自己実現と社会関係4(自己実現説批判)

以上は私がちょっとネットで漁ってわかった程度の思考レベルで自己実現論批判を書いているのはおこがましい次第ですが、(私が知らないだけで芦部教授がどういう理屈付けで心理学の思考を法学に架橋するのに成功しているのかすら(まだ文献を漁っていないので)実は不明です。
素人の無責任おしゃべりとしてお読みくだされば良いという程度です。
芦部説が一世を風靡して以降(現在の60歳代以降の中堅?若手)法律学徒では「自己実現」という(意味不明の)マジック的用語が(裸の王様のごとく)牢固として根付いてしまったように見えます。
「三つ子の魂百まで」と言われています。
司法試験と学者の関係では、この5〜60年では司法試験も合格できないレベルで内部昇格で学者になれるのか?という我々部外者常識が?行き渡り、まず司法試験合格が学者への登竜門になっているとすれば、司法試験受験勉強で染み付いた思考方式の影響力は強力です。
昨日紹介した部分を再引用をしますが、

「受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。」

表現の自由関連の問題が出た場合、芦部説に言及しないとならないほどマニュアル化しているようです。
マニュアル化と言えば小泉政権の司法改革時に言われていた意見では、
司法試験受験予備校が大盛況時代になっていて、受験予備校では深く考えるのではなくあらゆる問題を定式化した教え方が中心・・丸暗記中心で何の疑問も持たずに効率よく勉強したものが合格する仕組みになっている弊害が大きなテーマになっていて、これが「プロセス重視の法科大学院」制度創設・・必須化に繋がった経緯があります。
当時の修習生に対する批判として「実際の事件等の起案をさせるとどこに正解文献があるかの質問が来る・・自分で考えろと言っても自分で考え抜く勉強をしたことがないようだ」という便乗的?苦情も寄せられていました。
(小泉内閣時代の司法改革では・私はその頃日弁連の司法問題対策委員〜司法修習委員をしていてその渦中にいました)
高邁な論文を理解するために行間を読み?試行錯誤して理解してきた愚直な世代と違い、予備校→定式の丸暗記時代を経てきた世代(現在の60歳前後以降の中堅若手)にとっては、疑問を抱く前にまず「理解」しようと努力した人が大多数になっていることになりそうです。
ただし、そういう批判をしょっちゅう聞いていましたが、私自身の感想としては、昔からある「今の若者は・・・」式の批判に似ているなあ!と感じていました。
今になるといわゆるデジタル思考向きで実務家向き勉強法でないか?・・皆が「ああでもないこうでもない」と考え込む学者になる必要がないので合理的という意見の方が多いのではないでしょうか?
中高校生が与えられた数学の公式や物理の原理に疑問を持たず(・・難しいことは数学・物理学者に任せて)数式を解くのと同じで良いのではないでしょうか?
私の受験勉強頃にはまだ芦部氏は学者の一人でしかなく、彼の学説を知らないと合格できないような権威でもなかったので、自己実現論が脳内に浸透していないので深く知らない弱点もありますが、(その分自分の知っている学説に固執したい利害がない)自由な発想で批判できるとも言えます。
ただし、学者になるほどの人材が意味不明のまま物分かり良く理解したつもり(定式を記憶していた程度)の人ばかりではないでしょうが、批判論が表面に出にくいのは学会が東大閥に牛耳られているからか?または秀才とは疑問を持たないで素直に教えを吸収する人の謂いであるとすれば、意外に怪しい能力・・頭の硬い人の集まりかも分かりません。
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」で自己実現論を紹介しましたが、そのシリーズで紹介した判例時報特集号(平成29年11月3日発行)では、自己実現理論は自明の学説であるかのような書き方でこれに対する批判論に触れていない特集でした。
どう特集号の冒頭を飾る毛利透氏論文は芦部氏に心酔しているような部分も有ります・同氏は現在京大教授ですが、東大卒→助手を経ているようです。
私はこの特集号で初めてこういう憲法論を知り、しかもいつの間にか主流になっているらしいのに衝撃を受けて昨年からこのコラムで紹介してきたのですが、以下に紹介する批判論もあるのに反論することもしないで「すでに決まったことだ」という思考停止状態のママなのでしょうか?
もしかして自己実現説の学者グループが危機感を元に結集した論文集かもしれません。
とはいえ今はネット公開時代ですので、東大系に干される(発言の場を失う)のを恐れる人ばかりではなく、批判説がネットに出るようになってきたようです。
表現=自己実現という理解は逆からの=が成り立つか?「逆は真ならず」の原理が成り立つから間違っていると23日紹介した記事に書いていましたのでその一部を引用します。
3月23日引用の続きです。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
表現の自由=自己実現?
イコールを数学的な意味で必要十分条件だとするならば、両者は決してイコールではない。表現の自由が自己実現の1つであり、それに含まれるというのは正しい。つまり表現の自由⇒自己実現というのは正しいが、その逆の自己実現⇒表現の自由というのは正しくない。
「自己、自己と二つ同じ言葉が並んでいるので語呂はいい。そして覚えやすい。しかし、その真義はと聞かれると何とも曖昧模糊としてつかみどころがないのだ。」
(私・稲垣流に言えば、心理学用語を深く理解せずに法律学に借用した?からこう言うことになるのではないかと思います)
「自己実現と自己統治は表現の自由の根拠として万能の議論であるどころか部分的にしか成り立たない議論である。」

