個人事業→法人化1(府藩県三治制)

昨日見た享保の人口等の調査命令(布達)のウイキペデイアでは、「郷帳」というデータも天保時代まで残っているところを見ると、郷単位で調査報告されていた実態が垣間見えます。
結局、村とか郷とか言い方がいろいろあったようだと言うことでしょうか?
そもそも地方制度は、律令制以降明治の地方制度・・大工小区→市町村制まで、正式制度として公布された事がない・律令制の正式名称「郡」以下の地名は事実上の自然発生的呼称・俗称に過ぎなかったと理解すれば良いのでしょうか?
そもそも幕藩体制と所与のもののように学校教育では習って来たし、小説でも〇〇藩家老とか土佐藩から坂本龍馬が「脱藩」したなど洪水のように紹介されて来ましたが、10年ほど前にこのコラムで紹介しましたが、慶応4年4月の三治体制によって初めて「藩」という名称が公式に出て来たにすぎません。
https://kotobank.jp/word/引用です

府藩県三治制
府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

明治初期の地方統治制度。新政府成立によっても従来の藩は暫定的にそのまま存続したが,旧幕府直轄領については,初め鎮台,次いで裁判所の名称が付され,慶応4 (1868) 年閏4月「政体書」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方が府の名称を与えられ,府,藩,県の三治制となった。
明治2 (69) 年6月の版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり,次いで7月,府は東京,大阪,京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県に及び3府 302県となったが,その後3府 43県に整理された。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称された。

慶応4年四月の政体書発布によって、幕府から接収した政府直轄地を府県とし、諸侯統治下を「藩」とする三治体制が宣言されたにすぎません。
それまではの大名文書は、今でいう法人格のある組織代表でなく、肩書き付きの氏名?「浅野内匠頭長矩」「松平〇〇の守何々」等の公式文書を書いていたのです。
政体書発布以降初めて大名の公式名称は〇〇藩主誰某の名=団体を代表する公式文書発行となりますが、それまで個人文書と一定集団を代表するときの公式文書の区別もはっきりしなかったことになります。
せいぜい公式な時には官名表記するかどうかの違いくらいでしょうか?
弁護士会会長名で文書を出すときは弁護士会という団体の存在を前提にした公式文書となりますが、それは同時に「弁護士会」という集団の存在を表していますが、江戸時代までの公式文書は所属する団体名がない・吉良上野介という官名があっても、彼が上野国という国家組織の介(次官)としての公式発言をしているのではなく、そういう肩書きのある個人を特定しているだけのことでした。
古代氏族制度とか江戸時代の家の制度というものの、今の会社のように、「家」という集団組織の資格・・権利義務を認めたものではなく、単にそういう集団形態が多かったというだけのことであり、集団の事実上のトップ(個人経営者)が知行(営業基盤)を得たり失えばその家族もその影響を受けるだけのことであって、制度として決まっていたものではありません。
大名家は個人の家が大きくなっただけのことであり、官名付きの文書や処理はどこそこの誰それという個人特定に必要な肩書き程度の意味でしかない母体集団名でない個人文書だったことになります。
政体書以降の版籍奉還お願いその他公式文書が全て「松平何々の守」の名称だけでなく、「〇〇藩主松平〇〇の守何」々の名で行うようになっていきます。
藩制の布告は集団が独立の当事者となり大名家当主は、その代表者として行動すべき萌芽を示した画期的なことでした。

(上記引用文第二段落の「版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり」とあるので一見昔から「藩」と言われていたように見えますが、従来といってもホンの1年間に過ぎない・明治2年6月の版籍奉還の前に「藩」という組織名を与えられていたから、「従来」と書いて間違いではないのですが、今風に言えば、団体名を与えられてから実はまだ1年余しかたっていない「従来」です)
慶応4年までの大名家は、商売人やボランテイア集団が会社やNPO法人設立する前の個人事業体だったことになります。
政体書に関するウイキペデイアです

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。同年4月27日頒布[1]。
冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。 [1]

明治に入って集団そのものを一個の人格者扱いするようになるまでは、集団そのものを表す概念がなかったのですから、鎌倉時代以降の地域集団意思決定機構を?「惣」と言うもののこれも正式なものではありません。
その頃そのように言われていたらしいと言う程度のことでかっちりした制度があったわけではないので地域によって千差万別だったでしょう。

