国民主権と護憲論の矛盾3

非武装平和論者(左翼系文化人を主体とするものです)が憲法制定権と一体化している筈の改正手続き法整備すら何故反対するのでしょうか?
左翼の好きな「国家と人民は対立するもの・・搾取したりされたりする敵対的関係論」によれば、憲法は為政者=支配者のためにあるものですから、国民にどんなに不都合があっても人民はこれに耐えるしかない・・支配者(日本の場合は占領軍)に便利に作った以上、人民の不都合があるかどうかは元々関係がない・・不都合かどうかの議論自体許さない護憲一本槍となります。
占領軍が・・「元々日本民族に不都合な制約を掛けるために作ったものであるから、今さら何を言っているのだ」と言うことになるのでしょうか?
元々米軍占領初期の目的は永久的に日本の独立を認めないものでしたから、将来占領軍が撤退した後にも武装解除したままにして属国のママにしておくための遠大な計画のために、憲法に再軍備禁止精神を盛り込んで置き土産にしたものです。
アメリカの属国化を続けるための置き土産装置を思考停止したまま有り難がって必死に守る日本人が何故いるのでしょうか?
置き土産だろうとなかろうと日本人にとって良いかどうかと言う単純な基準で決めれば良いことです。
ところで、米軍は半永久的日本属国化の装置を日本国憲法に組み込んで置き土産にしましたが、如何にアメリカの都合で押し付けたとは言え、まさか強制したとは書けないので、明文(表向き)では「国民主権の原理で憲法を作った」と明記するしかなかったのでしょう。

憲法
前文
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

米軍の都合に合わせて作ったと書いていない以上は・・すなわち日本人の自主憲法であるならば、日本人の都合に合わせて改正して何が悪いのでしょうか?
改正して良いならばその前に堂々と議論しても良いことになります。
護憲論と言う自主憲法否定運動自体が、主権国家で成り立っていること自体が不可思議です。
護憲論者=左翼文化人=何かと言うと国連や世界の趨勢はどうだと言う人権擁護論者が多いのですが、彼らの日頃の民主主義・人権擁護論と国民による憲法制定権妨害〜否定論は正面から矛盾しています。
彼らの日頃の主張と矛盾する不合理な主張=実質的国民主権否定行為が一定の勢力を保っているのは、背後にアメリカの意向・・アメリカの作った戦後秩序維持期待に迎合しているからではないでしょうか?
左翼系は中韓の代弁者と思う人が多いでしょうが、実は彼らはアメリカの政策に正面から反対しながら、巧みにアメリカの後ろ盾・・権威を利用している関係でした。
朝鮮戦争に始まる冷戦時代の再軍備反対論も、安保条約反対論もアメリカが自分の置き土産・・日本を永久的に無力化するために作った戦後秩序を大事にしようとする勢力であると言われれば、これを無下に否定することが出来ません。
アメリカが日本の隷属化の真意を隠して、日本占領を世界平和のためにと言う建前を正面に出しているために、左翼系文化人はこれを巧妙に利用して「再軍備〜軍備強化は平和に反する」と主張してアメリカが正面から反対出来ない構図に持ち込んでいるのです。
アメリカは日本の再軍備を阻止するための憲法を作ったばかりか、イザというときのために備えて世界中に日本が孤立化するため日本に対する悪宣伝をバラまいてきました。
中韓両国は日本左翼文化人のやり方を真似て、(あるいは指導を受けて)アメリカの宣伝を更に拡大する方向で、日本がどんなに悪逆非道行為をしていたかをでっち上げては日本批判を過激化して行きました。
その背後には常にアメリカの陰があるので日本は反論すら出来ないので、どんなにエスカレートが進んでも切歯扼腕しているしかありませんでした。

