社会党の消滅(沖縄基地反対闘争)

現在級革新系野党の系譜を引く野党の多くは原発反対、消費税増税反対、沖縄基地問題にしろ旧社会党のように元民主党の重鎮が直接関与することがなくなった代わりに、外野から見ていると、国政段階で相手にされなかった主張蒸し返しどころか、主張さえしなかった本音を別働隊の利用で鬱憤ばらしをしているような気がします。
正しいことであれば選挙で主張し、国会で堂々と政策主張するのが政党の役割であるのにこれを何故しないのでしょうか?
民主党政権時代の少なくとも県外へ!というスローガンで選挙に勝ったのに政権党になると、県外移設地候補さえ提案できなかったので、今更辺野古移転に反対する名分がなくなってしまったからです。
社会党村山政権当時安保条約の有効性、自衛隊違憲論撤回決定もしていますので、安保条約に反対だから米軍基地の存続自体許さないという論法が成り立ちません。
土井氏の「ダメなものはダメ式」の消費税反対論も、民主党政権主導で消費税増税を与野党で合意している関係で、その時の政権幹部が横滑りしている立憲民主党などは消費税アップに反対できない縛りがあります。
政党間で公式合意したが裏で合意実現妨害するしかなくなったのが、旧社会党の残党で成り立っている元革新系野党の姿です。
こうなってくると、国会論戦することがなくイチャモンづけするしかなくなった・森カケであれ、検事長問題であれ、政党としての論戦=定年延長が必要か否のかのテーマを論じないで、特定検事長個人が有利になると個人問題に矮小化した姑息な論戦?ばかりになっている原因です。
大手メデイアの応援下で盛り上げてもイチャモンだけでは国民は白けてしまい、野党の支持率は逆に下がっていく傾向です。
安保体制を旧社会党が容認して以来、基地の必要性を前提として普天間基地が危険だからと長年移転を求めて運動してきた結果、移転が決まると次は立地論に移りました。
結局民主党は「少なくとも県外へ!」のスローガンで沖縄県内移転論に反対してきましたが、政権党になって沖縄県外の移転候補地の発表さえできない・・スローガンには根拠なかったことがはっきりした後に代わりに辺野古以外にどこが良いという提案なく一方的な移転反対運動(普天間基地を残せというのかな?・表向き反対しているだけ実は基地経済が出来上がっているので周辺住民は出て行かれると困る問題がありそうです。)では論理的ではありません。
そこで社民党を除く革新系野党は表面上反対できなくなってしまいました。
メデイア論調中心は「沖縄の苦しみが分からないのか!という情緒論だけです。
50年ほど前に行っていた成田空港事件での「農地を奪われる農民の苦しみ!と言うのと同じ繰り返しです。
どんな制度も変更によって得する人や企業もあるし、(定年延長でも、病気がちで早く定年退職金を欲しいのに先送りになって困る人もいるでしょう)損する企業もあります。
個別問題は個別対応すべきで、政策論争は、全体として今後の社会のあり方としてプラスマイナスどちらが大きいかの議論が国会論戦であるべきです。
成田事件でいえば、首都圏内で新空港が必要か、あるいは高速道路が必要かの政策必要の政党間議論が終われば、どこに立地するのが日本の産業構造変化として合理的か政党間の論争テーマになります。
千葉での放射能汚染物質貯蔵場所の問題や杉並ゴミ戦争で立地紛争を紹介しましたが、首都圏内新空港の必要性についてはこれと言った反対論争がなかったようです。
そこで、立地問題だけが重要テーマだったようですが、立地論でいえば、どこに立地しても生業に影響を受ける人皆無の場所はありえない(人家のない奥地でも、キノコ採りや薪炭業や植林事業ができなくなる)のですから、政治は、こういう利害調整こそが本領を発揮すべき分野です。
こういう被害を受ける人がいる・・その人の気持ちがわからないのか!という心情論は、どこを選んでも皆無ではないので)そもそも議論の対象でありません。
立地論とすれば、将来の産業構造としてどの産業の多い・・次世代継承が見込まれにくい産業構造中心地域が候補になり(将来性のある産業集積地域を除く・工場地帯や中心市街地丸ごとの用地買収計画が策定されないことがこのような基準が先行していることを証明しています。)、その中で居住人口(産業従事者)の最小地域となっていくのが合理的でしょうか?
高速道路敷設あるいは鉄道敷設でいえば、立退きで損をする人も逆に山間僻地の放置山林が買収対象になって高額買収資金が入って喜ぶ人もいる・・空港用地買収立退く人でもちょうど子供が都会にでてしまい、後継者がなく近い将来農業をやめるしかない時に買収されて喜ぶ人もいれば、40代でこれから約30年農業をやる予定の人もいる・・いろんな人がいるのは当然の前提ですので、個別問題・・引っ越し困難などの個別事情は個別補償実務で解決すべきであって空港や高速道路の立地が適地かに関する賛成反対論のテーマではあり得ません。
この選定基準が誤っているかの論戦をしないで生業を失う人の気持ちがわからないのか!という情緒論で政党が個別問題を争うのは論争のルール違反です。
しかも・・実際の被害者が少ないからか?一坪地主になってよそ者が中心になって工事実現妨害運動をするのは、政党としての存在意義を自分で否定する行為です。
これに対して旧社会党の衣鉢を継いだ社民党は、党の関与を隠さず堂々と沖縄の普天間基地の辺野古移転反対闘争を実行しています。
旧社会党は再軍備自体反対・・非武装平和論でしたから、基地存続自体の反対運動は観念的には一貫していましたが、旧社会党時代の村山内閣でこれを変更した以上はこれを反故にする主張自体論理違反です。

