ヘイトスピーチ8(少数派の特権見直し)

韓東賢氏が日本人海外駐在員が数年後に想定される帰国に備えて、子供を日本人学校に通学させている現状を、そのまま真似して正当化に成功しているように誤解しているのですが、帰還事業に逆らって居残った在日朝鮮人や一旦帰国したがまた戻ってきた場合、短期間帰国予定の転勤族とはまるで違う・・その背景事情が全く違っています。
朝鮮人学校が必要になったのは、朝鮮戦争を契機に日本文化同化を拒む(常に異端勢力を抱えこませる尖兵として利用したい)政治勢力による「悪意」が基礎にあると見る右翼系の想定の方が説得力がありそうです。
実際に下記論文は「同化政策拒否」の思想が根底にありそうな趣旨です。
8月1日の日経新聞第一面の「人材開国」の欄では、英仏では移民を公式受け入れしてきた経緯から社会への溶け込み・同化を応援する施策が充実してきたのに対して、移民政策を公式に認めなかったドイツでは、トルコ人などの異文化民族がそのまま国内で孤立→集団化していて、これが、ドイツ人社会との軋轢を生み、帰って反移民論が噴出している原因となっているので、遅ればせながら外国人労働者を社会に受け入れる・・同化教育?に転じているという趣旨(私の誤解?)の解説があります。
勝手な想像ですが、社会の仲間として受け入れないから、外人はいつまでも外人のまま。外人の方も孤立しているから助け合うために自分達のコミュニテイーを形成するようになり、これが何らかの切っ掛けで民族間紛争になると、圧倒的な力の差があればナチスのホロコーストになり、ボボ対等に戦える場合には、元ユーゴ(クロアチア)での民族間戦争や多くの国に残っている少数民族との内戦になるのでしょう。
社会の安定には、よそ者をできるだけ温かく迎え入れて一日も早く仲間にしてしまうことが彼らの孤立化を防ぐ知恵ですが、そのためには、外国出身者にゴミ出しその他礼儀作法その他生活万般で、日本文化を理解して協調してもらうしかない・当然子供のときから、日本人と一緒に教育を受けた方が相互理解が進みお互いに馴染みやすいに決まっているのです。
同化というか包摂というかの違いがありますが、人種別の違った価値観でゴロゴロとした集団になって対立して住むよりは融合した社会の方が良いに決まっています。
日本列島にはいろんな顔かたちがあっても皆同胞意識が強いのは、縄文の昔から徐々に入ってきたいろんな民族が徐々に融合してきたからです。
ロシアによる米国選挙介入に限らず、敵対国の民族分断作戦ほど敵対国の分裂=国力を削ぐのに有効な戦略はないので、日本国内対立を煽る・在日朝鮮民族を日本同胞意識化を拒み、日本社会を不安定化を図る勢力が外部にあるのは仕方がないことです。
沖縄基地反対闘争に中国や韓国人が多く入って過激化を煽っていると言われますが、(現地にはハングル文字が氾濫している)その意図すするところは、「沖縄県民は日本人・同胞ではなかったのか?」という疑念を抱くように仕向ける・一体感を破壊するのが主目的と見るべきでしょう。
沖縄戦では米軍に殺されたより軍に殺された方が多いという宣伝も同じです。
上記韓東賢氏は、同化政策=ジェノサイド的理解のような1面的(日本をナチスのジェノサイドに見立てる傾向)見方(そういう断定はしていませんが・・私はそのような印象を受けたというだけ)を匂わせて、民族教育が必要であったと逆ばり論理展開するようです。
敗戦時に在日が200万人いたとしても、帰りたい人は皆帰国してしまったので戦後特別扱いを受けるようになった人たちは、帰還事業に応じないで居残った人とその後大量に舞い戻ってきた人や、戦争難民(当時アメリカ占領下にあって不法入国記録管理がはっきりしないこともあって実数は今のところ私には不明・・情報がないから占領軍の朝鮮関係犯罪の隠蔽体質の結果数字が一人歩きする原因)ですから、帰国予定もないのに帰国時のために・というのは一種のすり替え論ではないでしょうか?
ちなみに敗戦前から引き続き残っている朝鮮人は以下の通りらしいです。

ウイキペデイア引用続きです。

・・・・朝鮮人の引き揚げは継続され、1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している[116]。

