社会に応じた言語力3

明治維新後数十年で見ると英文学に進んだ夏目漱石は漢文学等の古典素養の高さが有名ですが、いろんな分野に進んだ偉人の多くが民族文化素養が厚かったように見えます。
明治維新以降では英語力の強化あるいは文系より科学教育の必要性が叫ばれるようになったことと関係があるのでしょうか?
最近で言えばみんなが言語素養を磨き切る前(大学入試でも国語力の配点・比重が下がる一方でしょう)に専門分化が進みますので、医学や理系は理系素養中心、文系でも法律や経済学等々早くから分化していくので言語文化素養を磨く時間が少なくなっていることによるのでしょうか?
小学生に英語教育するとかIT教育するなど言語素養にかける時間比率が近年急激に減少してきたように思われます。
中国が歴代科挙(試験科目は四書五経中心)制度に偏りすぎて近代化に遅れを取ったと言われていますが、物事は程度問題(バランス)です。
社会組織が高度化していくとこれに比例して言語表現能力もアップしていくべきでしょう。
中国や朝鮮族で古代意識のままの科挙制度が維持できたのは、社会レベル(需要)に関係ないトップ階層限定の教養でしかなかったことから民族文化と関係がなかった上に、社会の自律的発展がなく社会のあり方が古代から変わらなかったので不都合がなかったからのように見えます。
日本では万葉の昔から、防人に出る末端兵士まで歌を詠み、武士の台頭によって実務重視社会に変化していくと、実務社会に必要な文化教養を備える・薩摩守忠度や西行法師に始まり、秀吉でさえ茶会を催し、辞世の句を詠んでいます。
光秀謀反決起の朝・出陣前に連歌の会を開いていたのも知られています。
江戸時代に入ると文化の担い手と消費者が市民に移行していくので(庶民相手の落語や川柳、役者絵、笠森お千などの美人画・プロマイドや旅行案内・広重の東海道の名所図など)の発達が浮世普及の原点でした)文化活動は社会水準そのものを写すものでした。
文化活動が社会変化について行けていないときには、外来文化が未消化で入っている状態というべきでしょう。
具体的な例でなく架空の例ですが、外資誘致でアフリカのどこかの首都近くに、周辺ホテル群を備えた超近代的空港設備一式を建設して首都まで高速道路で結び、その途中に最新式の工業団地を作ったとしても、その国の文化度がいきなりその設備に見合った内容レベルになるわけではありません。
最新工業設備や先進国の商品等が表通りに並び国民皆の消費対象になり、自分たちで作れるようになってもすぐにそのレベルの文化になるわけでないことは、ミヤコ見物に出かけて仮に1〜2週間滞在してみやこブリを堪能しても、あるいは1〜2年住むだけでみやこの物腰態度や価値観が身につく訳でないのと同じです。
日本の文化発展の歴史を見ると基礎蓄積の上に外来文化接触による刺激で花開いてきたように見えます。
仏教伝来や大唐の文化受容〜禅文化〜西洋の大航海時代・・鉄砲伝来と国産化成功
