エゴと共同体2(異民族問題)

自己中心者・・何でも反対する比率が人口比6%としても・刑事処罰や社会に批判があれば、自己抑制するので実際に反対運動したり犯罪実行する人がそのまた半分〜数%に減っていきます。
本心がどうかと言う核心部分は宣伝するかどうかによって大きな変化はないでしょうが、犯罪に踏み切るか、犯罪にならない道徳的部分における行動基準の何ミリかの幅についてマスコミの果たす役割が大きいことが分ります。
みんなが自宅前の道路掃除していることを賞讃するのか、掃除は役所がやるべきでバカなことをしているとマスコミが宣伝するかによって一般人の行動形態への影響が大きいことが確かです。
問題はこう言う外れモノが自分の意見として堂々と主張させる社会にして行くために(少数意見保護・・人権擁護になる?・・)学校で教育したりマスコミが強調する)が良いかどうかの問題です。
「ゴミを散らして歩く権利」・・「民族の違いを尊重し、少数意見としてドンドン主張するようにしましょう」と言う法教育の推進・・少数意見の尊重社会が実現するとすれば超余裕社会と言えますが・・?
民族間の紛争の基礎は生活習慣・・結局は基礎的価値観の違いに起因することが多いのですが、文化人は民族間紛争を宗教の違いなど観念的な、信教の自由とか相手の価値観を認めましょうなどの言葉の遊びで満足しています。
いじめっ子がいると「その子も家庭環境に原因があって可哀相なのだから・・」と言う人がいますが・・だからと言って苛められている子供が泣き寝入りしろとなればおかしな論法です。
異民族との紛争は観念の違いから始まっているのではなく混在することにより日常生活の場でもめ事が起きているのです。
日常に還元すれば、◯◯人は汚いとか臭い、うるさい・・約束を守らない嘘つきが多い、まじめに働かない、犯罪者が多い・・顧客となれば一々コうるさいからイヤな客とか日常次元の争いです。
宗教とは民族ごとに違った生活習慣の集大成ですから、結局は宗教の違いでしょうが、相手の宗教尊重とは宗教儀式を妨害しない程度は良いとしても相手の生活習慣尊重となるとうまく行きません。
ソモソモ同一民族が何故同じ習慣・・価値観を持っているかと言うと、同じ場にいる限り同一習慣・ルールでないとギクシャクするから時間経過で住み着いた場所の習慣に馴染んで行き同化して行く(郷に入れては郷に従え)ことを表しています。
稲作社会で言えばみんなで水路維持の共同作業をしている場合、新住民も当然その作業に参加しないとうまく行きません。
民族の定義を書いたことがあるように思いますが、民族とは人種別ではなく同一価値観で生きている集団のことですから、異民族が同じ場所に長期間価値観の同化を拒否して存在すること自体民族の定義に反します。