さすがに学者はいいことをズバリ書いています。
23日のコラムで夜中に奇声発したりピアノ練習や発声法の練習をするのは自己実現行為であっても、社会との関係性を考慮しなければならない筈・心理学と違って法律学は社会との調整視点が必須であると書きました。
自己実現理論に対する批判論は、これを論理的に説明するものでしょう。
自己実現と表現の自由を=で結んではいけないのです。
自己実現行為でも周囲に迷惑をかけないようにする必要や公共の福祉の制限があるし、法による禁止がなくとも社会的許容範囲を逸脱してはないけないという含意です。

自己実現と社会の関係3

自己実現理論の本籍である心理学の解説を見ましょう。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

自己実現理論(英: Maslow’s hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。
自己実現論、(マズローの)欲求段階説、欲求5段階説、など、別の異なる呼称がある。
ピラミッド状の階層を成し、マズローが提唱した人間の基本的欲求を、高次の欲求(上)から並べる[1]。

    • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
    • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
    • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
    • 安全の欲求 (Safety needs)
    • 生理的欲求 (Physiological needs)

以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。芸能界などを目指してアルバイト生活をする若者は、「社会要求」「承認の欲求」を飛び越えて自己実現を目指している。
1969年にスタニスラフ・グロフと共にトランスパーソナル学会を設立した[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/

人間性心理学(英語:humanistic psychology)とは、主体性・創造性・自己実現といった人間の肯定的側面を強調した心理学の潮流である。ヒューマニスティック心理学とも呼ばれる。
それまで支配的であった精神分析や行動主義との間に1960年代に生まれた第三の心理学とされる。
それまでの心理学では、行動の原因の動機として空腹などの単純な特定の欲求を満たすような欠乏動機(deficiency motivation)に重点を置いて満足してしまっていたが、マズローはそれだけでは説明できない人間のある種の成長への欲求を存在動機(being motivation)と呼び、より高次の価値を求める人間について研究しようとしたのである[2]。現在では、マズローの自己実現理論は高校の教科書にも記述されるほど広く知られるようになっている[2]。
提唱者であるアブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた。人間性心理学は人間性回復運動の支柱ともなった。また後に、人間性心理学に続きトランスパーソナル心理学が登場する。

自己実現理論は米国で1960年頃から最高潮に達したようですが、すぐに下火になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アブラハム

マズローの着想は科学的な厳密さの欠如により多々批判されている。
ひとつはアメリカの経験論哲学者による、科学的に脆弱だというもの[3]。2006年には、Christina Hoff SommersとSally Satelが経験的実証の欠如により、マズローの着想は時代遅れであり「もはやアカデミックな心理学の世界では真面目に取り上げられてはいない」と断言した
5段階欲求という図式は、西洋的な価値判断またイデオロギーにバイアスがかかっているとして非難されている。多数の文化心理学者が、この概念を他の文化、社会と関連付けて考慮したところ、一般原理として採用することは到底できないと述べている

上記の通り米国では批判されてしまったようです。
(ただしその後米国でその系譜がどうなっているか、日本の心理学会でどうなっているかも私には不明です。)
心理学会の分野は別として、憲法論としての自己実現理論については上記批判論の最後の「文化、社会と関連付けて考慮したところ、一般原理として採用することは到底できない」という批判部分が重要ですが、これに対して日本では大した批判もないのかな?
心理学と法学との架橋理論づけがはっきりしないまま(「私には」という限定です)の法理論への流用なのにこれの批判すらほとんどない?ままのようです。
明日以降紹介する判例時報増刊号の論文を紹介するように、今も表現の自由=自己実現説が通説的地位を占めているように見えます。
23日に自己実現論を引用紹介した文書には、
「受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。」
というのですが、日本では司法試験の基本テキストになれば・・意味不明でも丸暗記してわかったような気持ちになって書かないと合格できなくなった(東大教授の権威が高すぎる?)ことが大きいのでしょう。