鍛冶屋のレベルアップの基礎の上に鉄砲伝来があったのですぐに国産化できたのはその一例ですし、明治の文明開花も西洋文明を受け入れさえすればすぐに産業革命の成果を国産化できる各分野の技術力アップがありました。
西洋の到来に刺激を受けた日本では安土桃山の絢爛豪華な文化が花開き、その反作用としての侘び寂びの文化も成長しました。
基礎文化の厚みがないと外来文化に飲み込まれるか混乱するだけで、民族独自文化発酵にまで行かないで混乱するばかりでしょう。
西洋の大航海時代や産業革命の影響も明〜清両朝や朝鮮の方が日本より先に影響を受けた筈なのに、両王朝でこれによって新たな文化レベルで目立った変化がないまま幕末を迎えました。
幕末においても清朝は日本に西洋の余波が及ぶ何十年前からアヘン戦争〜太平天国の乱に至るほどの激烈な影響を受けながらも、内部混乱するばかりでまともな文化変化〜政体変化もできずにいたのは、新文化価値を受け入れるべき基礎能力がなかった・古代社会文化レベルそのままで来たから混乱するしかなかったと見るべきでしょう。
以前からこのコラムで中国では古代から王朝が代わっても前王朝の繰り替えしで進歩がなかったのはこれを支える社会変化がなかったからであると書いて来ましたが、清朝崩壊も古代歴代王朝崩壊時と同様に社会の変化に合わせるための王朝打倒ではなく従来型軍閥による政権争奪戦でした。
その過程で流行の共産主義を唱えた現政権(私見ではこれも清朝末期の軍閥と本質があまり変わらない)が、山賊的に支配権を確立しただけとみる主張を読んだ記憶です。
政治の目的が古代王朝並みに人民からの収奪しか考えていない場合、専制君主制の王朝再樹立では時代に合わない点を独裁政権と言い換えて、その口実に共産主義を標榜しているだけで本来共産主義(分配目的・・裸官で知られるように共産党幹部の蓄財は半端でない状態です)の精神とは関係ない政権という説明です。
民族意識が古代社会のままで開放路線の結果先端産業を社会レベルと関係なく導入するとこれを文化的に消化できない状態になります。
中国の大規模近代化は、アフリカに飛行場と最新設備を作ったような点として作ったものを大規模にしただけですので、衛生観念も最貧困国並みでおかしくない・摩天楼のようなビルをニョキニョキ立てるだけで足元が不潔な状態・・中国人が日本にくるようになった最初のイメージは「汚い」と嫌われるのが、代表的イメージでした。
最近日本へ来る前に教育を受けてくるようで道路に痰を吐くようなことは目立たなくなりましたが、基本的衛生観念レベルの低さが、今回の新型肺炎の爆発的蔓延の基礎事情のようです。
フィリッピンや太平洋島嶼国などが、一様に厳しい包括的入国制限に走ったのは、自国に少しでも菌が入った場合、防疫能力の低さから見て仕方ないというのが国際的理解でした。
先進国では2次3次感染の広がりを阻止できそう・そういう意味では、WHOが(衛生レベルの低い中国特有の広がりにすぎず)世界的な問題性が低いと判断していたとすれば意外に正しいのかもしれません。

