メデイアや野党による政府追及1と思想弾圧2

実際に美濃部達吉の天皇機関説事件では内務省がメデイア世論に押されて告発したものの、検事調べで起訴猶予処分になって終わっていますし、京大の滝川事件でも、大学を(国家公務員の地位を)追われるかどうかだけで刑事処罰されたものではありません。
美濃部事件では野党政友会によるもので政府が対応するしかなくなったのですが、政府中枢どころか、天皇陛下でさえ美濃部説を支持していたと言う発言記録があるほどです。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記事からです。

昭和天皇の見解
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている[7]。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ — 『西園寺公と政局』

滝川事件も以下で紹介するように政府中枢がメデイアの煽る世論に仕方なしに妥協的な処分をした裏事情が出ています。
半可通の右翼青年が政治力を何故持つようになったかといえば、民主主義がなかったのではなくむしろ民意重視の古代からの我が国で民意・・世論を偏った方向へ煽るメデイアの害が大きかったのです。
日露戦争講和条約に対する不満(戦勝したのに戦利品が少ない不満)で集まった暴徒による日比谷公園焼き討ち事件が知られていますが、素人が日ロの戦力比や国際情勢の機微を知る由もないので、半可通の極論を言う一部人士の言説をあたかも正義のようにメデイアが煽ってこれに軽薄な階層(メデイアを読む当時の知識人?)が反応したに過ぎないことは歴史が証明して・・ポーツマス条約は国際的根回しの成果・・当時の国際環境下では最大の成果であったことについて争いがないでしょう。
日比谷公園焼き打ち事件に関するウイキペデイアの記事です。

ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 – ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。

当時はまだ民主主義制度が根付いていなかったので、政府は半可通知識にもとずく極論・暴動を無視していればよかったのですが、大正時代に入ってくると、メデイアによる世論形成効果(読者層が増えてきた)・・アオリ効果が多くなってきたので、半可通の知識人?やメデイアによる右翼扇動が(メデイアの一方的な報道がなければ条約交渉の推移など一般人が知る余地がありません)世論を形成し、国政を左右するようになって国家の方向性を誤らせてしまったのです。
戦前の軍国主義・いかに政府権力が怖いか・政府がいかに悪かったかを戦後メデイアや文化人が他人事(自分が被害者)のように宣伝をしていますが、右翼思想を煽って際限ない吊るし上げ政治・言論を萎縮させて行ったのはメデイアであり、半可通知識人だったのです。
ちなみに現在政府批判の急先鋒である朝日新聞は戦前には右翼の主張を煽って政府批判していた代表的メデイアであり、(上記日比谷事件でも朝日新聞の名が出ている他、後記上海新聞事件に関する論文を見れば天皇機関説事件その他で政府批判をしては、その都度軍部の力が伸長するのに貢献してきた疑いがあります。
メデイア界はこぞって軍部に媚びては次々と普通の学問まで標的にしてはまともな政治を出来なくしていったものであり、占領軍が来ると今度は占領軍軍政方向に協力し、占領軍がいなくなると中ソの宣伝機関化して戦前暗黒時代の宣伝に邁進するようになります。
日本社会の戦前戦後の違いは、メデイア界が右翼を煽るか左翼を煽る(対中韓失言報道を煽っては大臣罷免を要求するなど)かの違いであり、メデイアの誘導する民意?に基づく政治を前提にする点は同じです。
天皇機関説事件に関するウイキぺデイアの記事です。
天皇機関説事件とは1935年に起こった事件。当時の岡田内閣を倒閣させるための野党などによる攻撃に天皇機関説という憲法解釈が利用され、文民である内閣による軍事への影響力の根拠である「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が政府の輔弱を受けて行使する」が攻撃された。
議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。
最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]。
上記によれば、政府が弾圧したと言うよりは、現在政治同様に政策論争よりは野党の揚げ足取り政府批判に端を発し・これをメデイアが大々的に報じて世論を誘導して、内閣が対応するしかなくなった事件です・権力による弾圧ではなくメデイア攻勢に権力が屈した事件です。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC-102675による解説です。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
天皇機関説
一木門下の東大教授美濃部達吉(みのべたつきち)は、日露戦争後、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたG・イェリネックの学説を導入し、国民代表機関たる議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとの説をたて、政党政治に理論的基礎を与えた。京都帝大教授佐々木惣一(そういち)もほぼ同様な説を唱え、1920年代には天皇機関説がほとんど国家公認の憲法学説となった。
【政友会】より
… 続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。