社会党の抵抗政党化3(成田闘争と一坪地主)

成田空港開設は当初予定地であった富里村周辺では激しい反対運動が起きて組織化されていたのですが、候補地について紆余曲折ののちに政府は突如三里塚に予定変更してしまったので、地元自治体が成田市に変わり、しかも地元自治体が反対運動になびかなくなりました。
空港予定地の大方が元御料牧場で私有地が少なかったこと(・・周辺は騒音被害を受ける程度で逆に空港が軌道に乗れば関連需要の恩恵を受ける人の方が多いことから歓迎傾向だったのかな?)社会党はやむなく一坪地主になって地権者の一人として反対する方法を選んだようです。
(この方法は現在沖縄での基地闘争手段としての住民票取得政策につながっているようです)
当時の社会党代議士(元委員長クラスを含め)が一坪地主運動を呼びかけて農地を1坪づつ購入して、地主になって空港の用地買収反対運動の事実上の黒幕になっていたのはこの嚆矢です。
一坪地主に関する2020年7月6日現在のウイキペデイアの解説です。

NIMBYによる反対運動や、自然環境保護などのために土地収用手続きを煩雑化させたり、地元の反対派の人数の多さを示す住民運動の一環として、一坪地主になることがある。
行政側は土地収用のために一坪地主に対して一人ずつ対応する必要になるが、行方不明だったり外国に出ていたりすると、土地収用が一層進みにくくなる。また、地元の反対派の人数の多さとして強調されることもあるが、NIMBYという思想で当該地域の問題を知るまでは、当該地域と全く縁がない地権者もいる。
・・・実際の例として、成田空港問題(三里塚闘争)の空港反対運動における一坪共有地運動、東北・上越新幹線反対運動、沖縄県の基地反対運動における一坪反戦地主会などがある[1]。
成田空港問題の事例[編集]
三里塚闘争での一坪共有地運動は、当初日本社会党(社会党)が推進したものであり、成田知巳や佐々木更三をはじめとする社会党議員らも参加した。元新東京国際空港公団副総裁の山本力蔵が「影響は大変だった。社会党役員のそうそうたる名前がある。天下の政党がそんなことをやるとは夢にも思わなかっただけに脅威だった」と倦みながら述懐している[2]。社会党は砂川闘争の教訓から裁判で結論が出るまでに時間がかかって国もあきらめざるを得なくなると考えていた[3]。
運動は約700人の共有で始まり、一時約1200人にまで膨らんだが、空港公団の買収により約400人に減った。このため、三里塚芝山連合空港反対同盟は1983年に再分割運動を進めた結果、85年には土地所有者が約1400人に増加し、2008年は約1100人程度と推計される[4]。なお、この再分割の是非を巡る意見対立などから反対同盟は北原派と熱田派に分裂している。

