個人事業→法人化1(府藩県三治制)

昨日見た享保の人口等の調査命令(布達)のウイキペデイアでは、「郷帳」というデータも天保時代まで残っているところを見ると、郷単位で調査報告されていた実態が垣間見えます。
結局、村とか郷とか言い方がいろいろあったようだと言うことでしょうか?
そもそも地方制度は、律令制以降明治の地方制度・・大工小区→市町村制まで、正式制度として公布された事がない・律令制の正式名称「郡」以下の地名は事実上の自然発生的呼称・俗称に過ぎなかったと理解すれば良いのでしょうか?
そもそも幕藩体制と所与のもののように学校教育では習って来たし、小説でも〇〇藩家老とか土佐藩から坂本龍馬が「脱藩」したなど洪水のように紹介されて来ましたが、10年ほど前にこのコラムで紹介しましたが、慶応4年4月の三治体制によって初めて「藩」という名称が公式に出て来たにすぎません。
https://kotobank.jp/word/引用です

府藩県三治制
府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

明治初期の地方統治制度。新政府成立によっても従来の藩は暫定的にそのまま存続したが,旧幕府直轄領については,初め鎮台,次いで裁判所の名称が付され,慶応4 (1868) 年閏4月「政体書」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方が府の名称を与えられ,府,藩,県の三治制となった。
明治2 (69) 年6月の版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり,次いで7月,府は東京,大阪,京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県に及び3府 302県となったが,その後3府 43県に整理された。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称された。

慶応4年四月の政体書発布によって、幕府から接収した政府直轄地を府県とし、諸侯統治下を「藩」とする三治体制が宣言されたにすぎません。
それまではの大名文書は、今でいう法人格のある組織代表でなく、肩書き付きの氏名?「浅野内匠頭長矩」「松平〇〇の守何々」等の公式文書を書いていたのです。
政体書発布以降初めて大名の公式名称は〇〇藩主誰某の名=団体を代表する公式文書発行となりますが、それまで個人文書と一定集団を代表するときの公式文書の区別もはっきりしなかったことになります。
せいぜい公式な時には官名表記するかどうかの違いくらいでしょうか?
弁護士会会長名で文書を出すときは弁護士会という団体の存在を前提にした公式文書となりますが、それは同時に「弁護士会」という集団の存在を表していますが、江戸時代までの公式文書は所属する団体名がない・吉良上野介という官名があっても、彼が上野国という国家組織の介(次官)としての公式発言をしているのではなく、そういう肩書きのある個人を特定しているだけのことでした。
古代氏族制度とか江戸時代の家の制度というものの、今の会社のように、「家」という集団組織の資格・・権利義務を認めたものではなく、単にそういう集団形態が多かったというだけのことであり、集団の事実上のトップ(個人経営者)が知行(営業基盤)を得たり失えばその家族もその影響を受けるだけのことであって、制度として決まっていたものではありません。
大名家は個人の家が大きくなっただけのことであり、官名付きの文書や処理はどこそこの誰それという個人特定に必要な肩書き程度の意味でしかない母体集団名でない個人文書だったことになります。
政体書以降の版籍奉還お願いその他公式文書が全て「松平何々の守」の名称だけでなく、「〇〇藩主松平〇〇の守何」々の名で行うようになっていきます。
藩制の布告は集団が独立の当事者となり大名家当主は、その代表者として行動すべき萌芽を示した画期的なことでした。

(上記引用文第二段落の「版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり」とあるので一見昔から「藩」と言われていたように見えますが、従来といってもホンの1年間に過ぎない・明治2年6月の版籍奉還の前に「藩」という組織名を与えられていたから、「従来」と書いて間違いではないのですが、今風に言えば、団体名を与えられてから実はまだ1年余しかたっていない「従来」です)
慶応4年までの大名家は、商売人やボランテイア集団が会社やNPO法人設立する前の個人事業体だったことになります。
政体書に関するウイキペデイアです

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。同年4月27日頒布[1]。
冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。 [1]

明治に入って集団そのものを一個の人格者扱いするようになるまでは、集団そのものを表す概念がなかったのですから、鎌倉時代以降の地域集団意思決定機構を?「惣」と言うもののこれも正式なものではありません。
その頃そのように言われていたらしいと言う程度のことでかっちりした制度があったわけではないので地域によって千差万別だったでしょう。

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