利害調整基準明確化→御成敗式目3(実効性)

問注所があってもあるいは、足利政権の裁定も守られないことが多かったようですが、(鎌倉から遠く離れた地域の境界争いや相続争いの裁定が出ても、今のように隅々まで戸籍(判決を持って行けば戸籍謄本を書き換えてくれたり、登記制度(所有名義を書き換えてくれる)がないし、国家の執行官が各地にいる時代ではないので、相手が守らなければ現地(有力者の口添えがない限り)ではどうにもならないのが実態でした。
室町幕府の裁定も、施行状の作成者次第であったことを、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
現在でも国際合意の効力は、わが国中世の法的状態同様に執行力に難があるので、日韓慰安婦合意では、アメリカ政府立会いという形式が採用されました。
今でも個人的合意書に立会人署名があるのは、立会人が連帯保証人という意味ではなく、(トキにそういう期待感で相談されることがありますが)「俺の顔を潰すなよ!という無言の圧力で実行を迫ってくれる効能を期待したものです。
今回の慰安婦合意を反故にする韓国の行為に対して、アメリカが韓国政府の行為に対し裏でどういう圧力をかけているか不明ですが、この種の効能は結果で判断するしかない性質のものです。
慰安婦像を公の場所に立てさせて反日集会を拡大するばかりか、せっかく作った財団を一方的に解散に突き進んだ結果を見ると、アメリカの立ち会いは何の役にも立たなかったと評価されるべきでしょう。
ただし、アメリカの立会いはほとんど意味がないという認識を世界に広げた点でマイナス効果があったことになるのでしょうし、アメリカは顔を潰された韓国に対し相応のマイナス効果を押し付けないとおさまりがつかなくなる点や、韓国はアメリカの立会いで決めた約束を守れない国という国際印象を強めた点で日本としては国際政治上点数を稼ぎました。
韓国としては前パク大統領が、米国の制止を振り切って中国の抗日戦勝利記念式典やAIIBに参加したのと同様に、今回もアメリカのご機嫌を損なうことに対する重みを感じなくなっている・「アメリカは今や軽い存在」という露骨な意思表示でもあったでしょう。
最悪の場合、米国は長年の国策?日韓離間の策を講じているのではないか?という憶測も可能ですし、またもや「韓国の無法行為を黙認したうえで逆に日本が自重せよ!」といわんかのような態度を示せば、今後日本はアメリカによるいかなる仲裁案も受けられなくなるでしょう。
アメリカは今回ダンマリを続けたことで、日本の信用を失う・減点を積み重ねたことになります。
数年間も日韓合意の精神を踏みにじる韓国のやリたい放題を放置して置いて、日本が反撃を始めるといきなり仲裁するかのようなそぶりを見せること自体が無責任で一方的です。
「順序がおかしいだろう」という日本不満の結果、トランプ氏が双方の要請があれば仲裁に動くと言って、いかにも韓国の仲裁要請を拒否した・・日本寄りのような外形を見せていますが、本来米国立会いで合意を迫った以上は、紛争の芽が出た段階で率先して「合意を守れ!」と抑え込む努力をすべきだった筈です。
こういう国と同盟条約を結んでいざという時に意味があるのか?と日本人多くが心配でしょう。
室町時代に戻しますと、施行状にサイン(花押)した実力者に「相手(対象者)が守ってくれない」と訴えても知らんぷりで放置したり、相手が守らないからと実力行動に出た場合、逆に制止されるようなことがあると一挙に信用を失うのが普通です。
・・次の合戦で動員命令が来ても、「お前の言うことなど聞いてられるか!」と応じないか、やむなく応じても渋々の働きブリになるでしょう。
いつも紹介しますが、千葉氏はもともと平氏ですが、平家が自分の領地?(正確には預かり所)騒動で味方してくれなかった恨み・源氏が肩入れしてくれた恩義で千葉氏が頼朝の旗揚げに率先して馳せ参じた故事が知られる通りです。
アメリカの凋落の主原因は経済力が下降気味になると、同盟国同士の軋轢の調整能力不足(権力者に必須の能力がなかったのに、たまたま資源国として破格の経済力を得た臨時能力に過ぎない)が表面化してきたことによることをだいぶ前から書いてきました。
最近ではJan 11, 2019 12:00 am「アメリカンファーストと国際協調1」に、アメリカ人は複雑系解決能力がないのを自白した「言い換え」だと書きました。
シリア・イラン問題では三つ巴、四つ巴の複雑な糸を解きほぐす能力不足が顕著ですが、日韓のような単純紛争でさえ手をこまねくばかりで、むしろ関与すると激化する方へ関与する(日韓離間の策あるいは日中離間の策が本音でないか?の疑いの目で見られる)傾向があります。