自己実現と社会2

曲解すれば?「自分は中国や北朝鮮が日本を攻撃してくれる日が1日でも早いことを希望している/日本人が◯国人の奴隷になればいいと思っている」と本当にみんなの前で言える・・言う権利があるのでしょうか?
「褒められた行為でない・政治責任を取るかの問題と、法に触れない限り何を言うかは自由・権利・法的責任を問うかとは次元違う」と言うのが憲法学なのでしょうが?
でも一般人には法的責任と政治責任の区別はそんなに明白なのでしょうか?
学者や弁護士が声高に「自己実現こそが最重要で何人も冒せない」と主張すると社会関係を無視して何を言うのも人権の発露で立派なことと履き違える(私のような軽率な?)人が出てきます。
身障者等を保護する必要があるのはその通り・誰も異論がありませんが、「あらかじめ重度の身障者と分かっていても産む権利がある」とまで言い張られるとその負担が健常者みんなに及ぶのですから、不快に思う人がいます。
現在、優生保護法の関係で出産できなかった人たちが損害賠償を求めて提訴する動きが盛んです。
医療過誤事件では当時の学問技術水準で過失があったかどうかで決まるように、優生保護法やハンセン病による隔離問題も当時の医学水準を基準にしないで今の基準で責任追及しているのが不思議です。
当時の何でも原因不明の病気は「先ずは隔離すべき」と言う時代だったので、(伝染病でも犯罪者でも何でもまずは隔離です)気の毒だったなあ!と思うのが普通で、それ以上に「人権に時効がない」と言う理論で明治や徳川〜織田信長時代まで遡れるか?となると、社会が成り立つのかの疑問です。
慰安婦騒動では、当時世界中で売春婦が普通にあった時代背景を無視して売春婦を国家利用したこと自体違法だという韓国による慰安婦騒動・・日本糾弾論理の応援論理になっているように見えます。
もしかして慰安婦騒動を国連等で煽っているように見える日本のNGO組織などと共通人脈によるのかもしれません。
この基礎理論を提供してきたのが憲法解釈の自己実現論ではないでしょうか?
何を言おうとも(法令違反ない限り)結果責任を追わない自己実現論の弊害です。
自己実現事故統治論についてはJuly 12, 2018,表現の自由(自己実現・自己統治)とは2 」前後のコラムで紹介してきましたが新たに検索してみました。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

表現の自由は優越的地位を有し、他の人権よりも手厚く保護されなければならないのか、ということを説明する方法はいろいろあるが、芦部信喜が定式化したものが「自己実現」と「自己統治」の価値である。受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。
自己、自己と二つ同じ言葉が並んでいるので語呂はいい。そして覚えやすい。しかし、その真義はと聞かれると何とも曖昧模糊としてつかみどころがないのだ。自己実現は自己発達とか自己啓発、自己形成、自我の芽生えとかいう言葉の連想から何となく分かる。
しかし、「自己統治」は分からない。こんな日本語があったかしら。国語辞典はおろか、法律用語辞典を繰っても出てこない。
そうか、君主制や貴族制を否定して登場した民主政治のことだったんだと思い当たる。それならば最初から「自己統治」などと分かりにくい日本語を使わずに民主主義とか民主制とかいってくれればいいのに。語呂をよくするためにわざとこんな言い方をしたのだ。

