消費力アップと消費税増税論の矛盾1

金融緩和(金融調政策)によって直接的経済成長を期待する役割が先進国・純債権国・豊かな社会では終わっていることをここでは書いています。
億単位の預貯金を持っている人は、銀行金利が下がっても消費を増やしたりすることはありません。
世界の工場としての役割が終わって需要地・現地生産に切り替わりつつある現在、国内生産量は自国消費プラスαに規定されるのが原則です。
国力の源泉が今では消費力にあるとする意見をMay 7, 2016「資源+生産力から消費力アップへ1」以下で書いてきました。
成長戦略とは内需拡大化またはプラスα部分(マザー工場機能)を増やすしかないのですが、プラスα分は画期的製品で成功しても国内限定でなく現地生産に移行して行きますので、先行者利益期間が過ぎれば元に戻るしかありません。
千か万に1つの大成功を期待するよりは、庶民の消費底上げ政策の方が規模が大きく安定的です。
国民の方も、ある程度のものは手に入っているので、政府の号令一下・・金利をちょっと下げれば設備投資が増え、住宅や各種ローン購入者が増える・・国民が政府の思うように消費を増やしたり減らしたりする単純反応する人が減って来た・・直ぐ反応する時代は終わっています。
純債権国・紙幣あまりの社会では、供給過剰・・消費不足社会ですから、消費を増やす政策(明日以降書いて行きますが量は足りているので生活レベルの向上・・トイレがあるだけはなくウオッシュレットが普及するように、文化発進力の充実)が必須ですし、レベルアップ消費が増えて生活が充実することは国民福利増進にも叶っています。
絶対消費量を増やすには人口拡大と一人当たりの消費を増やす2方法がありますが、人口を増やす方法は、生活水準がそのままの前提ですから国民には、夢がありません。
一人当たり消費を増やすと量の欲求が限界に近づくので、商人はイキオイ全ての分野でレベルアップ競争になり、より上質・・豊かな生活が出来るようになります。
既存商品が行き渡っている豊かな国では、今後国内消費拡大・レベルアップにはどう言う政策が必要かコソが必要な議論ですが、少なくとも、消費抑制に働く消費税増税論は時代錯誤の印象を受けます・・。
学者官僚は「木を見て森を見ない」と言うか、時代の大きな流れがどうあるべきか・・質素倹約論はギリシャ等の債務国には合理的ですが、世界一の純債権国日本の政治としては非合理である点に気が付かないようです。
豊かな社会、純債権国では、貯蓄ばかりしないで逆に消費=需要を増やした方が良いのです。
満腹だからもう要らないと言うのではない・・・量を消費するのではなく上質化する工夫が政策に求められます。
土建的財政支出の時代が終わったのは確かですが、それと内需拡大の必要性が終わったのとは質・レベルが違います。