利害調整能力3・問注所〜観応の擾乱

8月7日に書き始めた利害調整機関・・問注所に戻ります。
問注所に関するウイキペデイアの紹介です。

創設[編集]
元暦元年(1184年)10月20日、鎌倉に問注所が設置された。
当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた。

・・鎌倉幕府の問注所設置・・訴訟の大多数は、荘園収入の分配・公卿と地元を預かる武士団との分配争いでしたが比較的公正な裁決が多かったので貴族利用が増えた・・幕府権威が定着していったと何かで読んだ記憶です。
建武の中興が短期で瓦解し、後醍醐政権から足利政権への移行してしまったのは、後醍醐政権の裁定(論功行賞)に対する武士団の不満によるものでした。
武士の多くが足利氏の花の御所に伺候して足利氏の口利きで決めてもらった方が有利あるいは納得するようになり、朝廷に向かわなくなった・文字通り市場評価に拠ったのです。
武士団が朝廷よりも足利氏の屋敷に向かうようになると権力が事実上足利氏に集中して、幕府の機能を持ち始めると、足利家近臣で実権を握った高一族と尊氏の実弟直義との抗争が始まります。
抗争の元はと言えば高一族が急激に勢力を伸ばし過ぎた・・平家一門が約7カ国の守を抑え、あるいは殿上人の地位を占めたのが隠れた不満を引き起こしたように、足利氏一門ですらない・・側近でしかなかった高一族がいきなり各地守護になり幕府内の権力を牛耳ったことに対する(その分守護になり損ねたか取り上げられた)門閥・各地豪族の不満が尊氏の片腕と頼む弟の直義担ぎ上げ・・支持に回ったのでしょう。
君側の奸を除けという不満の旗印に直義を利用しただけのように見えます。
緒戦では御所巻きで先行した高一族の圧勝でしたが、(兄尊氏邸に逃げ込んだ三条殿=直義は頭を丸めて表向き公務引退で決着しました)すぐに全国的に高一族への反撃・旗揚げが始まり、いつのまにか直義がみやこから脱出して、岸和田城だったか(うろ覚えです)に入ります。
待ってましたとばかりに、直義派の旗揚げが燎原の火のように広がり、都落ちした高一族が血祭りにあげられて観応の擾乱第一陣がおわりました。
平治の乱における緒戦で信西入道の処刑成功と同じ展開です。
(私の憶測によれば)しかし武士団の不満は高一族が代表して怨嗟のマトになっただけのことで、根本は論功行賞や荘園支配の権限争いの裁定に対する不満ですから、第二陣が始まり、収拾のつかない「擾乱」になっていきます。
ウイキペデイアによる御所巻きの解説です。

貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)

御所巻きは年号が観応になる直前ですから、日本で言えば第二次世界大戦の前哨戦・日支事変のようなものでした。
観応の擾乱・・御所巻きに始まる高師一族と直義との抗争〜その後の尊氏(義栓)と直義の抗争も、直義がせっかく圧倒的支持を得て尊氏と高一族との抗争に勝ってもなぜか天下の権を尊氏に残したままにして有耶無耶にしてしまった(政権意欲がなかったようにも解釈されます)他、戦後処理としての論功行賞が旧弊であったことからすぐに各地豪族の人心が直義から離れていった(直義は関東御成敗式目を理想とする念が強かったとも紹介されています)ようにも見え、第二陣の足利将軍家内兄弟間抗争に発展していきます。
北条泰時によって制定された御成敗式目・および紛争裁定基準は考え抜いた立派な式目ではあったのでしょうが、もしかすると鎌倉幕府崩壊後の社会意識変化に合わなくなっていたのでしょうか?
建武元年は1334年、観応元年は1350年ですから、御成敗式目制定(1332)後約100年以上経過でその間に蒙古襲来が2回もあり、幕府体制崩壊などの大変革後ですから、荘園経営のあり方を始め社会意識はかなり変わっていた可能性があります。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。
直義が最後に支持を失っていく経緯理由についての私の意見は、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。