上記の通り政党自身が政党のよって立つ憲法学説を批判して否定の論で気炎をあげる・「政敵を攻撃するためには何でもやる・・日本の将来など気にしない」と言う政党の低レベル行為が、日本の代議制民主主義の病理現象を拡大し日本を破滅の淵に追い込んでいった・まだ民主主義を使いこなせなかったように見えます。

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会3

マッカーサーが選任された時には、SWNCCの申し子として対日占領政策遂行の現地トップとして信頼されて選任された(彼自身フィリッピン撤退に関して個人的に対日報復意識が強かったことは周知の通りで、その彼を選んだSWNCCの基本姿勢がわかりますし、本来合理的制度としては、マッカーサーが個人的報復をしすぎないための監視役だったはずなのに、)着任後マッカーサーが日本擁護役に回って背後のWNCCと政策対立が始まったとすれば不思議です。
マッカーサーが天皇との会談で感銘を受けたことによると言う意見がありますが、この点はあとで触れるとして対日政策は国際政治の一環ですから背後には複雑な関係があるでしょうから、この面から見ておきます。
GHQ内に国内対立が持ち込まれていて民政局と情報治安局との対立があったことは一般的に知られていますが、一般的には天皇制に関する意見相違というよりは、容共スタンスかどうかの違いをいうものが普通です。
外見上そう見えますが受ける印象は、アメリカ国民は悪くないが民主党政権になると、反日的で日本は民主党政権いなるといつもひどい目にあっているとという論旨展開です。
中国などの常套文句である日本国民は敵ではないが、軍人が悪かったとか、今は自民党支持が揺るがないので自民党を批判しないで、安倍政権だけゆるせないという論法にそっくりです。
メデイアはその通りの受け売りで総選挙前には内閣支持率が低いという宣伝ばかりしていましたし、どこの野党か護憲勢力か忘れましたが、憲法改正について、内容の議論前に「安倍政権での改憲を許さない」という子供じみた主張を臆面もなくしていました。
ここまでくると幼児並み主張です。
憲法や法律は将来を拘束するものであって、数年内に退陣する現政権とほぼ関係がありません・内容の議論こそが必要でしょう。
日本にとって良いことであっても、あの人がいうから反対・テストの結果が良くてもあの子は落第にしろというような感情論を煽っているのです。
内容に入りたくないから、多くの憲法学者が反対しているとか、憲法には憲法改正できない限度があるというような抽象論が幅をきかすのでしょう。
http://www.sankei.com/politics/news/180115/plt1801150005-n1.html

2018.1.15 07:07更新
安倍政権下の改憲反対54% 共同通信世論調査

上記を見るといわゆる安倍叩きが奏功していて不合理な意見が影響力を持っていることが分かります。
右翼系ネットで「アメリカは良いが民主党が悪い」という運動が盛んになったのは、日本左翼の政治運動の真似でしょう。
裁判闘争の真似を始めたのも同根ですが、左翼系の方は「一日の長」どころか何十年もの経験差があって真似では勝てないでしょう。
容共かどうかばかりで天皇制について全く触れないのは「共産主義勢力にとっては君主制そのものが議論以前に容認できない立場であった」・自明だからこの種の論者は天皇制に対するスタンスがどうであったかの紹介をしていないのかも知れません。
以下はhttp://dorian.en-grey.com/徽宗皇帝のブログで引用されている意見を引用したものです。
ここには主張根拠を書いていませんが、検索してすぐ出たことと、一般に知られていることですが、この主張が正しい事実に基づくかどうか不明のままのあんちょこ引用ですが/事実であるか否かは読者の事実調査にお任せします・・これを引用しておきます。