国民主権と護憲論の矛盾2

憲法は武装を認めていないと言う解釈が正しいかどうかの議論もありますが、仮に認めていないとした場合、武装するなら憲法を先に変えるべきだと言う論法自体はその立場によれば正しいことでしょう。
しかし、その立場でも、武装した方が良いか否か、その議論の結果によっては憲法を変える必要があるかもしれないのですから、憲法改正する前にどちらが良いかの議論すら出来ないと言うのは、憲法解釈のどの立場に立っても意味不明です。
非武装平和論者の議論を討論会等で聞いていると、憲法改正の必要があるかどうかの議論すら許さない=「憲法に書いてあるじゃないですか!」と言って内容の妥当性優劣の議論を拒む傾向・思考停止を要求することが多いことには驚くばかりです。
非武装平和論者と重なる左翼系が例外なく護憲運動を重視しているのが、この論法と一致しています。
護憲論とは現行条文変更阻止の意見ですから、憲法をどうするかの議論自体があるのは自分の立場の外堀を埋めることになるのでこれに反対することになるのでしょう。
「9条を考える会」と言ってもパンフを見ると改憲の動きが今どうなっているとか、その動きをどうやって阻止するかと言うテーマばかりで、何故非武装が良いかの本来の議論を見たことがありません。
現状に不都合があるかどうかの議論を封殺する意見は、変更可能性自体を拒否する・・不都合かどうかの議論を一切しないで何が何でも頭から「護憲」と言う立場を貫徹すると、憲法は誰のためにあるのかと言う疑問が湧いて来ます。
議論することを拒まない・・「国民のために何が良いかを多いに議論しましょう」と言うならば、「護憲運動」と言う表題からして不要ではないでしょうか?
時代が変わって憲法の条文がどんなに国民にとって不都合になっても憲法を守るべきだと言う論理は、憲法制定権が国民にないことを前提にした論理のように思えますので、以下吟味して行きます。
憲法は国民のために役立つように制定された筈ですし、そうであれば国民のために不都合があるかないかをオープンに議論してその結果によっては変更を求めることも国民の権利です。
憲法改正は思いつき的に半年や1年の議論でイキナリ出来るような性質のものではなく、普段から時間をかけて多方面で議論を尽くしていてこそ安定した改正案が熟成出来るのです。
憲法が現実社会に合わなくなっているのか否かの議論すら許さない主張は、国民には憲法制定権がない・・国民主権と言うのは名ばかりであることを前提にするのでしょうか?
輸入自由化合意後も、輸入手続きをする税関の人員増をサボタージュして税関で半年も1年も貨物を滞留させれば実質的に輸入拡大合意前と同じ量しか輸入出来ません。
普通選挙権を憲法で認めても、そのための選挙手続き法がないと選挙出来ないのですから、その手続き法制定に反対し、あるいは少しでも先送りしようとしている勢力があれば、その勢力は隠れた普通選挙制度反対論者となります。
憲法25条の文化的生存権の保障は、生活保護法制定があって初めて権利として具体化されます。
・・およそ全ての権利はそれを実現するための具体的な法や手続き法等が整備されない限り絵に描いた餅であって、実質的権利保障が無いに等しくなります。
国民が法律制定権者であれば、その改正権者でもあるべきですし、任命権者がすなわち罷免権者でもないと実質的権利を行使出来ません。
国民主権による憲法であるとするならば、改正も国民が自由に出来ないと本当の国民主権国家とは言えません。
内容如何にかかわらず、先ず憲法改正手続き法制定反対〜妨害論者は、国民主権=国民の意思による憲法改正権の実質的否定論者=国民主権否定論者となるように思えませんか?

