不満社会1(リベラル?1)

あれほど激しく倒閣運動していたのに選挙が近づくと選挙はイヤだというのでは、駄々っ子みたいです。
これでは世論多数の勝ち馬に乗りたい・・民主主義を心底信じて運動参加していた末端活動家まで行かない、付和雷同型・勝ち馬に乗りたい不満分子?の多くが「これまで世論多数派と信じて参加してきた自分の街頭運動参加は何だったのか?」と疑問に思うのが普通の脳構造ではないでしょうか。
それにもかかわず、次のテーマ・「解散はけしからん」とすぐ方向変更できる人は、元々民主主義などどうでも良い人達・なんとなく日頃上手くいってない憂さ晴らしをしたい人たちが流行語に飛びついただけなのでしょうか?
「民主主義を守れ」などの主張は国民受けするための方便として、この指とまれ!とダシに使って来たイメージをうけます。
リベラルと言われると学校で習った意味・ありがたい政党のようですが、自分でリベラルな政党と主張しているだけですから、国民がどう受け止めているかによってリベラルの意味が変わっています。
「千葉で一番美味しい〇〇店」を名乗るお店が本当に1番美味しいかは別です。
お買い得と銘打っていても本当にお買い得かは別・・多分逆です。
アメリカではリベラリストとは、無責任政党・バラマキ要求のイメージになっているようです。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB-149355

デジタル大辞泉の解説
リベラル(liberal)
[形動]
1 政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。本来は個人の自由を重んじる思想全般の意だが、主に1980年代の米国レーガン政権以降は、保守主義の立場から、逆に個人の財産権などを軽視して福祉を過度に重視する考えとして、革新派を批判的にいう場合が多い。自由主義的。「リベラルな思想」

https://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130044-n1.html

2017.10.13 16:30
日本だけ特殊、「リベラル」の意味-本来の語義から外れ「憲法9条信奉」「空想的平和主義」か
リベラルという言葉が盛んに使われるようになったのは、衆院解散が目前に迫った先月下旬、民進の前原誠司代表が「安倍晋三政権に勝つため、野党勢力を結集させる」と、小池百合子東京都知事が代表を務める希望の党への合流を模索して以降のことだ。
小池氏は、憲法観の一致や集団的自衛権の限定的な行使を認める安全保障関連法への賛成を「踏み絵」として提示。受け入れを拒否した左派が「リベラル派」と呼ばれるようになり、枝野幸男氏(53)=埼玉5区=による「リベラル新党」立民の設立につながった。立民は主張が近い共産や社民と連携を深め、全国の249選挙区で候補者を一本化。これら3党がリベラル勢力と呼ばれている。
東西冷戦下、「長い平和」享受した日本ならではの事情
『広辞苑』によると、「リベラル」とは、「個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的」、『大辞泉』は「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま」とする。実際に使われている意味と語義が異なる背景には、「リベラル」が特殊な意味で語られることが多かった日本ならではの事情があるという。
安定した東西冷戦の下で、日本には「憲法9条を守っていれば平和が維持できる」「集団的自衛権を行使すれば徴兵制になる」という「空想的平和主義」が広がり、その主唱者をリベラルと呼ぶことが多かったという。