在日の場合、犯罪を犯しても氏名公表しないとか、通名使用の事実上公認や、京都のように公園独占使用黙認などの事実上の違法行為黙認特権もあれば、特別在留者については犯罪を犯しても強制送還しないなど法律上の特権もあります・上記のようにその始まりは連合軍の検閲に象徴される朝鮮人優遇策にあり、なんら合理性がありません。
犯罪を犯しても本国送還しない特権の成立(辛淑玉氏風にいえば「勝ち取った」の)は、居残っている朝鮮人がいかに帰国を嫌がっていたかがわかります。
日本社会でいじめにあっているならば、喜んで帰るはずですし、一旦帰った韓国からこっそり舞い戻る必要がないはずです。
舞い戻り組みは、(当時入管を米軍が握っていたので不法入国の実態がはっきりしません)戦前、日本の方がチャンスがあると思って日本に働きに来ていた一種の出稼ぎ組みが、敗戦で焦土になった日本にいても将来がないと見切って逃げたグループだったから、その日本がみるみるうちに復興を始めたので、またチャンスを求めて舞い戻ってきたグループと見るべきでしょう。
東日本大震災時でも中韓人の(踏みとどまって復興に協力しない)逃げ足の速さが報じられていましたが、こういうことを繰り返すのが彼らの民族性でしょう。
米軍による検閲・朝鮮人犯罪等の報道禁止の慣習が戦後70年経過した現材もメデイア界に残り、在日犯罪に限定して氏名公表しない運用になって残っていると思われます。
これは少数民族保護というよりは占領支配の手先として利用するための優遇政策の名残ですから、占領支配終了後はこういう特権を維持する合理性はありません。
在日特有の「特別」在留者という資格自体、法律上特別地位=特権容認の意味でしょう。
あちこちの公的空間の不法占有→既得権化も朝鮮民族が(体を張って?)勝ち取ったものかもしれませんが、そういうことに対して日本人が「少数者保護に乗じたやり過ぎ」と異議を出し始めたことをなぜ「ヘイト扱い=表現禁止しょうとするのか不思議です。
上記経緯を見ると、昨今の朝鮮人問題は戦勝国米軍が敷いた戦後秩序見直しの一環であり、慰安婦騒動激化はこれに対する先制攻撃であったことがわかります。
戦後レジーム見直しを掲げる安倍政権を目の仇にするわけです。
表現方法が品位を害し威圧的であってその方法が許容範囲かの議論と「法律上の特権の有無、あるとしたら合理的かどうか」の「議論をしてはならない」という主張に広げるとすれば憲法上の問題です。
ヘイトスピーチ規制の可否・・・範囲と規制の程度に関しては、従来憲法学者が「思想の自由市場論」+「集団相手の名誉毀損は成立しないとしていた論調との調整が必要です。
京都朝鮮人学校事件では、あの激しい表現でも名誉毀損ではなく、業務妨害罪だったように記憶しています。
業務妨害罪ではなんらかの業務被害が、対象でそこで罵られている児童らの受けた心の傷は、業務妨害の一資料にしかなりません。
これでは本来の過激表現攻撃に正面から対応できないので、ヘイト規制推進派にとっては民族集団に対する批判も名誉毀損該当を求めたいのでしょうが、従来いくら日本民族批判をしても「集団に対する名誉毀損はない」という理論で日本民族批判派が守られてきたことと整合しません。

特権とは?(敗戦後の朝鮮人)

特権というのはいわば一般扱いの例外ということです。
高級店に行けば顔パスで奥の座敷に請じ入れられるのもその店での特権です。
村の祭りで村の有力者には、神社の上席が用意されるようになっているのは、その人一代の実績ではなく先祖代々相応の寄進をしたり、地元民をまとめるなどの功績に見合うのが普通です。
とき変わり、実績が見合わなくなると、「特権」として槍玉に上がるようになるし、他方で特権的地位維持のために能力以上の寄付をするのが負担になってきた方も(大地主が農地解放で財力を失った戦後はこの種の大地殻変動が起きました)お役御免を希望するでしょうし、これが一般的流れです。
現在私の地元では、神社お祭りや学校行事では町内会役員が出席する仕組みです。
明治維新直後の廃藩置県がスムースだったのは、ほとんどの藩が財政破綻状態だったので「お役御免」を希望していた藩がほとんどだったことによります。
辛淑玉氏が、在日特権は先祖が勝ち取ったものであるから見直す必要がないかのように主張するのでは、得手勝手というか論理的ではありません。
しかも在日特権は、米軍による日本支配道具として朝鮮人を戦勝国人ではないが、第三国人として占領支配の道具に使おうとした優遇策に始まる点を直視すべきでしょう。
本日現在の在日韓国朝鮮人に関するウイキペデイアからの引用です。

・・在日韓国・朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[10
1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人や中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた[109]。
1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した(首相官邸デモ事件)。また、三国人が行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造し[110]、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった[105][111]。

