化の関係に戻ります。
文化で装う能力がないので生産力で追いついてくる競争相手にイチャモンつけて武力抑圧を目指したのが、第1次2次世界大戦でしたが、戦後再び日独の挑戦に敗れてしまったのは、西欧諸国がこの間に新たな価値観創出・文化発信が出来なかったからです。
スポーツ等で言えば、自分のレベルアップ努力しないで負けそうな相手選手の足を引っ張ることに終始していたことになるのかな?
西欧は自己発展出来ない欠点が戦後よりいっそう明白になって、・・日独との競争に負け続け冷戦終了後は現地生産化進行で新興国との競争にも負け、減って行く従来型輸出製品の穴埋めをしきれていないのが英仏等西欧諸国ジリ貧の原因です。
イギリスに限らず西欧諸国がEU結成による障壁造りと移民による人口増や金融業に頼るしかなくなっているのは、新たな需要創出・・新製品開発能力がない・・これは消費者の声・・民のレベルが低いことによります。
生産力+資源に頼って来たアメリカも資源安によって資源保有の旨味に限界が来たので、移民と障壁造りに励むべし・・これがトランプ氏の主張ですが,アメリカ国力衰退・・日本に負けるばかりの状態を背景とすれば、誰が大統領になってもTPP成立は無理があるでしょう。
欧米ジリ貧の原因は、西欧では未だに階級格差がある・・アメリカは言うまでもなく大格差社会です・・まずい食事など客の声、庶民生活レベルが低過ぎることが消費時代について行けない理由です。
ドイツは今のところ黒字国で元気ですが、これはEUの囲い込みによって域内輸出を独占しているからに過ぎず・・しかも生産に偏っている・・内需の低さ・消費・・文化に昇華する能力の低さが今後問題になって行く点ではアングロサクンと同じです。
韓国も同じですが庶民が厳格に支配されていた国では、内需レベルが低く、消費材のきめ細かな発達が期待出来ません。
中国は異民族支配が長かった結果、反語的ですが庶民と政府が無関係で来た・・儒教国家と言いますが支配層・士大夫階層だけの道徳律であって、庶民には道徳規律も何も関係のない野放図なまま放っておかれたことを書いてきましたが、これが今になると野生のママの庶民の強さであり、したたかさの根源です。
政治的には「上に政策あらば下に対策あり」と言われる土壌です。
これを消費者視点で見直せば、・・消費者には元々何のモラル教育もないまま古代から来たので、商品工夫にも制約がありません・・新天地に行って開放感に溢れて自由な発想が出来るようになったアメリカ人同様・思想にモラル枠のない自由さがあります・・下水から食品を作り、プラスチック系から卵を作ってうるなど・・そこまでやるか?と言う驚きがありますが、何のタブーもない工夫が活発・期待・意外な発展性を秘めている可能性があります。
ただし、対策・うまく立ち回る工夫が中心ですから、根気よく物を作って行く能力には欠ける・政府等に対する信頼関係がないのでと次世代のために見を粉にして積みげて行く習慣がない代わりに既存技術の組み合わせ能力が高い・・あんちょこに何でも作ってしまえる点・・高級品は作れないが便利なものをちょこっと作れる点が今後有利に働くと思われます。
今簡易スマホ?利用の決済が席巻しつつあるようですがこれなどもその一種でしょう。
消費レベルの重要性に戻りますと、政府主導の旧ソ連や今のロシアや中国が、人工衛星を作れてもクルマやウオッシュレットやうまく炊ける電気釜1つマトモニ作れない現実が証明しています。
西欧国民の基礎的レベルの低さは気候風土上の問題・・マトモな野菜果物すら出来ない風土的産物の貧しさに由来します。
良い土地から出来るものは全てうまいし、その土地に住む動物も魚も皆うまいし、人間も素質が良いように見えます。
民度も結局は気候風土の制約から逃れられません。
