自己実現と社会関係4(自己実現説批判)

以上は私がちょっとネットで漁ってわかった程度の思考レベルで自己実現論批判を書いているのはおこがましい次第ですが、(私が知らないだけで芦部教授がどういう理屈付けで心理学の思考を法学に架橋するのに成功しているのかすら(まだ文献を漁っていないので)実は不明です。
素人の無責任おしゃべりとしてお読みくだされば良いという程度です。
芦部説が一世を風靡して以降(現在の60歳代以降の中堅?若手)法律学徒では「自己実現」という(意味不明の)マジック的用語が(裸の王様のごとく)牢固として根付いてしまったように見えます。
「三つ子の魂百まで」と言われています。
司法試験と学者の関係では、この5〜60年では司法試験も合格できないレベルで内部昇格で学者になれるのか?という我々部外者常識が?行き渡り、まず司法試験合格が学者への登竜門になっているとすれば、司法試験受験勉強で染み付いた思考方式の影響力は強力です。
昨日紹介した部分を再引用をしますが、

「受験生の中には表現の自由に関する問題が出題されたときには、何が何でも答案のどこかにこれを書かなければならない、これを書かないと減点される、という強迫観念さえ持っている人がいる。」

表現の自由関連の問題が出た場合、芦部説に言及しないとならないほどマニュアル化しているようです。
マニュアル化と言えば小泉政権の司法改革時に言われていた意見では、
司法試験受験予備校が大盛況時代になっていて、受験予備校では深く考えるのではなくあらゆる問題を定式化した教え方が中心・・丸暗記中心で何の疑問も持たずに効率よく勉強したものが合格する仕組みになっている弊害が大きなテーマになっていて、これが「プロセス重視の法科大学院」制度創設・・必須化に繋がった経緯があります。
当時の修習生に対する批判として「実際の事件等の起案をさせるとどこに正解文献があるかの質問が来る・・自分で考えろと言っても自分で考え抜く勉強をしたことがないようだ」という便乗的?苦情も寄せられていました。
(小泉内閣時代の司法改革では・私はその頃日弁連の司法問題対策委員〜司法修習委員をしていてその渦中にいました)
高邁な論文を理解するために行間を読み?試行錯誤して理解してきた愚直な世代と違い、予備校→定式の丸暗記時代を経てきた世代(現在の60歳前後以降の中堅若手)にとっては、疑問を抱く前にまず「理解」しようと努力した人が大多数になっていることになりそうです。
ただし、そういう批判をしょっちゅう聞いていましたが、私自身の感想としては、昔からある「今の若者は・・・」式の批判に似ているなあ!と感じていました。
今になるといわゆるデジタル思考向きで実務家向き勉強法でないか?・・皆が「ああでもないこうでもない」と考え込む学者になる必要がないので合理的という意見の方が多いのではないでしょうか?
中高校生が与えられた数学の公式や物理の原理に疑問を持たず(・・難しいことは数学・物理学者に任せて)数式を解くのと同じで良いのではないでしょうか?
私の受験勉強頃にはまだ芦部氏は学者の一人でしかなく、彼の学説を知らないと合格できないような権威でもなかったので、自己実現論が脳内に浸透していないので深く知らない弱点もありますが、(その分自分の知っている学説に固執したい利害がない)自由な発想で批判できるとも言えます。
ただし、学者になるほどの人材が意味不明のまま物分かり良く理解したつもり(定式を記憶していた程度)の人ばかりではないでしょうが、批判論が表面に出にくいのは学会が東大閥に牛耳られているからか?または秀才とは疑問を持たないで素直に教えを吸収する人の謂いであるとすれば、意外に怪しい能力・・頭の硬い人の集まりかも分かりません。
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」で自己実現論を紹介しましたが、そのシリーズで紹介した判例時報特集号(平成29年11月3日発行)では、自己実現理論は自明の学説であるかのような書き方でこれに対する批判論に触れていない特集でした。
どう特集号の冒頭を飾る毛利透氏論文は芦部氏に心酔しているような部分も有ります・同氏は現在京大教授ですが、東大卒→助手を経ているようです。
私はこの特集号で初めてこういう憲法論を知り、しかもいつの間にか主流になっているらしいのに衝撃を受けて昨年からこのコラムで紹介してきたのですが、以下に紹介する批判論もあるのに反論することもしないで「すでに決まったことだ」という思考停止状態のママなのでしょうか?
もしかして自己実現説の学者グループが危機感を元に結集した論文集かもしれません。
とはいえ今はネット公開時代ですので、東大系に干される(発言の場を失う)のを恐れる人ばかりではなく、批判説がネットに出るようになってきたようです。
表現=自己実現という理解は逆からの=が成り立つか?「逆は真ならず」の原理が成り立つから間違っていると23日紹介した記事に書いていましたのでその一部を引用します。
3月23日引用の続きです。
http://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.html

自己実現と自己統治
表現の自由=自己実現?
イコールを数学的な意味で必要十分条件だとするならば、両者は決してイコールではない。表現の自由が自己実現の1つであり、それに含まれるというのは正しい。つまり表現の自由⇒自己実現というのは正しいが、その逆の自己実現⇒表現の自由というのは正しくない。
「自己、自己と二つ同じ言葉が並んでいるので語呂はいい。そして覚えやすい。しかし、その真義はと聞かれると何とも曖昧模糊としてつかみどころがないのだ。」
(私・稲垣流に言えば、心理学用語を深く理解せずに法律学に借用した?からこう言うことになるのではないかと思います)
「自己実現と自己統治は表現の自由の根拠として万能の議論であるどころか部分的にしか成り立たない議論である。」

さすがに学者はいいことをズバリ書いています。
23日のコラムで夜中に奇声発したりピアノ練習や発声法の練習をするのは自己実現行為であっても、社会との関係性を考慮しなければならない筈・心理学と違って法律学は社会との調整視点が必須であると書きました。
自己実現理論に対する批判論は、これを論理的に説明するものでしょう。
自己実現と表現の自由を=で結んではいけないのです。
自己実現行為でも周囲に迷惑をかけないようにする必要や公共の福祉の制限があるし、法による禁止がなくとも社会的許容範囲を逸脱してはないけないという含意です。

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