江戸時代までのムラと明治の村の違い1(入会地)

https://k-okabe.xyz/home/ronbun/asiajichi.html

東アジアの地方自治・試論
岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

従来の自治組織を破壊した町村制がうまくいかないので、現地人望家を何の権限もない名誉職的区長に任命して地元民との潤滑油を期待したものでした。
飛鳥時代の律令制定時に郡とその下位単位の里までは権力的整備したものの、自然発生的集落まで手をつけらなかったのですが、明治の地方制度改革は郡(こおり)以下の原始的共同体破壊まで目指したものでした。
律令性による全国への国司派遣が地元豪族を無視出来ず郡司を置いたのと同じパターンでやむなく「区長」(それまでの同輩の輪番制を否定して上下をはっきりさせる「区長」と名称を改めさせて)というものを並存せざるを得なかったのでしょう。
ただ、律令制の時は国家権力が弱かったので地元豪族の経済基盤を奪うことまでできなかったのですが、明治政府は各地集落運営の経済基盤である里山等の管理運営権の接収に向かいました。
これが我々法律家で有名な戒能通孝氏の研究・・入会権論争です。
中近世の集落は入会地の収益を通じて基礎集落・自治組織の運営経費を賄ってきたのですが、明治政府は、明治民法制定により「個人所有でないものは国有である」という論理でドンドン国有化して自治集団の息の根を止める政策に出たようです。
下記民法294条の適用をめぐる争いでした。
民法

第二節 所有権の取得
(無主物の帰属)
第二百三十九条 所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2 所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。
第七章 留置権

入会権に関するウイキペデイア解説です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された。)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。

これが現在の町内会に繋がるようで、町内会独自の資金がない・・任意の会費支払いによる状態です。
ウイキペデイア引用続きです

入会収益権は登記することができない。また、一般の権利能力なき社団の所有地の場合と同様に、入会団体の名によって登記することもできない。
しかし、薪拾いや耕作等の入会活動が行われている場合は、信義則の働きによって、登記がなくても第三者に対抗できる。第三者が登記の不備を理由に権利を主張するためには、善意無過失である必要があり、土地を実際に見れば入会権が存在する可能性が予見できる場合は、第三者の善意又は無過失を否定できるのである(登記の欠陥の主張は、悪意者であっても理論上は認められ得るが、悪意者が登記の欠陥を主張することは、原則として信義に反すると判断されるため、信義則に照らして保護されるべき理由がない限り、悪意者は登記の欠陥を主張できる正当な権利者とは判断されない。)。

せっかく判例で認められても法制度上の鬼っ子ですから、国有地として所有権登記されるとその登記抹消も認められない・上記条文の通り地役権でしかないので使っても良いという程度です。
政府は関連法令を整備しないで放置したまま現在にいたり、この数十年では里山に経済価値がないので地元民も薪をとり薪炭を焼く経済効用もないし荒れるに任せている状態です。
登記制度もないので登記できないし、裁判するにしても部落民権利者全員でないと出来ない?
村から出ていった人の権利はどうなる・次男以下の新宅がある場合長男の家だけ一票なのかなど調査も複雑で(鉄道用地買収の相手方として弁護士実務でやったことがありますが、被告としてどこまで把握すべきかもはっきりしない)、誰の名で裁判できるかもはっきりしないなど、権利行使阻害要因がいっぱいありました。

「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

「こおり」(評→郡)1

日本古来の「評(こおり」がいつから郡の文字に変わったかの新井白石らの論争は出土木簡によって勝負ついたようですが、これによれば律令制定後一斉に「評」(こおり)がなくなり「郡」(これも和音では「こおり」)表記しか無くなっていることが分かっているようですから、律令制徹底のために郡に限らず里(さと)など土着用語が全て中国伝来制度表記圧力が働いた様子がうかがわれます。
と言うより廃藩置県を起点に日本の地方制度が抜本的に変わり今の都道府県制度ができたのと同様の地方制度・統治形態の大規模変化があって、廃藩置県で小さな国が(伊豆、駿河、三河の国が静岡県に)一つの県になり、小さな集落がいくつかよって小字(アザ)になり、さらに大字(あざ)の集まりが村になり、村が成長して町になり市が生まれ、市が大きくなってその中に中央区江東区のような区制ができたように、後漢書に言う百余国が大宝律令制定で六十余国に統合されて地方単位が大きくなった時代でした。
それまでの豪族の支配地・・後漢書に言う百余国・・私のイメージでは、現在の郡の地域がいくつか集まって国に昇格したので、元の地元豪族支配地が郡になったということでしょう。
大宝律令で郡になる前には「評」(こおり)が使われていたとしても和語としてはいずれも「こおり」であったことは明らかですから、「こおり」とは何かこそ重要でしょう。
「こおり」とは、水がに凝る(ニコゴル)状態・・固まった状態を表す和語らしいですが、(私の思いつきですが、物事が滞ると言う時の「とどこおる」も同じ用例でしょうか?)物が塊になっている状態を和語で「ひ」とも言いますので、固まった状態の「こおり」を「ヒ」とも言い表していた時代があり・今でも氷川(ひかわ)とか表現することが多いのは周知の通りです。
律令制前に入っていた漢字の用法として?こおり・「ひ」に該当する万葉仮名として「評」をヒ・万葉カナ分類で言えば、略音仮名様式での利用だったのではないか?
当時の漢字利用は音を利用しただけで、漢字の意味と関係はなかったという想像です。
https://japanknowledge.com/image/intro/dic/manyougana2.jpg
には万葉カナの詳しい説明がありますが、
その中の