社会にうまく適応できずムシャクシャしている人・・何か口実があれば不満のはけ口にしたい・記者会見で注目を浴びられれば有頂天でしょうし、社会的地位のありそうな人が批判対象になれば、根拠の有無にかかわらず胸がすくような気がする・・極端にいえば暴れまくって「現状破壊したい」という潜在欲求いっぱいの人も一定数いるのでしょう。
比率的に言えば、政治や経済が如何にうまくいっても下位20%くらいの人はいつも世の中に対して何か鬱屈したものを持っていることになるのでしょうが、それをそのまま鬱憤ばらしをする人は稀です。
生き易いように、「成功者と自分とは違う」と達観して比較対象にしないなど(成功者から見ればどうってことのないささやかな喜びを大切にする)それぞれの「分」際に合わせて生きる知恵次第でしょう。
「自分」の分は「分」際を弁える生きていく知恵を意味するものでしょう。
他人と比較すればいつも誰でも(一流高校へ進学してもそこではまた競争が待っている)落ち込んでしまうしかないのですが、その気持ちを奮い立たせるには、乳幼児期の体験・能力差に関係なくたっぷりな愛情を注いでくれる母親の影響があるように思われますが、これは私の信仰にすぎないかもしれません。
日本では江戸時代から子供に惜しみない愛情を注ぐ浮世絵などが発達しているし、その前から色な絵草紙も子供向け物がたりがいっぱいあります。
古代の鳥獣戯画もその一種でしょう。
愛情たっぷりに育つ子供の比率の高さが社会の安定を支えているように思われます。
競争社会に投げ込まれた高校生などがムシャクシャする不満のはけ口として、車で走りまわるうちに危ないことを楽しむようになって危険行為として取り締まりを受けるようになって、いわゆる暴走族に成長し?集団化できないで孤立した青少年は校舎の腰板などを蹴飛ばしたり、シンナーに溺れるなどの発散型が3〜40年ほど前に表面化しました。
荒れる学校が普通に語られる時代でした。
それは経済の低迷とは関係のない現象・・高度成長期の急速な都市化・・集団就職等で都市に出てきた世代が文化適応に苦しみ・核家族化の進展等による子育て環境の急変に適応できない時代に最もよわい子供の養育にしわ寄せがいった結果だったのでしょうか?
この反省から地方出身者の都市生活応援や核家族化して手探りで子育てしてきた親世代を周辺で援助する体制が整備されましたが、その代わり共働きが普通になり母子関係も激変中です。
とも働きが普通の時代→母子接触時間短縮が子供の精神安定感にどういう影響が出るかについて今後の展開を待たねば今のところ不明ですが、今では「不満があっても乱暴なことまでしない」人が増えて新たな暴走族結成急減したことは確かです。
その影響かどうか不明ですが、暴走族上がり→暴力団周辺への流れ・・ヤクザ組織供給源減少になりました。
ヤクザの存在感低下に限らず、不満層を支持母体とする政党の支持率低下も同じ原因かもしれません。