オーナーと管理者の分配3(武士の台頭1)

パルコや銀座シックスなど、全館統一セールをやるシステムの場合、売り上げの%での支払いで良い(営業マンの一部固定給一部歩合の逆張りで、最低固定金プラス売り上げの%にする)代わりに売り上げ代金を大家?運営主体が直接管理する仕組みになっています。
これを仕入れ管理まで徹底したのがフランチャイズシステムでしょう。
コンピューター処理等利用によって、帳簿管理が精緻になっているからできる事でしょう。
魅力が低いのに出店料納付歩合が高すぎる場合、テナントが応募しないか撤退が続き空きスペースが増える・・市場競争が働きますので、契約内容に政府介入の余地が低くなっています。
奈良時代から明治維新まで農業収入が社会の基本であった場合には、簡単に追い出すわけには行かないので現地実情に通じた現地預かり所・・現地支配人の裁量に委ねるしかなくなったのでしょう。
観応の擾乱に関する本を読んだ時に寺院領だったか、八条院領だったかで洪水被害による減免願いがあちらこちから出ている文書を読んだ記憶(他の文書の付属だったかの思い違いかもしませんが)です。
それにしても、2〜3年連続の凶作とか程度を超える減収報告で怪しいと思ってもどうして良いかわからないときに、源氏や平氏の棟梁に訴えて適当な解決をしてもらう時代に入っていたのでしょう。
平安末期になると武力解決に限らず日常紛争でさえも最終解決は武家の棟梁に委ねるしない状態になっていたので、鎌倉幕府が問注所を公に設けるしかなくなったようです。
秩序・法とは何かですが、正義がこれ!と決めたら強制執行する力をバックにしてこそ成立するものですから力のない政府には法の貫徹が不可能です。
非武装平和論・道徳教育さえすれば違法行為がなくなるならば警察力不要なのと同じで、違法行為を違法と断じて強制排除できる権力確立があってこそ平和が守れるのです。
パックスアメリカーナとかいう通り豊臣秀吉のような「天下人」が惣無事令を出さない限り、各地の小競り合いや大規模戦争は防げません。
政府権力が弱くなり実効性がなくなると、政府権力に頼れない各地で自衛のための武士が勃興したのでしょう。
政治権力の肝は「物事の最終解決を俺にまかせろ!ということですから、朝廷・・摂関家や院、寺社等の荘園領主が、地元武力に保持者に頼むしか解決できなくなると、地元武士で解決不能な大きな争いは武士のトップに頼まないと決められなくなった時点で、朝廷や摂関家は政治権力者の体をなさなくなっていたことになります。
保元平治の乱に戻ります。
平安末期には地元有力者・・元は飾り物の国司にかわって郡司さんが仕切っていたようですが、小作料・年貢?収入の取り立てに始まって不確定要素が大きすぎて、強制力の必要な場面が増えると地下人としてたくましく勃興してきた武士層が郡司さんにかわっていったように思われます。
平安時代から始まっていた武士への管理委託が、平安末期になると荘園本部の管理能力を超えてきたので現場に精通する武士のいいなりになっていたのでしょう。
保元平治の乱では朝廷内両勢力も貴族層である藤原氏内部争いも同じ・・両派に別れて戦ったものの武士の力を借りないと決着がつかないこと自体が、社会の実質決定権が武士の意向によるものに変わっていたのが表面化したことになります。
当時解決すべきテーマは、荘園経営を足元から食いつぶし始めていた武士の台頭(氏長者になっても地元武士団に食われ中央への貢納が減ってきた点)にあったので、この地殻変動に関する本来の争いが後醍醐天皇の建武の新政後の南北朝時代まで続きます。
この減ってきた収入源の奪い合いのため荘園オーナー同士・仲間内で揉め事を起こし、その解決に中間搾取している武士の力を借りたためにさらに武士の力が増大するしか無くなったことになります。
新井白石や松平定信、水野忠邦が、新産業を起こす努力をせずに質素倹約に邁進すると、経済活動が縮小してしまい、結果的に幕府経済の土台を蝕んで幕末に向かって行ったのと同じです。
管理を預かる武士団が中央へ納付する年貢が減る一方で朝廷貴族層の喫緊の課題は朝廷・荘園収入の維持拡大だったでしょうが、これの解決には武士上位者の協力が必要になっていたようです。

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC