自己実現と社会1

近年の中国躍進の根源は技術窃取によるだけではなく、リスクを恐れないこと・・思想規制が強ければ経済の進展は望めないというのが一般論ですが、実態は思想規制は厳しいものの共産党支配の否定さえなければ、道義に反するかどうかは問わない・・経済活動は自由自在・・環境破壊であれ知財窃取であれ、やりたい放題やれば良い・とも角先進国に追いつきたいだけです。
新幹線で言えば安全対策など二の次で、まず走らせて「脱線すればその時のこと」という姿勢が顕著です。
商売人は儲けのためには下水利用の油とかミルクを作るのもためらいません。
公害なども諸外国からの苦情によって無視できなくなるまで、なんの心配もしないという姿勢でした。
世界中でリスクをとる果敢なビジネスが広がっているときに・・中国のような無茶苦茶も困りますが・・世界中でまず普及するのを待って最後に参入すれば、世界一安全かもしれませんが、世界で安全確認できるまで実験すらできないのでは国際競争に参加できない結果、世界の最後進国に下がっていくしかありません。
社会党は「〇〇があればどうする」式の反対や役人に対すする厳しい追及で何をするにも複雑な仕組みを構築した成功体験に酔って?なんでも反対政党として信用を落としましたが、反日国としては国内反日利用勢力は、鉄砲玉・捨て駒でしかないので痛くもかゆくもないでしょう。
社会党は信用がなくなれば解散させて新党を創り、洗脳済みの政治家を新党に入れさせればいいのですから簡単です。
政治家は個人として政治責任をとるべきであって、社会党から新党に入り直せば過去の政治行為の責任がなくなる仕組みがおかしいのです。
この仕組みを真似しているのが各種詐欺的集団で、金融商品等の違法行為で許可取り消しになるとそのメンバーを含めて別の組織を立ちあげる(代表にはなりませんが)繰り返しが続いています。
国際競争から日本をいかに遅れさせ、脱落させるかの、反日運動目的では新たな挑戦を一切できない仕組みづくりでは大成功してきたように見えます。
表現の自由はその集団をよりよくする効果があるから重要なのだと自分流に理解してきましたが、今の憲法論では、言いたいことを言うのはそれ自体が「自己実現」であるから、「所属集団ために害があるかどうかは関係がない」というようになっているらしいことを、Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」のシリーズで紹介したことがあります。
私はもともと勉強不足でそういう意見が通説だったか?元は違ったが、この数十年でいつの間にか変わったかすら知らないのですが、ネット検索すると、芦部信喜憲法以来これを書かないと司法試験に合格できない時代が続いていると解説されています。
私はそのひと世代前の宮澤憲法時代のテキストで合格してきたので知らないわけです。
実務ではこう言う哲学的論争は実務にあまり関係ないのでその後の学説変化フォロー・勉強視野に入っていませんでしたので、司法試験勉強時代になかった説を私が知らなかったのは当然ですが、言いたいことをいうのは自己実現行為であって、人間の侵すべからざる基本的人権・人権の中でも優越的人権というらしいですが・・。
ただ、この説も冷戦時代の産物であって、今では批判が出ていると言う解説が以下に出ています。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
なぜ表現の自由は優越的地位を有し、他の人権よりも手厚く保護されなければならないのか、ということを説明する方法はいろいろあるが、芦部信喜が定式化したものが「自己実現」と「自己統治」の価値である。受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。
人権の中でそもそも優劣が付けられるのだろうか、アメリカ合衆国憲法ならばともかく、日本国憲法の条文から優劣が読み取れるだろうかとか、統治にまたがる人権はなぜ価値が高いのか、とかいった根本問題を立ててみると、この理論は自明ではない。
「人間の活動の中で精神活動を重視して経済活動、営利活動を軽視したのは、これを提唱したインテリの観念的立場を反映したもので、普遍的には成り立たない」とかいった批判が出されている。

優越的地位の理論が日本で通説になったのにはそれなりの歴史的事情(ここで詳しくは述べられないが冷戦とその影響を受けた日本の政治状況)があり、合理性があったと考えるが、これにともなう負の面があったことも否定できないと思う。

冒頭に書いたように中国では、逆に企業活動の創意工夫にあまり注文をつけず、悪しき結果が出てから規制処罰する方向で大躍進をとげている時代ですが、芦部憲法ではこの逆で政治反対運動は侵すべからざる権利であっても企業活動の自由を縛るのはいくら縛っても良いかのような差別論理でした。
要は企業活動を縛る方向性が、冷戦時代に中ソに有利な方向へはびこって行ったように見えます。
以下紹介するように芦部憲法著作が重版を重ねるようになった時期と、日本の企業活動が元気を失い停滞が始まった時期と重なるのには驚きます。
私が司法試験勉強したのは60年代末〜70年代初頭ですが、芦部信喜に関するウイキペデイアによれば経歴代表著作は以下の通りで、約20年以上経ってからのようです。

ハーヴァード・ロー・スクール留学を経て、1963年東京大学法学部教授、

『憲法学Ⅰ~Ⅲ』(有斐閣、1992年~1998年)
『憲法』(岩波書店、初版1993年

芦部説を勉強したこともない素人の私にはあまり批判する権利がありませんが、素人風に誤解すると自己実現こそが最重要で「民族を売る目的かどうかは善悪の基準にならない」という方向へ親和性を持つ学説のようです。

日本独立反対運動 1

高速道路反対運動の頃になると私が勧誘に乗らないのがわかったらしく、あっさりした勧誘程度しか来なくなったので、スローガン程度しか覚えていませんが、地元団地の反対運動(「クルマの出入りが多くなると団地住民が危険だ」というスローガンだったように思いますが・・マンション等の工事反対の戦術としてトラックの出入り→子供の通学が心配というのが定番・通学時間中の資材搬入をしない約束などが普通になりました。
この種の運動の成果か?路地の水道/ガス工事あるいは広い道路での重機使用などでも道路左右に監視員がついて歩行者の誘導をしている・誘導などしてくれなくとも歩行者用の迂回路がきちんとできているのですが・・外国の人が見れば不思議な光景になっています。)が成功したらしく、モータリゼーションが一般化した後に、元は猛反対していた団地住民?自治会?がジャンクションが遠くて不便だということで設置運動をしているとのニュースを見たことがあったので、その前のジャンクソン設置反対運動が成功していたのだとわかりました。
その頃からビルを立てるにも周辺の同意がいる、工場等で新たな設備導入するには公害防止手順を踏み周辺の同意などをつくす必要など、各種実験・・今の自動運転技術獲得競争でいえば、日本では公道実験実施が困難なので、アメリカに行って実験しなければならないなど・・実験すらまともにできないので、国際開発競争に遅れをとる懸念が知られています。企業が最新設備導入にあたり、経済合理性があればまず導入し弊害が起きればその時に考えれば良いという社会と比較すれば、何か新しいことをするには大変な手間や時間がかかりいつも実行が遅くなります。
安全は先に確保した方がいいといえばその通りですが、物事は程度問題・神ならぬ身で100%安全の保証など前もって確保することは不可能ですから(国会議論報道によると)反対の為の反対の傾向が強すぎて、あまりにも微に入り細に入りすぎているのではないかの疑問を書いています。
言論の自由がなく、発表前に許可がいる社会同様に、日本では何かしようとすると、ものすごくコストかかる社会になっています。
キャッシュレス化その他最新技術導入が周辺国よりも日本で進まないのは、何かをやろうとすれば会議では「〇〇が起きると誰が責任を取るのか?いう議論が普通で)なんでも反対論が立ちはだかる仕組みができ上がっています。
選挙で言えば、ネット利用投票ができれば膨大な投開票コストも要らず投票者も手間暇かかりません。
この議論を会議ですると本人確認できない・なりすましがあったらどうする?と反対論が出るのですが、現在だって、公職選挙で言えば投票所に来た人の確認は投票通知書を持って来たかどうかを基本として確認しているにすぎません。
毎年一定時期に郵便配達される国保のカードを狙ったヤクザがマンション郵便受けから取り出して、その人の名義の銀行口座を作りあちこちで多数の携帯購入して、期間限定海外への電話使い放題で5〜6万円でイランや東南アジア人などに売りだしてぼろ儲けしていた事件を担当したことがあります。
名義を使われたのは同じ組員で刑務所服役中でしたので、利用明細が郵便受けに入ってもどうってことのない状態で(もともと残高がゼロ近いので)口座引き落し不能になるまで使えるという触れ込みでした。
このように郵便を受けとった人というだけでは、 本人かどうか不明ですし、私の関与している日弁連選挙で言えば、投票時間にどっと並ばれると受付の人は投票権のない人(登録したばかりでまだ投票権のない人や郵便投票申し込み者などなど・同じ人が2回以上)が投票することのないようにするのが主たる業務のような関心で、名簿チェックに忙しくて、投票に来た人の顔をマジマジみている暇がありません。
ちなみに千葉県弁護士会では800人以上の会員ですので、もともと顔をみんな知っているわけではありません。
多くの人は生命より大切な?お金を引き落とし承諾などパスワードその他の貴重な情報を利便性のためにいつもネット上で開示しています。
相手が限定されているとはいえ、それの漏洩リスクを冒しながら支払いの都度開示しているし銀行や業者も盗まれた情報のリスクを負担しながらネット決済等に応じている・・何事もリスクのない行為はあり得ません。
※追記
以下のニュースが流れていましたので、追記です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190322-00000056-mai-bus_all