エリートの決める政治と国民の決める政治 

いわゆる安保法は、自衛権を現実化するための法律か?
他国侵略目的の法案かは、安保関連法の歯止めの書き方の具体的条項次第であって、文字で書き切れない分は、(どんな法律でも全要件を書き切れないので具体化は政省令や通達〜ガイドライン、判例等で具体化していく仕組みです)法律成立後の日米交渉によってどこまで日本が協力するかによって決まっていくべきことです。
反対論者が反対するには、法案段階の「第何条の制限幅が広すぎて何処かの国を?を日本が侵略するための法律になる」だから「こういう表現にすべき」という具体的提案が必要です。
「わが党がこの条項に対する提案が否決されたことについて国民批判を求めたい」というのがまともな議論であるべきですが、内容紹介なしの「憲法違反」という抽象論ばかりで本気で納得している国民が何%いるか?です。
内容に触れないで「多くの憲法学者が反対している」とか憲法違反等(共謀罪法の時も近代法理違反という抽象論)の反対論を聞いていると、ともかく日本の自衛能力を少しでも弱めたい(共謀罪法は国内治安・・防衛能力の問題です)どこかの国の希望によって反対しているのかな?と想定してしまう人が多くなるのではないでしょうか?
「学者何名が反対している・弁護士何名が反対している」→「エリートの判断に任せろ!」式抽象的反対論は具体的内容を知った上で判断したい・・民度の高い我が国向きではありません。
いわゆる革新系は東大卒や弁護士や医師などエリートをかき集める傾向が強いことを、だいぶ前に紹介したことがあります。
例えば共産党のトップ志位氏は東大卒で、民主党政権獲得時のトップ鳩山氏も東大卒大学教授(または助教授)の経歴です。
旧社会党で有名な土井元党首は神戸大学だったかの教授でしたし、今の福島瑞穂氏も東大卒の弁護士・学習院女子学院だったかの教授経験者です。
立憲民主党首の枝野氏は東北大卒の弁護士です。
対する与党自民党の安倍総理は、成蹊大卒として学歴ですので、肩書き重視の野党からはバカ扱いされているようですが、その前は麻生氏で祖父の7光で入れたイメージの学習院大卒ですし、小泉氏は慶応卒で、福田康夫氏は早稲田卒でいずれも親の7光組の可能性があるなど、学歴重視でないことが明らかです。
党首に限らず一般的な候補者で見ても、いわゆるエリート系肩書の人が目立つのが革新系野党です。
革新系?(私の感想では超保守系集団ですが)庶民の味方を標榜しながら、自己の体質はエリート主義です。
自分はエリートだから良いが、貧乏人が可哀想でないか!という議論を好むようです。
庶民には難しいことがわかるはずがないのでトップ・エリート指導層の決めたことを中間組織に図式化・画一的理解を浸透させ彼らを前衛と名付け末端運動組織としてイデオロギーを拡散していく運動方式をいまでも踏襲しているイメージです。
彼らの運動方式は「トップの方針を図式化して教えてやるからそれを実行しろ!」という性質が濃厚で、いわゆる民主団体というイメージ主張とは真逆です。
芦部憲法論の図式理解で書きましたが、弁護士層は図式理解に得意な集団(かな?私は図式理解に不向きな不器用タイプですのでいわば少数派のよう)ですので、運動体として役立つグループでしょうが、公害でも高速道路反対等で説得に来た弁護士に物分かりの悪い疑問をぶつけると今までマトモに答えてくれた弁護士がいませんでした。
この数年の共謀罪反対や、集団自衛権反対論で言えば、具体的疑問をぶっつけると、図式的理解を前提にしていて「えっ図式を知らないのか」式のバカか?というような反応が普通です。
反対運動では国民大多数の反対を無視した法律であるという意味づけの報道やアジビラ等が目立ちました。
国民大多数の怒りをぶっつけるとか国民の平和願望無視とかいうものの、平和をどうやって守るかの意見がないのと同様に何をもって「大多数の声」を無視しているというのか不明のままでした。
総がかり運動とか1000人委員会とか威勢の良いスローガンばかり並ぶ反対運動でしたが、内容は今日どこそこで反対集会を開き何人集まった・・「平和をおもう熱い想いに感動した」とか、自分は昨日も東京まで行って集会に参加しているとか、いかに自分が運動熱心かの自慢的ネット投稿が目立ちました。
一見客観性のありそうな意見としては、メデイアの世論調査発表しかないのです。
内閣支持率激減の報道だったのに、その直後に行われた総選挙で与党が大勝したのは、事前の世論調査が国民意識とあっていなかったこと・どういう調査をしていたのか?メデイアの行う世論調査の正確性への疑問が高まったことになります。
解散・選挙機運が盛りあがると「世論が・・」国民の意思無視と先頭に立って主張していたように見えた朝日新聞が以下の主張を始めました。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014113000005.html