これが公的空間の不法占拠や違法行為黙認・一種の治外法権的状態・・事実上特権行使の始まりです。
この時代を体験している石原元都知事(1932年9月30日生まれ )による「第三国人」発言は相応の歴史根拠があるのです。
日本社会が敗戦で苦しんでいる時にこそ助け合うのではなく、「解放」と浮かれて警察力の脆弱化に付け込んで違法・粗暴行為を繰り返してきた「負の歴史こそ真摯に学ぶべき」ではないでしょうか?
こ反省がないまま、開き直り的日本批判ばかりでは、(日本人の方こそ恨みに思っている人が多いので)本当の民族和解は難しいと思われます。
在日特権の場合、特権以上の貢献が要請される伝統的特権の逆張りで、GHQの人種分断・朝鮮人優遇優遇を背景に始まったものですが、日本国民向け説明として「弱者救済」的に特別に見る(公的空間選挙の露店物売りなど)も大目に見て撤去を強制しないなど事実上の放置のほか、違法行為があっても強制送還しないなどの優遇策が始まったものです。
冒頭に書いたような社会貢献の裏づけのない特権・・在日の場合特権に対応する負担がないことが、在日が戦後70年も経っても特権を自主返納しないでいつまでも残ってきた主原因です。
生活保護や公営住宅優先入居など多くの福祉政策は、一般の経済ルールからいえば弱者救済のための特権そのものですから、その必要がなくなれば速やかに返上すべきです。一旦特権を手に入れるとこれを既得権化する不心得者が出てくる・・収入があってもこれを隠した不正受給が時折詐欺で摘発され、世帯収入が上がって公営住宅入居基準外になっても、容易に出ていかないのと同様の問題です。
在日の場合には、そのような批判に対する先制攻撃として?植民地支配でどんなにひどい目に遭ってきたかをまず言い募り、日本人を問答無用的に黙らせる・・日本社会からの批判を受け付けない・・「一切の文句を言わせない」ようにする傾向が目にあまってきた印象です。
これが戦後70年も続けば「いい加減にしろ!と言いたい人が出てきてもおかしくありません。
敗戦で解放されるまでの苦しみというのですが、以下紹介していくように、もともと日本で一旗あげようとして自発的に移住してきた人が大多数だったのです。
民族教育の必要性に関して7月26日に引用した韓国系学者らしい韓東賢氏の論文では、敗戦時の200万人と帰国に備えて日本語しか分からない子供らに対する朝鮮語教育等や民族教育の必要性を脈絡なく結びつけて民族教育の正当化を結びつけています。
7月26に掲載した・韓東賢氏の論文引用文を再掲します。

1945年8 月の「解放」時,日本には約200万人の在日朝鮮人がいた。不安定な状況のなかで様子を見つつも当初,その多くは帰国を目指した。だが,一緒に帰国するにも日本で生まれ育った子どもたちは日本語しかできず,また皇民化教育や差別を通じて被支配民族としてのスティグマや屈折を内面化していた。
子どもたちの朝鮮語習得と,またそうした状態からの脱却を願う在日朝鮮人のニーズが,朝鮮学校を生んだ<

・・・・・・朝鮮学校の制度的位置づけ,処遇問題からあとづけていく。そこから見えてきたものは次の3 点であると言える。
①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。
②2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。
③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。

敗戦時の数字200マンが正しいとしても、実は戦後約1年でほとんどの朝鮮人が帰還した(帰りたい人はほとんど全員すぐに帰れた)し、日本政府も一刻も早い帰国を望み奨励していたのに、それでも(抵抗して帰らず)居残ったのが在日ですから彼らは帰る気持ちのほとんどない人ばかりだったことがわかります。
元からいた200万人は帰還事業が始まるとわずか1年で140万も帰り、その後は日本政府の帰国勧誘にも関わらず帰国したがらない人だけが居残っていたことになります。
1年足らずで帰国した140万人にとっては子供を何年もかけて民族教育する時間がないはずですから、政府その他の勧誘にも関わらず帰国拒否していたグループのこどもをターゲットにした論文でしょうか?
しかし帰国したくないグループにとっては子供が日本語を学んで日本社会に早く馴染んでもらうほうが優先課題であったはずです。
日本人の海外駐在員の場合、数年〜4〜5年で帰国予定の保護者が帰国時に年齢相応の日本の小学校各学年に子どもが編入されてもすぐに適応できるように国内教育進度に合わせた教育を異国駐在中にも希望するのは合理的です。
在日の場合帰りたくない人が居残っていたのですから、帰国する予定のない人が「子供がいつ韓国へ帰ってもすぐ学校教育に適応できるように韓国の教育進度に合わせて朝鮮語を教えたり民族教育しておく必要あるでしょうか?
その時間分、日本の小学校等での数学や国語の勉強時間が減ります)

