自由民権運動の系譜1

たとえば、板垣退助に対する批判論では以下に紹介するようなものがあります。
板垣に関するウイキペデイアの中に紹介されている板垣に対する評価です。

小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]
尾崎咢堂  「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた
谷干城  「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[18]

谷干城とは板垣と同郷の士で、儒家の生まれで25歳で藩校の史学助教授となっている外、西南戦争では西郷軍の猛攻に対して寡兵よく熊本城を死守したことで知られている有能な軍人であり学習院長にもなっている教育者であり政治家です。
日本の革新系野党が空理空論に走る傾向があるのは、メデイア受けのよかった板垣の運動体の系譜を引く、企業経験や地方政治等の実務経験がないグループの弱点でしょう。
明治に戻れば板垣と大隈の違いでしょうか?
大隈重信は維新当時佐賀藩内の地方的人材で維新の英傑ではありませんでしたが、幕府崩壊による長崎奉行の仕事を佐賀藩が穴埋め的に担当したことで長崎で外交手腕を発揮し、中央から赴任した井上馨の目に止まり中央での活躍の場が与えられるとその都度外交手腕を発揮していた外、内政においても、何かある都度原則にとらわられず手腕を発揮して中央政界中枢に参画して行った経歴で実務能力に秀でた人材のようでした。
年末の給与支払いに困って旧来の太陰暦から太陽暦系に切り替えた大隈の蛮勇が有名ですが、その他混乱期に特定資金を状況によっては別の資金に振り向けて難局を切り抜けるなど柔軟性に富んだ人材だったようです。
大隈は14年政変での下野をチャンスに政党を結成したことによりその後の政治基盤を確保できて政治力を長続きせる方向に利用するなど(その後下野すると早稲田大学創立するなども含めて)社会変化に対応して生き抜く力の強い人でした。
板垣系・自由民権運動系はその後大隈と連立していわゆる「隈板内閣」として連立政権を組みましたが、利害調性的実務経験がない結果か?利害調整に最も遠い内相担当になって板垣の声望を一気に落としました。
「板垣死すとも自由は死せず」をもじって宮武外骨の『滑稽新聞』は、「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄したとも書いています。
板垣系の真骨頂は啓蒙「運動」と政府批判することにあって国会開設後は目的を達したので隠居すべきだったと思われます。
最近流行語では発展的解消といって名称変更で組織存続することが多い・・民意実現を見届けるかのように政界に未練を残した・引退した社長が後継社長を監督したがるようなもので、却って恥を晒したことになります。
以後自由民権運動系・・メデイアを含めて各種運動体は実務政治能力がない不満分子の運動体というイメージが定着して行きます。
日露戦争の講和反対の大騒動や戦後のサンフランシスコ講和反対、日米安保反対等々、多くは現実無視の反対論でした。
これを賞賛する現在メデイア〜革新系野党は実務経験より空理空論というか、理念(と言えるかな?)重視傾向・要するに「運動」すること自体に生きがいを求める人たちになっていきます。
自由民権系は、国会で政治を決める民主主義というスローガンが達成された後は、どのような政策が良いかの政治テーマを提供できず、達成後は「民主主義を守れ」と言う運動体でしかなくなったようです。
戦前はまだ民選議会が完全でないと批判していれば良かったのですが、理想とする米国肝いりの現行憲法ができるとこれを守ることが自己目的化していき、平和憲法と民主主義を守るためには改憲反対・情報公開が必要という一点?集中になってきました。
情報公開の必要性も(産業機密を筆頭に)程度問題であることは世界の常識ですし、平和を守るためには一定の自衛力が必須であることも常識ですが、こういう具体論になると口をつぐみ議論に応じません。
政府は総合的に政策実現の責務があるので、情報公開さえすれば、外交や安全保障、経済政策その他万般の重要政策について関心がありませんというのでは責任政党とは言えないでしょう。
結局政権獲得を目的とせずに、反対運動することに意義があるかのように自己目的化していき、どういうデモを組織し、どれだけの人数がデモに参加したかが強調ネタを求める人たちに特化して継承されてきたようです。
自由民権系の弱点は実務・政治力の源泉である調整能力不足ですが、この閉塞打破のためにマイノリティ=社会の少数派・主に弱者に着目して社会の陰に埋もれていくマイノリティーに光をあてることに活路を求めるしかないようです。
マイノリティーに光をあてるのは映画等の芸術のテーマにすることは意味がありますが、政党がそれを主看板にするとマイノリティ支持者中心に限定されていくようになります。
例えば医療全般の予算を増やせという場合と特定疾患者を救済のための運動とでは支持母体の規模が違ってきます。
トマト特化、ワイン用ブドウ農家特化で利権を求めるより野菜・果実全般で政治活動する方が支持母体が大きくなるように、何かに特化すれば利害調整能力不要で一致しやすい代わりに、支持母体が小さく影響力が小さくなる関係です。
大きな組織・・野菜だけでなく農産物業界全部あるいは、食品業界全部と広げれば政治力が大きくなる代わりに今度は内部調整力が必要です。
政治というものは利害プラス同情心.正義感等で動くものとすれば、lGBT運動その他マイノリティ支援に特化すればするほど政党支持率は下がるしかない理屈です。
物事はバランスで成り立っています。
映画や芸術で「弱者を忘れないで!とアッピールする程度で意味がありますが、これに特化した政党が仮に政権政党になった場合、政権運営するには無理があります。
マイノリティー保護・生活保護基準を上げろ、母子家庭保護、保育所増設.最低賃金を引き上げろ式の主張・・バラマキ型の政党が、政権担当するとその資金をどうするか・どこかの予算を削るしかない・総合調整能力の現実にすぐ直面します。