世帯数より建物の数が多くなれば、家の需要がなくなったのではない・・もっと広い家に住みたい・快適な家(上質な家具調度に囲まれた生活をしたい)・交通便利な場所に住みたい需要などが無限にあるのと同じです。
美術品でもより良い物を解体見たい欲求に答える・この種のレベルアップで国際競争して行くべきですが、この種のものは従来型GDPにはあまり影響がありません。
田舎に行くと料理の味や盛りつけの芸術性よりは量で勝負する傾向が目立ちましたが、国全体でえば、田舎者のスキなGDP競争から脱却すべきです。
今後は量を充足する時代から、上質な料理・農産物・・トマトでも良いものを作ったり味を楽しんで行く時代です。
実用品ばかりではなく、絵画・各種文化を向上させて行く(江戸時代に俳諧や川柳落語は歌、小唄、義太夫・・歌舞伎や各地のお祭り文化等々が発達したように)政策に注力すべきです。
・・・・我が国はその意味でも上質なものを愛する点では遣唐使の昔から世界に冠たる上質品愛好国家ですから消費の上質化競争では、更に世界をリード出来るでしょう。
そうすれば、名実共に世界の尊敬を集められるようになります。
ドイツの批判みたいで恥ずかしいですが、内需の貧弱なドイツの問題点は内需拡大と言っても基礎文化が貧弱だからレベルアップ出来ない(おいしい物を作ったり楽しむ能力が弱い)から・・量で止まってしまうからではないかと言うのが個人的意見です。
質素倹約論に戻りますと、痩せた人は栄養を取った方が良いですが、肥満の人は栄養を取り過ぎないようにするなど国によって、処方が違うべきです。
特定分野、例えば自動車税・ガソリン税や住宅取得税アップは自動車や住宅販売抑制になることは明らかです。
増税分野=その分野の消費抑制の視点で言えば、消費税増税アップ論は特定消費抑制ではなく消費全般を抑制するための政策になることは間違いがないでしょう。
財政健全化論と増税とは必ずしも一致するものではありません。
赤字原因を縮小したり、成長による増収もあり得るしどの税目を挙げるか(どの分野を非課税にするか)も必ずしも一致しない・そこには多様な論理があり得ます。
(喩えば高齢化問題と言えば、65歳以上の人口比ばかりマスコミが書きますが、保険赤字の原因も高齢化ばかりではなく医薬品や医療機器の高騰にも原因があることを「ダイジェスト報道5と正確(中立)性担保4」February 14, 2016前後で連載しました・・これからは65歳以上で働く人が増えて来るなど社会保障負担も変わってきますのでもっときめ細かい年齢別分野別議論が必須です)
政府のえり好みによる・・特定産業に下駄を履かせる・・政府官僚が市場選別よりも優れている前提)個別産業優遇の財政政策は限界があるので、全体の足場・・水平面の上下変動を通じて公平に影響を及ぼし、対等条件下で伸びる産業と伸びない産業が市場で決まって行く金融政策の方が自由競争にも適している・・合理的政策であることをこのシリーズでは書いてきました。