同化しないまま何十年も違った価値観の人(掃除洗濯・食事・礼儀作法に始まって生き方が違うのですから)が混在するのでは、その地域での人間関係のストレスが高まる一方ですし、相互不信感が解消されることがありません。
少数意見尊重と言えば聞こえが良いですが、具体的になると難しいのが分ります。
生活習慣に根ざした意見・・家の廻りの掃除するかどうか・ゴミ分別に協力するか・・アパート・マンションの廊下に痰を吐くような行為になって来ると「俺は少数意見だから協力しないゴミを散らして歩き,廊下に痰を吐くのは勝手だ」と言う声を許容すべきかと問題設定すれば分ります。
そんなバカなことを言う訳がないでしょうが、「違った価値観→生活習慣を認めろ」と言うのはこう言う問題についてどの程度上位の問題ならば許容すべきかの程度問題になります。
来たばかりの人は習慣不明だから慣れるまで仕方ないと思っていますが、半永久的に違いを認めろ(新規居住者が地元に同化する努力が要らない)となると違ってきます。
極端に言えば混在するから生活習慣の違いで喧嘩になるからと中華街やコリアタウン・・イスラム教徒が多数を占める地域形成などを積極的に進めて行くと、目の中にゴミが入ったような国家になって行きます。
少数意見尊重は、民主的政治決定方式の問題であって、日常的に少数意見の人が何事でも強行実現する権利まで意味していません。
何かを決めるのには少数意見を尊重してどちらが合理的・より良いかについて議論を尽くすべきことであって、議論の結果決まった結果に従うことが前提になっています。
自分は少数意見だから最後まで従わなくとも良い・・地域で決まったことをしない・守らない権利があると言うのでは国家・共同体社会が成り立ちません。
自分は少数意見だから最後まで従わなくとも良い・・地域で決まったことをしない・守らない権利があると言うのでは国家・共同体社会が成り立ちません。
国会や地方議会で決まったことをなお「少数意見無視」と言うに留まらずマスコミが報道する意見が多数意見と言う思い込みの強い勢力が、「国民大多数の願いを無視する◯◯法反対」と騒ぐのは(多数かどうかは国民が決めることなのに、自分が多数意見だ自己主張している野路分で自分の腕が日本1と自慢しているボクサーのようなものです)論理的に無理があります。
宣伝力の大きい方が正しいみたいな今の言論状況・・マスコミ支配社会では、サイレントマジョリティー問題が重要です。
議会議決に至らない生活習慣的行為・・礼儀作法や生き方の違いになると多数の議論を経て決めていないのでその分強制力がないのですが、我慢を強いると逆に不満が蓄積するのでどこまで許容すべきかは難しい問題です。