単調な景色からは個性のある芸術も生まれようがないですが、私の子供の頃には、単調な街を「西洋の都市は整然としているのに日本の都市は雑然としていて統一感がない」と頻りに日本批判する有識者が溢れていました。
今になってみると共産主義国家のように単調な表現しか出来ないのが西洋であることが分ります・これは景色・気候が単調なのと軌を一にしているからです。
西欧が個性重視と言い出したのも如何に長い間、個性が無視されて来たか・・その反作用・反省の上に立っているに過ぎないことを理解する必要があります。
信教の自由も深刻な宗教戦争・弾圧を経て生まれた「解」であり、日本のように元々八百万の神が相互を認めあう社会ではありません。
動物愛護も人権も民主主義も皆同じで「民の声など無視し続けて来た」歴史が重要です。
4〜5km先に見えている山を越えれば違った生活習慣のある日本列島・・自ずと相対的思考が進みますが、千km歩いて行っても何の変化もない風景気候が続く平原・単調社会との違いです。
近代が弱肉強食・・何でも武力で解決する砲艦外交・・野蛮な4〜5世紀になってしまったのは、西欧による世界支配に由来します。
大航海時代以降西欧人は世界に乗り出したのですが、西欧の気候風土の貧しさから行く先々で交換すべき土産がない・・その他の世界に行っても交換すべき文物がなかったことに由来します。
元々西欧以外の世界のルールでは、交易・・すなわち何かと交換すること・これが古代から人類共通のルールで世界の交流が成り立っていました。
今でも他人の家を訪問するときには何か手土産を持っていくのは「強盗ではない」と言う証し・・その名残です。

文化発信源の多様化3(西欧の限界1)

内需力・国民を本当に大事にしているかどうかこそが、この先の国際経済競争で勝敗を分ける指標です。
西欧の場合どうでしょうか?
西欧の誇るオペラやクラシック音楽は・・王侯貴族階層が顧客ですが、日本の歌舞伎や浄瑠璃は庶民が支えて来たものです。
絵画や音楽も西欧は教会音楽や王侯貴族の肖像画中心でしたが、日本では古くから花鳥風月を描き庶民まで楽しむものですし、音楽も雅楽の外平安末期頃から今様・琵琶法師を代表としていろんな歌謡が庶民から始まっています。
万葉集では、各地地方の庶民の歌が一杯掲載されていますし,日本の和食文化は庶民から始まったものが中心ですし、今も現場からラーメンや餃子などB級グルメが発信され続けています。
ノーベル賞でさえも現場研究系の田中氏が授賞したことでは世界をびっくりさせました。
日本企業の強みは現場力にあると言われています。
遊び心、例えば昔から庶民が楽しんだ「なぞなぞ」その他の言葉遊び(掛詞・語呂合わせを基本とする)もそうですが、これが和歌や連歌〜俳諧、狂歌・川柳〜現在の落語やお笑い芸人の世界に引き継がれています。
歌舞伎などの飛躍した人物設定も突飛な連想・・連歌は連想遊びの高度なものです・・利用したモノでしょうし、草の根の文化が日本文化の基礎です。
欧米が世界に覇を唱えられた原因を見ますと、英米仏等産業革命先進諸国は産業革命による先行者利益によりますが、その後の発展性に乏しいのが20世紀に入ってからの惆楽の原因ですし21世紀に入っていよいよ衰退が明らかになってきました。
新大陸アメリカを起点にベルトコンベアー方式〜コンピューター革命等の生産技術革命はありましたが、アメリカは資源に恵まれていた点が主たる取り柄であって、文化力による上乗せ能力が低い点は同じです。
遅れて参入したドイツの挑戦はば同一文化圏内競争ですが、日本の挑戦には文化自体の違いが徐々に出て来ました。
欧米の植民地支配が過酷になったのは、文化力に自信がなかったのでその違いを悟らせないように白人の優越性を洗脳し、一方で現地文化を根絶する思想があったからのように見えます。