このような定式化の理解が試験に必須となって「自己実現」論を盾に優越的人権論・・結果的に自分の政治主張が所属社会に害悪をおよぼしたかどうかと関係なく責任をとる必要がない?と称揚する学者や弁護士(心理学の精髄を理解した上での主張ではなく「語感」だけの理解?)らが表現行為=自己実現と表層理解(飛びつき?)し、表現行為の自由を優越的人権とすり替えていたのではないでしょうか。
芦部氏が米国留学中に米国で流行になっていた心理学の新説・人間性心理学の表層理解を日本の憲法解釈論に合成し、「自己実現・自己統治」と言う語呂の良さで一世を風靡しただけだった可能性(こういう失礼なことを言えるのは関係ない素人だからです)があります。
そもそも自己実現理論とは、言葉の意味からしても心理学用語の借用ではないかという第一感が働きます。
心理学は内面分析ですから、それが社会に及ぼす影響は二の次で、自己実現作用かどうかだけ議論していればいいでしょうが、内面で終わらずに言動になると社会との関係が生じます。
社会関係を論じる法律学にこれを持って来て「自己実現は生きていく上で最高に必要な尊いことだから、憲法上最高の保護を与えるべきという優越論をストレート(プロですから、それなりの工夫をした論文でしょうが・・)に持っていくのは無理がないでしょうか?
自己実現だからと真夜中に奇声を発したり音楽修行(ドラムやピアノ)をするのは嫌われます。
相応の配慮・防音室など準備すべきと言うのが普通の意見でしょう。
仮に心理学界で自己実現理論が正しいとしても法律学としては社会との折り合いが必須です。
この折り合いを探るのが法律学です。
自己実現というだけで満足してその先の議論をしないのは怠慢でしょう。
自己実現論とは何かについては上記の通り実は「曖昧模糊」としたままです。
「曖昧模糊としているが語呂が良い」という程度のことで司法試験受験生が金科玉条のごとく暗記させられてきたのが現在の法律学のように素人目には見えますが??。
この程度しか分からない術語での丸暗記では困りませんか?

自己実現と社会1

近年の中国躍進の根源は技術窃取によるだけではなく、リスクを恐れないこと・・思想規制が強ければ経済の進展は望めないというのが一般論ですが、実態は思想規制は厳しいものの共産党支配の否定さえなければ、道義に反するかどうかは問わない・・経済活動は自由自在・・環境破壊であれ知財窃取であれ、やりたい放題やれば良い・とも角先進国に追いつきたいだけです。
新幹線で言えば安全対策など二の次で、まず走らせて「脱線すればその時のこと」という姿勢が顕著です。
商売人は儲けのためには下水利用の油とかミルクを作るのもためらいません。
公害なども諸外国からの苦情によって無視できなくなるまで、なんの心配もしないという姿勢でした。
世界中でリスクをとる果敢なビジネスが広がっているときに・・中国のような無茶苦茶も困りますが・・世界中でまず普及するのを待って最後に参入すれば、世界一安全かもしれませんが、世界で安全確認できるまで実験すらできないのでは国際競争に参加できない結果、世界の最後進国に下がっていくしかありません。
社会党は「〇〇があればどうする」式の反対や役人に対すする厳しい追及で何をするにも複雑な仕組みを構築した成功体験に酔って?なんでも反対政党として信用を落としましたが、反日国としては国内反日利用勢力は、鉄砲玉・捨て駒でしかないので痛くもかゆくもないでしょう。
社会党は信用がなくなれば解散させて新党を創り、洗脳済みの政治家を新党に入れさせればいいのですから簡単です。
政治家は個人として政治責任をとるべきであって、社会党から新党に入り直せば過去の政治行為の責任がなくなる仕組みがおかしいのです。
この仕組みを真似しているのが各種詐欺的集団で、金融商品等の違法行為で許可取り消しになるとそのメンバーを含めて別の組織を立ちあげる(代表にはなりませんが)繰り返しが続いています。
国際競争から日本をいかに遅れさせ、脱落させるかの、反日運動目的では新たな挑戦を一切できない仕組みづくりでは大成功してきたように見えます。
表現の自由はその集団をよりよくする効果があるから重要なのだと自分流に理解してきましたが、今の憲法論では、言いたいことを言うのはそれ自体が「自己実現」であるから、「所属集団ために害があるかどうかは関係がない」というようになっているらしいことを、Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」のシリーズで紹介したことがあります。
私はもともと勉強不足でそういう意見が通説だったか?元は違ったが、この数十年でいつの間にか変わったかすら知らないのですが、ネット検索すると、芦部信喜憲法以来これを書かないと司法試験に合格できない時代が続いていると解説されています。
私はそのひと世代前の宮澤憲法時代のテキストで合格してきたので知らないわけです。
実務ではこう言う哲学的論争は実務にあまり関係ないのでその後の学説変化フォロー・勉強視野に入っていませんでしたので、司法試験勉強時代になかった説を私が知らなかったのは当然ですが、言いたいことをいうのは自己実現行為であって、人間の侵すべからざる基本的人権・人権の中でも優越的人権というらしいですが・・。
ただ、この説も冷戦時代の産物であって、今では批判が出ていると言う解説が以下に出ています。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
なぜ表現の自由は優越的地位を有し、他の人権よりも手厚く保護されなければならないのか、ということを説明する方法はいろいろあるが、芦部信喜が定式化したものが「自己実現」と「自己統治」の価値である。受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。
人権の中でそもそも優劣が付けられるのだろうか、アメリカ合衆国憲法ならばともかく、日本国憲法の条文から優劣が読み取れるだろうかとか、統治にまたがる人権はなぜ価値が高いのか、とかいった根本問題を立ててみると、この理論は自明ではない。
「人間の活動の中で精神活動を重視して経済活動、営利活動を軽視したのは、これを提唱したインテリの観念的立場を反映したもので、普遍的には成り立たない」とかいった批判が出されている。

