利害調整基準明確化→御成敗式目3(実効性)

問注所があってもあるいは、足利政権の裁定も守られないことが多かったようですが、(鎌倉から遠く離れた地域の境界争いや相続争いの裁定が出ても、今のように隅々まで戸籍(判決を持って行けば戸籍謄本を書き換えてくれたり、登記制度(所有名義を書き換えてくれる)がないし、国家の執行官が各地にいる時代ではないので、相手が守らなければ現地(有力者の口添えがない限り)ではどうにもならないのが実態でした。
室町幕府の裁定も、施行状の作成者次第であったことを、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
現在でも国際合意の効力は、わが国中世の法的状態同様に執行力に難があるので、日韓慰安婦合意では、アメリカ政府立会いという形式が採用されました。
今でも個人的合意書に立会人署名があるのは、立会人が連帯保証人という意味ではなく、(トキにそういう期待感で相談されることがありますが)「俺の顔を潰すなよ!という無言の圧力で実行を迫ってくれる効能を期待したものです。
今回の慰安婦合意を反故にする韓国の行為に対して、アメリカが韓国政府の行為に対し裏でどういう圧力をかけているか不明ですが、この種の効能は結果で判断するしかない性質のものです。
慰安婦像を公の場所に立てさせて反日集会を拡大するばかりか、せっかく作った財団を一方的に解散に突き進んだ結果を見ると、アメリカの立ち会いは何の役にも立たなかったと評価されるべきでしょう。
ただし、アメリカの立会いはほとんど意味がないという認識を世界に広げた点でマイナス効果があったことになるのでしょうし、アメリカは顔を潰された韓国に対し相応のマイナス効果を押し付けないとおさまりがつかなくなる点や、韓国はアメリカの立会いで決めた約束を守れない国という国際印象を強めた点で日本としては国際政治上点数を稼ぎました。
韓国としては前パク大統領が、米国の制止を振り切って中国の抗日戦勝利記念式典やAIIBに参加したのと同様に、今回もアメリカのご機嫌を損なうことに対する重みを感じなくなっている・「アメリカは今や軽い存在」という露骨な意思表示でもあったでしょう。
最悪の場合、米国は長年の国策?日韓離間の策を講じているのではないか?という憶測も可能ですし、またもや「韓国の無法行為を黙認したうえで逆に日本が自重せよ!」といわんかのような態度を示せば、今後日本はアメリカによるいかなる仲裁案も受けられなくなるでしょう。
アメリカは今回ダンマリを続けたことで、日本の信用を失う・減点を積み重ねたことになります。
数年間も日韓合意の精神を踏みにじる韓国のやリたい放題を放置して置いて、日本が反撃を始めるといきなり仲裁するかのようなそぶりを見せること自体が無責任で一方的です。
「順序がおかしいだろう」という日本不満の結果、トランプ氏が双方の要請があれば仲裁に動くと言って、いかにも韓国の仲裁要請を拒否した・・日本寄りのような外形を見せていますが、本来米国立会いで合意を迫った以上は、紛争の芽が出た段階で率先して「合意を守れ!」と抑え込む努力をすべきだった筈です。
こういう国と同盟条約を結んでいざという時に意味があるのか?と日本人多くが心配でしょう。
室町時代に戻しますと、施行状にサイン(花押)した実力者に「相手(対象者)が守ってくれない」と訴えても知らんぷりで放置したり、相手が守らないからと実力行動に出た場合、逆に制止されるようなことがあると一挙に信用を失うのが普通です。
・・次の合戦で動員命令が来ても、「お前の言うことなど聞いてられるか!」と応じないか、やむなく応じても渋々の働きブリになるでしょう。
いつも紹介しますが、千葉氏はもともと平氏ですが、平家が自分の領地?(正確には預かり所)騒動で味方してくれなかった恨み・源氏が肩入れしてくれた恩義で千葉氏が頼朝の旗揚げに率先して馳せ参じた故事が知られる通りです。
アメリカの凋落の主原因は経済力が下降気味になると、同盟国同士の軋轢の調整能力不足(権力者に必須の能力がなかったのに、たまたま資源国として破格の経済力を得た臨時能力に過ぎない)が表面化してきたことによることをだいぶ前から書いてきました。
最近ではJan 11, 2019 12:00 am「アメリカンファーストと国際協調1」に、アメリカ人は複雑系解決能力がないのを自白した「言い換え」だと書きました。
シリア・イラン問題では三つ巴、四つ巴の複雑な糸を解きほぐす能力不足が顕著ですが、日韓のような単純紛争でさえ手をこまねくばかりで、むしろ関与すると激化する方へ関与する(日韓離間の策あるいは日中離間の策が本音でないか?の疑いの目で見られる)傾向があります。

利害調整基準明確化→御成敗式目2

紫衣事件に関するウイキペデイアの引用です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度や武家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。
秀忠上洛時に朝廷に京近郊のうち1万石を寄進?したのは最下位大名の格式でいかにもバカにした態度であったという意見がありますが、有職故実にのっとった儀式挙行や和歌を読んでいる程度の仕事で良いとする一種の隠居料としてみれば、実務担当のトップ・高家筆頭の吉良家6〜7千石程度でしたから、大層な優遇のつもりだったでしょう。
紫衣事件で明らかになったことは、誰に紫衣着用を許すか?を幕府が決める・・今で言えば、誰に文化勲章を授与するか、高級官僚や大臣任命を決めるのは政府であり、その認証式や任命儀式が天皇家の職務ですから、今の天皇家の職務とほとんど変わりません。
そうすると天皇家の役人・・左右大臣〜大中小納言〇〇の頭等々(多くは諸大名の格式による形式的官名に過ぎず、天皇が禄を払う必要もありません)、儀式に参列する程度の儀式要員(高給ホテルのボーイさん程度)でしかない以上、高給を払う必要がなくなるのは当然です。
1万石の大名に要求される参勤交代(江戸屋敷の負担)もなく、幕府への兵役協力義務もなければ京市街の行政や治安維持の職責もなく、必要なコストは幕府が全部見てくれるのですから、今の皇族内定費と比較してもそれほど少なすぎるとは思えません。
現実無視の律令法ではなく、社会実態に合わせた現実的法例の最初であり、江戸時代の諸法度の嚆矢に当たる御成敗式目に戻ります。
武家のみ適用の徳川家の武家諸法度の先輩に当たるものですが、式目は鎌倉幕府の問注所で処理した事例研究の成果でもあるので、江戸時代の武家諸法度施行後の事例集積・・現在用語でいえば、判例集として整備した吉宗の「公事方御定書」(約100か条)の先䗥としての意味もあるでしょう。
御成敗式目以後の分国法や徳川家の諸法度はこの式目を基本法とした上で、部分改正法の形式とするものだったので、御成敗式目の効力は明治維新まで続くようです。
ウイキペデイア御成敗式目引用続きです。

制定当時、公家には、政治制度を明記した律令が存在していたが、武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。「泰時消息文」によれば、公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。そのため、鎌倉幕府が強権をもって法律を制定したというよりも、むしろ御家人の支持を得るために制定した法律という性格を持つ。また、鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰であっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。

公家・・荘園領主自体が、幕府の問注所を利用するようになっていたと、だいぶ前に書いた記憶ですが、その通りの紹介です。
紛争解決には実行を担保する権力が必須ですが、権力(武力)さえあればいいのではなく、「裁定の公正さ・・信用が」基本です。

利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

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