憲法問題と変革対応

今回の大変革のうねりは、(・・非嫡出子の相続分部差別違憲論のように)日本社会の内部変化によるのではなく、周辺国の軍事大国化・侵略意思の明確化・行動に対して、どこまで対応必要性が生じたか、どのように対応すべきかの判断です。
幕末に英国によるアヘン戦争・・香港割譲事件に国家的危機を感じた騒動に似ています。
今回は中国による南沙諸島や尖閣諸島の侵略で、習近平氏による意趣返し的(中華帝国の栄光復活=19世紀に受けた屈辱の仕返しを基本思想とする)行動ですが、方向こそ違え、周辺安全保障環境が激変している点は似ています。
幕末にも開国が祖法(憲法)に反すると言って反対した教養人?攘夷勢力が重きをなしていましたが、結果的に開国が正しかったことを歴史が証明しています。
攘夷とは言いながら(これは方便であって)本音は徳川政権を倒したいだけの勢力でしたから、徳川政権が倒れるとすぐに開国に舵を切っています。
当時の弱肉強食の世界情勢に適応するには、幕藩体制のまでは無理があったことから開国が正しかったとしても、幕藩体制変革の必要があったので、結果的に明治維新は成功しましたが・・・。
今回は現在の民主主義体制を別の体制(中ロのような独裁性?)に変える意図を持っている人はいないでしょうから、単純に国の安全を守るのにどこまでの準備が必要かと言う程度の意見相違です。
集団自衛=他国の協力が必要と言う意見と、そこまでの必要がないという意見に分かれていると見るべきでしょう。
それだけのことに憲法違反かどうかを先に議論して行く必要があるかどうか疑問です。
目の前の必要なテーマをどうしてキチン議論しないか不思議です。
先ず集団自衛の必要性の有無を討論してどの程度までなら必要かなど順次議論して、その結果ここまで必要となったときに憲法上どうなの?と言う順序で良い訳ですが、必要性の論議に入るのをいやがって入口で憲法違反かどうかの空中戦で勝負しようとしているのって自由な議論をさせたくない意図・・戦略の成功を感じます。
後生大事にしていた攘夷ならぬ非武装平和論で国を守れるかの議論が先ではないでしょうか?
反対論者が、政府案と反対論を比較して反対論でどのようにして国を守れるかと言う利害得失を説明するのが、建設的議論ではないでしょうか?
単に安倍総理はナショナリストだから・・と言うレッテル張りや憲法違反と言うレッテル張りで勝負していることに、言論封殺的・・民主主義に対する危険な方向を感じます。
政治運動には何らかの実利の裏付けがある筈で観念論は意味がないのですから、その裏には、反対運動するに足りる本音がある筈ですが、これを表に出さずうまくやるのが政治そのものと言えば、言えますが・・。
国民は主権を行使するためにはムードやマスコミ宣伝に惑わされずに運動体の本音・・何のために政治運動しているのかを知り嗅ぎ分ける必要があります。 
国民が正確な判断をするには、前提事実・・情報提供が重要であって、そのためにマスコミの重要性があるのではないでしょうか?
マスコミがやるべきことは、ナショナリストとか憲法違反かどうかの報道紹介よりも政府案だと「このようになり」反対論だと「どうなる」と言う事実の正確な情報です・・。
憲法違反かどうかの観念論の宣伝では、国民を惑わす効果しかなく、法案成立による利害が国民に分かりません。
全ての法案は利害の落ち着くところを見れば国民がどちらに味方したら良いかがすぐに分ります。
本当の利害が分ると困る勢力が、これを知られないように誤摩化そうとしているのです。
現在は幕末とは違い、その法案が憲法(祖法)に違反するかどうかを決めるのは、法律が成立してから裁判所がきめる権限・・三権分立していますから、代議士・国会(幕末で言えば諸候重臣)がこれに反するとか、反しないとか勝手に決めて審議に応じないことは逆に憲法・祖法違反で許されません。
国会の機能は、法案内容実質の妥当性(今回で言えば集団自衛が必要な国際情勢になって来たか否か)議論し議決するべきであり、憲法違反かどうかを議論するべき場ではありません。
国会の権能外のことに対して、国会議員もその職責がないだけではなく、職務外の憲法論を優先して肝腎の本案内容の吟味を怠っているとすれば、立法作業に関与すべく選出されている代議士の職務怠慢です。
「憲法違反の法律を許すな!と政治家が言っても、そもそも違反かどうかの決定権を国会が持っていません。
憲法論は国会の権限でない以上は、国会で立法作業を行うべき代議士の職務でもないでしょう。
職務外の行為に精出しているのって不思議な光景です。
ある法律が憲法違反かどうかに付いて議論するのは代議士の職務ではなく、代議士は自己の信念でこの法律はこの点が良くないから変えるべきだと言うのは・・そのためにどの部分が国民にとって良くないと力説するのはまさに職務行為です。
仮に人種差別法が制定されようとしている場合を考えれば、憲法違反かどうかを言うのではなく、(そう言う意見は法律家に任せて)このような差別法は許されないと、自己の価値観で話すべきです。
自分の価値観と関係なく憲法違反だから反対とか、憲法枠内だから賛成と言うような主張は法律家に任せておくべきであって、代議士の職務ではなくそんな観念論しか言えない代議士は要りません。

ヘイトスピーチ禁止論10(表現態様?)