フェイスブック、12年からパスワード閲覧可能 ずさんな管理態勢相次ぎ発覚
3/22(金) 18:55配信
ワシントン中井正裕】インターネット交流サイト(SNS)最大手の米フェイスブックは21日、利用者数億人分のパスワードが暗号処理されず、同社社員が閲覧できる状態で社内システムに保管されていたと発表した。

パスワード制度やキャッシュカードの普及には末端機器で解読出来なければ、(暗号化してない限り)機能しないのですが、暗号化して本部機能に送信して本部機能がそれを解読して即時に○X返信する仕組みになっているので銀行支店員やレストラン店員がパスワードを個人的に入手できなくなっているのですが、本部でのパスワード管理が、暗号化されないまま放置されていたとは驚きです。
このように多くの人は、なんとなく自分のパスワード開示には不安であっても、まさかフェイスブックのようなことはないだろうと一応根拠なく信用していたのです。
車でも事故ゼロはあり得ないのと同様に何事もリスクと便益の兼ね合いですが、メデイアはなんでも新しい挑戦に対してこういうことが起きたら誰が責任を取る式の反対論応援というか報道し過ぎでしょう。
新規性を取るか安全性を取るかは国民消費者の選択に委ねるべきでしょう。
リスクとの兼ね合いで何をやるかを決めるべきなのに、ワクチン接種であれなんであれ、リスクがあったら誰が責任を取るのだという?反対論がハバを効かせすぎています。
これでは何事も前に進みにくい社会になるのは当然です。

技術修得の成果(発明対価)