公務員は労働者か?2(任命1)

国家公務員法を見れば「公務員」に関する法(組織法の亜流?)であって、公務員の地位をどうやって取得し、公務員になればどのような職務義務があるかを法で定めている法律であり、その一環として給与等の勤務条件記載がある程度の印象です。
裁判所法では裁判所の種類や重要人員構成に関する裁判官になる方法・権限を書いたものであって裁判官の労働条件確保を決めるためのものでないのと同じです。
労働の対価である賃金と言わず職務に対する給与(給わり与えられるもの・・目上の者から下の者に物品を与えるもの)ですし、内容的には賃金の仕組みを踏襲して残業手当や休日出勤手当など同様にしているでしょうが、法の建て付け・精神の有りよう・・本質は労働対価という形式をとっていないと思われます。
個人的経験によりますが、司法修習生の頃にお世話になった地裁刑事部長(専門誌に論文を書いている著名な人でした)が交通事故被害にあったとかで長期休暇中でだいぶ経ってから出てこられたのですが、ある時の雑談で裁判官は労働者でなく身分官僚なので、事故で半年〜10ヶ月程だったか?長期休んでも俸給に何の影響もないんだよ!というお話を伺ったことがあります。
要は官職に応じた俸給があり、個々の労働の対価ではないということでした。
言われて見れば勤務時間や残業とか細かいルールもなく、公判のある日とか何か予定(合議予定、令状当番など)が決まっている日以外は出てこなくても良いのが当時の裁判官でした。
平成に入った頃からだいぶ世知辛くなって、裁判官もほぼ毎日出てくるような印象ですが・・。
(自宅書斎で調べ物をしているより裁判所で資料を見ながら思索する方が効率がよくなった面があります・この辺は最近の大学教授も同じでしょう)
我々弁護士も勤務時間の縛りがないものの、事務所で処理した方が合理的なので家に仕事を持ち帰る頻度が減っています。
研究も同様で鉛筆一本で思索する時代が終わり各種研究所が発達している・勤務時間の定めがなくとも資材の揃っている研究所にいる時間が増えているのはこのせいでしょう。
労働法のように契約交渉等で決まる仕組みを前提に弱い個々の労働者の地位を守るために団結権や団体交渉や争議権を認めるのではなく、あるいは契約に委ねると対等な力がないので労働者が不利になりすぎないように最低賃金、最大労働時間等の最低基準を決めて労働者を保護しようとするためではなく、別の目的で職務内容の他給与基準まで全て法律で決まっている前提です。
国民代表の意思による法で決まっているものを公務員が上司との交渉で変更できるとした場合、お手盛りになり兼ねないし、法治国家・国民主権に違反するということかな?
公務員の地位につくのは試験等の公的基準に従って任命されるだけであって、労働契約によって始まるのではありません。
私も法律家の端くれなのによく分からないまま生きてきたのですが、契約でないとすれば「任命」すなわち命令ですから命令された方は結果として従うかどうかしかないと言う建て付けでしょう。
事前根回しや同意・納得があった方がスムースと言う程度の位置づけです。
現在は受験制度ですので受験する段階で、任官(就職)したいと言う事実上の意向が示されているので、事前同意の概括的担保がある仕組みです。
ただし腕試しに一応受けて見たとか滑り止めなどいろんな要素があるので、各省採用に当たっては、もう一度一種の二次試験みたいな申し込みと面接試験などが必要になっています。
ここまで来た人は、任官意思が固いので採用通知を特別な事情なしに蹴飛ばす人は滅多にいないでしょう。
古代〜中世は別として近代社会においては、人に対して特定行動を命じ、それに応じない場合行為そのものの強制は許されないのが社会の合意です。
馬を水飲み場に連れて行けるが飲ませることはできないと言われる所以です。
結果的に徴兵あるいは、法令で決まった帳簿検査、提出命令などに応じなければ罰則で間接強制するしかないようになっていますが、保釈条件違反→保釈決定取り消しなどの不利益が用意されているのが普通です。
しかし、任命に応じない場合には罰則まで設けるのは行きすぎでしょう。
労働法ではこの点はっきり書いています。