道義の中で法で強制すべきものだけが「法」になっているのが普通の理解ですが、その理解で言えば、法に昇格していなくとも正しいことは正しいのだから大きな声で言っても良さそうなものです。
「暴力団は怖いね」とか「あの集団怖いので近づかないようにしましょう」と言うのが何故いけないかです。
ゴミ捨て禁止の法がなくとも、ゴミを道路に捨てているのを見たら注意するのが悪いことではないでしょう。
ましてしょっ中道路にゴミを捨てたり、痰を吐きながら歩く人見たら、そんな人と付き合いたくないでしょう。
「あんな人とは付きあいたくないね!」と大きな声で言えない場合としては、道義と言われている中には社会の価値観が急激に変わった結果、もはや道義として通用していないものが旧弊として残っている場合が考えられます。
既に現在の価値観で認められなくなった旧弊にこだわる人が、これを道義と称しているだけで、(まだそんなこと言ってるの?と思っても)誰も正面から反対していないだけの場合もあるでしょう。
旧弊な意見が大きな声で言えないのは、ソモソモ世論の支持を受けていないからであって、法で禁止しなくとも自然に消えて行きます。
人権重視のアメリカなどでヘイトスピーチに対する法的規制がないのは、意見の正邪は言論市場で決めて行くべきだと言う意識が強いからです。
あるいは、相手が怖そうだとか相手に嫌われたくないから黙っているとかの理由で、相手が悪いことをしていても注意出来ないこともありますので、こう言う場合は積極的に言論発表を援助すべきです。
権力批判も同根ですが、今は「えせ同和」に始まって、弱者を名乗れば強者に転じる・・権力批判に名を借りた悪乗り・濫用が増え過ぎた点が問題になっています。
親がパチンコに通ったりファミレスなどで外食しているのに、子供の給食費や旅行積立金などを学校に納付しないので、・・請求すると子供が可哀相だ・・納付しなくとも旅行参加させろなどと主張する意見です。
国際的に言えば、従来価値観から言えば、ギリシャ危機=困窮している国民への同情がもっと集まっても良いのですが、(ドイツやIMF的緊縮策の処方箋には懐疑的な点では私も同感ですが・・それとは別に)同情が広がり難いのは、こうした弱者?の開き直りの広がり・横行にうんざりしている人が世界的に増えているからです。
法で禁止し、道徳的に抑制する必要がある場合とは、批判論には道義があって世論支持があるものの、世論支持を背景に批判活動が行き過ぎた結果、特定民族・集団の受ける不利益が一定限度を超えて迫害されるような事態に至っている場合ではないでしょうか?
ある家族の一員が多くの村人を殺した場合、その家族が謝るべきと言う気持ちは現在も通用している正しい道義だとしても、吊るし上げて断罪までするのは「行き過ぎ」と言う程度が現在の常識でしょうか。
「村・国から出て行け」と出て行かざるを得ないように家の前で毎日騒ぐのは行き過ぎの一種と思われます。
大事件があった(例えば◯◯国出身の留学生がアメリカで銃乱射事件を起こした)ときに、その国の元首が遺憾の意を表明したり陳謝(またはこれに類する発言をし、お見舞いを申し上げるなど)するのが普通ですから、今でも(自分の息子が殺人行為をしても自分が犯人ではないから)「俺は関係がない」と言えないのが、現在も世界中で普遍的価値観であるといえるのではないでしょうか?
何か事件・事故があった場合、集団的・・民族的陳謝やお見舞いが必要なのが現在でも正しい道義であるとするならば、謝らない人を名誉毀損にならない程度プラス行き過ぎにならない程度で非難するのは、「言論の自由の範囲でやっているだけだ」と言う理屈になるでしょう。
せいぜい許されるのは、「誠意を持って謝って欲しいよ!」と言う程度であって、謝らないからと言って、名誉毀損行為が許されないだけではなく、結果的に民族迫害にならないように自粛すること・・当然のことながら暴力行為に至ることは犯罪として許されません。
結局のところヘイトスピーチ論は、ある集団に道徳違反があった場合に相応の批判は許されるが、相手が悪いからと言って名誉毀損・侮辱・迫害になるほどの過剰表現はいけない(聞くに耐えないような下品・露骨な表現するな)とか、暴力が行けないと言う常識の問題に帰するように思われます。
名誉毀損や侮辱行為は、それぞれ刑事罰や民事損害賠償の対象になります。
その程度の抑止力で充分であって、これに該当しない程度の批判・表現行為まで(将来迫害になる危険があるからと前もって表現を)規制するのは、特定勢力をバックにした組織による言論弾圧リスクの方が高くなります。
百田氏のマスコミ批判が袋だたきにあっていますが、個人の意見表明が何故行けないか?逆にマスコミの言論弾圧事件と言うべきでしょう。
アメリカ共和党の大統領候補に立候補しているのトランプ氏が、不法移民取り締まり強化を訴えて物議をかもしていますが、その程度は・・言論で勝負すべきことです。
不法移民問題をどうするかは政治の重要争点ですから、これを論点にする事自体を批判するのは一種の言論弾圧とも言えますから・・。
常識を法で強制するのは、無理があります。
過激派のデモ行進は自然に消えて行ったように、常識の範囲を超える過激な言論は、社会の支持を受けられずに淘汰されて行くでしょうから、それに任せるべきです。