社会に応じた言語力2

2月7日の公務員と労働法の続きですが、労使であれ夫婦(離婚騒動)であれ親子(意見相違)であれ兄弟(相続争い)であれ、上司と部下(パワハラ)であれ全て内部関係は対立をはらんでいます。
なぜ公務員に労働法規が不要か?別立てにする必要があるかの実質的説明が欲しいものです。
国民は全て同胞といっても、国民同士でも敵味方があり相争うことが多いから国民同士の争いを裁くシステムが発達してきたし、ルールが整備されてきたのです。
消費者を王様と持ち上げていても代金不払いや万引きがあれば、敵対関係になります。

憲法
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

公務員と国民一般は原則として対立する機能を持っていませんし、逆に全体の奉仕者です。
ただし王様であるはずの顧客でもクレーマーや万引きに対しては、販売員が厳正対処する必要があるように国民全体に対するルール違反者=犯罪に対して公僕が国民を代表してルール違反者を検挙するなどの利害対立が生じますが、この場合はあくまで例外関係です。
その時には一般国民同様の法の適用を受けます。
国民と公務員は、公職についたり退職によって時に入れ変わることを前提にしているので、原則として入れ替わることを予定していない身分ではありません。
しかし、人民と政府とは、相容れない恒常的対立関係概念を予定しています。
人民概念は人民と政府権力・支配層が原則的に対立関係にあることを前提にしていますので試験や選挙等で被支配者が支配者と入れ替わることを予定していない対立概念です。
明治憲法制定者の真意は、権力の手足である官だけでなくもっと遠い関係にある民を含めて臣民一丸となって迫り来る欧米諸国に対抗すべきという含意だったのでしょうか?
臣民とは臣と民があるという意味ではなく、臣民一体化の強調の趣旨だったとすれば合目的的ですし実際に成功していたように見えます。
今でも大災害がある都度同胞意識・絆意識の再生産が行われますし、明治憲法の前文にもこの趣旨がにじみ出ています。
明治憲法前文
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・・。
「朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ」といわゆる大御心を「朕カ親愛スル」と表現し「祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民」と先祖代々大事にしてきたよ!という書き出しです。
平成天皇の被災地訪問の繰り返しは、まさに恵撫の実践でした。
国民全てが天皇の恵撫に感動して臣民一丸になれば、臣民以外の刃向かうべき人民はいないはず→明治憲法の臣民論は人民論を根こそぎ抹殺する含意だったことになるのでしょうか?
人民と官とは同じ国民であっても特定の機能側面に限定した概念です。
ある人が生産活動や販売に従事する場面では生産等の供給側ですが、自己の生産品や販売活動以外のその他大多数商品やサービスに対しては消費者であるように消費者概念はその時々における側面の分類です。
例えば反乱軍や反政府デモ隊員もこれの警備出動した政府軍兵士や警備中の機動隊員も、国民か否かのレベルでは双方とも国民です。
特に一般デモ行動は、政権支持者のデモもあるし、いろんな目的(同性愛の婚姻合法化、LGPTなど)のデモ行進があります。
警官が非番の日に何かのデモに参加すること自体は自由なはずですが、特定政党支持を明らかにするのは全体の奉仕者としての信用に関わるので(事実上かな)ダメとされているようです。
特定政党支持ではなく、保育所をもっと増やしましょうとか、わが町に美術館を!というようなデモに参加してはいけないとは思えませんが・・。
支配されていた国民が抵抗権行使する場合だけを人民と言うとすれば、日常的に国民性を否定するものではなさそうです。
国民か外国人かの定義のレベルではなく次の小分類・国民内のサラリーマンか経営者か、大企業従業員か中小企業従業員か、ある人がある時は消費者であり、ある時は供給者側の人間であるなど、その時々の行動によって立場の変わるレベルの分類でしょう。
人によっては俺は生まれ付きの人民だという人もいるでしょうが、それは国民主権国家においては主観的思い込みであって、ありえない論法です。
中国や北朝鮮のように、国民の声など問題にしないと公言する一党独裁体制の場合独裁機関幹部以外は皆人民でしょうが、民意による政治を行い民意の支持を失えば権力を失う仕組みになっている社会では、民主的に出来上がった法を実力で無力化する行動を正当化する余地がありません。
民主国家における実力行使正当化論は時代遅れであり、アウトローの集まりでしかないというべきでしょう。
専制支配国家→正義に基づかない規制や処罰=恣意的処罰・権力行使が許される社会では、正義の裏付けのない強制となりますのでこれに抵抗するのが正義の実現行為である場合もあるでしょうが、民主主義のルールに従って制定された法秩序を自分や一定の党派が気に入らないからといって抵抗権があると主張してこれを実力行使で否定するのを許すならば、民主主義社会が成り立たない・裸の実力闘争社会になります。
実力闘争に勝ち抜けば支配者になり人民ではなくなるのですから、中国や北朝鮮政府が人民民主主義国と名乗り人民解放軍、人民日報、人民銀行・人民元などというのは言語矛盾です。
内乱・反乱軍が政府転覆に成功して政権樹立後も反乱軍とか反乱政府と自称しているようなものです。