国民主権と護憲論の矛盾1

中国による武力(大量の海艦と言う公船による領海侵犯の繰り返しによる事実上の実力行使)を正面に押し出しての領土領海の拡張行動が日常化すると、日本としては領海侵犯を放置している訳に行かないので、これに対応するためにそれまではたまに巡回する程度だった巡視艇を連日常駐〜派遣体制にならざるを得ません。
そうなると交代要員や船が不足しますので、巡視艇の増加・保安庁の人員増の必要性が起きてきます。
昨日紹介したように中国では対日戦争開始準備命令を発動した結果、国民が危険を感じて海軍や海艦への希望者が激減して要員確保に支障を来している・・已むなく精神障害者でも可とするところまで追いつめられています。
逆に日本では緊急事態が起きても親中韓派文化人が反対するので、領海を守るようなことはとても出来ないと言う事前情報と違い、我が国では危機感を感じた若者による海上保安庁への応募者が急増している実態が報道されています。
親中韓派文化人やマスコミが、戦後の平和ボケで日本は柔弱になっているのでとても戦える訳がないと宣伝していた事態と逆の結果が出ています。
江戸時代300年の泰平の世を謳歌して来て骨抜きになっていた筈の日本人が、幕末の危急時に勇敢に戦えなかったかと言うとそうではありませんでした。
幕府御家人はふぬけになっていましたが、草莽からいくらでも愛国の志士が沸いて出て来たのが幕末です。
僅か60〜70年そこらで国民がふぬけになる訳がありません。
非武装平和論は、海上警備活動や自衛力強化反対どころか、そもそも警備や自衛力自体を不要とする論ですが、その理由とするところは、軍備や警備するから小競り合いが起きる→それが大きな戦争になると言う意見になるように思えます。
ただし、私はスローガンやパンフくらいしか見たり聞いたことがないので、緻密な非武装平和論の論理を知りませんから、以上は推測です。
他の立場からすれば軍事刺激したから中韓が来たのではなく、敗戦後何の軍備もない武装解除時に韓国は竹島を占領したし、今回も日本は中国に対して何ら領海侵犯や軍事挑発をしていないし、何の争いもないときにいきなり相手から仕掛けて来たじゃあないか・・日本が断固対応したら領海侵犯行為が下火になった・・だから泥棒が入らないように警備活動が必要だと言うことになります。
警備したり戸締まりするから泥棒や強盗が入るのか、警備しないで戸締まりしないで寝ていた方が泥棒が来ないのか?と言う論争のようです。
この論争はそんなに難しいデータもいらないし、複雑な議論でもないので、充分に議論すればすぐに勝負のつくテーマだと思いますが、非武装論者は実質的内容の優劣に関する論争から何故か逃げてしまっている感じです。
平和をどうやって実現するかの議論をしていると直ぐに「憲法前文に諸外国の公正と信義を信頼する・・」「憲法9条で戦力保持しない」と書いていることから、論争自体が許されない・・憲法に書いてあるじゃないか・・憲法違反は許されないと言うテーマのすり替えを言い出して議論にらない状態・・結局そこで討論会が終わってしまう・・思考停止を要求する論法が目立ちます。
   
憲法
第二章 戦争の放棄

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

非武装平和論の論理の建て方は、「憲法に書いてあるじゃないか」と言う論法で議論を遮ってしまい、議論すること自体を拒否してしまうのですから、彼らの基本的立場は唯我独尊・・問答無用式議論が多いことになります。
左翼・護憲派・非武装論者の主張は平和維持のためにどうするのが正しいかどうかの議論をすること自体許さない・・どちらが正しいか議論すること自体が憲法違反だと言う論法のようです。
みんなが望んでいるのは憲法解釈論ではなく、どうすれば日本のためになるかの議論です。
議論を尽くした結果望ましい意見が、仮に憲法解釈に合わないならば憲法を改正するほどの必要性があるかどうかなどの次の議論に移ればいいことであって、議論の前に憲法解釈に合うかどうかで意見をシャットアウトする必要はありません。