原発再稼働の是非と原子力政策1

現在政治家が優柔不断で決断力がなくて誤摩化しているのか、重要なので機が熟すのをじっくり見定めているのかの違いは、経済政策のように瞬時に決めて行くべき緊急性があるかどうかによります。
原発の新設をどうするかは国家意思が決まらないうちは手を着けなければ良いことですが、福島原発事故当時稼働中の原発をどうするかは緊急の課題です。
そこでもっとも津波に弱いと思われていた御前崎・浜岡原発は即時停止方向に決めた他は通常どおり運転し、その間新たな規制基準を作成して、定時点検による休止後新たな基準で再開の是非を決めると言う方式がとられています。
ところで、新設とは違い既存施設を再稼働するかどうかは、燃料棒の違いによっては実はそれほど緊急に国論を決めなければならないことではありません。
MOX燃料棒の場合には、再稼働しないで、今の施設のままで放置しておいて(廃炉すると決めても冷却しないで放置すると燃料棒がすぐに危険になる・・冷却不要・・危険でなくなるまでには何年もかかるようですし・・)、その間に津波で冠水・電源喪失すれば、稼働中と似たような被害が起きる点は同じです。
電源喪失の危険性・・大地震の確率はよく分らないとしても、稼働中ではない使用済み燃料棒も電源喪失して冷却し続けられなくなると大変なことになる危険性は同じです・・。
このために福島原発事故の場合、大騒ぎして全国から高所(高層ビル)放水用の消防車を動員したりして高所に保管中の燃料プールへの注水作業に必死になっていたことを想起すれば良いでしょう。
(ニュースでは東京都の石原都知事の発言だけでしたが、千葉市の最新式消防車も出動した・・その費用を請求中と震災後大分経った頃に聞いたことがあります)
燃料棒の違いによっては冷却する必要がないらしいのですが、その違い・・どこの原発ではどう言う燃料棒を使っているのかが報道だけではよく分りません。
MOX燃料棒使用原発の場合、「再稼働しなくとも、プールで冷やし続ける必要のある使用済み燃料棒の危険と再稼働したトキの危険性との違いが何か」と言う点にあるように思われます。
新設するかどうかの議論は、何の危険もないところに危険物を設置するのですから危険性が「あるかないか」ですから、大きな違いがあります。
(「50歩100歩」と言う言葉がありますが「ゼロと5〜10」の倍率は50歩100歩の比ではありません)
だからこそ、新設して行くどうかの基本方針を決めるには、国民意思が揺れ続けているのですが、その前に既存設備をどうするかの議論が決まった(この間にいろんな議論が煮詰まって来るでしょうからその)後に、じっくり決めれば良いことかも知れません。
この辺は歴史の長い我が国の優れたところで、慌てふためいてさしたる議論もしないで、直ぐに原発ゼロを決めてしまうドイツ等とは民族レベルが違います。
革新系文化人はドイツの英断を賞讃する傾向がありますが、自分自身じっくり考える能力がないから乱暴な決定を英断として賞讃する意見になるのでしょうか。
福島原発事故当時を思い出してみると、ドイツは事故直後慌てふためいて東京の大使館を閉鎖して大阪へ移転していました。
私は当時ドイツ銀行に対する投資信託もどきの遺産相続の関係で解約手続中でドイツ大使館にドイツの裁判制度関係の照会をしようとしたら、東京の大使館が閉鎖されてみんな大阪に逃げている・・窓口が大阪になっているのに、驚いたことがあります。
日本中が大地震に遭遇して大変な心労の最中に、このようなことしたら日本人がどう受け取るかの配慮が全くないのです。
国家を代表して来ている以上は、東京都民が移転しても国家代表として踏みとどまるくらいの気概が必要ですが、率先して東京を引き払って,日本を貶める急先鋒(韓国以上の露骨な動きに日本人は驚きました)をやってしまいました。
メルケル氏は震災後約4年経過後日本初訪問しても被災地へ足を運ぼうともせずに、岡田氏と慰安婦問題を話し合って日本批判したと報道されています。
何ら下準備もなしに鳩山総理が、イキナリ大幅なCO2削減を国際公約したり沖縄の基地移設問題で根拠・下準備なしに「最低でも県外へ」と主張していたのですが実際には、何も実現出来なかったことがあります。
この無責任発言が未だに我が国にとって沖縄基地移転問題解決にとって大きな負の遺産としてのしかかっているのは周知のとおりです。