「当時GHQの内部には二つの路線対立があり、国務省系のGS(民政局)は占領内政担当で民主党左派すなわちニューディーラーによって構成されており、国防総省系のGⅡ(情報治安局)は軍務担当で共和党員が中心になっていた。
このGSとGⅡが激しく対立していたのである。民主党の影響下にあるGS(民政局)は日本をマルクス主義化する実験と併行して「ウィークジャパン(弱い日本)をつくる」と主張しており、一方GⅡのウィロビー少将はニューディーラーたちが日本を左翼国家へ改造しようとする「実験」に強く反対し、「不必要なまでの日本の弱体化は国際共産主義を利する」と考えてストロングジャパン政策を主張していた。」

要するに国務省・民政局(民主党系/容共系)対国防省(共和党系・反共)の路線対立があったとの主張です。
これが最近言われているルーズヴェルトの容共政策→日本はその犠牲になったとする一連の議論とも繋がっているのでしょうし、左翼系論者には受け入れらない議論でしょう。
ただ、上記「徽宗皇帝」のブログ執筆者自身が上記引用文を、「GHQ内部の社会主義者グループと反共主義者グループの対立について簡潔にまとめた文章を探して、検索の最初のあたりにあったものを適当に拾ってきた。文章の調子からすると右翼思想家のもののようだが、書かれた「事実」自体は他の人のGHQ関連著作に出てくる内容とほぼ同一だから、書き手の偏見的記述にさえ気をつければ読むのに問題は無いだろう。」自分と立場が違うが、事実として問題がなさそうとして引用しています。
ただしこのブログ自体も執筆者の自己紹介がない・責任を負いたくない意思表示でしょうから、元々無責任意見として読む必要があります。
毎日からの引用です。
https://mainichi.jp/articles/20150504/org/00m/010/997000c

制定過程をたどる 2015年5月4日
2 天皇制守った「象徴」 GHQ、戦争放棄と「セット」
1946年2月13日、東京・麻布の外相公邸。連合国軍総司令部(GHQ)のホイットニー民政局長は「日本案は全然受諾できない」と宣告し、タイプで打った21枚の用紙を差し出した。
・・・ぼうぜんとした表情を浮かべる吉田茂外相と松本に、ホイットニーはくぎを刺した。
「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国の圧力から天皇を守ろうと決意している。この諸規定が受け入れられるなら、実際問題として、天皇は安泰となる」
このときホイットニーは「天皇のperson(身体)を保障できない」とも述べたという説があるが、吉田は否定している。
象徴天皇制と戦争放棄はGHQ案の核心部分だった。米国は太平洋戦争中の42年から、天皇制を利用して日本を間接統治する道を探っていた。終戦後の45年9月27日、マッカーサーは東京の米大使館で昭和天皇と会談し、天皇の戦争責任を問うべきではないという思いを強くしたとされる。
しかし当時、米ギャラップ社の世論調査では、米国民の約6割が昭和天皇の起訴を支持していた。オーストラリアが天皇を戦犯リストに入れるよう主張するなど、国際情勢がGHQに必ずしも有利でない中、マッカーサーには、ソ連や中国などもメンバーの極東委員会が介入する前に憲法改正を終えたい思惑があった。
・・・マッカーサーは2月21日、幣原喜重郎首相との会談で率直に伝えている。「私は天皇を安泰にしたいが、極東委の議論は不愉快なものだと聞いている」「ソ連とオーストラリアは日本の復讐(ふくしゅう)戦を恐れている」
政府は翌22日の閣議でGHQ案の受け入れ方針を決め、幣原らが昭和天皇に報告した。GHQの記録によると、天皇は「最も徹底的な改革を、たとえ天皇自身から政治的機能のすべてを剥奪するほどのものであっても全面的に支持する」と語ったという。
2月26日、極東委員会の第1回総会がワシントンで始まった。ただ、昭和天皇の訴追論議は盛り上がらず、4月3日、天皇の不起訴方針が事実上決まった。結果として、マッカーサーの描いた戦略は功を奏した。
東京裁判に詳しい日暮吉延帝京大教授(日本政治史)は、強硬姿勢だったオーストラリアが矛を収めた背景を「日本の軍事的脅威がなくなれば、天皇を裁判にかける必要性もなかった」と説明する。
GHQが天皇制の存続と引き換えに改正案の受け入れを迫った一連の経緯は、現在の「押し付け憲法論」の根拠の一つだ。しかし、天皇を守ることは日本政府にとっても最大の課題だった