解散・総選挙は、集団的自衛権論議には迷惑千万だ
各党の公約・主張に強いピンぼけ感

強行採決批判などで知られている朝日が国民の民意を聞く千載一隅のチャンスと大喜びするのではなく、上記の通り一転して解散総選挙批判に矛先が向きました。
その後も朝日に限らずいろんなメデイアで「総選挙は国費の無駄遣い」を匂わすような記事・・「選挙にはこれだけのお金がかかる」などのキャンペインがされていた記憶です。
国民多数の反対無視の国会議決と宣伝していた以上、自社の世論調査が色のついた世論調査ではないならば、国民の信を直接聞くことになる総選挙をなぜ喜ばないのか不思議です。
総選挙反対キャンペインは、「憲法学者やエリートの意見があれば国民は従うべき」とか「メデイアの決めた方向が国民意思である」かのような思い上がりが、国民批判を受けて全否定されるのが怖かったのでしょうか?
朝日新聞ほどはっきり言わないまでも、多くの反対運動団体も判で押したように解散総選挙批判に転じたのは同じ気持ちだったのでしょう。
「国民の信を問え」という運動から、解散反対への変化を見ると、民主主義勢力?がこれまで「国民に信を問わないのはけしからん」とか強行採決で「民主主義は死んだ」などと批判してきたのは、なんだったのか疑問に思う人が多かったでしょう。
合理的に理解すれば「自分らの主張は国民に支持されていない」と自覚したうえの街頭デモ活動だったことになるし、・・内閣支持率低下報道して政権批判一色だったメデイアが、政権が国民の審判を仰ごうとして解散方向に動くと今度は「解散に大義がない」批判するのは、自己矛盾でしょう。

各種反対運動と説明責任

「近代法の法理違反や、平和憲法違反とか、軍靴の音が聞こえる」などの主張は言いっ放しで主張には具体性がないとこのコラムでは批判してきましたが、今回も「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」というお題目を唱えるだけで、どの行為が裁判官の独立にかかる問題なのかの主張すらありません。
ただし支援弁護士は具体的に書いているのに、昨日引用した発信者が勝手に省略したのかもしれませんが・・・。
「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」との主張ですが、国会の調査は岡口裁判官の担当事件に対する調査ではないし、特定思想そのものへの批判でもない・具体的表現行為が現職裁判官の表現行為として許容範囲かどうかの調査のよう(上記ネット記事しか知らないので断定不能)ですから、個別裁判への圧力や干渉という問題から遠い印象です。
具体的事実関係とどういう関係があるのか、司法権への「憲法で許容されない政治圧力」というには積極的な説明がないと論理に飛躍があると思う人が多数ではないでしょうか?
上記ネット記事の限りでは、特定訴訟や具体的思想に圧力をかける目的でないように見えますが、これを前提にした場合、こういう主張グループは、「裁判官に対するいかなる批判も許されない」「それが憲法解釈として正しい」という主張を前提にしているような印象を与えます。
それでは憲法でなぜ弾劾制度が設置されているかの説明がつきません。
憲法の想定している弾劾制度の乱用というには、どの点が乱用かの主張説明しないでいきなり「政治圧力」という広い概念を持ち出して、裁判官の独立に関連づけて、国会の訴追委員会への呼び出し行為の内容の何が不当かの議論抜きに「呼び出し」だけを批判する支援集団呼びかけを発表している・・昨日引用記事を見る限り、「もしかして憲法上弾劾制度があるのを知らない集団がこんなにいるのかな?」と疑う人がいてもおかしくありません。
一般人でもその立場によって、意見発表すれば、刑事民事等の違法行為にならないネット炎上程度でも、内容の広がりによってはテレビ番組などから降板させられたりしています。
企業で言えば、社長発言は言うに及ばず、幹部どころか営業マンでさえも企業を背負って働いている以上は、顧客や世間に向かって所属企業に関する発言がどこまで許容される範囲かの試練にいつも晒されています。
休暇中であろうと勤務時間中であろうと所属組織に関連する発言か否かによって、発言の重みが違います。
この数日酔っ払った厚労省現職課長が韓国空港であばれた上で「韓国大嫌い」という趣旨の発言をしたことが、ネットニュースに出ています。
休暇中の個人旅行であったかどうか不明ですが、休暇旅行であろうと日本国の現職官僚発言としてニュースになるし社会への影響の大きさも違ってくる・・影響の大きさに比例して責任も大きくなるべきでしょう。
現職高裁判事という要職にあるものが、個別事件へのコメントを発表すればその影響力が一般人のTwitter発信(トランプ氏のツイッターでも知られる通り)とは桁違いに大きいのは当然です。
裁判官や官僚にも自己実現権があるという一般論で解決すべき問題でなく、同僚や友人間の個人的会話が録音されたものか?意図的な対外発表か等の具体的事実次第での責任を論じるべきは明らかです。
そもそも憲法で設けられた弾劾制度で弾劾事由の要件(特定違法行為限定など制限列挙)を厳しく定めていない意味からすれば、刑事犯罪や不法行為確定のような機械的事例しか対応できない制度設計とは到底思えません。
裁判官の言動がどの程度まで許容されるべきかの幅を決めるには、「国民の代表たる国会で良識に従って決めるべき」というのが憲法の精神でしょう。

