感染者増加と重症化・死亡率4(変化)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57382500Z20C20A3000000/

千葉県の感染者、新たに33人 新型コロナ
2020/3/29 20:49
20歳代の女性保育士ら5人の感染が分かった。女性保育士は3月上旬の発症後も千葉市内の保育所に出勤しており、同市は職員や園児の健康観察や検査を進める。
東庄町の障害者福祉施設では28日、職員や利用者ら58人の感染が確認された。29日は利用者のほか、職員の家族も感染していたことが分かった。利用者や職員を含む関係者への検査は終わっておらず、感染者はさらに増える可能性もある。

千葉県のデータです。https://www.pref.chiba.lg.jp/shippei/press/2019/ncov20200331-2.html

障害福祉施設における新型コロナウイルス感染症の集団発生について(第4報)(令和2年3月31日)
3月28日に発表した、「社会福祉法人さざんか会北総育成園」について、現在までの検査の結果、94名の感染者が確認されました。
また、利用者(ショートステイ)で感染が確認された方が他の施設Aを利用していたため、施設Aの職員及び利用者の検査を実施したところ、職員1名の感染が確認されました。
県内では、これまでに感染者が176例確認されています。

以下検査結果の表引用を省略しますが、県発表の表を見ると陽性95名中症状なしが60名の比率です。
千葉県ではこの施設や保育所関連での感染者が当面急増するでしょうが、これも一斉検査で一段落し、あとは潜伏期間の人が何人か出る程度で収まっていくのでしょう。
くり返し書いているように3月25日ころから大量発生した(この間約千数百人増加→ほぼ倍増)感染者数によって重症患者がどれだけ増えたかの推移が重要です。
ちなみに感染症法?の規定により感染判明者全員隔離義務があるので、今は元気な人も強制入院制度らしく、入院患者数は意味が無いようです。
この運用?法の改正がないと、今後感染者が増えると症状らしい症状すらない軽症者が重装備病院を占拠してしまい収容能力オーバーリスクが言われているようで、症状に応じた軽症者向け簡易病棟設置による隔離あるいは(無症状者にはホテル借り上げ・自宅待機などの分類・・制度と受け皿変更が遅れている問題があるようです。
トリアージに関連して名古屋で軽症者向けベッド100床準備の報道を紹介したことがあります。
話題を戻して今は重症化率の変化を見ていきます。
3月11日〜3月21日(千例突破)と、4月1日(最新)で比較してみます。
A 3月11日3月11日現在の状況及び厚生労働省の対応についてお知らせします。(3月11日正午までの各国機関やWHO等から発表された内容を踏まえ、3月10日日報から下線部分を更新しました。)
国内で今般の新型コロナウイルスに関連した感染症の感染者は568例となりました。
内訳は、患者504例、無症状病原体保有者64名となります。国内の死亡者は12名となりました。
ICU呼吸器利用者数26(表引用省略)

B 3月21日

国内の発生状況(3月21日12:00)
3月21日12:00現在、国内で今般の新型コロナウイルスに関連した感染症の感染者は1,007例となりました。
内訳は、患者884例、無症状病原体保有者117例、陽性確定例(症状有無確認中)6例となります。国内の死亡者は35名となりました。
国内での退院者は、昨日より5名増加し、232名(患者198名、無症状病原体保有者34名)となりました。

ICU呼吸器利用者数50、死者33(表引用省略)
C 4月1日

国内の現在の状況についてNEW(令和2年4月2日版)
4月1日、各自治体より、今般の新型コロナウイルス感染症の患者101名、無症状病原体保有者25名、陽性確定例(症状有無確認中)76名が以下の通り報告されました。
今回の公表で、国内感染者は2,324名(患者1,706名、無症状病原体保有者231名、陽性確定例(症状有無確認中)387名)となります。
国内での退院者は33名増加し、505名となりました。

人工呼吸器・ICU利用者62名(前日比+2)、死者60名(表引用省略、表からの抽出)