植民地支配では白人の優越性思想・人種差別意識の徹底で現地人に対する無力感を植えつけて現地人の成誇りを奪い,それでも努力して自民族の主体性回復を図る人が出ると過酷な弾圧をしていました。
南米の原住民を殆ど皆殺し?文化を根こそぎ奪い抹殺してしまい、・・今になるとインカ帝国の事績を伝承する人間すらいなくなるほどの徹底したジェノサイドぶりに人のすることかと戦慄を覚えない人は人間の心を持っていないのではないかと疑いたくなります。
ヒットラーのジェノサイドはいきなり出現したものではありません。
アメリカインデイアンに対する過酷な抑圧も良く知られています。
いわゆるブランド戦略なるものの浅薄さに気が付いている人が多いでしょう。
先進国に対する素朴な憧れに悪乗りしただけのことで、文化度が全く感じられないものをさも高価なもののように勝手に決めつけてボッているだけです。
田舎者に、がらくたを高価なものだと騙しているような商法です。
騙すと言うよりそれしかない・・その程度が自慢の文化と言うことでしょう。
産業革命に始まる生産力競争は・・装置産業が基本ですから、遅れて来た挑戦者の方が(資本さえあれば)効率の良い機械一式を備えることが出来,キャッチアップが簡単ですので普通は有利です。
この競争を阻害するために植民地支配民族に競争に対する絶望感を植え付ける・・人種差別を徹底して来た所以です。
西欧対等者であるドイツの挑戦激化に対する欧米の解決方法は、相手を引き摺り下ろすこと・・独に対する大戦争への引きずり込み、2度の世界大戦は挑戦者を叩き潰すと言う延長思考で起きたものです。
欧米の異教徒に対する差別化の穴をすり抜けて来た日本に対する叩き潰し方は、ドイツに対するものとは本質が違い・・アメリカインデアンに対する卑劣な扱い・・民族劣化・殲滅作戦とも言うべき戦争ですから太平洋戦争は西洋での大戦とは本質が異なっていました。
欧米は、異教徒でありながら台頭して来た日本人に人種間競争を意識させないために?名誉白人なる称号を与えてくれていましたが、日本人は欧米の人種差別に対する疑問を持ち続け、アメリカ本土居住日系人が個人が黒人解放運動を地道に進めて行く人が出て来たほか、政府としても国連で人種差別禁止の正式提案をして米英を怒らせたことが、アメリカの対日戦計画開始になったものです。
日米戦争の本質は、経済戦争の名目を取っているものの、台頭して来た唯一の有色人種をこれ以上多めに見ていると他の有色人種の反抗を誘発する危険を感じた欧米諸国一致の戦略で(日本の同盟国である筈のヒットラーのアメリカ大統領への祝電が如実に物語っています)植民地支配に喘いでいる他の非支配民族同様の地位に落としてしまう欧米全体の暗黙の合意実行に移したものでした。
名誉白人の地位は、植民支配地の王族をパリ、ロンドン等に招いて良い思いをさせておいて、反抗すればすぐに没落させるぞと脅していたようなものです。
ヒットラーがアメリカの対日開戦に「◯◯をやっつけろ」とアメリカに祝電を送っているくらいで本質はソ連もドイツも便宜上同盟や不可侵条約を日本と結んでいただけで黄色人種に対する敵意の方が優っていたのですから、ソ連が最後に裏切ったのは当然の帰結というべきでしょう。
対日戦ではアメリカインデイアンに対するのと同じ思想・・アメリカは当初から主に白人間のために成立している戦時国際法など人道的取り決めを・・日本も締約国ですが・・対日戦では守る気持ちなど全くなかった理由がここにあります。

消費レベルアップ3→文化発信源の多様化2

世界に輸出出来る消費材(文化を仕込んだ表現)かは消費者の嗜好が決める・・研究者や政府官僚が決められないのですから、消費者レベルアップが重要です。
税で吸い取って政府が計画的に投資する分野・・こう言う大学を作りこう言うセンス=既存センスを教えればいいと言うものではありません。