一坪地主運動というのは、航空政策がどうあるべきかの言論闘争をやめて進捗妨害するだけのための運動を明確にしたものです。
まともな言論活動をしないで、ただ駄々をこねるような時間稼ぎだけの運動ですから、こういうのはまともな政党のするべきことではないでしょう。
だから「天下の政党がそんなことをやるとは夢にも思わなかった」という副総裁の発言が残っているのでしょう。
名目は地元民の反対形式ですが、実態は実は一坪前後をわずかな対価で買い受けて地元民という名でよそ者が反対運動していたことになります。
主に、社会党を先頭に社会党系実力部隊?として要請した?社青同や、三派十流と言われる過激派全学連崩れが主役で暴れ回っていました。
民主主義の基本ルール・言論を堂々と戦わせるが、議論を経て決を取ったあとは結果に潔く従う・・これに違反する政党は、政党という名に値しないのでないでしょうか?
旧社会党は空港の場合軍事基地転用目的反対といい、お金持ちしか飛行機に乗らないといい、高速道路も同様主張でしたが、あっという間に飛行機を庶民が利用する時代が来たし、高速道路もトラック輸送中心時代が来ています。
時代錯誤な反対ばかりして国策(国会で決まったこと)遂行妨害ばかりしていたので徐々に国民支持を失ない遂に中堅以下の議員ほとんどが脱退して新党結成に走ってしまい、抜け殻のように存続した社民党は、政党としての使命を卒業した印象になりました。
この教訓を踏まえて社民党を除く野党は、この数十年では合法的反対運動・現地闘争と一線を画すのが普通になってきました。
すなわち現在の政党(社会党の解体後の民主党以来の立憲民主党や国民)は国会を通過した原発政策やイラク特措法その他海外派兵反対ではなく、国会できめ細かく決めたルールに現地行動が違反していないか、原発設置基準に反していないかの追求限定ですから正面切って民主主義のルールに反している訳ではありません。
ただし、本音で原発反対なら政策論として政党の名で堂々と主張すべきが政党ですが、政策論争を一切展開せずに、政党名を出さずに地元民を原告主体にして友軍的?別働隊?的弁護団がシコシコと安全規制に反していないかの重箱の隅を突つくような原発訴訟を全國で展開しているようです。

社会党純化と抵抗政党化2

安保闘争のやりすぎで(メデイア系や文化人?は歴史的業績として今でも宣伝しますし、全共闘時代を懐かしむ美術展が1昨年頃に千葉市美術館で行われていました)実際には現実無視のやりすぎに国民が驚いてしまった・・大失敗だったでしょう。
安保騒動の結果国民支持を大幅に失い、ヤケになったのか?66年から76年までの中国の文化大革命を礼賛して国内で「造反有理」を若者をけしかけて、昭和40年台の全共闘世代の騒乱を経てさらに信用を落としていた社会党は、実質的に正攻法での天下取りの展望を失っていきました。
当時美濃部都政に始まり横浜の飛鳥田市長など地方自治体での首長選で実績を積んでいたのですが、それは者回答内で進む教条主義とは正反対の現実路線による実績だったのに党中央では教条主義の成果と誤解?していたようです。
社会党低落の原因に関する7日現在のウイキペデイアの記事です。