民主党政権の体質と諫早矛盾裁判の両立2

諫早水門開閉に関する司法判断の矛盾は、以下の通り菅総理が周囲の反対を押しきって(ウイキペデイアの解説によると)「私が決めたことだ」と最高裁への上告をさせなかったことによります。
矛盾関係をそのまま放置するのは市民運動家出身総理の面目躍如と言うべきです。
親子劇場専用ホール設置署名運動の例を書きましたが、ガラガラのホールを作っていつでも安く借りられれば便利かも知れませんが、「赤字を誰が負担するか」と言う他方の視点を無視するのが市民運動家です。
以下法務省(訟務部)の主張?解説です。
http://www.moj.go.jp/shoumu/shoumukouhou/shoumu01_00050.html
訴訟の現状及び国側の主張
開門派漁業者らが,潮受堤防の締切りによる漁業被害を訴えた佐賀開門訴訟において,福岡高裁は,平成22年12月6日,国に対し,潮受堤防に設置された排水門の開門を命じました(「判決確定日から3年以内に,防災上やむを得ない場合を除き,5年間にわたって開門せよ」という旨の主文)。この判決に対し,国 が上告をしなかったため,この判決が確定することとなりました。
そして,開門派漁業者らは,この福岡高裁確定判決に基づき,平成25年12月,強制執行(間接強制)の申立てをしました。これに対し,国は,対策工事がで きていない状況では,開門すれば営農者らや住民らに被害が生じるため,開門を強制することはできないなどと主張して争いましたが,平成27年1月22日, 最高裁は,国による抗告を棄却し,「開門しない場合,1日45万円(1人につき1日当たり1万円)を支払え」という間接強制決定が確定しました(その 後,1日90万円(1人につき1日当たり2万円)に増額変更がされ,この判断も最高裁で確定しています。)
他方,開門反対派営農者らは,国に対し,開門した場合には被害が生じるなどとして,開門の差止めを求める訴えを提起し,長崎地裁は,平成25年11月12日,国に対し,開門の差止めを命じる仮処分決定をしました。
これにより,国は,福岡高裁確定判決に基づく開門義務と,長崎地裁仮処分決定に基づく開門禁止義務の相反する義務を負うことになりました。
さらに,開門反対派営農者らは,長崎地裁仮処分決定に基づき,保全執行の申立てをし,平成27年1月22日,「開門した場合,1日49万円を支払え」という間接強制決定が最高裁で確定しました(これについても,現在,長崎地裁に対し,間接強制金の増額変更の申立てがされています。)。
このように,現在,国としては,開門してもしなくても間接強制金の支払を強制されるという状況に置かれています。」