例えば作家養成大学が世界に1つもないと思われますが、仮にあっても書き方の技術を教えることが出来るだけで書く内容を教えるのでは背理・・読む方は有名作家とそっくりの内容を読みたくありません。
その点割に楽なのは、お茶などの芸事や絵画、彫刻、料理、俳諧、デザイン学校その他は大先生に習って一応の水準まで真似出来るようになれば、一人前のお茶の先生、料理人やイラストレーターらしくなれる点では、割に楽な分野です。
客は、大先生とそっくりの料理を作ってくれれば十分満足ですから・・家元や学校制度は、一人の大先生がいてもその周辺以外の国民の多くが恩恵を受けられないのでこれを全国に行き渡らせる普及版を大量に拡散させるには便利です。
師匠のまねごとでも古くは都にある絵画はこう言うものか、仏像とはこういうもの、家が立派になって来ると座敷を引き立てるお花の活け方とはこういうもの立ち居振る舞いの型を普及させるのは良いことです。
全国どこへ行っても駅ビルには全国展開のレストランがあり、デパート支店やチエーン店が展開しているのは、この現在版です。
最近はやりの美術系巡回展もこの一態様でしょう。
日本では早くから家元制度が発達したことが庶民レベルを引き上げるのに大きな役割を果たした・・全国でこれを支える需要があったことが重要ですが・・と思われます。
全国に国分寺、国分尼寺・・戦後で言えば各県に1つの国立大学を作ったのと同じ効果があったでしょう。
御陰で日本人は末端まで行儀作法が行き届いた社会になっていて、文化受容能力の高い社会になったのでしょう。
その先のレベルを求める草の根のお宅系社会は、このような基礎底辺の広がりがあってこそ生まれるものかも知れませんので学校制度の普及は重要です。
ただ、学校制度は料理などの基礎になる一定の決まりを教えることが出来るだけで、創造自体は個人の能力にかかってきます。
今や、一定の文化が行き渡った結果、あちこちにニキビのようにお宅系文化が吹き出して来た状態・・マサに底辺層を厚くして来た成果ですが、今後その先のお宅系の型を教えるような仕組みづくりは無理があります。
これに応じた「型」を工夫することが可能としても、消費者が画一的「型」売れ筋を売りつけられても受入れなくなっている多品種時代ですから無理があります。
大量消費の代表・・アパレル業界が大変なことになっているのも、このような消費変化の結果でしょう。
全国展開のデパート・スーパーで1つの流行スタイルを数十〜百万単位で大量に売りつける商法は今後無理・・1デザイン数万人規模の顧客で足りるネット販売の時代が来るとデパート時代にその年の流行スタイル(有名デザイナー数人程度の作品)が10数種類程度で済んだのが、ネット時代には、名のない多くの作品・万単位にのぼる多様なスタイル・・ちょっとした気の利いた少量品に分散して行きます。
我が家でもここ何年か前から、唐津のある作家(まだオヤの域に達していないようですが気持ちの可愛い跡継ぎ)に注文して我が家風の陶器を順次作って頂いて、すごく満足しています。
この先一定レベルに達した消費者を満足させる製品を作れる技術者を養成する教育システムを(明治以降の学校システムが成功したのは欧米の技術修得目的だったので効果が高かったに過ぎません)巨額予算を投じて作って行くのは無理です。
今後は、上記のような小さな釜での徒弟奉公が必要な印象です。
今後は生産力競争から、消費力競争社会になるとした場合、新たな消費文化を先導し(ウオークマンに始まり最近のポケモンのような)新たな消費に必要な資材の先行生産力・・その先行者利益獲得競争すべきです。
ウオークマンのヒットに関連しますが、ソニー往年の輝かしい躍進の原動力は、盛田氏に至る創業世代が文化的に高度な素質を持っていたことが大きな要因だったと思われます。