社会に応じた言語力1

戦前は職人と事務員等職種によって呼称が違っていたのですが、戦後労働者という統一用語になると次第に労働の範囲を広め、好きでやっている研究・・「ことに仕える」典型的な生き方ですが・・等も今では知的労働と言い、こうした中核部分にまで仕方なく働かされている「労働」意識を浸透させてきました。
加山又造だったかの工房の様子を報道する映像を見た記憶では大勢の弟子?スタッフが立働く様子が印象に残っています。
昨年だったか?
京都の「京アニ」放火事件を見ても、外見のみの判断ですが、芸術家集団というより工場建物のイメージですし、何故かオーム真理教のサテイアンを連想してしまいました。
運慶快慶や東博や狩野派も一定の集団作業と言われていますのでトップと弟子とはいえ、生活的には賃労働と変わらない外形もあるようです。
映画演劇も皆同じでしょう。
実家が領主層で弟子入りした方が、授業料、飲食費等生活費を負担する出家や弟子入り中心だったのが、戦後は落語や演劇等の端役その他の弟子にも小遣いをやらないと成り立たない関係になり、それが生活費になってくると修行より労働の性質を帯びる方向になります。
各種学問分野の研究者も同様で、元々は好きでやっているにしても「研究実験が三度の食事より好き」とは言っても家族を養える程度の生活費は保障してほしいものです。
これが現在のポスドク問題です。
芸術文化活動や学問領域参加者に無産階層出身者が広がったのは良いことですが、生活費を稼ぐ面が重視されてきたので知的労働という熟語が生まれたのでしょうが、知と労を足しただけの熟語は いかにも間に合わせっぽい薄い熟語です。
市町村合併や企業合併であんちょこに相応の頭文字をくっつけた市町村名や企業名が目立ちましたが、各種熟語も知的労働みたいな単純寄せ集め形式が進んでいます。
明治の人たちは新しい現象に合わせて色々な造語に成功して社会発展の基礎を築いておいてくれたのですが、戦後は、社会変化に応じた言語創作力が落ちているようです。
禁治産者系の法律用語が社会変化に対応できなくなった時に新しい単語を作るのではなく被後見人という新建材みたいな安っぽいアンチョコ用語に変えたことを批判して書いたことがあります。
明治の民法はフランス革命=ブルジョワ革命・・教養と資産のある人のための法であるナポレオン法典がその母体でしたので、「資産のある人」が対象でした。
自分を守る能力の欠けた人や劣った人を保護する必要があるのは資産を守る必要→禁治産者(資産を治める能力のない人という意味)や準禁治産者には後見人や保佐人を選任する仕組みだったのですが、戦後は大衆社会に突入したので無資産者も法の保護が必要になってきました。
「資産がなければ怖いものなし」と思うでしょうが、戦後は住宅ローンに始まり借金(サラ金〜カードローンなど)でモノやサービスを買う時代になったので、無資力者も取引のプレーヤーになってきました。
プレーヤーとしての能力がないとして放置する・借金できない=カードも使えないのでは人権問題の意識が高まり、無資力者も保護の必要が生じたので資産家保護にシフトした「禁治産制度)が実態に合わなくなりました。
資産がない人もプライバシーその他の保護が必要になったのですが、その権利を守れないのでその役割を果たす人が必要になります。
能力不足の人の権利確保のためには禁治産者に必要とされた後見人がその担当になるのが合理的ですので後見人の役割が資産保護だけから各種能力不足者の保護に広がりました。
無産者でも身を守る能力に欠ける人には有資産者同様の保護者が必要という意識が強まり、共通の保護政策に合わせた民法改正に際し、禁治産の用語を廃止したのは当然ですが、その代わりになる用語が作られませんでした。
従来同様に後見人や保佐人が選任されるのを利用して「被後見人、被保佐人」ということにしてお茶を濁して新しい制度目的にふさわしい新用語を作れなかったのです。
学校用語で言えば「生徒」や「学生」という用語を作らずに「被教育者」と言うようなものです。
患者、病人でなく、「被治療者」、会社員でなく「被雇用者」何でも「被〇〇」で済ませるのは間違いでないというだけで、非効率です。
「お客」と言う単語を作らずに「買う人」と言っても間違っていないですが、この種の表現は内容性質の分類に使う用語であって、そのもの固有の名詞ではありません。
それぞれに固有名詞があって意思疎通がスムースになるのですが、誰それの孫とか親戚の人・「ほらいつも遅れてくる人よ!」「派手な格好している人」という表現は固有名詞を知らないときとか、婉曲表現に使うものですが共通認識のある狭い世界でしか通用しませんし誤解を招く確率が高くなります。
明治の頃に日本語にない外来語を翻訳するときにいろんな熟語が創作されましたが、今の日本ではこのような時勢に応じた新用語創作能力が衰えてしまったように見えるのは残念です。
もしかして法律家の言語素養が下がっているだけかもしれませんが・・。
法律家に限らず、言語創作能力は文化基礎の広がり度による影響が大きいのでその効果が法律家に及んでいるというべきでしょう。
社会変化の大きさでは、明治維新と敗戦後の社会変化の激しさではかなり似ていますがどういう違いがあるのでしょうか?
明治維新後数十年で見れば英文学に進んだ夏目漱石は漢文学等の古典素養の高さが有名ですが、いろんな分野に進んだ偉人の多くが民族文化素養が厚かったように見えます。
江戸文化だとつい思い込みたくなる歌舞伎の名作の多くが、明治の河竹黙阿弥の作になるのと同様です。
古典落語や日本画なども同様です。
敗戦前後あるいは現在の言語能力低下(=交渉力低下・昭和に入ってからの国際孤立化は言語力によるだけではないですが、何らかの影響があった可能性がありそうです)は、その数十年前からの文化力低下によるものではないでしょうか。