略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)

の一種でないかな?と素人的想像するものの、上記に掲載されている表にも「評」は出てこないし、万葉仮名と言っても漢字はある日一斉に大量輸入されたのでなく、人の交流等を通じて大陸から4〜5百年以上かけて順次に伝わった歴史があるでしょう。
紀元前の前漢時代のことを書いている後漢書に倭の百余国の記載があることからして、当時から人の往来があったことが確かですし、紀元後701年の大宝律令制定前の700年間の交流によって、じわじわと漢字が流入していたことが明らかです。
表音と言っても古くは南方系の呉音が入り、その後漢音が主流になって行ったようですから漢字に接する時代によって発音自体が違う上に「評」はもともと朝鮮半島由来とどこかで読んだ記憶です。
万葉仮名といえば日本独特の工夫かというとそうではなく、これをひらがなやカタカナにまで仕上げたのがすごいのであって音を当てるだけならばどこでもやっていることでしょう。
漢字のご本家中国自体が仏教伝来に当たって、サンスクリットの音をそのまま漢字の表音に当てはめた漢字の仏教典を作っていることから見ても、(お経の中にはいろんな梵語を漢字の音で書いた音写がいっぱいありますが、例えば仏教と言っているブッダという漢字自体、サンスクリット語の音に似た発音の漢字を当てたものです。
ブッダに関するウイキペデイアの記事です。

仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。
また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。

現在フランスを仏蘭西→仏というのと同じで、本来ほとけ様の意味がありません。
日本で盧舎那「仏」とか「〇〇仏」」というのは単なる音訳であり、和語の「ほとけ」という意味は日本人がつけた意味です。
和語でいう「ほとけ」様とはどういう意味でしょうか?
仏教思想が入った頃には当然同じ思想が日本列島になかったので、覚者を意味する語彙自体がなかったでしょう。
どのようにして仏を「ほとけ」と訓で読むようになったのか今の私にはわかりません。
すぐに思いつくのは古事記の「ほと」の記述ですが、そこからなぜ覚者の意味が出てくるか不明ですので、「ほとけ」自体も漢字の音から出た可能性がありそうです。
http://www.daianzi.com/howa/datadata/howa0133.htm
によれば「ほとけ」というようになった語源をいくつか紹介されていますが、以下が私にはしっくりきます。

第三に、中国では古い時代、「ブッダ」のことを、「浮屠」「浮図」(ふと)と音写することがありました。
なにか陰惨な感じのする文字ですが、これは中華意識のなせるワザのようです。
そこで、仏教徒のことも、それに応じて、「浮屠家」(ふとけ)、やがて、ブッダその人も「浮屠家」と呼ぶようになりました。
これが我が国でなまって「ほとけ」となった説。

当時日本には高度な哲理が未発達で悟るなどの内面をあらわす和語自体なかったので(勝手な想像です)音をそのまま採用したと見るのが落ち着きが良そうです。
現在社会でコロナ型ウイルスやロケット、テレビ、パソコンなど従来の日本語にない単語が入ってくると無理に日本語化せずにその音をそのままカタカナで使うのと同じだったでしょうか?