憲法
第六十四条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
○2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
第七十八条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
昭和二十二年法律第百三十七号
裁判官弾劾法
第二条(弾劾による罷免の事由) 弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。
一 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
二 その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。

岡口判事支援弁護士らの主張は、表現の自由絶対論(刑事その他法令違反を除いた)・・・「何を言おうと憲法上の権利だ」から「自己実現を否定すべきでない」と言う意見を下敷きにしているかどうか不明ですが、表現の自由=自己実現論が現在の憲法学の通説であるとすれば、これを十分知っているはずの通説を正面から主張できないのは、国民の支持を得られない変な通説?であることを知っているからでしょうか。
何かあるとすぐに憲法違反に結びつけて主張する人たちや、憲法学者は、国民意識から遊離しいると言われる所以です。
遊離すればするほど象牙の塔?素人にはわからないという問答無用式の憲法学界が支配していくようになり、うっかり集団自衛権合憲を主張すると学界で孤立し、まともな発表の場を与えられないし、活動がしにくくなる・昔有名になった「白い巨塔」同様に・全国に張りぐらされた大学教授の推薦ステムの網から外される仕組みになっている印象です。
自己実現論紹介のために判例時報増刊号を紹介中ですが、その冒頭の論文を書いた毛利透氏のウイキペディアでみると以下の通りです。

東京大学では樋口陽一の指導を受ける。筑波大学時代には、ドイツのフランクフルト大学に留学し、インゲボルク・マウス教授に師事。
京都大学の佐藤幸治教授の定年退官に伴い、佐藤の強い推薦で京都大学に移った。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/120100058/050500004/

2016年5月17日
昨年、安保法案に多くの憲法学者が「違憲」の声を上げた。だが極めて少数だが、「合憲」と発言した者もいる。そのあと彼の身に何が起きたか。その主張についてじっくり聞いて見た。憲法学者の姿、2回目は九州の新進気鋭の学者を紹介する。

大学に「あんな奴を雇っていていいのか」と電話も掛かってきた。事務局は無視してくれた。
同業者にフェイスブックで「化け物」と書かれ、テレビ番組で「ネッシーを信じている人」と揶揄された。
「ふだん少数者の人権を守れって言っている人が、矛盾していないんですかねえ」と、九州大学法学部准教授の井上武史は苦笑する。

 

自己実現と社会関係6(岡口判事問題1)