 同胞意識4と統治対象1

マスメデイアだけではなくネット通信の発達によって、さすがの中国も言論弾圧が出来なくなるだろうという報道が5〜10年前から普通でした。
しかし、中国では膨大な人口と膨大な失業者・アリ族の存在を逆利用して彼らを低廉な(5毛?)報酬での検閲要員に取り込んで、徹底した人海戦術でこれをチェックして即時抹消して押さえ込み、他方で積極的に政府に都合の良い政策方向の宣伝や反日ブログ等の書き込みなどをさせて世論誘導にあらかた成功しています。
ネットの発達が言論の自由拡大に中国ではあまり効果がなく、逆にネットの発達が英米支配の先進国(特に日本では)のまやかしの言論の自由が告発される時代になって来ていることを、2012年12月20日「米英系マスコミ支配2とマスコミの限界」あたりから正月のコラムまで書きました。
日本の感覚ですと「政府がそこまでやらなければ政権維持出来ないならばもう終わりだ」と思うのが普通ですが、「そこまでやるか!」と言う野蛮なことを臆面もなくやり続けて来たのが古代から今に続く中国政府です。
王朝は毎回倒れているし、共産党政権と清朝には政権としても民族(満州族と漢民族)としても連続性がないのですが、目的達成のためには手段を選ばない点では、そこに住んでいる人・政府構成員のDNAが大きな意味を持っています。
歴代政権が政権維持のためには手段を選ばない価値観で来たので、上が上なら下も下ということで、そこにいる住民自身も金儲けその多目的達成のためには手段を選ばない価値観になるのは当然です。
人体に毒であることが分っていてもミルクに毒物を混ぜて安く仕上げようとするような事件が続出していますが、そこには商道徳などかけらもありません。
上から下まで目的(政権維持・金儲け)達成のためには手段を選ばない価値観で何千年も来たからです。
中国や韓国では、政府(これを構成する官僚や軍・国民を含めて)にとってわが国で言うところの「国民(同胞)」という意識がないのではないか?と言う意見をこの後で書いて行きます。
異民族支配が多かった中国地域の道徳観では、共同体・同胞としての国民一般という概念がなく、利益を守るべき共同体は飽くまで一族意識の範囲内だけです。
韓国や朝鮮でも古代から異民族の入れ替わりが続いたことから、一族・本貫重視である点は同じです。
今の中国では共青団出身とか太子党などと日本のマスコミが如何にも利害対立集団の如く囃立てていますが、共産党大幹部の家柄・太子党一族か、共産党組織の中堅下部組織からから這い上がって来たかの違いだけで、共産党内部の覇権争いに過ぎず、その他一般は統治の対象でしかありません。
王朝時代の王族と高級官僚(宦官)による争いの蒸し返しに過ぎないと言えるでしょう。
中国でのジニ係数が破滅的数字に達しているとタマに報道されていますが、この係数自体まるで当てなりません。
もともと中国の統計数字がいい加減であるだけではなく、天文学的蓄財をしている共産党幹部や政府高官の収入は表向き小さく、中国の巨額収入層は賄賂等不正蓄財によるものですから、統計に出る筈がありません。
これらを統計に含めないでも相対的貧困層の比率が危機的状態とすれば、実態はもっと深刻・大変な事態です。
統計数字だけでも政権維持出来なくなる程の格差であるという論評が一般的ですが、欧米や日本んマスコミの期待にかかわらず中国が天文学的格差下で政権維持出来ているのは、徹底的強圧政治が可能・・躊躇しないことによります。
チベット僧の焼身自殺などがいくらあっても、中国政府にとって諸外国からの批判(外国介入の一種です)さえなければ、「そんなことくらいしか抵抗出来ないの?」と却って安心材料になるくらいでしょう。
尖閣諸島問題で中国の侵略が始まった場合、これに抗議して日本国内でいくら焼身自殺が相次いでも中国は、日本軍が抵抗出来ないからそんなことしているのだと安心するだけです。
中国政府にとって、国民が焼身自殺しても騒乱を起こしても同胞としての痛みを感じるのでなく騒乱軍に政府軍が負けるか否か・・政権維持出来るか否かだけが基準になっていると考えられます。
モンゴル軍が中央アジアを次々と侵略をしているときに、被征服民の何十人〜何百人が絶望して自殺しても侵略軍は何にも感じない・・無駄な抵抗にすらならなかった筈と言えば分りよいでしょう。
中国政府にとっては国民はそのような対象でしょう。
商人も製品によって顧客が毒物で死亡したり病気になっても、一族でない限り痛みを感じるのではなく商売を続けられるかどうかだけ(取り締まりだけ)が基準になります。
日本の場合でも、何か重大自体があれば結果として政権維持・顧客維持に関係しますから結果だけ見れば似たようなものですが、先ず同胞として痛みの共有から入って行く点が大きな違いです。