 

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会2(SWNCC228)

昨日紹介した国会図書館の概説3−2の引用だけでは、ここで関心のある天皇制に関する米本国の動きが不明なので、日本国憲法の基礎になっているSWNCC228骨子を見ておきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/059/059tx.html#t005によれば以下の通り、ほぼ現憲法の(リフォーム)骨格が示されています。

Reform of the Japanese Governmental System(SWNCC228)
TOP SECRET
COPY NO. 66
7 January 1946
STATE-WAR-NAVY COORDINATING COMMITTEE
DECISION AMENDING SWNCC 228
REFORM OF THE JAPANESE GOVERNMENTAL SYSTEM
Note bytheSecretaries
1〜3省略(稲垣)
CONCLUSIONS
4. It is concluded that:
a. The Supreme Commander should indicate to the Japanese authorities that the Japanese governmental system should be reformed to accomplish the following general objectives:
(1) A government responsible to an electorate based upon wide representative suffrage;
(2) An executive branch of government deriving its authority from and responsible to the electorate or to a fully representative legislative body;
(3) A legislative body, fully representative of the electorate, with full power to reduce, increase or reject any items in the budget or to suggest new items;
(4) No budget shall become effective without the express approval of the legislative body;
(5) Guarantee of fundamental civil rights to Japanese subjects and to all persons within Japanese jurisdiction;
(6) The popular election or local appointment of as many of the prefectural officials as practicable;
(7) The drafting and adoption of constitutional amendments or of a constitution in a manner which will express the free will of the Japanese people.

ここで一応区切りますが、aによって上記7項目の(基本的人権の尊重や自由な選挙による国会の権能と政府・内閣が選挙民に責任を負う等)の基本原則(general objectives)が示されます。
命令/強制ではないというものの以下の一般条項が「should be 」・・されるべきであり、これを司令官は「should indicate」すべきということですから、この原則に反する憲法は認めない・・結局は、強制が目立たないように「巧妙にやれ」ということでしょう。
ですから、トップシーククレット文書でしたが、期間経過で公開されたので今では日本側の手に入っていることになります。
SWNCC228の続きです。

b. Though the ultimate form of government in Japan is to be established by the freely expressed will of the Japanese people, the retention of the Emperor institution in its present form is not considered consistent with the foregoing general objectives.

上記によればthe ultimate form of government(政体)は民意によって establishされるべきであるが、現状の天皇制を(そのまま?)維持するのであれば、上記7項目の基本ルールに適合するとは認められないと判定基準を示しています。

c. If the Japanese people decide that the Emperor Institution is not to be retained, constitutional safeguards against the institution will obviously not be required but the Supreme Commander should indicate to the Japanese that the constitution should be amended to conform to the objectives listed in a above and to include specific provisions:
(1) That any other bodies shall possess only a temporary veto power over legislative measures, including constitutional amendments approved by the representative legislative body, and that such body shall have sole authority over financial measures;
(2) That the Ministers of State or the members of a Cabinet should in all cases be civilians;
(3) That the legislative body may meet at will.

d. The Japanese should be encouraged to abolish the Emperor Institution or to reform it along more democratic lines. If the Japanese decide to retain the Institution of the Emperor, however, the Supreme Commander should also indicate to the Japanese authorities that the following safeguards in addition to those enumerated in a and c above would be necessary:
(1) That the Ministers of State, chosen with the advice and consent of the representative legislative body, shall form a Cabinet collectively responsible to the legislative body;
(2) That when a Cabinet loses the confidence of the representative legislative body, it must either resign or appeal to the electorate;
(3) The Emperor shall act in all important matters only on the advice of the Cabinet;
(4) The Emperor shall be deprived of all military authority such as that provided in Articles XI, XII, XIII, and XIV of Chapter I of the Constitution;
(5) The Cabinet shall advise and assist the Emperor;
(6) The entire income of the Imperial Household shall be tuned into the public treasury and the expenses of the Imperial Household shall be appropriated by the legislature in the annual budget.