素人の思いつきですが、自己実現という表現自体からその本籍は心理学あるいは精神医学療法?的には有用な概念のような印象を受けますが、対外発表は社会に影響することですから、自己実現行為という定義(内心動機)さえ付ければ放置して良いものではありません。
自己実現は表現行為に入るとは言え、対外関係の生じる表現行為では社会との関係を抜きに評価出来ませんし、ことが政治分野になると所属社会との折り合いが必要です。
社会との関係を論じる憲法・法の解釈と心理学とは違った側面からの考察が必要ではないでしょうか?
「自己実現」を称揚する学者や弁護士(私が心理学の精髄を理解した上での主張ではありませんが・・)らが「語感」だけの理解?で表現行為=自己実現と表層理解(飛びつき?)し、表現行為を優越的人権論にすり替えていた疑いがないのでしょうか。
芦部氏が米国留学中(1960年台?)に米国で流行になっていた人間性心理学の理解を日本の憲法解釈論に合成し、「自己実現・自己統治」と言う語呂の良さで(学会で深い議論経ずに?)一世を風靡しただけだった可能性(素人憶測ですが・・)があります。
心理学からの借用議論である自己実現=最高の人権と位置付けられると、どんなことを表現しよう(刑事民事の違法行為でないかぎり)と内容審査は許されない?・・内容如何によらずに「自己実現行為」であれば、批判すらも許されないようなイメージを広げます。
なんとなく精神医学で言われる「赤ちゃんの万能感」を大人になるまで引きずっているグループの好きそうなイメージです。
岡口裁判官の場外コメント発表が「矩を超えているか」否かは事件全体が具体的にわかりませんので、許容範囲か否かの○Xを安易に言えませんが、自己実現=表現の自由があるという一般論で「何を言っても良い」とイメージづけて主張するのは個人内面解析で完結する?心理学系と社会との折り合いを論じるべき法学系の違いを弁えない議論ではないでしょうか?
「表現して良い限度か否かの国会審査自体を許さない」イメージ主張が岡口判事のネットコメント擁護論として流布しているように見えます。
憲法論で批判論を封じ込めようとする・・自己実現行為は憲法で保障されているという論法で入り口でシャットアウトするではなく、(心理的には自己実現でも)自己責任で対外表現された以上、(過失漏洩か意図的発表かはどうかも重要指標でしょう→酒飲み話が録音されたばあいと恋に発表した場合の違いなどありますが)コメント内容の是非を誰もが遠慮なく議論できるようにすべきではないでしょうか?
岡口判事問題については以下のようです。
https://www.bengo4.com/c_23/n_9275/

岡口裁判官に国会の訴追委が出頭要請、今後どうなる? 過去には裁判官9人が「訴追」
国会の裁判官訴追委員会は、2月13日の委員会で、東京高裁の岡口基一裁判官を呼び出して審理することを決めた。岡口氏本人が、3月4日に訴追委から呼び出しを受けたことを明かしている。岡口氏は今後どうなるのだろうか。
岡口氏が自身のブログに掲載した内容によると、訴追委は今回、戒告処分の対象となった犬の所有権をめぐるツイッターへの投稿に加え、女子高生が殺害された事件をめぐる投稿についても調べる意向。
今回、岡口裁判官に対しては、最高裁が全員一致で戒告の結論を出している。最高裁の処分と訴追・弾劾の関係について、訴追委の事務局は「裁判所の処分と、訴追委員会の訴追の動きは、ともに独立しているもので、お互い影響を受けないし、規定もない」としており、弾劾裁判所事務局も同様の見解を示している。

https://www.bengo4.com/c_23/n_9298/

岡口氏の出頭要請「裁判官の表現の自由に重大な脅威」 弁護士有志が賛同者募る
2月25日22時半時点で、呼びかけ人は64人、賛同者は257人呼びかけの中心となっている島田弁護士や、アピールの賛同を求めるホームページによると
・・・裁判官の表現の自由への制約については、必要最小限の制約が許されるにすぎないとの見解を示した上で、訴追前の調査について「(岡口裁判官の)呼出を決定したこと自体、裁判官の表現の自由に重大な脅威を与えるものと危惧せざるをえない」と、問題視している。
島田弁護士は、「今回の問題では表現の自由が軽く見られている」と指摘。訴追請求があっても、出頭要請のないまま不訴追になるケースが多いことを念頭に、「出頭要請せずに不訴追にすべき事案と考える」「呼び出しまでするのは、政治的圧力を裁判官にかけることで、裁判官の独立や三権分立にかかる問題」としてる。