独裁(特権階層)と自由競争の矛盾1

絶対王政・・王様一族だけが例外ならば、(我が国の場合法の下の平等に関し、天皇家だけが例外ですが、天皇家・皇族は全部でせいぜい数十人程度でしかいないし、これと言った世俗的特権を持っていないので)全体から見て大したことではありません。
中国共産党幹部・地方中堅まで含めた特権階層となると半端な数ではないので、社会全体で日常的に不公正・不平等を目の前にして生活していることになります。
たとえば、苦労して大学を出てもアリ族やネズミ族になるしかないかどうかは、地方幹部の子弟まで含めて社会の隅々にまで張り巡らされた共産党関係者の子弟かどうかがその決め手になるようです。
このように青少年は人生の出発点でイヤっと言うほど不公正を思い知らされるだけでなく・・日常業務に措いても共産党にコネがあるかどうか・・賄賂次第による不公正なことが横行している社会です。
西欧では、特権階層が少人数の絶対王政でも矛盾の激化に耐えられずに、自由平等博愛の革命になりました。
自由経済体制・・競争条件の平等が基礎にある価値観と独裁=特権的利益維持(不自由)の併存矛盾を縫合するのが、何十万人とも言われるネット検閲削除要員の雇用であり、これを物理的に押さえ込むために公安警察の膨張・軍の膨張になっています。
(失業者吸収にもなるので、政権としてはこれも1石2鳥を狙った策のつもりです)
独裁と自由と言う矛盾した価値観の状態におかれた経済界・国民の経済行動としては、価値観を棚上げ・価値に盲目になるしかない・・金儲けのためには手段を選ばない方向となります。
コストを安く上げるために毒物と分っているメラミンを混入していた事件が発覚したことがあります。
日本人なら(ミスならあるとしても安くするために故意に毒物を入れるなど)「分っててそこまでやるか!」と言う事件ですが、こうした商道徳どころではない事件が無数に起きているのが現在中国です。
(まして知財の剽窃・泥棒や強盗程度では当然気にしません)
手段を問わずに「金儲けすることが良いことだ」くらいの価値観しか身に付かなくなっているのが現状です。
タマタマ昨日の日経夕刊のニュースでは、毒物混入の粉ミルク製造事件(1〜2年以上前に発覚した事件だったと思いますが・・まだ収束していなかったのでしょうか)によって中国国内生産ミルクを信用出来ない消費者の需要に応じて香港やマカオからの粉ミルクの運び屋が増えたために、マカオでは品薄になって大騒ぎになっている記事が載っていました。
金儲けのためには手段を選ばない方向へ進んだのは鄧小平の「黒猫でも白猫でも獲物を得た猫が優秀な猫」というような標語が出回っていたのがその象徴です。
政権維持のためにはどんな非人道的なことでもするし、企業人は金儲けのためには、手段・・ルールを気にしないのが現在中国全般の価値観になっています。
こう言う価値観で生きている社会ですから、対外的にも同じ行動をとります。
尖閣諸島や南沙諸島問題では中国が欲しくなれば、国際的なルールなど問題にしないで強盗のように「これも欲しい」と主張すれば後は力づくで良いという態度です。
アメリカのクリントン長官に対してアメリカが日本の見方をするならば、「中国はハワイだって領土要求出来るのだ」と脅したことが以前報道されました。
相手が泣き寝入りすれば「弱いんだから仕方ないでしょう」という原始社会の道徳を主張していることになります。
中国の拝金主義とアメリカのビジネス主義は似てはいますが、アメリカのビジネスには(アメリカに都合良く作ったに過ぎないとしても一応)ルールがあるが、中国では金儲けのためにはルールを破っても良い社会であるとDecember 5, 2012「民主主義と正義12(政治資金3)」で書いたのはこの意味です。
英米法の基本原理は目的の正当性よりは、デュープロセス・適正手続きに重きを置く社会であることとアメリカのビジネス主義とは符節が合います。
中国の政府や国民の行動ルールを合理的に解釈すれば、「強い者は人殺しでも人の物を奪うのでも何をしても良い」「万人の万人に対する闘争状態」不法状態こそよって立つルールに帰するのでしょうか?

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