以下省略

dでは、「The Japanese should be encouraged to abolish the Emperor Institution or to reform it along more democratic lines. If the Japanese decide to retain the Institution of the Emperor, 」として、日本国民が、天皇制廃止またはより民主的天皇制へのリフォームについてエンカレッジされるべきだが、民主的天皇制維持を決定したときには最高司令官は(これを尊重しながらも)日本当局者にCおよび以下の列挙事項(1)〜(6)を示すべきであるとし、そこには、現行憲法同様の内閣の助言承認や天皇の統帥権の剥奪、皇室年次予算の必要性などを書いています。
上記の通り1月7日には、既存天皇制を否定するだけではなく、むしろ存続させる方向性がありうることを示唆しています。
この時点では、戦犯として被告席に立たせる方向性が100%否定されていたことが明らかです。

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

昨日の資料の続きです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.htmlからの引用です

3-4 極東委員会の設置とGHQとの会談
終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。
とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。3-7 憲法改正権限に関するホイットニー・メモ 1946年2月1日
極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、GHQに憲法改正の権限があると、マッカーサーに進言したホイットニー民政局長のメモ。
1946(昭和21)年に入り、極東委員会の発足(2月26日)が迫っていたとき、ホイットニーらは、その前身である極東諮問委員会との会談のなかで、彼らが憲法改正問題に強い関心を持っていることを知った。この文書が作成された2月1日は、GHQ草案作成の重要なきっかけとなった、毎日新聞のスクープ記事が掲載された日でもあった。GHQは、独自の憲法草案作成を決断するにあたり、その法的根拠について検討していたのである。
3-28 極東委員会の関与
極東委員会は1946(昭和21)年2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。
そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。
東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。
しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。
このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。
マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。
極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。
4-6 極東委員会「日本の新憲法についての基本原則」
1946(昭和21)年7月2日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、新憲法が盛り込むべき原則を初めて示したが、これは半年前に米国政府がマッカーサーに伝えていた「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基本としたものであった。同委員会内ではかねてより天皇制に対する強い反発があったが、結局SWNCC228を踏襲して、「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。
マッカーサーは、この基本原則に異議は唱えなかったが、この「指令」を公表すれば、憲法改正に対する日本国民の自発的努力が連合国による強制という性質を帯びることになるとして、公表を抑えさせた。

上記の通り、マッカーサーは極東委員会をうまく手玉にとっていたことが分かります。
マッカーサーが極東委員会をコケにしたのは(ソ連に口出しさせない)本国の意向であったのか、それともマッカーサー個人の意見だったのか断定できませんが、もともと本国の決定機関・・「米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)」は上記の通り「天皇制廃止」意向が強かったのが、マッカーサーの意向を反映して1月7日公式文書の「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。」という中立的な表現に変わったものの、対日政策方針でマッカーサーとの間でぎくしゃくしていたと言われていたように思います。
この1月7日のSWNCC文書発令前にアイゼンハワー参謀総長からマッカーサーとの書簡応答があった資料を1月10日コラムに引用しましたがもう一度ここで引用しておきます。

3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

「天皇を戦争犯罪者として裁くべきかの調査命令発出・・元々本国では「天皇の戦争責任を問うべき」とする意見が強かったことが推測され、・・マッカーサーの意見は、この方向を変えるエネルギーになった可能性があります。
この報告書を受けて、戦犯追及意見が下火になり、1月7日のSWNCC228の公式(最終)意見となったのでしょう。

アメリカの自治体3(州・地方政府の関係)