再統一と60年安保闘争・三池争議
左右両派は1955年10月13日に党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同で自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。
1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。
さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。
・・・西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。
・・・当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。
低落を決定づけた1969年の総選挙
この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。
しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)

以上のように安保騒動前に社会党内でも、観念的非武装中立論ではダメだという主張が大きなうねりになっていたのに、主流派は教条的観念論で排除するばかりでついに現実路線の人材が脱党して民社党結成になります。
ソビエトが粛清に次ぐ粛清で内部が純粋化?硬直化していったのと同じ動きが始まっていたのです。
民族精神の強い日本人は、サンフランシスコ講和反対=実質日本独立反対論→安保騒動以降、中ソべったりの社会党を胡散臭く見るようになって行ったとするこれまで書いてきた私の意見とほぼ同様の解説です。
社会党が事実上分裂して1960年民主社会党→民社党ができ、(支持母体労組総評.官公労→社会党と同盟・民間労組→民社に2分)その社会党がさらに左派同士(その後の中ソ対立の影響をもろに受けてソ連系左派対中共系原理主義的左派の争い?)の内部抗争を繰り返していて・左派(佐々木派)内で頭角を表したものの現実路線で国民人気を博した江田三郎氏は居場所をなくして出てしまいました。
要するに純粋左派どころか極左系政党となり内部的には一人よがりの決議を連発してればいいので気持ちよくなったでしょうが、国民支持が急速に離れていったのです。
江田三郎氏に関するウイキペデイアです。

1970年の委員長選挙でも敗れた江田は、公明党・民社党との社公民路線による政権獲得を主張したが、当時の委員長成田知巳らは日本共産党をも加えた全野党共闘を主張し、江田の主張には耳を傾けなかった。
自民党がロッキード事件で大きく揺れる1976年、社公民路線を推進するため公明党書記長矢野絢也や民社党副委員長佐々木良作ら両党の実力者とともに「新しい日本を作る会」を設立するが、これが社会主義協会系の活動家たちの逆鱗に触れた。同年12月の第34回衆議院議員総選挙では落選し、明けて1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちから吊し上げられる。この結果、江田は社会党改革に絶望して離党しようとしたものの、離党届を受け付けられず、逆に除名処分を受けた。
離党後の1977年3月、菅直人らとともに社会市民連合(社会民主連合の前身)を結成し、同年の第11回参議院議員通常選挙に全国区から立候補することを表明したが、病魔は江田を襲っていた。同年5月22日、肺癌のため69歳で死去。代わりに息子の江田五月が急遽出馬し、第2位で初当選した。

社会党の方針は(国民そっちのけで)内部過激化(教条化)競争する一方の状態で、急速に国民支持が離れていきました。
結果的になんでも反対するしか無くなって、外から見ると日本の近代化阻止邁進中?(中ソに対するの忠勤競争?)の印象が強まる一方でした。
戦後の大変革(今でいえば紙媒体からデジタルIT化への変革に匹敵)のさきがけ・・飛行機利用拡大・・グローバル化時代突入に備えるインフラ準備であった成田空港開設を阻止することが、社会党の目玉政策になったようです。
これが時代錯誤性の象徴的運動になって、ついに社会党は単なる抵抗勢力の代名詞になって急速に国民支持を失っていきます。