岡口判事支援弁護士らの
「呼び出しまでするのは、政治的圧力を裁判官にかけることで、」
と言う主張は法律家の文書としてはおかしな主張です。
「政治的圧力」とは何か?ですが、国会での野党の質問も選挙も当事者にとっては政治圧力そのものでしょうから、憲法を基準に色分けするならば、憲法の予定する政治圧力と許容しない政治圧力がありそうです。
アウトローの主張ならいざ知らず、弁護士の肩書で政治問題視している以上は憲法が想定している圧力を問題にする余地がありません。
その圧力の及ぼす弊害が「裁判官の独立や三権分立にかかる問題」というからには「憲法が(許容しない)違反」の「政治圧力」だと主張していると理解すべきでしょう。
憲法によって設置されている弾劾裁判手続き上の「呼び出し行為」が憲法違反の政治圧力というとすれば、よほどの事情説明がないと主張自体矛盾していませんか?
論理を一貫させるには、弾劾制度は憲法上の制度であることは争いがないが、その手続きのための呼び出し行為が、憲法違反の政治圧力というためには「呼び出し行為」が憲法違反というのか、手続きがあること自体違反でないが、今回の呼び出しは乱用(すなわち違法)だというのでしょうか?
しかし弾劾裁判をするには呼び出し行為が必須ですから、憲法は「呼びだし行為」を憲法が許容していることが明らかです。
民主国家においては、不利益処分を受ける対象者にはあらかじめ告知し、これに対する弁明チャンスを与える手続きが必須であることは周知の通りであって、この原理に則って弁明のチャンスを与えることが違法評価を受けるのは、よほどの例外事情があってこそ成り立つ主張です。
この具体的事情を主張しないであたかも弾劾の先行手続き開始自体を違憲と言わんかのような主張態度はおかしくないでしょうか?

自己実現と社会の関係5(判例時報増刊号)

