江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道4(秀才の限界5)

寛政の改革や天保の改革はいずれも儒教が目標とする聖人・・帝王の自己抑制・・質素倹約奢侈禁止中心で、新たな進歩の芽を規制したことが特徴です。
もっとも定信は人足寄場を作るなど一定の新規改革をしていますし、忠邦も前将軍家斉の濫費政治を徹底排除・・濫費に加担してきた閣老粛清をするなど清新政治を目指しています。
(後記庄内藩国替え騒動の時にミズノの責任を問うために登場禁止処分した老中に対する復讐だったとすれば却って恨みを買い政敵を作ります)
日本ではこういう粛清はもっとも嫌われます・・迫ってきた国防の危機対処のために国防の基礎体力増強のために、江戸大阪周辺の旗本や譜代の入り組んだ小領地を上知(と言っても取り上げっ放しではなく遠隔地との交換です)させ・・一円支配復活による幕府軍事力強化策などしていますが、こういう利害の絡んだ国内政治は人望のない場合強硬策のみでは上手くいかないものです・・。
この後で庄内藩に対する順次領地交換命令に対する地元民による反対運動を紹介しますが、同じ石高同士の交換でも実高の違いが大きいので、損をする藩が出てくる上に藩札の処理で損をする人や大名貸の取りはぐれリスクから領民も反対する・・まして幕閣に顔の効くものがうまい汁を吸える疑いまで生じると・・為政者の信用が欠かせません。
水野の場合には庄内藩騒動で裏で工作していた点を暴かれて信用失墜したばかりでしたので、人望的に無理な政策だったのでしょう。
ここでは、大方の方向性を直感的に表現したものです。
寛政〜天保の改革を見ると、なんとなく漢の王莽による儒教信奉の理念重視の新規政策が空回りに終わって、短期政権に終わったのと似た印象を受けます。
帝王は自分が奢侈に走り怠惰では困る点は今も同じ・健康のために車に乗らず自分の足を使うのも生き方の一つですが、国民が、電話やITを駆使して手間を惜しむ?便利になるのを規制する必要はありません。
朱子学エリートが紀元前の儒学を基礎にした教科書?通りの理想?実現のために政治を支配すると寛政や天保の改革?のような時代錯誤になり幕府崩壊を早めたことになります。
ちなみに徳川政権中期以降幕府に限らず各大名家も産業構造変化・・農業収入に頼る限界による財政難を克服するために各大名家では競って藩政改革・・に走ります。
藩政改革は、商業社会化に応じた前向き改革が中心・・主として特産品の産出努力に精出して相応の成功を収めていますが、幕府・定信や水野の改革は質素倹約中心でしたので方向を誤ったと言うべきでしょう。
ちなみに定信が幕政に乗り出すに当たって成功体験として喧伝されているのは、天明の飢饉に際して備荒米を放出した善政ですが、当時の経済矛盾・・産業構造変化に対応するための改革をしないと体制が持たない危機発生の原因は、貨幣経済の発達と農業依存の財政収入体制の矛盾関係にあったのですから、備荒米放出程度の実績では5〜6周回遅れの古代的政治・儒教でいう帝王学・質素倹約の儒教道徳を実践して自慢していただけのことです。
西洋列強が押し寄せてきている危急存亡のときに時代遅れの改悪?ばかりしていたので、幕府がどんどん信用をなくしていったことになります。
幕府要人は奥州白河藩主や会津やあるいは彦根など、経済変化の主流から外れた地域の経営しか知らない経営者(大名)が中心であったことが、時代逆行の安政の大獄を生み時代についていけなくなった大きな原因でしょう。
韓国文政権の最低賃金引き上げ策の頭でっかち性をどこかで書きましたが、定信や忠邦は上地令や公定賃金などで失敗ばかりである点も似ています。
親会社の改革が失敗ばかりで子会社(各大名家)の改革ばかり上手くいっている大企業の最後のようなものです。
各大名家は、9月2日に書いたように関ヶ原後、領地内の生産高アップに努力して約100年間で耕地面積を倍増していたと言われていますが、100年経過後は米の生産高競争では無理が出てきたので、新規収入源確保のために特産品創出にしのぎを削るようになっていました。
例えば水野忠邦の出身地唐津藩では表高6万石に対して、実高25万石あったと言われています。
唐津藩に関するウイキペデイア解説の一部です。

・・・・入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。

水野忠邦に関するウイキペデイアの引用です。

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

上記の通り唐津藩は表高6万石に対して実高25万3000石ですから、この間のGDP伸び率の大きさがわかるでしょう。
同時期の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。

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