労働基準法
(賠償予定の禁止)
第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

戦闘集団が基本である武家社会では主君の命令は絶対であり、これに応じないことだけで首を刎ねられることが許されるような価値観のストーリーが多く見られます。
上洛後の信長からの越前朝倉家に対する義昭名での上洛命令に応じないところから信長と朝倉の対決が起きたものでした。
このように出仕=任官すること自体が時の事実上権力者に従属することを受け入れることを意味することから、信長や秀吉政権樹立を認めたくない勢力は当然応じません。
小牧長久手の戦いが長引き、秀吉が徳川とのヘゲモニー争いで勝敗がつきかねている時に、秀吉が関白太政大臣の官位による召集をかけて出仕すれば徳川はその下位につく意思表示になるという、政治駆け引きに徳川が応じたことで豊臣対徳川の抗争が収束しました。
秀吉が人質まで出して徳川との和平をした実態を見て小田原北条氏(後北条)は(徳川と誼を通じていれば・・秀吉政権が弱体と甘く見たのでしょう)出仕命令無視するばかりか総無事例も無視した上で、北条と真田間の沼田城支配をめぐる争いに関して豊臣政権(支配地分割)の裁定により沼田城を受け取りながら、真田側領地に残った真田の枝城(大くるみ城だったか?)を攻めたことが秀吉の怒りを買い、ついに小田原攻め→北条氏照や主な家臣らの切腹と領地全面没収になりました。