「逆は必ずしも真ならず」という解説付きでなく、自己実現は崇高なもので最高に尊重されるべき人権という強調だけしている場合、どんなことを表現しよう(刑事民事の違法行為でないかぎり)とも内容審査は許されない?・・(内容如何によらずに「自己実現行為」であれば内容について何らの批判すらも許されないような誤ったイメージを広げる可能性が高くなります。
文化革命当時「造反有理」というスローガンが流行りましたが、以後自己実現であれば、どのような政治運動も許されるかのように振る舞う人が多くなっているように見えます。
精神医学で言うところの「赤ちゃんの万能感」状態が大人に引き継がれているようにも見えます。
私自身個人的には自己実現論・・心理学としてのマズロー理論はそれ自体には(人の内面心理構造としては)直感で共感するところ大(人は死ぬ瞬間まで自己実現に励む存在)ですが、それとは別に芦部教授が私の気にする社会関係論として無理がないかの批判に対してどういう反論をしてきたかも知りません。
また、心理学側面だけで見れば米国と違った国民性・国民レベルを前提にすると日本社会でこそ自己実現に努力する人が多そうで・イチローのようにあくまで求道者精神の発露・・・いつも真面目に自己実現にはげむ日本民族向けには妥当する理論ではないかと思います。
マズローの理論は米国社会をモデルにしているので、日本その他の社会に(日本の場合安全欲求度が高いという違いがあるので米国図式は)妥当しないという批判が強いようです。
私の理解では米国の民度では、求道精神的・・自己実現に邁進する人が逆に少ないので国民支持を得られなかったように思いますが、ここでは横道に逸れ過ぎるのでこれ以上深入りしません。
心理学用語としての自己実現論と憲法理論との関係に戻ります。
自己実現に価値を置く国民性だというかは別として、憲法学者が憲法の基本概念に心理学用語を取り入れるには、心理学→個人内面変化や生きがい・やる気を出させる等の心理側面概念と社会関係の規制のあり方・法概念との架橋をもっと素人にもスッキリ分かるように提示すべきでないかの疑問です。
普通の法学勉強者が理解できるように説明できない概念が広まると、図式的理解で満足している人が増えて行きます。
そうなると末端裾野(これが最大多数です)では本来の意味を外れた外延での利用が増えて誤解を招くリスクが起きてきます。
昨日紹介したように「逆は真ならず」の批判が起きるのは中核利用ではなく「外延」を目一杯広げて利用する法学関係者が多くなったからではないでしょうか。
芦部教授が憲法で保障される表現の自由と自己実現をイコールとして主張していたかを知らないので、(原典に当たっていないので)こういう疑問を書くのですが、芦部説の図式化による誤解が広がっているだけかの疑問で書いています。
ただし、昨日紹介したように学者が批判する以上は芦部説の内容と境界をきっちり研究した上での批判というべきでしょうが。
自己実現説を他の学者が「イコールではない」と批判している以上は、芦部説あるいは正当継承理論では、「自己実現=憲法で保障される表現の自由」と主張をしているとみるべきでしょうか?
Jul 12, 2018「表現の自由(自己実現・自己統治)とは2」を今見直してみると、同署13pには、「第4内容に基づく規制原則禁止に向けて」という節があります。
内容まで入る暇がありませんが、表現行為の内容チェックは許されないという主張のようです。
私も規制が必要という意見ではありませんが、政治運動する以上は政治責任をとるべき・批判対象になるべきという意見で書いていますので、結論自体に反対しているのではありません。
毛利氏論文は規制反対というだけで政治責任の否定を含まないとしても、「内容の是非を議論すべきでない」→無答責論的イメージ増殖に結びつきやすくはなっているでしょう。
私はこの臨時増刊号で表現の自由=自己実現論がいつの間にか主流になっているらしいのに気が付いて衝撃を受けてこのコラムで紹介してきたのですが、上記自己実現論に対する批判論もあるのにこれに反論もしない(ざっと見たので読み損ねているかもしれませんが・・)論文集です。
「すでに決まったことだ」という思考停止状態の学者グループの言いたい放題について、政治責任追求を受けそうな危機感をバネに自己実現論があるのさえ知らない我々世代向けに書いた本だったのでしょうか?
近年の集団自衛権であれ、共謀罪法案であれ反対運動のあり方・・内容議論に入らずに「近代法理違反」とか「平和憲法を守れ」「憲法違反を許すな!」など内容に踏み込むのを許さないかのような標語に頼る運動形態を何回も批判してきましたが、問答無用式議論がはびこるのは自己実現理論という高邁な?憲法論が下敷きにあるからかもしれません。
各種違憲論や反対論自体をおかしいというのではなく、法案の内容・どこが憲法違反かなど吟味する必要があるのではないか?というのがこうした主張に対する疑問です。
私のレベルが低いだけかもしれませんが、プロの弁護士相手に配布されてくる主張を見る限り、どの条文がどういう危険があるか・その危険性排除のために先進諸外国がどのような歯止め工夫をしているが、日本の法案にはこれが足りないのでこの修正が必要だなどの具体的主張を読んだ記憶がありません。
法律家の法案反対運動なのに内容議論を許さないイメージの押しつけばかりなので、不思議な人たちだと思っていましたが、自己実現論(の拡大解釈?)を下敷きにしているとすれば理解可能です。
自己実現であれば何でも許される思想は精神医学での定説を借用すれば「赤ちゃんは自分が世界・宇宙そのもの・全能」と思っているようなものですから、まともな議論・・まともな社会性のある議論にはなりません。
たまたま昨年から高裁判事のネット発信が問題視され、最高裁から懲戒処分(戒告)を受けただけでは済まずに、国会の訴追調査が始まっていると報道されています。
これに対し、裁判官も国民の一人として表現の自由(自己実現の権利がある)と擁護する意見が法律家の間で流布されているようですが、自己実現の一部かもしれないが「裁判官の発言として枠を超えていないかの吟味が必要」というのが国民大方の意見ではないしょうか。
自己実現であればなんでも許されるのではなく、それぞれの「社会的立場に応じて言って良いことと悪いことがある」というのが多くの国民の意見ではないでしょうか?
25日紹介した批判論・・表現の自由と自己実現とはイコールの関係ではないという批判を知らないのでしょうか?

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