 同胞意識4と統治対象1

マスメデイアだけではなくネット通信の発達によって、さすがの中国も言論弾圧が出来なくなるだろうという報道が5〜10年前から普通でした。
しかし、中国では膨大な人口と膨大な失業者・アリ族の存在を逆利用して彼らを低廉な(5毛?)報酬での検閲要員に取り込んで、徹底した人海戦術でこれをチェックして即時抹消して押さえ込み、他方で積極的に政府に都合の良い政策方向の宣伝や反日ブログ等の書き込みなどをさせて世論誘導にあらかた成功しています。
ネットの発達が言論の自由拡大に中国ではあまり効果がなく、逆にネットの発達が英米支配の先進国(特に日本では)のまやかしの言論の自由が告発される時代になって来ていることを、2012年12月20日「米英系マスコミ支配2とマスコミの限界」あたりから正月のコラムまで書きました。
日本の感覚ですと「政府がそこまでやらなければ政権維持出来ないならばもう終わりだ」と思うのが普通ですが、「そこまでやるか!」と言う野蛮なことを臆面もなくやり続けて来たのが古代から今に続く中国政府です。
王朝は毎回倒れているし、共産党政権と清朝には政権としても民族(満州族と漢民族)としても連続性がないのですが、目的達成のためには手段を選ばない点では、そこに住んでいる人・政府構成員のDNAが大きな意味を持っています。
歴代政権が政権維持のためには手段を選ばない価値観で来たので、上が上なら下も下ということで、そこにいる住民自身も金儲けその多目的達成のためには手段を選ばない価値観になるのは当然です。
人体に毒であることが分っていてもミルクに毒物を混ぜて安く仕上げようとするような事件が続出していますが、そこには商道徳などかけらもありません。
上から下まで目的(政権維持・金儲け)達成のためには手段を選ばない価値観で何千年も来たからです。
中国や韓国では、政府(これを構成する官僚や軍・国民を含めて)にとってわが国で言うところの「国民(同胞)」という意識がないのではないか?と言う意見をこの後で書いて行きます。
異民族支配が多かった中国地域の道徳観では、共同体・同胞としての国民一般という概念がなく、利益を守るべき共同体は飽くまで一族意識の範囲内だけです。
韓国や朝鮮でも古代から異民族の入れ替わりが続いたことから、一族・本貫重視である点は同じです。
今の中国では共青団出身とか太子党などと日本のマスコミが如何にも利害対立集団の如く囃立てていますが、共産党大幹部の家柄・太子党一族か、共産党組織の中堅下部組織からから這い上がって来たかの違いだけで、共産党内部の覇権争いに過ぎず、その他一般は統治の対象でしかありません。
王朝時代の王族と高級官僚(宦官)による争いの蒸し返しに過ぎないと言えるでしょう。
中国でのジニ係数が破滅的数字に達しているとタマに報道されていますが、この係数自体まるで当てなりません。
もともと中国の統計数字がいい加減であるだけではなく、天文学的蓄財をしている共産党幹部や政府高官の収入は表向き小さく、中国の巨額収入層は賄賂等不正蓄財によるものですから、統計に出る筈がありません。
これらを統計に含めないでも相対的貧困層の比率が危機的状態とすれば、実態はもっと深刻・大変な事態です。
統計数字だけでも政権維持出来なくなる程の格差であるという論評が一般的ですが、欧米や日本んマスコミの期待にかかわらず中国が天文学的格差下で政権維持出来ているのは、徹底的強圧政治が可能・・躊躇しないことによります。
チベット僧の焼身自殺などがいくらあっても、中国政府にとって諸外国からの批判(外国介入の一種です)さえなければ、「そんなことくらいしか抵抗出来ないの?」と却って安心材料になるくらいでしょう。
尖閣諸島問題で中国の侵略が始まった場合、これに抗議して日本国内でいくら焼身自殺が相次いでも中国は、日本軍が抵抗出来ないからそんなことしているのだと安心するだけです。
中国政府にとって、国民が焼身自殺しても騒乱を起こしても同胞としての痛みを感じるのでなく騒乱軍に政府軍が負けるか否か・・政権維持出来るか否かだけが基準になっていると考えられます。
モンゴル軍が中央アジアを次々と侵略をしているときに、被征服民の何十人〜何百人が絶望して自殺しても侵略軍は何にも感じない・・無駄な抵抗にすらならなかった筈と言えば分りよいでしょう。
中国政府にとっては国民はそのような対象でしょう。
商人も製品によって顧客が毒物で死亡したり病気になっても、一族でない限り痛みを感じるのではなく商売を続けられるかどうかだけ(取り締まりだけ)が基準になります。
日本の場合でも、何か重大自体があれば結果として政権維持・顧客維持に関係しますから結果だけ見れば似たようなものですが、先ず同胞として痛みの共有から入って行く点が大きな違いです。