以下はウイキペデイアの記事です
https://ja.wikipedia.org

菅直人の上告見送り
菅直人はかねてより自民党が推進していた本事業を「無駄な公共事業」として強く批判しており[1]、政権を取る前にも市民運動家やTVカメラを伴って水門を訪れて水門をただちに開けるように要求するなどの行動を行っていた[1]。2009年9月民主党政権が誕生すると、民主党の検討委員会が「開門調査を行うことが適当」という見解を2010年4月にまとめた。2010年12月15日、内閣総理大臣に就任していた菅は、福岡高等裁判所の判決について上告を断念すると表明した[1][8]。これに対して長崎県中村法道知事は「国営事業として進められたのに一切相談・報告がなく、報道で初めて聞いた。大変遺憾だ」[1]として不快感を示した[9]。政府内でも福岡高裁判決はあまりにも一方的であるとして上告する意見が大勢であった[1]。諫早市市長の宮本明雄(当時)や仙谷由人官房長官(当時)や鹿野道彦農水相(当時)が菅を説得しようとしたが[1]、菅は「私が決断したことだ」と意見を変えず高裁判決を確定させた[1]。長崎県知事・諫早市市長・雲仙市長・地元商工団体、農業関係者は連名で菅に23項目の抗議の質問状を提出した[10]。

高浜原発で言えば、福井地裁と大津地裁で矛盾する仮処分が出た場合、(諫早訴訟と違って直ちに矛盾する訳ではありませんが・・論点次第です)最高裁までやっておけば結論が統一されます。
衆議院選挙無効訴訟の場合で言えば、ある高裁で無効判決が出た場合国が控訴しないで確定させて、その他の高裁で有効となった場合選挙の有効性が矛盾し、収拾がつかなくなります・・そこでそれぞれの高裁事件について上告して最高裁の統一見解を求めるのが責任ある立場です。
菅総理は敢えてこれを拒否してしまった結果、収拾のつかない状態に追いやってしまいました。
この後で政治と司法の関係を書いて行きますが、政治は無限に存在する時間軸・平面軸の利害(矛盾対立)を調整して統合して行く仕事であり、現在社会では民意・市場こそが神の手であると言う思想が支配的・・民主政体優位の時代です。
そして多様な利害調整は民意吸収の専門家である政治家→国家意思で行なうことになっています。
司法権はそう言う場ではない憲法の作り付けであるのに、政治の場で民意吸収・支持に負けた勢力が、政治の場外乱闘目的・・司法の場に戦いを移したことが矛盾判断の確定をさせてしまったと原因です。
司法は主体性がなく訴えのある限度しか裁判出来ない仕組みですから、仕掛ける方の支持者・内通者?がタマタマ政権交代で国側のトップになっていたときに、ある裁判所で国に不利な判決が出たときに客観資料の明白な読み間違いがあって上訴すれば明白に国が勝ちそうなときに、国の敗訴を確定させるために政権トップの判断で直ちにやめてしまえば、別の裁判所で逆の判決が出ても(・・その間に政権を失っても・)矛盾状態を維持出来ます。
ある会社が次期社長の息子相手に横領事件の裁判をしたときに裁判所の資料読み間違いで、間違って息子が勝ったときに、(福井地裁の仮処分は新聞報道によれば決定書き引用自体が専門家の意見を誤解しているミスがあったと言う報道がありました)控訴すればほぼ100%逆転出来る資料があるときに、次期社長になった親が控訴をやめさせたようなもので、一種の背任行為です。
このように政治は時間軸での一貫性やA県とB県あるいは、国際政治と矛盾しない(「少なくとも県外」の一貫性)等の統一性が要請されますが、政治が司法に頼ると矛盾状態が起きる「制度的保障がある)原因になります。
民主党政権は(諫早事件では開門派が最高裁では負けると分って?)敢えてこう言う選択をしたことになります。
総理が(党利党略の観点のみで)こう言うことをしたとすれば、国家運営責任者の自覚があったのでしょうか?
この後で書きますが大津地裁原発停止の仮処分決定も、高裁では負けると思ってすぐに控訴出来ない仮処分決定手続に敢えて?した(・・その間停止状態になることを狙った)疑いがないかをこの後で書いて行きます。
ここでは過大被害想定運動が原発反対運動や原発操業停止仮処分を発令する伏線として利用されている点を書くのが目的で、失政をどうするかのテーマではないので、この点は仮処分制度のテーマが終わった後に回します。