日系企業米国生産と格差社会化緩和2

米国の貿易収支が出超から入超に変化すると、その分国内製造が減ります。
金融収支的には、知財収入や所得収支で均衡が取れますが、知財収入や金融取引の儲けでは多くの国民の雇用が守れません。
ファッション産業等も同様です。
あるファション製品が、世界最大の売りあげを記録してもファッションクリエイター部門雇用はわずかで、ユニクロやアップルの最終製品加工工場の雇用が増えるのに比べればゼロ%台の比率にすぎないでしょう。
アップルが如何に巨大な儲けを叩き出しても、その生産が中国の巨大生産委託工場で生産され世界に供給している状況では、米国内雇用にほとんど貢献していません。
11月9日日経朝刊1面トップにはアイフォーンは部品や材料が地球と月の1往復分複雑移動して「最後に組み立てるのは従業員が100万人もいる中国広東省・深圳の受託製造会社だ」と書いています。
1工場で数万数千人が組み立てにラインに並ぶ深圳の工場規模の報道に驚いてきたのですが、100万人とは驚きです。
最終組み立て部門はこれと言う熟練技術不要で文字通り人海戦術の分野ですが、それだけに雇用吸収力は甚大→中進国や先進国の雇用減と裏腹です。
米国得意の製造工程簡略化によって、数世代以上に渡っての職業訓練・教育を受けてきたかの違いや文化レベルなど全く問題にしない・・人間であれば誰でもできる程度の単純工程が最終組み立て作業ですので、近代産業革命によって先進国から雇用拡大した流れの逆張り進行が始まったのです。
国内雇用政策で見ると米国企業が従来の輸出に変えて国外現地生産を増やしていくと戦後当初世界に輸出していた分国内生産が過剰→縮小になりますが、当初その程度の漸減ならばシリコンバレー等での新規産業創出でなんとかなっていたのでしょう。
その後日本ドイツの追い上げによる各種輸入が爆発的に増えると輸出が減るだけでなく、自国消費分まで国内生産が縮小していきます。
欧州は戦後復興しても欧州の国内需要を米国に食われなくなっただけで米国への逆輸出がそれほど増えませんでしたが、(ドイツの貿易依存率が高いと言っても欧州域内輸出が大半です)日系メーカーの場合対米輸出だけでなく、対東南アジア輸出はどんどん増えていき、その分米国内製造が激減して行く構図になってきました。
輸出が減るだけでなく国内需要まで日本に食われるようになって国内製造業縮小に直面した米国は、国内雇用減緩和的穴埋めに、日系自動車メーカーに対して米国進出を許容し誘導(強制)してきたことになります。
米国の貿易赤字分を日本や中国がせっせと米国債を買い求めて貿易赤字の穴埋め・ファイナンスしてきたのと同じ構図です。
米国は元々戦後10年前後経過時点から軽工業段階・・超低賃金労働向けの繊維系やおもちゃ生産分野の場合、直ちに自国内製造を諦めて低賃金国へ工場進出して逆輸入に切り替えてきたのですが、(対中関税制裁で困るのは中国で生産している米国資本の工場と言われる所以でもあります)重工業や車産業等のセコンド製品等の男性中心職場でそうは簡単に行きません。