原発問題(専門家の限界)4

一人でも反対の場合、再稼働を認めないと言うときの一人とは、規制委委員の内一人だけなのか、規制委員会委員だけではなく関連学会や現場関係技術者まで含むのかにもよりますが、幅広く委員会外に反対意見があればそれを採用すべきとなれば、どの範囲までの人を加えるかの問題もあります。
国論が大きく割れているテーマでは(何百人もいる関連研究者のうちに反対論者が一人や二人いるのが当然予測出来ますから)反対論者が一人でもいたら再稼働禁止と言う法律が仮にあれば、事実上禁止法を制定したのと同じ効果になってしまいます。
福島原発大被害発生後満4年経過した現在でも、国民総意が即時廃炉、段階的廃止・・古い分は即時廃炉しても新しい分は運転していて寿命が来る都度新設しないで縮小して行く・・その他国論がまとまらず、揺れている状態です。
国論が定まらない状態では、政権も明確な意思表示出来ないのは民主国家運営としてある程度仕方のないことです。
経済運営では国論が定まらなくとも、政権はABC~Xの意見うちどれを採用するかを相当期間内に選択して行くしかありませんが、原発政策は、相稼働を認めなくとも、あるいは廃炉に決めても危険な使用済み燃料棒が即時にこの世からなくなる訳ではありません。
冷却が止まると危険性がある点は、・・急いで廃炉かどうか決めても危険な使用済み済み燃料棒をすぐにどうにか出来る性質のものではないので、国論が揺れている以上は時間軸を多くとって慎重に国論の行方を見定めること自体は妥当であり、優柔不断・・小田原評定的非難に当たりません。
国論が定まらない状態の震災直後に制定された新規制法の基準がより厳しくなったとしても、全面即時禁止法と同様の効果がある「一人でも反対意見があれば再開を許容すべきではない」と言う基準が法制定されているとは到底考えられません。
せいぜい変更あったとしても単なる多数意見(過半数)ではなく、全体の2〜3割以上反対があれば多数意見を採用しない・・危険とするなどの段階的基準設定する程度ではないでしょうか?
(憶測だけではなくこの後で規制委員会設置法の条文を見て行きます)
会社法その他の組織法(身近なところではマンション法など)では、議長の裁量に留まらず、解散その他重大決定は特別多数制度(3分の2以上や5分の4以上など・・マンション法では厳し過ぎて老朽マンションの建て替えが進まないので最近要件緩和されたと言う記憶です)が採用・・法律上強制されていますが、原発規制法に会社法のような明文の規定がない限り、大方の意見によって決めて良いことになるのでしょう。
こう言う法律がない場合に、司法が独断でもっとも厳しい少数意見によるべきだと判断することは許されません。
ですからまさか、(仮処分決定書自体見ていないので分りませんが)こう言う基準で停止命令を出した訳ではないでしょう。

会社法(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(株主総会の決議)
第309条 株主総会の決議は、定款に別段の定めがある場合を除き、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数をもって行う。
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げる株主総会の決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(3分の1以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の3分の2(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない。この場合においては、当該決議の要件に加えて、一定の数以上の株主の賛成を要する旨その他の要件を定款で定めることを妨げない。
以下各号省略

法の明文がない場合にも、実務上効果がはっきりしていない・よく分らないことに関する重要決定事項に付いて、多数の反対意見が噴出すると(賛成者多数の場合でも)直ちに「決」をとらないでもう少し慎重議論しましょうと議長・委員長が引き取ることが多いのですが、これは議長の裁量行為であり、一定の議論を尽くした結果であればその場で議決しても裁量権の濫用にはならないでしょう。

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