民主党政権の体質と諫早矛盾裁判の両立1

ここでは、民主党政治批判が目的ではありませんが、被害や対立を煽るだけ煽る政治やマスコミは何のためにやって来たかの視点で書いています。
沖縄の普天間基地移転問題は、騒音等の周辺住民被害解決のために,先ず大騒ぎがあって騒音や事故被害縮小のために一部海上移転の解決策が決まったものですが、そうすると今度は海の生物がどうのと言う反対運動が起き、それが解決すると「少なくとも県外へ」と言う実現不能な提案になりました。
この矛盾が露呈してやはり辺野古への移転が次善の策となると、今度は沖縄だけが本土の犠牲になっている・・沖縄知事が国連で民族自決権が無視されていることを訴えるなど沖縄県民は日本人ではないことを前提にした主張が始まり、中国が画策する沖縄の日本からの分離独立に繋げる公式発言をするようになってきました。
この過程の時間稼ぎとして司法闘争が始まったことになります。
(司法が政治の上位になるような司法権運用の合憲性・・政治と司法の憲法上の関係は後に書きます)
こうなって来ると基地被害を大きく訴えるのは(本質は反日でその防壁になっている)反米運動のための言いがかりでしかなく、民族分裂・・対立を煽り、「揉めさせることが目的」だったかのような印象を受けます。
被害は出来るだけ大きく主張した方が良いと言うスタンスは、被害者救済目的ではなく産業妨害・民族内対立を煽るには被害を誇張して主張すればその内に加害者も怒り出す・・対立激化させる意図によっていたことが分ります。
(放射能被害過大宣伝に応じて大仰に逃げた人との間で、地元民同士でも軋轢・不信感が生じています)
一般政治批判さえ許されない中国の支配下ないし従属化すれば、基地問題がなくなるのか?・・基地反対運動など全く出来ないから基地問題はなくなると言えますが、・・住民無視・蹂躙されるのが目に見えているのに基地被害を理由にする反政府運動で、中国の支援を当てにする運動を始めたのですから噴飯ものです。
民主党やマスコミの被害者救済運動は、昭和時代に中ソの公害や核実験を問題にしないでアメリカの核実験や日本企業の公害ばかり反対していた文化人の系譜を引いているようです。
沖縄を日本民族から切り離す運動を見ると「そこまで来たか!」と恐れる向きがありますが、逆に本音を出さざる得ないほど反日運動家に対する支持がなくなって来た・追いつめられて来たので外部勢力に頼る・・国連活動を始めたとも見られます。
(NGOを使って外部勢力を引き込む問題点は昨年末以来中断していますが、この後で書く予定です)
沖縄基地問題を騒いでいる勢力の本音が出て来たところで、沖縄県民がどちらをとるか・・彼らの煽動にのるか、沖縄県人の本音を本土の人がじっと見守っている状況になってきました。
一旦中国寄り意識・・どっち付かずの態度あるいは独立志向を明らかにした後で日本の方が有利となってすり寄って来ても、韓国に対する日本人の冷めてしまった気持ち同様に、(イザとなれば、信用出来ない民族として)千年の溝を作ってしまう分かれ道です。
沖縄県民が韓国レベルの智恵か本当に日本民族として残るに足る智恵があるかの見せ所です。
壱岐・対馬は元寇のときに現地住民は圧倒的勢力で攻め寄せた元軍に屈しなかった点で日本人は同一民族としての意識を更に高めています。
従来「何でも反対の社会党」と言われていましたが、民主党政権も何でも実現不能に持って行く・・国の政策停滞・・何も出来ない状態・・政府の弱体化を目的にして来たことが明らかになりました。
参院衆院のねじれ現象で何も決められない状態の「継続」こそは民主党の理想的政体だったでしょう。
あちこちで実現不可能なことを言っていた民主党が衆院で多数になってしまい、(同時性と継続性の両面で)一貫したことをするしかなくなるとどうして良いか分らなくなったのではないでしょうか。
政治の停滞・・何も決めない,しない・・させないことを目的にした政党が、政権獲得を目指すこと自体矛盾でした。
諫早干拓訴訟の結果、現出した矛盾状態の根源は民主党政権の目指していた開門方針・開門請求訴訟・・高裁勝訴判決(政府敗訴)が最高裁で負けそうな予想(政府勝訴予想)によって、敢えて従来政府方針との継続性を無視して上告せずに確定させてしまい・最高裁判断を回避したことが原因です。
政権交代したら何をしても良いのではなく、政権交代は政府の内部組織の問題に過ぎず、トップの方針が変わったとしても、政府自体は同一組織ですから継続性が必要です。
企業で言えば分り易いですが、社長が替わったからと言って前社長の決めた契約や約束を反古にすることは出来ません。
方針変更については、これまでの支援者と利害調整した上で和解すべきでしたが、姑息な手段・・一見裁判結果を尊重するかのような形式でありながら、実質は最高裁の判断を仰ぐのを拒否した・・菅総理が奇策を弄したことが矛盾した裁判所判断が確定してしまった原因です。
明日、法務省説明とウイキペデイア説明を紹介します。