社会党の教条主義化→孤立1

地域エゴそのものの場合、全国あるいは全県的支持の欲しい政党は手を出せませんが、国会で(反対の為の)反対をしても相手にされなかった国策実現を少しの時間でも停滞させたい政党の場合喜んで応援します。
地域エゴの応援依頼に答えるのは、全国的支持の希望を捨ててしまった抵抗政党にとって、最後の拠点になります。
国会で決まった政策の実行段階・政策の多くは(最先端の宇宙物理の実験装置でもロケット発射でも)現場工事が必須ですが現場には「国という抽象的な地域」がないので高速道路であれ空港であれ、研究所建屋建築工事であれどこかの地方自治体での工事が必須となります。
リニアーモーターカーで言えば、長大な沿線自治体の一つでも工事許可しなければ工事がストップ・・原発の場合、全国に発電所がちらばっている上に原発所在地・影響を受ける原告適格の範囲は最近広範囲(隣県住民も被害リスクあるとして原告適格が認められる)ですので、その地域内のひとつ二つの市町村や県を握るのは容易です。
人口数百〜千人の市町村でもどこかで反対運動が起き、あるいは地域エゴを煽れば国策実現妨害ができます。
「オスプレイ配備して墜落事故を起こしたらどうするんだ!」イージスアショアでいえば迎撃ミサイル発射基地になると、「発射後に発車直後に切り離すブースター?が人家に落ちたらどうるんだ!」と言う反対論で地元が反対していました。
こいう事を言い出したら軍事基地自体が成り立ちません。
集団自衛権反対論も同じで、古くから米軍基地があると米ソ戦争に巻き込まれるという反対論の現在版です。
地域や現地職場で拒否権を発動させれば結果的に国策遂行や産業革新政策等全て停滞させられるとなれば、苦労して全国的支持獲得する必要がなくなります。
地域エゴを主張するしかない地域(地元見返り大幅増を求める功利的な地元を含め)では、結局「大義などどうでもいい?」確かな野党・大義に関係なく?反対してくれそうなことで定評のある政党に頼るようになります。
反対論に取り憑かれた地元民としては、自己主張に冷静なチェックをせず正義の物差し抜きで率先して「絶対反対」で座り込みなどの実力行使もしてくれるし、そう言う運動に慣れている頑固な抵抗政党に頼るしかないので、抵抗政党がその地域で俄然支持を伸ばします。
国政レベルでは政党要件ギリギリの少数政党に落ち込んでも、特定地元に不都合なことについて反対運動を盛り上げれば、応援するのがその政党だけであれば、その期間だけはその地元で圧倒的支持を受けられる構図が生まれました。
社会党が天下を狙うのを諦めて党内純粋理論闘争に走ると一般支持がいよいよ減少する・・結果的に抵抗勢力として生き残るのに連れて、国策反対運動には理由を問わず?協力する・・座り込み等の実力行使に慣れてくる・・傭兵的役割を果たす専門集団としての信用が定着していったのでしょうか?
ただし、成田空港反対運動では、社会党は当時まだ2大政党でまだ天下取りの夢があったのでいわゆる抵抗政党を標榜していたわけではありません。
成田闘争では、社会党元委員長など錚々たるメンバーが個人として名を連ねましたが、自分が先頭になって「闘争」することまではしていませんでした。
この時闘争主力になったのは、当時学園紛争が収束し、プロ集団化していて行き場を失った状態のいわゆる三派十流といわれた過激派全学連(残党?)でした。
以来社会党はいわゆる長期低落傾向を続ける中で戦闘的現場集団を正面に立てて激しく争うのに慣れてきたのか、現在の沖縄基地闘争では、社会党後継政党である社民党が現地闘争系グループと関係があるかのような報道があります。
地元反対運動応援の草分け?となった成田空港開設時の反対運動を見ておきます。
成田空港開設場所決定について直接国会で議論する法律は存在しないでしょうが、新東京国際空港公団法が国会でできてその設置区域は政令で定めるというのが普通ですから、法に根拠を有するものというべきでしょう。
法に根拠を有する・国会の委任で決まったものとすれば、国会で決まっている国策実現に対し、現場で反対するのは国会の議論で決着したことの蒸し返し行動です。
これをやる政党は、言論の自由→言論を尽くした後は実現に協力する仕組み・民主主義制度の否定団体というべきでしょう。
社会党は、党として公然反対しなかったのは、まだ国政に意欲があった時期でしたのでこういう批判が怖かったからでしょう。
千葉県では、地元県知事や地元政界は農民への十分な補償その他配慮があれば協力する(飛行機時代到来に合わせるインフラ整備の必要性を承認し協力する)立場でした。
対する社会党は共産圏諸国を含めた全面講和以外の片面講和反対→朝鮮戦争直後の世界情勢から見て全面講和など実現不能な状況下での主張は、結果的に日本の独立反対論は、結果的にソ連圏へ忠勤主張でした。
天地開闢以来の初の異民族支配を受けた日本民族にとっては米国占領政治から独立は民族あげての悲願でしたが、この慶事にいちゃもんつけて独立に反対する無責任な神経・・その極論に国民の多くが驚いていたでしょうが、安保騒動は西側陣営参加反対の主張でしたので日本の独立反対論の延長上(一貫性にこだわるのが教条主義の特徴)の主張でした。