国家公務員は労働者か?1

一族だとか、側近、譜代の臣、時々応援してくれる近隣豪族との違いと言っても、それは比較をいうだけであって、側近の関係に限定すれば、他人と同じ対立関係が凝縮されて、あるいは複雑化していていろんな要素で相殺される結果見えにくくなっているにすぎません。
関係が遠くなるに比例して利害が単純化する・・土地勘のない通りがかりの客にとっては刹那的な利害の一致だけ・例えば我慢できないほどの空腹者にとっては、目につくところに飲食店一軒の他は、建築資材その他物販店ばかりであれば、その飲食店の料理が標準以上に美味しいかどうかの吟味の余地がありません。
これが近隣の店であれば、以前の客あしらいや料理と値段のバランス、複雑な情報処理が行われます。
しょっちゅう顔を合わす関係だと何か気に入らないことがあってもストレートに顔や態度に出しません。
側近や身内の場合、主人との接触濃度が違うので複雑な関係に比例して総合判断を経るのでちょっとした不満にすぐ反応しない違いでしょう。
独身男性が「所帯を持って一人前」と言われていたのは、幼い子供など弱者に対する日々の思いやりの蓄積による人間的深みの成長と同時に自分の言動が及ぼす影響に対する責任感が言動を慎重にさせる面があったでしょう。
近隣や顧客関係と違って、儒教道徳下の臣従の場合は、命まで捧げる特殊な契約?なのでやめる権利がない・実施したかどうかは別として幕末頃には理念的には脱藩は死罪という・極端なパターン・・「君君たらざるも臣臣たらざるベカラズ」刃向かう権利もないという、特殊道徳の教育理解でやってきました。
ただし徳川体制の思想的基盤を固めた林羅山が敷衍した儒教道徳は、彼独特の創作に係るものであった可能性がありますが、ともかく日本人はこれに従い受け入れてきたのです。
民間でも一旦正規従業員になれば、一時的に売れ行きが落ちて競合他社より給与が低くなっても、挽回盛り返せるように皆で頑張ってくれるのが従業員という意識が一般的に濃厚でしょう。
これに対してメール着信に応じて数時間だけ配車サービスする人の場合、少しでも単価の良い方のメールに応じる簡単な関係です。
自分の会社、お店意識を共有するようになる方が改良努力もしてくれるのですが、明治政府は国民は皆日本国家事業体の従業員だと言えば、外国との競争に頑張ってくれると思ったからでしょうか?
現在でもこの精神が濃厚なせいか?国民=臣民の図式がダメになっても国家公務員はまさに国家の直接の従業員なのだから、国家の外側の民間の従業員とは違うという面を強調したいのではないでしょうか?
民間も含めて皆「臣民」だったのを民間だけ止む無く切り離したという仕方ナシの論理のようです。
憲法上でもいまだに総理大臣と内閣を構成する大臣と大臣に任命される省庁の公務員という建てつけであることを見てきました。
国家公務員には各種労働法の適用がないし、地方公務員もほぼ同様であることを1月9日に紹介しました。
なぜ適用がないかについては、その代わり人事院で公正な給与計算をしているし安全管理も監督官庁の方が厳しいからその必要がないという意見があるでしょうが、事務職の場合、同じ職務内容なのに民間と国家等で待遇が違うのはおかしいという批判に耐えるためにそういう制度を作って糊塗しているだけであって、違いの生じた原因ではないでしょう。
このように待遇だけが信頼関係の基礎ではないので、国家公務員には、特殊な御恩と奉公の古い意識の温存を期待するものがありそうです。
企業でも会社側の労働者・・管理職には、争議権がありません。
その視点で見れば、官は国全体から見た場合の管理側の人たち・・民間管理職と共通論理によると思われます。
そもそも国家公務員法は労働条件を定める目的の法ではなく、公務員になる為の資格やその職務や管理体制を法定し、そのついでに待遇も書いている印象です。

国家公務員法
(昭和二十二年法律第百二十号)
第一条 この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。
2 この法律は、もつぱら日本国憲法第七十三条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである。
第六十三条 職員の給与は、別に定める法律に基づいてなされ、これに基づかずには、いかなる金銭又は有価物も支給することはできない。
(俸給表)
第六十四条 前条に規定する法律(以下「給与に関する法律」という。)には、俸給表が規定されなければならない。
○2 俸給表は、生計費、民間における賃金その他人事院の決定する適当な事情を考慮して定められ、かつ、等級ごとに明確な俸給額の幅を定めていなければならない。
(給与に関する法律に定めるべき事項)
第六十五条 給与に関する法律には、前条の俸給表のほか、次に掲げる事項が規定されなければならない。
一 初任給、昇給その他の俸給の決定の基準に関する事項
二 官職又は勤務の特殊性を考慮して支給する給与に関する事項
三 親族の扶養その他職員の生計の事情を考慮して支給する給与に関する事項
四 地域の事情を考慮して支給する給与に関する事項
五 時間外勤務、夜間勤務及び休日勤務に対する給与に関する事項
六 一定の期間における勤務の状況を考慮して年末等に特別に支給する給与に関する事項
七 常時勤務を要しない官職を占める職員の給与に関する事項
○2 前項第一号の基準は、勤続期間、勤務能率その他勤務に関する諸要件を考慮して定められるものとする。

事務次官(補助職トップ)