社会保険の赤字10(定義の重要性1)

公的保険赤字は、赤字になると分っている鉄道を政治力で無理に引かせておいて、国鉄に赤字を負担させていたのが間違っていたのと同じことです。
国鉄マンが経営努力しても政治介入分が赤字になるのは理の当然ですから、労働意欲が落ちます・・マスコミはこれを咎めて国鉄マンが如何に働かないか、だらしないかの大合唱でしたが、大もとの原因隠蔽に手を貸していた・・大もとは政治介入による労働意欲減退だったことは民営化した後の働きぶりによって証明されています。
※ダラ漢・無責任労働者がはびこっていたことも事実ですが、大もとが腐っているときに外部から見れば末端の無気力が可視的になるのはどこの組織でも同じです。
幹部が経営責任を持てなくなっていたので、労働組合も組織がどうなっても良いと言う価値観が浸透し、利用者無視のストライキばかりやるようになってしまったのです。
社会保険庁の無能ぶりが民主党+マスコミによって大騒ぎして暴かれ,政権交代になりましたが、赤字をどうやって解決していいか分らない(国民・・主として人権派が大判振る舞い運動しながらお金を出すのをいやがっている矛盾が、集中的に現れていた)憂さ晴らしに、職員をスケープゴートにしてどうなるものではありません。
国鉄であれ、社会保険であれ、経済原理を無視した優遇を要求する以上は例外措置によって生じたコスト・資金は、税で賄うべきですから税で賄った分=保険料で賄えない分を赤字と言っているのですが、赤字の意味が民間(社会常識)と違っています。
民間の経済に関しては赤字と言えば放置すれば倒産の危機に及ぶ大変な事態として知られていますが、民間経済用語を会計システムの違う公的機関に持ち込むのは用語のすり替えでしかありません。
この辺は財務省が財政赤字と繰り返し宣伝しているのと同類のすり替えです。
私が繰り返し書いて来たように、公共団体の場合には例えば収支トントンの団体が、ある年100億円で港湾や学校を作ると、100億円分そっくり赤字になりますが、同時に100億円の資産が増えたことを計算に入れない変則的な会計制度だからそうなっているだけです。
個人で言えば年収1000万円生活費900万円の人・・収支黒字100万円・預貯金・投資金5000万円の人が、(投資金をそのまま運用したままで)4000万借金して、4000万のマンションや大手企業の株式を買った場合,その年だけの金融収支としては、取得したマンションや株式価値などのプラス資産を問題にしないので、年収入1000万−(生活費等支出900万+4000)=3900万の赤字・・年収比3、9倍の赤字です
財政赤字とはこのようにその年度の債務負担だけ見て年収・GDP比何%になったと言うのですが、この概念に何の有用性があるか分りません。
家計であれ、企業であれ、財務の健全性を見るには、蓄積した+資産と金融資産とのバランスで見るべきですが、財務省(あるいはその意を受けたエコノミスト・マスコミは敢えてミスリードしているのか分りません)は、資産部門の増減を全く問題にしていません。
どこの誰も認めないようなこねくり回した独自概念を一般概念と同じであるかのような印象でマスコミに流布して、年収・GDP比何倍だから大変と主張し続けているが何が大変なのか、合理的に理解出来ない・・マサに虚偽説明そのものとプロの世界では評価されているので、国債市場や円相場はびくともしていません。
公的機関が独特の概念(国語?)を作ってマスコミに流布させているだけですから、比喩的に言えば、「役所では晴れた日を雨」と言うことに用語統一した場合、それは内部の隠語・符牒であって外部に一般概念同様に流布させるのは言語の混乱を招いてしまいます。
社会に流通している意味では、明日晴れと予想されるときに、気象庁が内部符牒のママ「明日雨です」と国民に発表すると雨を前提で仕入れたり行動する国民を欺く行為です。
こう言う場合直ぐに結果が出るので、「気象庁は何をしている!」と言う非難轟々でしょうが、経済や政治現象で言葉の定義を勝手に変えて発表すると国民は常識的意味で誤解してしまいますが、虚偽であることがすぐに分らないので、国民を欺き易い・・欺かれている方は長期的に大損害を被ります。
内部独特の符牒概念を一般概念のように使うのを「嘘つき」と言うのではないでしょうか?
同じ「ドル」でも香港ドルやオーストラリアドルや◯◯ドルごとに価値が違いますので、米ドルで交渉してまとまったときに香港ドルを払うつもりだったイキナリと言うのでは詐欺になります。

高齢化と社会保険の赤字9(矛盾報道の害)