国(くに)とは?1

臣民と国民の違いに戻ります。
民を表現するのに人民と言うときには、ときの権力を覆すことを望む意味を含む用語として生まれてきた・・いわゆる不平分子とすれば、政府は支配下の民を人民と言いたくないのがわかります。
それならば、明治憲法制定当時既に旧刑法で採用していた「国民」を採用すればよかったはずなのに明治憲法で何故採用しなかったのか不思議です。
国民より臣民の方が良いとしたのは、王政復古にこだわる勢力への配慮・妥協の産物でしょうか?
もしかして?当時まだ日本「国」という表現が一般的でなかったとすれば、「日本の民「=日本「国」のたみという概念思考自体が一般的でなかった・特定の人しか考えていなかったのでしょうか?
しかし、明治憲法の表題は「大日本帝国憲法」ですから、大日本帝国国民とすればよかったはずです。
ただし私の個人的興味ですが、いつから日本列島全域を表現するのに「日本国」と言うようになったのかが、この際気になります。
以下見て行くように大和王権成立前の紀元前の前漢時代から倭「国」と呼ばれていたし日本列島の当時の祖先らもそのように自己表示していたようです。
明治政府がそれを否定していたか?というと明治四年の遣欧使節に対して翌五年に明治天皇の発行した全権委任状を見ると大日本国の国璽を押捺しています。
そうとすれば明治政府が何故日本国の民(たみ)という自然な表現をしないで「臣民」という無理筋?定義を何故したか不明です。
古代律令制から明治維新まで、国といえば地方の単位・今の都道府県よりほとんどの場合小さい地方単位でした。(千葉県でいえば安房、上総、下総の3カ国)
いつから日本60豫州の総称として日本「国」というようになったのでしょうか?明治維新後に地方制度として廃藩置県断行後、古代律令制導入以降の地方制度であった国の制度がなくなりました。
それまでは国という単語は、三河国、駿河国、上総国など国内地域の単位だった筈ですが・・。
日本列島の一部の表現だった国の制度がなくなってから日本列島全体の表現になったのでしょうか?
地域単位を表現するのに、和語でない借り物のの漢字の「國」とか邦、州とか郡や県、村・郷、邑を利用するからややこしいのだと思います。
「みどりなす黒髪」という表現が有名ですが、同じく「みどりご」という表現もあります。
これを漢字にすれば嬰児ですし赤ちゃんです。
日本では草花が生き生きと生命力に輝いている状態を「みどり」といい、中国では生き生きした若葉の色を緑というので、偶然一致して緑という漢字を当てただけなので、今になると緑=グリーンという漢字文化が身につきすぎると、緑=色の名詞である現在では黒と緑が同じ?なんで「緑なす黒髪」というか、赤ちゃんを「みどりご」というか?意味不明になっているに過ぎません。
大学生の頃か?大人になってからか中国の揚子江を長江というと知りましたが、遣唐使だったかの日本人が渡船場で地名を聞いたらそこが揚子江(中国語で別の発音ですが)と教えられて(その入江のことのことだったらしいのですが同じ「江」というから間違ったのです)これが日本に伝わり、長江全体の川の名前かと思ってしまったというのもあります。
漢字利用前の和語としての「くに」や「むら」とは「何」だったのでしょうか?
コトバンクによると以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD-55694

くにとは
一定区域をなす土地を表わす言葉で,現在では,土地,人民,政府をもつ国家のこと。歴史的には,さまざまの範囲を呼ぶのに用いられた。日本に農耕生活が始り,人々が政治生活を営むようになると,従来の「むら」が「くに」と呼ばれるようになった。『後漢書』に,1世紀の倭国に百余国があったというのは,このような「くに」の分立状態を示している。
「豊葦原の中つ国」 (→葦原中国 ) といった国土の総称にも用いられていた。

一部地域の表示にも列島全体の表現にも使う融通無碍げというか、外来語・漢字が入ってきて無理な当てはめが行われたから起きた現象でしょう。
ある外国語が入ってきた時に、道具や社会の仕組みあるいは文学表現等の概念がその社会にある場合にはすぐにこれに当てはめれば済むのですが、ないときあるいはかなり違う時にそれを当てはめると大きな違いが生じます。
例えば、パスタをそのままソーメンと訳してみると共通性は麺というだけで、お互いまるで違うものをイメージして会話することになります。
社会制度の場合、一方の話者が、100万人規模の集団をイメージして「国」の話をしている時に数十人の部族社会しか知らない未開部族の人は自分お部族の人間関係をイメージしているとお互い意思疎通がズレまます。
いまのように世界中の情報が行き渡っていない時代に、「4月頃を春」と言うとの共通認識があっても日本人が桜の季節を前提にいろんなことを南洋の人に言っても、なぜ春が待ち遠しいか楽しみか理解不能でしょう。
言語学でどうなっているか知りませんので素人的無責任想像ですが、人の集合体である「むら」が一定の地域性(同じ川の流域など)を持つようになる・・婚姻は超古代から濃密な血族間婚姻の危険を避ける知恵が生じでいるので、ムラができた当初から周辺他血統のムラとの通婚が必要→これを繰り返すうちに周辺村落同士の共通価値観形成が緩やかに進みます。
私の一家は東京大空襲の結果焼け出された結果、幼少期は地方で育ったのでその時の見聞経験でしかないですが、その地域の風習で見ると多くは徒歩日帰り圏内からの嫁取り婚だったようです。
後になって考えると当時(戦後から今に続く)〇〇郡という地域がほぼこの範囲と重複していることが分かります。
例えば、現在の都道府県制度の前の国制度時代には、下総国に属した江戸川両岸地帯の葛飾郡(こおり)・・葛飾北斎で有名ですが・・だいたいこの程度の文化共同体地域です。

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