一斉に構造変換・・大規模リストラすると男性の大量失業等の影響が大きすぎるので、政府としては国内企業の存続を図りたくとも日独に追い上げられて収益率低下する一方の事業を切り離したいのが米国企業価値観です。
自由貿易を錦の御旗とする米国は輸入制限する口実が見当たらないので、国内雇用縮小の穴埋めのため輸入先企業・日系企業に国内進出させて失われる雇用の受け皿役を担わせ急激な国内失業回避する戦略だったし、日本もあくまで自由貿易の大義違反と米国と正面衝突するリスクを冒す事もできないのでやむなく湯h捨数量制限と米国工場進出で妥協してきました。
低収益部門と化した自動車製造事業を日系企業に委ねて置いて米国自動車業界・ビッグ3はチャッカリ中国韓国等へ進出して高賃金の米国から逃げています。
https://response.jp/article/2019/02/07/318888.html

2019年2月7日(木)17時00分
GM世界販売12.7%減の838万台、キャデラックは7%増 2018年
市場別の2018年の販売実績では、中国が引き続きGMの最量販市場に。ただし、2018年は364万5044台にとどまり、前年比は9.8%減とマイナスに転じた。
中国に続いたのは、地元の北米だ。2018年は、349万0114台にとどまった。前年比は2.4%減と、2年連続のマイナスだ。

上記のように中国市場販売の方が米本国での販売より多くなっています。
そのGMが18年国内工場大規模閉鎖発表しました。
これが6日に紹介した長期ストにつながっているのでしょうか?
ただし40日間に及んだストが10月25日終結したというニュースが出ています。
GM苦境の紹介です。
https://jp.reuters.com/article/us-gm-analysis-idJPKCN1NY0OU

2018年12月1日 / 08:50 / 1年前
焦点:米GMの工場閉鎖、セダン需要不足にはそれでも不十分
[デトロイト 28日 ロイター] – 米ゼネラル・モーターズ(GM)(GM.N)は、26日に打ち出した北米の3カ所の完成車工場閉鎖と人員削減計画を実施しても、同社のセダンに対する需要と供給の落差は一部しか埋めることができない──。ロイターが自動車業界の生産・設備関連データを分析したところ、こうした結論が導き出された。
LMCのデータに基づくと、ミシガンにある「キャデラックATS」などを製造する工場と、電気自動車(EV)の「シボレー・ボルト」などを製造する工場の稼働率はそれぞれ33%と34%。スポーツカーの「シボレー・コルベット」を製造するケンタッキーの工場に至っては27%にとどまっている。
つまりこれら4工場は年間生産能力が合計80万台超に達するのに、今年は36万台しか製造されない見通しだという。
業界アナリストの話では、自動車工場の稼働率の採算ラインは一般的には80%前後。バーラ氏は26日、GMの北米地域の工場の場合、操業時間を延長しているSUVやピックアップトラックの生産施設を含めても70%だと明らかにした。