優越的地位の理論が日本で通説になったのにはそれなりの歴史的事情(ここで詳しくは述べられないが冷戦とその影響を受けた日本の政治状況)があり、合理性があったと考えるが、これにともなう負の面があったことも否定できないと思う。

冒頭に書いたように中国では、逆に企業活動の創意工夫にあまり注文をつけず、悪しき結果が出てから規制処罰する方向で大躍進をとげている時代ですが、芦部憲法ではこの逆で政治反対運動は侵すべからざる権利であっても企業活動の自由を縛るのはいくら縛っても良いかのような差別論理でした。
要は企業活動を縛る方向性が、冷戦時代に中ソに有利な方向へはびこって行ったように見えます。
以下紹介するように芦部憲法著作が重版を重ねるようになった時期と、日本の企業活動が元気を失い停滞が始まった時期と重なるのには驚きます。
私が司法試験勉強したのは60年代末〜70年代初頭ですが、芦部信喜に関するウイキペデイアによれば経歴代表著作は以下の通りで、約20年以上経ってからのようです。

ハーヴァード・ロー・スクール留学を経て、1963年東京大学法学部教授、

『憲法学Ⅰ~Ⅲ』(有斐閣、1992年~1998年)
『憲法』(岩波書店、初版1993年

芦部説を勉強したこともない素人の私にはあまり批判する権利がありませんが、素人風に誤解すると自己実現こそが最重要で「民族を売る目的かどうかは善悪の基準にならない」という方向へ親和性を持つ学説のようです。