以上ABCの比較によると
A 3月11日             B 3月21日    C4月1日
感染者   568         1007    2324
重症者   26          50       62
死者    12          33        60
致死率 12÷568=5、8%  33÷2324=5、95%
重症者グループは致死予備軍ですし関係者も不安ですので、重症化率は重要です。
時間経過で重症化→死亡する遅行指数なので一概に言えませんが、感染症は一般の内科系成人病と違って重症化も回復も早いのが特徴です。
遅行指数である点を考慮すると急拡大中の場合、本日現在の感染者数と同日の重傷者、死者数の比率は意味がありません。
東京の例で言えば、21日発生数51件で、4月2日482名ですから、11日前と比較すれば9倍を超えています。
重症化あるいは致死の結果が出るには約10日掛かるとすれば10日前の感染者数との比率が妥当です。
10日前の当日の感染数との比較だと死亡率が上がり過ぎますが、10日後の死亡重症者全員でない・・15日前も20日前も混在しているので厳密化するには患者個々人の追跡調査しかないので、概括傾向を見る素人の意見としては10日前現在までの感染者者全員との比較でやっているだけで厳密ではありませんが、10日前の感染数と比較すると上記計算の通り約6%前後の数字になり、報道されている2%前後と言う数字より比率が高いことがわかります。
ちなみに同じ日の死亡率4月2日感染数で4月2日死亡者数を割れば2、5%ですし、米国の21万感染数で同日の死者数(うろ覚えで5000人余り)を割れば、同じく2%台です。
そこで1000人超えの3月21日を先行指数として選択比較したのですが、この考えによれば21日の重傷者死亡者は11日頃の感染者数の概ねの結果を示していることになります。
(データが揃えば発症後何日平均で重症化し、死亡するなどの統計が完備するでしょうが直感で10日前後とわかり良い千名突破日を基準にして見ましたが、仮に20日平均とすれば4月1日の致死数等は3月11日の感染者数の結果となりますので死亡率がほぼ2倍に上がります。)

感染者増加と重症化・死亡率3

コロナウイルス自体どんどん進化していくようですから、いつまでも風邪症状で済むと考えるのは危険かも知れませんが、これまでの説明では大方の人にとっては感染しても普通の風邪症状と言われ、感染者の多くが自覚症状すらないうちに治ってしまうので却って感染に気づかずに動き回るので広がりやすいのが難点と言われるように、若者で終われば騒ぐ必要がありません。
ただし、高齢者や各種持病持ちの人が感染すると重症化し致命率が高いといわれ、若者がウイルス感染に気づかずに動き回ると高齢者や重篤な持病持ちの人に感染させてしまうリスクが高いので出歩くのを自粛してくだいとなっている関係です。
結局は感染者数増加が恐れられるのは感染者が増えることによって高齢者等への感染率が上がる・・高齢者に若者や孫が日常的に接するので、知らぬ間に感染させてしまうことが恐れられているのですから、本当に重要なのは重症者率や死者の人口比が重要です。
感染者が万単位になっても重症化率が低く99%が、ちょっと早く寝れば治る程度であれば普通のインフルエンザと変わりません。
アメリカでは毎年インフルエンザで万単位の死者が出ていると言われます。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

米でインフルエンザ猛威 死者数1万人超え
2020/2/6 7:02 (2020/2/7 5:04更新)
ニューヨーク=野村優子】米国でインフルエンザが猛威を振るっている。米疾病対策センター(CDC)によると2019~20年のインフルエンザシーズンは患者数が1900万人、死者数は1万人を超えた。世界で新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されるなか、米国ではインフルエンザが大きな脅威となっている。

2月中に1万2000人以上死亡のニュースでしたが、今年は例年より少ないと言われているようです。
日経新聞の上記グラフによれば、17〜8年の方が多かったというのはネットの憶測意見ではなく事実のようです。
上記はもともと「コロナ」型だったのではないか?という考えが今後出てくるかもしれませんが、アメリカの場合、インフルエンザでも毎年この程度の死者が出る社会です。
元に戻りますと、新型かどうかは別としてコロナ新型怖いのは重症者率・死亡率次第でしょう。
日本もこれから東京の動向次第・新たに千葉県の障害者施設でクラスター発生しましたが、このようなクラスター関係はまとまっている分個別追跡封じ込めが難しくなさそうです。
その場合も重症者や死亡者の増加こそが重要指標であるべきです。
感染者1万人増えても重症者が5〜6人で死亡者が数人しか増えていない場合、パニックになる必要がありません。
日韓死亡者数(感染者数との比率でなく絶対数)の比率は今のところ概ね1対3→人口比では6対1の比率にほぼ変化がない現状を見れば韓国が、日本より先にコロナ禍収束に成功していると言えるのでしょうか?
今後モグラ叩きのように次々とクラスター発生するので、日本もどうなるか不明ですから他国のことを言える立場ではないですが、辺真一氏が3月12日の記事で韓国の成功を見習うべきかのような意見を書いていることを3月28日に紹介しましたが、時期尚早ではなかったでしょうか?

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

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