一方で4年前のデータですが、日本メーカーの米国現地生産台数は以下の通りです。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_seisaku-tsusyo20170129j-03-w420

15年は385万台と過去最高。米国の乗用車販売に占める日本車のシェアは4割を超すが、その6割は現地生産だ。日本メーカーは販売店を含め、米国で150万人の雇用を支えている。

交易必要性と米国盛衰 

大量生産品では欧州から対米輸出が成功していないので、対欧州では米国は輸出していた分がはげ落ちただけでした。
お互いさしたる能力差がないので同じような生産設備で勝負する限り自国市場分は自国で生産する関係に落ち着いたと見るべきでしょう。
資源以外の加工品の交易必要性は、品質と価格のバランスで決まることです。
例えば同時期に新装開店したスーパー西友あるいはイオンが2〜3キロ間隔である場合、同じメーカー品を買うのに、近くの店舗を通り越して遠くの店舗まで買いに行きません。
コンビニ等でセブン系とローソン系で弁当の味が少し違っても、ちょっとの差であれば最寄り店で買うのが普通です。
国家間貿易も同様で、同じ品質で同じ価格・米国得意の汎用品はこの種製品なら遠くから輸入する必要性がありません。
米国は欧州に比べて劣っていた能力不足分をカバーできる資源直近の好立地を19世紀後半から20世紀初期にかけて5大湖周辺に見出し、資源直近の利点を利用していわゆる中西部工業地帯が勃興し(国内産業構造変革・克服の苦しみが、19世紀半ばの南北戦争と解されます)欧州と互角に近い経済力を獲得しました。
20世紀に入るとベルトコンベアーに代表される(農産物も含めた)大量生産方式(販売でも個別顧客対応しないスーパー方式による合理化でプロの売り子不要+従業員最小化)の普及で労働者の能力差をカバーするなど生産性逆転したので母体国の欧州を圧倒して世界覇権を握れるようになったものです。
米国の基本コンセプトは自国民の能力レベルが欧州の底辺層の集まりであることを自覚した上で、この弱点カバーに特化して成功したものです。
個人技能に頼らない生産方式・・特注品の高度製品での競争を捨てて、アメリカ大陸の特性・豊富な資源と広大な農地や牧草地を有効活用した汎用品の大量供給方式・必然的に顧客は少数エリート階層から庶民大衆をターゲットにして成功したと評価すべきです。
いわゆる大衆・マスがターゲットですから、庶民消費の底上げ政策・・欧州の市民革命・産業革命は教養と財産のある有産階層の社会実現でしたが、米国の生産方式はこれといった技能訓練を受けない(ベルトコンベアーに適応できる程度の訓練で足り、徒弟修行不要)庶民が生産の主役になり、消費主役になる社会を実現しました。
結果的に庶民の購買力向上が命ですから、庶民の味方・大衆民主主義が基本価値観となっていきます。
米国の圧倒的優位性は、地元資源利用とこれを大量消費コンセプト(特殊技能不要)にあったのです。
ところが戦後エネルギー源が石炭から石油に変わり、鉄は国家なりと言われた・・各種工業品の素材も戦前は金属製が中心であったものが石油由来のプラスチック製に入れ替わって来ると商品単価がもっとさがると大量消費の米国価値観の最大化のように見えましたが、一方で資源に頼る米国産業の優位性が相本から崩れる始まりとなります。
中東から輸入する欧州と米国自国内資源保有との資源格差が低下すると競争力は能力差中心になっていったので、欧州への輸出〜現地生産シフトがジリ貧になっていった原因です。
車で言えば大量生産品では、欧米それぞれ地産地消に落ち着き、現地生生産になじまない(技術文化差を背景にする)イタリアの手作りに近い高級車の輸出程度に落ち着くイメージです。