日本人にとっては、(営業マンの技術もあれば商売上のテクニックや上に立つ場合の心構えを含めた)技術を身につけるのは自分自身の向上のためという意識が基本ですから、働くときには残業時間など気にしないで骨身を惜しまずに一生懸命働きます。
これが働き過ぎになり易い原因にもなってます。
自分のために技術修得する意識で頑張ると、技術(精神)が身に付くと今度は自分の利益のためにどう使おうと勝手とならないで、技術(精神)を身につけさせてくれた企業や先輩への恩義の方を重視する体質です。
日本人は働くときには貴重な経験が自分のためになる・・有り難いと言う意識で陰ひなたなく働きますし、その技術を活かすときになると、会社や先輩の御陰で身に付いたので会社に恩返ししたいと言う(日本的に言えば心がけの良い)意識が濃厚です。
どんなことでも、尻尾を振って大喜びする犬みたいな精神で生きています。
ノーベル賞を受賞した田中さんは鼻を高くして会社を出ようとは考えていないように思われますし、(これが日本人の基礎意識ですから)大多数の企業発明について関係者が相応の報奨金支給してくれて名誉さえ与えてくれれば、それ以上に個人利益を声高に主張することはありません。
こうした精神土壌が終身雇用制度を支えているし、優秀な外部人材の入り難さをもたらしてるのでマイナスだと主張する意見も多くあります。
外国人も共同体の一員になる・・骨を埋める覚悟で参加して来るならば、日本企業も拒まないのですから、要は技術が身に付けば転職してしまう気持ちかどうかの気持ちを試しているだけではないでしょうか?
地震があるとみんなで頑張るよりは直ぐに中国に帰ってしまう中国人が多いのを見て、外国人ってそんなもだとがっかりした人が多かったと思います。
明治の御雇外国人制度も、一時のお雇い(助っ人)と言う精神を明白に示しています。
20年ほど前に三重県だったと思いますが、子供を預かってくれていたお友達の母親を訴えて世間を騒がせたことがありました。
具体的事案にもよるので実態を知らない私が責任あるコメントを出来ませんが・・実態によっては法的主張したければ主張して構わないのですが・・一般的には当事者間では法的権利までは行使しないという暗黙の約束があるように思います。
もめ事は全て法的問題と言えば言えますが、親しい間柄では法的権利行使まではしない・・気にいらなければ今後つき合わない程度が、限度と心得ている人が多いのではないでしょうか?
子供が亡くなった事件だったか?我慢の限度を超えていると思って裁判になったのでしょうが・・・。
その裁判には勝ったかも知れませんが、周りでは引いてしまってマトモな付き合い関係が難しくなっているのではないでしょうか?
「裁判を受ける権利があるので、どんなことでも争いがあれば裁判したければすれば良いのであって、裁判したことを批判するのはおかしい」と批判するのは御尤もというしかありませんが、(ココは弁護士としてではなく、日本人の同胞意識の強さを書いています)それと仲間意識の亀裂とは別問題です。
青色発光ダイオードの発明対価問題も裁判になりましたが、金額が大きいので、組織内での一体感維持の限度を超えたと思って裁判したのでしょうが、結果は8億あまりの和解で終わりました。
日本人としてみると、会社から一定の報奨金をもらって(少なくとも一生ある程度裕福な生活が出来る程度はくれるでしょうから)裁判までしないで、会社の功労者として定年まであるいは定年後も大事にされて顕彰されて全うするのと、8億のために世話になった、あるいは長年一緒に働いた同僚・先輩と訣別する選択が正しかったのか難しい判断です。
たった8億のために大恩のある会社相手に裁判するの?と言う人もいるでしょうし、8億は大金だから故郷に帰れなくとも良いと言う人もいるでしょう。
結果的に彼は、カリフォルニアの大学へ行きっぱなしのようです。
個人的に帰国するのは勝手ですが、日本では受入れる大手企業や研究機関・・がないのかな?せっかくの才能を活かす場がなくなってしまったようにみえます。
「正当な権利主張すれば社会から村八分になるのはおかしい」という法律家的意見も勿論正当ですが、ココでは共同体利益優先意識が根強いことを書いています。
発明発見の才能発揮は、大方一回きりですから次はあまり期待出来ませんが、日本にいれば相応の名誉あるいろんな地位が次々と用意されていたでしょう。
ノーベル賞受賞者も同じで、日本の一体感意識・同胞に留まっていた人には相応の名誉ある地位が用意されていますが、アメリカ国籍を取ってしまった人には・・・?となっているのではないでしょうか?
話題がドンドンそれて行きますが、行動・価値基準が、目先の自己利益中心の中韓両国人に信義を期待するのは無理がある点を、この後続いて書いて行くことにして、一旦中国の外資流入減と留学熱低下の問題に次から戻ります。

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