その後一流大卒のエリートを大量に入れた第2世代経営者以降業績が冴えない・・最近復活したと言っても金融中心あるいは、買収したハリウッド映画中心に稼ぐようになっているのは寂しい限りですが、正に象徴的経過と言うべきです。
学歴エリ−トは(文化遺産継承比率が低い)中間管理職出身に偏り勝ち・・官僚が文化発信を担うには無理があることを肝に銘ずべきです。
多くの鉱工業製品・・必需品でさえも商品の最後の仕上げに遊び心がどこまで反映されているかが決め手になる時代には、政府が税を投入する大学や国立劇場・オペラ専用劇場などのインフラを用意して、方向性を教える従来型ではどうにもなりません・・。
4〜5日前の日経新聞では国立劇場の果たした役割と今後の課題・・歌舞伎・文楽などの後継者不足問題を書いていました。
私は国立劇場が出来た直後から数多く足を運んで来たので、関心があって読みましたが、学者が議論してどうなるものではない・・消費者が喜び、演し物に人気があれば、後継者が殺到?するし、そうでない限り「政府補助があるし、将来人間国宝にしてくれるぞ!」と言うだけでは次世代俳優になる応募者が集まらないでしょう。
要するに文化の消長・・存続は消費者が決めることです・・この意味では、橋下前大阪市長が消費者の支えない文楽予算を減らすと言ったか?の問題提起は意味があります。
日本の文化は世界中の文化とは違い、宮廷文化から生まれたのではなく、全て庶民発祥が特徴です。
政府主導社会ではありません。
遣唐使前後の古代と明治時代の外国の進んだ文化を受入れる時代では政府主導・・早く全国普及させるためには、国分寺制度や学校制度が有効・・これが一旦普及するととその先の工夫・・独自文化はいつも庶民から文化が起きて来た社会です。
独自性があってこそ世界の新製品需要を主導出来ます。

消費レベルアップ2→文化発信源の多様化

話変わって,企業・・産業活動としては国際的視野で見る必要があると言うと、グローバル化推進論者か?と誤解されそうですが、物事はレッテル張りで済むような簡単なものではありません。
金融資本家がのさばり過ぎている・・高額報酬を得過ぎている反感が、反グローバリズムとなっているようです。
ところで兵器に始まってクルマの開発等多くの製品では開発費が大規模化して来て1〜2ヶ国の市場だけを相手にする規模では技術革新競争に生き残れません。
インド進出で成功しているスズキでさえ、単独では今後の開発競争に資本的・人材的に無理があって、何年か前からドイツ企業と合弁したり解消したりしているのはそのせいです。
各種生産・・あるいはウーバーのような新規業態開発では、大資本投入・・人材育成が間に合わないなどのために世界企業間でのM&Aや離合集散が激しいのですが、文化面ではその反動によるのか?個性化・・少数者だけで理解しあえる趣味・文化を楽しむ社会が始まっています。
ビッグデータの必要性。世界標準を握る必要性の面から見れば「ガラパゴス化」と言う批判を受ける現象が、個々人の生き方としては、日本発の「オタク化」コソ生き甲斐と言う現象が顕著になっているのが現在です。
多分同じ人間・・ジョブス氏が禅に関心を持っていたようなこと・・先端企業でビッグデータと格闘している若者が一方でお宅系文化にはまっている・・これが現実社会です。
この後で2項対立的思考の不毛性を書く予定ですが、2項対立を煽っても仕方がありません。
大量消費・・巨大店舗消費に飽きた文化発信時代になるとみんなと違った楽しみ方に価値がある社会になって行きます。
ちょっとした穴場(マスコミ推奨の大勢と同じ楽しみ方よりは個性で楽しむ)人気の価値がある・何万人も人が来なくても良い・・逆に1日に何万人も来られると困る観光地も大事にされるべきでしょう。
生活にゆとりが出て来ると、テレビ宣伝に合わせてみんながドット出掛けてみんなと同じように楽しむ生き方は卒業して自分流に楽しみたい人が増えてきます。