新薬や高額機器に対する保険適用が増えて来た結果コストが上がり、あるいは一定額以上は無料にしたり、貧困者の負担を軽くするなどを決めれば、その分それに対応して一般の保険料を上げるべきであって、これが政治的に無理ならば・・国民が同意していないと言うことですから、シビアーに言うと国民意思に反した決定をしていることになります。
「保険料値上げはイヤだが税金で賄うなら良い」と言う意見が論理的にあり得るのかも知れませんが、負担名目が違うだけで最終的には国民負担になる点は同じです。
税なら法人税、固定資産税その他が含まれるから自分の負担率が低くて得だと言うのでしょうが、(可哀相な人を救うのはいいが自分が負担するのはイヤと言う気持ちが背景にあります)結果的に公的施設・文化振興などの整備に回る費用がその分減少するので、国民が薄く広く負担する点は同じです。
ただ、朝三暮四の故事と同じで、目の前で自分のお金が出て行かなければ良いという気持ちもあるのでしょうか?
とは言うものの高額医療に対する保険適用を認めて行きあるいは、可哀相だからと免除対象を増やして行くと、増やした分だけ保険料を上げない限り保険は赤字になるしかありません。
かと言って赤字だから明日から保険給付出来ませんとは言えないので、赤字分は踏み倒せないし、実際に踏み倒していませんので、国税で補填しているので赤字とは言うもの収支は均衡している筈です。
赤字、赤字といつも騒ぐので大変なことになっている印象ですが、経理的に収支均衡しているに決まっているので、収入源が保険掛け金だけか国税によるかの違いです。
国税からの収入分を赤字と騒いでいることになります。
保険赤字が如何にも悪いことのように言う意見は、保険は保険収入だけ賄うべきと言うに等しい論理です。
民間ならば当然条件ですが、公的保険の場合、保険料が保障額比例ではなく収入差による掛け金設計ですから、収入の基礎からして経済合理性を無視しています。
支出の方も掛け金に関係のない病種によって、負担率の差を付けるなど、その他各種優遇措置の積み重ねですから、収支計算のときだけ保険論理を持って来て均衡させろと言うのは無理があります。
赤字と言っても実際には収支均衡していて、収入が保険料だけで賄っていない=不足分=税投入と言うだけですから、不足の原因が社会福祉政策によるならば、その分に税を投入するのが何故赤字と言い、悪いことのように言うのか分りません。
公立小中学校の経営を独立採算にして、税を投入しているから赤字を何とかしなくてはならないと言っても笑い物です。
元々税で負担すべきものは税で負担するのが当たり前のことでこれを赤字とは言わないでしょう。
赤字のうち保険制度に関係ない、福祉政策分は税で見るべきですから「赤字」の中身の分析が必要でしょう。
赤字のうち,保険料をアップすべきものをしない分は保険設計者の怠慢・ミスですし、政治決定で貧者の保険料を下げたり高額医療費の自己負担を下げているならばその分は税で見るべきです。
税で見るべき保険赤字=税投入であるとすれば、これを何とかする必要があると言う意見は、税投入をなくせと言うに等しいでしょう。
何かあると可哀相だと言う報道ばかりで誰も反対出来ない状態・・やっと保険適用が認められたと言う・・如何にもこれまで適用が認められなかったのが遅れた状態であるかのような報道を繰り返していながら、他方で保険赤字を批判する矛盾したマスコミ論調は、子供のわがままを大人が言っているような姿となります。
マスコミは中立であるべきですから、相対立する主張を併記しても良いのですが、併記ではなくある場面では患者家族の苦労を報道してやっと高額医療に保険適用が認められて良かったと言う前向き記事ばかり連載しておいて、かなり経過してから、赤字論を展開する・・このときは社会保険庁の役人がだらしないと言うイメージ記事中心になっていて政治的決定による本来の赤字の原因を全く書かない・・これでは両論併記ではないでしょう。
中立→併記するならば、高額医療の自己負担減額を認めるかどうかのときに「これを認めると国民負担が年間これだけ増える」と言う紹介こそが必要でしょう。
上記のとおり保険の赤字とは殆どが国税注入の言い換えですから、保険の経済原理を離れた社会保障コスト(生活保護者の無料化や障碍者の無料化などなど・・透析コスト)は税で負担すべきであるとすれば、赤字批判=税投入批判ですから、一方で税投入するしかない免除決定に賛同しておきながら、赤字解消=税投入反対の議論自体が矛盾です。
赤字論は透析などの高額医療に保険適用を認めるかどうかの議論のときに紹介すべきです。
赤字分がよくないと言うことは税投入が良くないと言う言い換えですから、収入源のうち税投入をやめるならば、保険料の増額しかないし、これもイヤならば、支出を抑える・・高度医療の適用を否定し高額医療の負担減免措置等をやめるか縮小するのどちらかはっきりした両論併記すべきです。
今の赤字論は、・・「可哀相だ」と言いながら、自分がお金を負担することを嫌がって「赤字,赤字(税投入いや)」と言っているに過ぎません。
マスコミは国民がわがままなので仕方なしにそのとおり矛盾した報道をしていると言うのかも知れませんが、それならば、同時に矛盾記事を載せるべきです・・そうすれば国民はどちらが良いか合理的判断をすることが出来ます。
これをしないのは、マスコミが中立義務を放棄して一方(可哀相論)への肩入れをしているからではないでしょうか?
「高額医療の免除を認めるとその穴埋めがどうなる」と言う子供でも分る論理を報道しない・・見ないことにしていても支出が増える一方ですから、赤字が累積して行くのは当然です・・。
その辻褄合わせに「高齢化が原因だ」とすり替え合唱している姿になります。
マスコミが合唱していて異論が全くないときには、大方怪しいのが普通です。

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