切り捨て社会の持続性3

それぞれの後進国が民度レベルに合わせて落ち着くところに落ち着けば、変化の激しい国際変動が終わるのでしょう。
初対面のある集団(新入生集団やPTAなど)が始まると各人の居場所・位置関係が決まるまでキョロキョロキョロして落ち着きませんが、一定時間経過で自然にそれぞれの役割が決まって行くものです。
日本人の場合多くの人は遠慮して隅の方から席が埋まって行くのが普通ですが、自分から進んで中心に立ちたい人もいます。
自分から名乗りをあげる人を(「あなたその器ではないでしょう」とは言えないので)誰も咎めませんが、長い時間軸でいつの間にか人望のある人が中心になる人が決まって行くのを待つやり方で、選挙によるよりは実質的です。
推挙された人も「自分はその器ではないで自分よりあの人の方がいいのではないか?」と一応辞退し、振られた方は当然「イヤイヤ〇〇さん適任ですよ!」と応じて円満に決まって行くのが普通です。
選挙の場合、こういう阿吽の呼吸がなく、誰がどういう能力を持つか不明の状態で「俺が俺が」という自己顕示欲の強い人が名乗りを上げて当選してしまうマイナスの方が大きいでしょう。
アメリカも中国も人から自然に推されるようになるのを待つよりは「俺が俺が」という自己顕示欲中心の国のように見えます。
こういう自己顕示欲中心の国・・アメリカはどこまでの西欧を追い越し続けたいので、いっときも休むことができない気の毒な民族?国です。
いっときも休むゆとりのない点では、現在中国(共産党政権)も成長経済を止められない点で同根のように見えます。
アメリカや中国の民度レベルの問題もありますが、金融資本に牛耳られる社会では目先の利子配当収入の多寡が最大の関心になります。
前年度同期比何%の成長か4半期の業績ばかりが株式相場の基準になっているのでは、ホンの数年先のための投資すら危ぶまれます。
自分で経営していれば一定の規模になれば昨年同様の収益があって、従業員を養なえれば満足して文化活動に精出す人が多いでしょう。
これが江戸時代に大旦那が番頭に経営を委ねて文化活動をしていた日本人の一般的生き方です。
我が国は誰もスタンドプレーに走らず・・黙々と戦後住宅不足時には公営住宅供給に税を投入してきたし、教育無償化や国民皆保険や年金制度を進めてきました。
アメリカではオバマケアなど個人名で騒ぎますが、日本の国民生活安心の基礎を作り上げた功労者の話をついぞ聞きません。
こういうことは短期の得票を求める選挙向きではなく、誰か立派なリーダーが旗振りして決めるのではなく、国民の暗黙合意によるからです。
農地で言えば数百年かけて耕地を肥沃にしていく日本の農業と土地を酷使し、使い捨て的に使いきり、土地が痩せれば化学肥料を撒いたり、移動して行く農業の違いでしょうか?
こうした息の長い政策には天文学的予算が必須でしかも地味です・・長くても4〜5年で選挙の評価を受けねばならない民主政体・・政権交代する前提の短期施策では不可能です。
日本人の多くは選挙や目先の評判でなく、子孫のために・・が恥をかかないようにお国(結局は郷土です)のために尽くす姿勢で多くの人が頑張ってきました。
これが我が国に住む人たちの価値基準であり、良き伝統です。
企業は不要な人材を「遠慮なく解雇し」「少しでも条件が良ければ転職する」「都合によっては外国へ逃げればいい」という価値観の国では、日本のような愚直?な価値観は育たないでしょう。
社会のあり方として、いわゆる性善説と性悪説を古くはjune 4, 2013,モラール破壊10(性善説の消滅)前後、近くは19年2月14日頃に書きましたが、日本は性善説の国であって、監視してこそ真面目によく働くというような性悪説・投票箱民主主義のように底浅いものではありません。
使い捨てといえば、都市さえもスクラップアンドビルド政策・用済みになれば、ゴーストタウンにして捨てていくアメリカ社会に対して、日本は戦災を受けた東京駅復元が数年前にようやく終わりましたが、毎日何百万という人が利用しながら復元していく地味な仕事です。
いろんな町の行事や古美術の保存、民具、地域のお祭りなどの伝承にエネルギーを注ぐ町の人たちを見ると、なぜか胸が熱くなります。
最近では日本でも利益率中心の経営がようやく根付いたと賞賛する声が大きくなり、アメリカの真似をするのが正しいという主張が有力ですが、私はアメリカ方式に反対です。
コスト重視の経営原理→賃金は低ければ低いほど良い→さすがのアメリカも低賃金政策は、新興国に汎用品の生産がどんどん移転するようになり、職業訓練や教育を受け付けない膨大な数の底辺労働者を抱え込んでしまった負の遺産・解雇すれば済む時代ではなくなってきました。
あまりにも大量に底辺移民を入れてきたので、「あとは知りません」というこれまでのやり方は数が多すぎるのでどうするか・放置できない時代に入っています。
2月27日に紹介したヒスパニック人口が約6000万人で、その中で一握りの成功者もいるでしょうが、大多数が文字やパソコン不要の現場作業(草刈り等の原始的?)に従事している階層では、真面目に働いてもアパートに住む収入がない状態になっている状態になってきたようです。
日本でも失業→転職対策として、再教育論が盛んですが、アメリカの底辺の場合基礎学力の違いが大きすぎる印象です。
しかも2月26日と27日紹介したように、彼らは米国民という共同体意識を持っていない・どちらかといえば、長年排他的扱いを受けてきた関係でむしろ敵意を持っているので、米国にいながら職業に必要な英語を身につけようとする意欲もない状態が見えます。
政府が正面に出ないでボランテイアに補助金をだす程度・餓死者続出時に政府は手を出さずに教会で気休め的にスープを振る舞うような政策が米国の基本的方向のようです。
底辺労働者・移民大量受け入れによる負の連鎖が始まると、この解決には途方も無い国民負担が生じる現実に嫌気したのがトランプ氏の反移民政策になって国民の感情的支持を受けるようになった基礎のように見えます。
オバマ時代から不法移民に対する合法化の政策が採用されました。
これは長期間不法移民のままで放置(追放しないまま放置)すると帰属意識の乏しい(逆に反感を持つ)移民に対する国民融合化を進めるための政策だったと考えられます。
不法移民の中で一定の要件に該当するものを合法化することで懐柔する・・その方が再教育に馴染みやすいのです・・が行われ、他方で新規移民には、能力に応じた枠を強化する方向できたのは、これ以上の底辺労働向け移民不要という政策表明と見るべきでしょう。

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