過去は別として現行法を前提に事務職中「官名」がつく基準を私の直感で区別すれば、官名での公式行為がそのまま行政処分や司法効力が生じる権限を有するものを「官」というべき」という意見を1月10日に書きました。
事務次官に戻りますと、事務部門で最高位に昇進しても(民意の洗礼を受けていないので)事務・裏方部門の長でしかないので各省次官は次官名で国家意思を表明する権限はありません。
次官とはその官名での副官ですらない・・補助事務部門トップという程度の意味でしょう。
副総理、副大臣、副大統領副委員長等は正官と同じ格式・選出母体が同じ場合であるからこそ、正官に故障あるときは副委員長等が職務代行できる官名です。
古代から位階によって補職できる幅が決まっていました。
このために藤原北家嫡流の初任は5位だったか正6位だったか?かなりの高位から始まる慣例でした。
源三位頼政が四位の地位に止め置かれ殿上人になれる資格である三位に昇格する希望がないことを嘆いた歌を作り、これを知って驚いた清盛が急ぎ従三位に昇格させた故事が知られています。)

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな

戦後憲法では社会的身分、門地による差別は許されないので、国民主権の精神から民意による洗礼があるか?が原則的区別になりました。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

民意洗礼を受けていない次官は、選出母体資格が大臣と違うので大臣に故障があっても対外的効力のある国家意思発令権限を持っていませんが、せっかく事務部門トップまでなったのだから、長年の功労を愛でて退職前のほんの1〜2年限定の最後を飾る名誉を与えよう・ということになったのでしょう。
・・退職直前1〜2ヶ月前に一階級特進させて、ヒラを課長、部長〜局長で退職と言えれば名誉なことですから、お手盛り的特進があると聞きますが・・その精神でしょうか?
ちなみに各省次官は概ね1〜2年で勇退するのが慣例です。
事務次官に関するウイキペデイアの記事からです。

おおむね、行政職、法律職又は経済職の国家公務員採用I種試験(旧上級甲試験)を通過して省に採用された事務官のキャリアが事務次官に就任する。任期は存在しないが、慣例的に1年から2年とされており、それまでに勇退(依願退職)して後進に譲る慣行である。

上記暗黙の自発的退職慣例を前提に短期間だけ1階級特進の暗黙の合意があったとすれば、次官の地位に長年年居座り続けた防衛省の守屋次官は暗黙のルール破りだったことになります。
事務次官の実質的権限を見ると内部文書にしか過ぎないものの、次官通達発行権限がある・・局長は局長通達する権限がありますが、司法権ではないので法の公権的解釈権はないものの、法を実際に運用する主務官庁の定める法の運用基準の最高レベルである次官通達は、実務上大きな影響力を有している・通達行政と言われることから、実力に合わせて官名を与えても矛盾しないとしたのでしょうか?
事務次官に関するウイキペデイアの解説の再引用です。

事務次官は、各府省においてキャリアと呼ばれる高級官僚の中でも最高位のポストである。その影響力は大きく、各府省の実質的な最終決定権を有するともいわれる。府省内外にわたる人的資源、調整能力を必要とするポストである。

裁判官や検察官の決定は、担当検察官や裁判官がその事件に関して公式発言や文書発行すれば直ちにその効果が出る仕組みです。
検察官は検察一体の原則によって、事件処理について上司の決裁がいりますが、これはあくまで内部問題であって決裁なしに勾留請求や公判請求しても釈放しても内部規律違反に過ぎず、検察官が起訴した・釈放指揮等 があったという公式効力が生じます。
裁判官の場合、内部的にも決裁があり得ず、(そういうルールを作れば憲法違反です)担当裁判官が担当事件については「良心と法にのみ」従って裁判することになっています。
各省の省代表としての決定は、各省大臣が決定権者であって総理が不満かどうかをどの程度忖度するかは大臣の裁量です。
総理は大臣裁量が気に入らなければいつでも大臣を罷免できることで、政府の統一性を保障している事になります。
個別政策のつど、罷免しているのでは効率が悪いし一々総理の意向を伺わないと決断できない人では間に合わないので、総理の基本方向に沿った言動権限行使できると信用できる人を大臣起用し、各省大臣は総理の意向を忖度して行動するのは憲法の期待し予定している原理です。
逆に一々総理の基本政策に反対したい人がそのまま閣内にいるのでは政府施策の一体性が維持できないので、こういう意見がある場合には大臣就任打診に対して辞退すべきでしょう。
あるいは就任後意見相違が多くなれば、行動を共にできないとして閣僚辞任すべきでしょう。
大臣も自分の意見と違う次官や局長では、各省の統一政策を実行できないので本来局次長等の幹部の補職について発言力があるべきですが、年次昇進や順繰り人事などの慣例で行われることから、大臣の下位官僚(事務職)に対する影響力が減殺される仕組みになっています。