大量・画一消費社会は、有名大学での優秀者が集まる研究所で開発した売れ筋商品を廻りに負けずに入手し、有名デザイナーが「今年の流行はこれ!」と支持すると何千万人がこれを買い、遊びに出掛ける時代でしたが、これが一巡すると「自分らしい」消費をしたくなるのが普通の順序です。
飲食店やホテルでは昔から大広間的なものは敬遠されるので、大きなホテルでも細かく内部をし切って小さな部屋にしています。
デパートも早くから、広々とした平場の商品は安物で、ブティックなど細かくし切っているのが高級品と言う扱いでした。
ゆとり社会・・文化レベルが上がって来て、画一的消費は敬遠されるようになると、文化の発信源が多様化してきます。
私の子供の頃には美空ひばりなどそれぞれの分野で絶対的人気のある歌手や俳優、選手・◯◯の神様がゴロゴロいましたが、昭和40年頃からこう言う大スターはいなくなりそれぞれの分野に関心のある人だけが知っている程度になりました。
今では更に細分化の繰り返しになっていて、これがいわゆる「お宅系」と言われるようになったのでしょう。
発信源・・裾野・・ジャンルが広くなって来ると、芸大でいい成績だったかどうかどころか芸大出かどうかも問題にならない時代です。
文化発信の裾野の広さ・多様性が進むと、こう言う大学を作ったらとか研究所を作ればいいと言う・政治が口を出す時代ではなくなります。
アニメの発達を見れば分りますが、税を使ってその発達に何か貢献して来たでしょうか?
せいぜい最近になって、日本文化発信に有効だから後押ししようかと言う後追いくらいしか出来ないのが政治ではないでしょうか?
世界的大芸術家一人育てるのは、文化の遅れた共産圏でも集中投資で間に合いましたが・・裾野の広い草の根の文化発信時代になると、庶民の生活水準底上げ・伝統・歴史の重みがモノを言って来ます。
土が豊か(気候風土が豊か)であると大木1本(大スター人)だけ育つのではなく多様な植物が繁茂し、育ちます。
他方で、生活利便性商品・・合理化が進めば進むほど良い分野では、競合他社より燃費性能がちょっとでも良いとその何百倍もの販売格差が出る・・グローバルスタンダードを握った方が世界を席巻出来ます。
電気自動車や自動運転が始まると、少しでも先に開発出来た方が有利です。
利便性の進歩自体は、生活利便性が増しゆとりのある生活が出来るので、反対する理由がありません。
我が家で言えばウオッシュレットの恩恵を受け、冷暖房、ネット注文でお花が届く・・都内は勿論、京都でも行きたければ新幹線で楽に行けるなど快適な生活が出来るので、家事や移動にかける時間短縮の結果ゆったりと文化を楽しめるのです。
企業では・・寸秒も無駄にしない生き方が奨励されますが、家に帰るとローテクにはまるのも1つの生き方です・・社会全体がローテクでは今のネットを駆使した利便性を享受出来ません。
個々人の生き方とグローバル化の必要な企業活動は分離して来たと言うべきでしょうか?
そして日本は文化発信国家になって行くのが良いと言うのが私の意見です。
自動運転の実現にはグローバル化が必要ですが、出来上がったものをキュートに仕上げて行くのは文化力ですから、最後は日本の文化力が国際収支に影響してくるのです。
ジーンズはアメリカ発祥であっても今では、良い物は日本でしか作れません。
その内ジャズも日本が最高になっているでしょうが、そのためには基礎文化力・・民が豊かでないと良いものが育ちません。
07/03/03「超高齢化社会の生き方5(多様な生き方を保障する社会1)」その他かなりのテーマごとに「多様な生き方の出来る社会に」と言うテーマで書いてきましたが、多様な生き方を認めるゆとり社会でこそ多様な文化発信が成り立つのです。

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