憲法改正・変遷3(社会党の憲法解釈変更)

政策論争に負けた方は今後負けないように政策内容をレベルアップする方に努力するのが本来のあり方です。
スポーツ選手が試合に負けた場合、更なる精進努力をしないで、相手の悪口を吹聴していても却って信用を落とすばかりです。
政策発動の妨害目的・・時間稼ぎ・・訴訟でいえば、遅延工作は弁護士倫理違反と言われるように、政治家も政策討論で決着がついたことについて、揚げ足取り目的で法廷闘争をするのは政策遂行を妨害するのは邪道で政治家倫理にもとることになります。
この手段を権力者が利用した場合を見れば明らかです。
韓国大統領の動静を報じた朝鮮日報の記事を引用報道した産経支局長を刑事立件したことが騒ぎになりましたが、自己の動静を誤って報じられたならば言論空間で争えば良いことであって、権力者が場外乱闘に持ち込むのは正当な政治活動の域を超えた民主主義の破壊行為です。
一旦被害者になり弱者の立場になれば、何を言ってもやっても良いと言う風潮が(特に韓国人には)顕著ですが、政治家のやっていることが本筋を外していると長期的には国民の支持を失います。
ところで、自主憲法を認めない立場ならば、社会実態調査不要・・欧米ではこうだと言う観念的議論も可能ですし、国連勧告が大切・・この立場からは国連調査団報告に重みをおく立場が導かれます。
何かあるたびにテレビに出て来て、「欧米では・・」と言う意見が、昭和40年代初頭ころまで、マスコミでハバを利かしていました。
司法権が日本の国益を総合勘案して判断するべきとした場合、国内実態の判断では足りずに国際情勢全般に目配りして判断する必要のある外交のあり方を判断するのは無理があるので、日米安保条約の合憲性に関して統治行為論が出て来たのです。
どこの国と組むかを含めて司法が介入出来ないと明白な判断が示されている砂川事件大法廷判決を前提にすれば、条約内容の決め方・・どう言う段階で相互協力するかの細目協定まで司法が介入すること・・すなわち憲法違反かどうかの判断することは不可能です。
まして司法権でもなく実態把握能力に何の保障もない机上の議論しか経験のない、(国際情勢・国家機密情報を総合判断必要があります・・判断能力の担保もない)学者が、集団自衛権関連法案を憲法違反だと合唱すれば、特別な意味があるかのようにマスコミが大きく取り上げるのって、上滑りの感じを否めません。
仮に元裁判官で事実認定経験のある人でも、国家機密等を入手出来ない在野人になっていれば、国際情勢に関する情報を総合判断して条約の必要性を判断するのは無理があります。
我々実務経験のある弁護士でも、他人のやっている事件を軽々に判断出来ないと言うのが常識です・・弁護士仲間をかばう意味ではなく、訴訟でどう言う証拠が出ているか・これに対する裁判所の反応どうであったかなど総合しないと判断出来ないからです。
繰り返しますが、憲法は日本のためにあるのですから、日本にとって必要かどうかが合憲、違憲判断の分かれ目であって、日本の国益を離れた憲法解釈(・・例えば中国の利益になるための判断)は許されません。
日本の社会実態を見極めて憲法内容を判断して行く方式の場合、憲法違反かどうかを見極めるのに時間がかかるように、改正する必要があるかの判断も時間がかかります。
社会実態の変遷をじっくり見定めることを省略した憲法改正など直ぐに出来る訳がないことを前提に、「改正が先だ」と「百年河清を待つ」ような議論をしていると、必要とされている現実の政策対応が全て間に合わなくなります。