豪族連合体日本の官と臣2

鎌倉〜足利政権同様に徳川幕藩体制も多数の旧豊臣家家臣団やその他大名の協力があってこそ出来上がったもので連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制確立により連合政権の本質が隠され、表向き主君と臣下の関係化していましたが、(ほとんどんどの大名・・島津でさえ公式には、徳川の旧制松平姓にされていました)幕末黒船来航や北辺の海防に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に連合政権の本質が噴出しました。
外様大名を中心に独自の異国対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定参加権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、対応策に関する議論が無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行ったのは、大元に連合政権の本質があったからです。
有力諸侯の協議が行われるようになっても江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、政争の舞台が京都に移ったこと自体が象徴しているように、京都での政争では徳川家が一方的な主催者の地位を降りていたことを象徴しています
京都での協議結果が帰趨を決するようになると、幕府は老中に一任できず幕府のエース一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なものでしかなく、上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。
一橋慶喜は優秀の誉れ高かったのですが、何となく秀吉政権の三成のように実務官僚的能力は高かったでしょうが、育ちが良すぎて?政治能力が低かったイメージです。
乱世に活躍し政権樹立に功績のあった豪族や大名家と政権樹立後実務処理に必要な人材は違うのはどこの国でも時代でも同じです。
官制というのは安定期に政権運営に維持に必要な実務官僚に必要な格式・・企業でいえば職制のことでしょう。
事務官僚の職域が多くなるにつれて、任命官僚も増えてくるので天皇がいちいち親任出来なくなった・その分を認証官にしたのではないでしょうか?
明治になって法治国家の体制を整えるためには、各地に裁判官、検察官などの配置が必要ですので官名を持つものがいきなり増えました。
イギリス法では裁判所をキングズベンチクイーンベンチと習いますが・・生殺与奪の権=裁判権こそが、最高権力者が保持すべきという原理の表明です。
戦前の裁判も天皇の名において処罰する仕組みでした。

大日本帝国憲法
第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

地方の裁判官であろうと上司の代理で判決を宣告するのではなく、天皇の名において国家意思の表示するとなれば官を名乗らせるしかなかったからでしょう。
ちなみにここで言う裁判所とは、法学用語では官署としての裁判所ではなく、受訴裁判所・・裁判を担当する(裁判所を構成するのは事案によって3名のこともあれば1名のこともありますが)裁判官のことです。
法廷で日常「裁判所はこう考えますが・・・」とか「裁判所としては〇〇についてをもう少し主張をお願いしたい・・〇〇を提出していただきいのですが・・」と言う発言は「〇〇地方裁判所」という建物のある官署をいうのではなく、その担当裁判官(合議事件の場合合議体)の意見という意味です。
例えばある地方裁判所に民事部が5部あって、その中に裁判体が10数個ある場合、その一つ一つが裁判所であり、一つの判決や証人採用決定や却下、次回期日決定ごとに、地裁全部の裁判官が集まって合議して決めるのは無理があることがわかるでしょう。
裁判官一人の担当する裁判では、その一人の裁判官が決めればそれが〇〇地裁の判決であり決定であり命令としての効力が生じます。
豪族代表でなくとも朝廷内で何かの職務を持つ中で一定の職域以上に補職できる枠を官位で決めるようになって、(中国では官位と補職関係は厳格だったようですが、我が国はアバウトだったようです・・例えば三位以上でないと殿上人になれないなど)こういう合理化の結果官位制度が生まれたと思われますが、官位をいただけるのは当初天皇の直接任命職だけだった可能性がありますが、次第に人数が増えてきたので直接任命は一定の官位までとなり、例えば三位までになり4位以下は認証するだけの官となって行ったのかも知れません。
千葉市の場合、法律上議会承認を要する委員の場合、担当局長や秘書室長などの立会いで、市長から直接辞令書が交付される1種の儀式が行われますが、議会経由しない委員任命の場合、辞令書が第1回委員会の机上に置かれているだけで市長からの直接任命式はありません。
官名授与対象がインフレ現象で?増えすぎたので認証官という制度が生まれ、明治以降地裁裁判官等がどんどん増えていくと膨大になるので認証式すら必要のない官が生じるようになったのかもしれません。

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