ハム、ソーセージ、チーズ類も同じでしょう。
いつもラーメンの例を出しますが、札幌ラーメンがトウモロコシを乗せて大ヒットしましたが、この程度のことは一定期間経過で同業者が真似するようになれば、結局は基礎になるスープの味等の元々の競争力に戻っていきます。
米欧関係だけでなく鉄鉱石や原油等各種資源が国際価格で入手できるようになると自国資源の有無は輸送経費の差だけになるので、その差を能力差でカバーできれば良いとなれば、日本が飛躍できるようになった原因です。
資源制約度が下がり輸送コストや税関コスト等移動コストが下がれば、これに反比例して能力差(歩留まり率の差や環境技術差など)の比重が上がります。
自国資源かどうかの差の多くが輸送経費差になると陸路と海路の違いは格段の差になります。
陸路300キロ輸送より海路1000キロの方が割安・中国や米国内陸から上海やシカゴに運ぶより(高速道路発達前の悪路の場合・高速道路整備が進むと差が縮みます)港湾工業地帯(我が国戦後コンビナートは全て港湾立地です)を作って他国資源でも海路1000キロの方がコストで合理的)ですので、東南アジア中南米を含めて資源産出地や北米消費市場どちらからも遠い日本が互角に近い戦いができるようになった原因です。
日本が欧州市場進出がうまくいかないのは、一つには輸送コスト差が大きいからです。
日米間は地球の真裏で距離は最大ですが、太平洋一直線で米国西海岸到着に対して欧州への航路は、東南アジア諸国の海峡を巡りながら、インド大陸を大回りしてスエズ運河〜地中海を経るなど経路が複雑な分、多くの国と関係しながら移動する手間ヒマ、コストが膨大です。
日本からハワイへ飛行機で移動する場合とインドシアン半島を横切ってタイへ行く場合と比較すれば他国上空を通過する必要がないだけでも、航空会社のコストパフォーマンスの良さが想像できます。
近年で言えば、ソマリア沖海賊問題が収束してきたかと思うとイラン緊張での安全性問題など絶え間ないリスク管理必要ですが、ホルムズ海峡の場合公海部分がホンの少ししかないのでイラン領海内で自衛艦自衛行動が困難です。
少しでも侵犯すれば(これは水掛け論が多いので)大事件になりますので、日本はイエメン側の紅海方面の公海だけの警備活動にしか関与しない発表があったばかりです。
パックスアメリカーナのお膝元である太平洋横断にはこういうリスクがありません。
日本からハワイへ飛行機で移動する場合とインドシナ半島を横切ってタイへ行く場合と比較すれば他国上空を通過する必要がないだけでも、航空会社のコストパフォーマンスの良さが想像できます。
近年で言えば、ソマリア沖海賊問題が収束してきたかと思うとイラン緊張での安全性問題など絶え間ないリスク管理必要ですが、ホルムズ海峡の場合公海部分がホンの少ししかないのでイラン領海内で自衛艦自衛行動が困難です。
少しでも侵犯すれば(これは水掛け論が多いので)大事件になりますので、日本はイエメン側の紅海方面の公海だけの警備活動にしか関与しない発表があったばかりです。
https://www.sankei.com/column/news/191020/clm1910200002-n1.html

【主張】自衛隊の中東派遣 「ホルムズ」忌避は疑問だ
2019.10.20 05:00コラム

情報収集体制の強化が派遣の目的で、直ちに日本船舶の護衛を行うことは想定していない。活動海域は、オマーン湾▽アラビア海北部の公海▽イエメン沖のバベルマンデブ海峡東方の公海-で、ホルムズ海峡を外している。河野太郎防衛相は「現時点ではそういうふうに検討していく」と語った。

日本が中国による南沙諸島海域支配に神経をとがらせる所以です。

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