独裁(特権階層)と自由競争の矛盾1

絶対王政・・王様一族だけが例外ならば、(我が国の場合法の下の平等に関し、天皇家だけが例外ですが、天皇家・皇族は全部でせいぜい数十人程度でしかいないし、これと言った世俗的特権を持っていないので)全体から見て大したことではありません。
中国共産党幹部・地方中堅まで含めた特権階層となると半端な数ではないので、社会全体で日常的に不公正・不平等を目の前にして生活していることになります。
たとえば、苦労して大学を出てもアリ族やネズミ族になるしかないかどうかは、地方幹部の子弟まで含めて社会の隅々にまで張り巡らされた共産党関係者の子弟かどうかがその決め手になるようです。
このように青少年は人生の出発点でイヤっと言うほど不公正を思い知らされるだけでなく・・日常業務に措いても共産党にコネがあるかどうか・・賄賂次第による不公正なことが横行している社会です。
西欧では、特権階層が少人数の絶対王政でも矛盾の激化に耐えられずに、自由平等博愛の革命になりました。
自由経済体制・・競争条件の平等が基礎にある価値観と独裁=特権的利益維持(不自由)の併存矛盾を縫合するのが、何十万人とも言われるネット検閲削除要員の雇用であり、これを物理的に押さえ込むために公安警察の膨張・軍の膨張になっています。
(失業者吸収にもなるので、政権としてはこれも1石2鳥を狙った策のつもりです)
独裁と自由と言う矛盾した価値観の状態におかれた経済界・国民の経済行動としては、価値観を棚上げ・価値に盲目になるしかない・・金儲けのためには手段を選ばない方向となります。
コストを安く上げるために毒物と分っているメラミンを混入していた事件が発覚したことがあります。
日本人なら(ミスならあるとしても安くするために故意に毒物を入れるなど)「分っててそこまでやるか!」と言う事件ですが、こうした商道徳どころではない事件が無数に起きているのが現在中国です。
(まして知財の剽窃・泥棒や強盗程度では当然気にしません)
手段を問わずに「金儲けすることが良いことだ」くらいの価値観しか身に付かなくなっているのが現状です。
タマタマ昨日の日経夕刊のニュースでは、毒物混入の粉ミルク製造事件(1〜2年以上前に発覚した事件だったと思いますが・・まだ収束していなかったのでしょうか)によって中国国内生産ミルクを信用出来ない消費者の需要に応じて香港やマカオからの粉ミルクの運び屋が増えたために、マカオでは品薄になって大騒ぎになっている記事が載っていました。
金儲けのためには手段を選ばない方向へ進んだのは鄧小平の「黒猫でも白猫でも獲物を得た猫が優秀な猫」というような標語が出回っていたのがその象徴です。
政権維持のためにはどんな非人道的なことでもするし、企業人は金儲けのためには、手段・・ルールを気にしないのが現在中国全般の価値観になっています。
こう言う価値観で生きている社会ですから、対外的にも同じ行動をとります。
尖閣諸島や南沙諸島問題では中国が欲しくなれば、国際的なルールなど問題にしないで強盗のように「これも欲しい」と主張すれば後は力づくで良いという態度です。
アメリカのクリントン長官に対してアメリカが日本の見方をするならば、「中国はハワイだって領土要求出来るのだ」と脅したことが以前報道されました。
相手が泣き寝入りすれば「弱いんだから仕方ないでしょう」という原始社会の道徳を主張していることになります。
中国の拝金主義とアメリカのビジネス主義は似てはいますが、アメリカのビジネスには(アメリカに都合良く作ったに過ぎないとしても一応)ルールがあるが、中国では金儲けのためにはルールを破っても良い社会であるとDecember 5, 2012「民主主義と正義12(政治資金3)」で書いたのはこの意味です。
英米法の基本原理は目的の正当性よりは、デュープロセス・適正手続きに重きを置く社会であることとアメリカのビジネス主義とは符節が合います。
中国の政府や国民の行動ルールを合理的に解釈すれば、「強い者は人殺しでも人の物を奪うのでも何をしても良い」「万人の万人に対する闘争状態」不法状態こそよって立つルールに帰するのでしょうか?

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