15日に砂川事件判決の田中長官の補足意見を紹介しましたが、憲法論を言い出したら何でもそうなりますから(非正規雇用も平等原則違反だから憲法違反だとか、消費税問題も弱者にきついから憲法違反と言う主張が可能です)全て憲法違反と言っていれば、約10年かけてその裁判の決着がつかない限り何らの政治決定も出来ないと言う論法は無理があります。
要するに憲法論・・護憲勢力の主張は、なんでも反対の社会党が政策論争で負けたことについて、憲法違反のレッテル貼りすればいいと利用していた便利な論理でしたが、これで国民の信用をなくしてしまいました。
政治家は政策の優劣で競争すべきですが、旧社会党は筋違いのことをやり続けたので信用をなくして行ったと思われます。
私は革新系と言うのは、社会の進歩に反対する超保守の集まりであると書いて来た所以です。
社会党は世上「何でも反対・・」と言われていたものの実は賛成する分野もあったのですから、政治と言うものには、利害集団がバックにあるものと言う前提で考えると、政策対応が停止することによって利益を受ける集団があることが分ります。
これを前提に分類すると、日米安保反対、自主防衛反対、グリーンカード反対、指紋押捺制度反対、防犯カメラ反対、通信傍受反対・・秘密保護法反対・・等々、産業的には空港建設反対、原子力発電反対、公害反対・それぞれ名目があり、結果的に日本のために良かった分野もありますが、概ね目先の目的を見れば、日本の安全保障に反対であり、経済が発展する疑いのあるものには全て何でも反対していたように見えます。
憲法論に持ち込んで思考停止を要求する勢力の目的とする方向性も共通です。
集団自衛権の可否について内容の議論を拒否して、・・「憲法改正するまではそんな法律は許されない」と言うばかりでは、現実政治向きではありません。
これまで書いて来たように憲法は、イキナリ改正すべきものではないし簡単に出来ないのが分りきっているし、しかもその主張者の多くが護憲勢力を標榜しています。
既に社会党が放棄した「何でも反対」路線の蒸し返しを民主党が憲法違反と言い換えているだけですから、思考方式としては、砂川事件判決で六十年まえから「自主防衛が許される」「防衛のために安保条約を結ぶのは合憲である・どこと組むべきかその内容について、司法権が介入出来ない・・立法府の専権行為である」と言う歴史的解決をすませている現実を無視して、蒸し返している点では、韓国が条約で決着がついたことを、もう一度蒸し返しているのと同じ思考方式になります。
但し社会党がこれ・・自主防衛権・自衛隊合憲・安保条約合憲を認めたのは、村山内閣になってからですから、国内的に大筋の決着がついたのは、まだ最近のことです。
2015年12月9日のウイキペデイアによれば、以下のとおりです。
村山内閣
総理大臣在任中[編集]
1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。

社会党の年来の主張は、自衛する権利もない・・強盗に襲われても抵抗する権利がないと言うにひとしい、砂川事件判決後約40年間も最高裁判決を無視して非武装論をずっと主張していたことが分ります。
実務に関係しない学者ではなく、現実政治を担うことを目的とする政治家の集団が非現実的主張を続けていて一定数の支持があったこと自体、マスコミによる実力以上の援護報道が利いていたことを推測させます。

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