今回のシリーズでは自治体にどのような権限があるのか?ですが、外国制度は理解に時間がかかりますが、順を踏んで行くしかありません。
まずは連邦と州の関係を見ておきましょう。

https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdfによれば以下の通りです。
65第2章アメリカにおける連邦・州・地方の役割分担
橋都由加子
1.アメリカの政府構造
アメリカの政府は、合衆国憲法に根拠規定をおく、それぞれ主権を持つ連邦政府と州政府と、州の下部単位である地方政府から成っている。
2. 連邦・州・地方の法的な役割分担
2.1 合衆国憲法
合衆国憲法における地方自治の規定は、1791年に成立した憲法修正第10条による。
ここでは「憲法が合衆国に委任し、または州に対して禁止していない権限はそれぞれの州または人民に留保されている」と定めていることから、連邦と州の間での役割分担は、連邦の権限が具体的に列挙されて州が残余権を有するという、州権の強い形となっている。
2.1.1 連邦の立法権
連邦の立法権は、第1条第8節に列挙されている。
・・列挙事項省略・・稲垣
2.1.2 州の立法権
州は一般的に州域のすべての事項について権限を持つが、その権限は合衆国憲法によりいくつかの制限を受けている。
まず、第1条第10節第1項には、以下の州への禁止事項が列挙されている。
1 条約・同盟・連合の締結
2 捕獲免許状の付与
3 貨幣の鋳造、信用証券の発行、金貨・銀貨以外による債務弁済
4 私権剥奪法・遡及処罰法もしくは契約上の債権債務関係を害する法律の制定
5 貴族の称号の授与また、同節の第
2 項と第3項では、以下の州の一定の行為は連邦の同意を必要とするとされている。
1 物品検査法執行のために絶対必要な場合を除き、輸入税または関税を賦課すること
2 トン税の賦課
3 平時における軍隊もしくは軍艦の保持
4 他州もしくは外国との協約もしくは協定の締結
5 現実に侵略を受けたときもしくは猶予しがたい緊迫の危険があるときを除き、戦争行為
2.3 州憲法・州法における地方政府条項
2.3. 1地方政府条項13
州憲法における地方政府や地方自治の規定は州によって異なっている。例えば、アラスカ州憲法では「地方自治」が明確に規定されており、オクラホマ州憲法には地方政府に関する制約や規制に関する条項が多く盛り込まれている。一方で、州によっては、「地方政府」に関する条項や「地方自治」に関する条項が規定されていないものもある。しかし、それらの州憲法にも「収入支出制限条項」があり、カウンティや市などの地方政府について言及しているため、地方政府について全く規定がないわけではない

上記によれば一般に言われている「州兵保持」と連邦憲法の関係がどういう関係になるのか・個別同意によるという程度の弱いもののようです。
日本の幕藩体制では、各大名家保有の兵力は天賦不可譲の権利の扱いでしたが、アメリカの場合連邦政府結成の条約で連邦政府の同意によってのみ州が独自の軍を保有できる弱い関係になっていたことがわかります。
もしかしたら南北戦争で懲り懲りしたので再度の内乱を恐れてこうなったのかもしれません。
同意が必要と言っても、事実上全部同意する前提で憲法が成立したのでしょうが、いざとなれば(州の独立運動になれば)同意を取り消せるのかもしれません。
日本では武士以外の刀狩がありましたが、アメリカの場合(10日ほど前にもラスベガスで大規模な銃乱射事件が起きましたが)個々人の武装権の放棄が進んでいない点は周知の通りです。
州と連邦の関係では、独立戦争時には州から出す兵力中心で連邦政府軍自体がないのですから州軍の存在価値が高かったでしょうが、連邦政府軍が充実していくと各州が独自兵力保持する必要がなくなっていきます。
せいぜい州内の大規模騒乱鎮圧の仕事?くらいですから、日本の警察の有している機動隊程度で十分です。
対外兵器である大陸間弾道弾や核兵器や戦闘機をいっぱい作っても内政に寄与しません・内政が充実していない・・これが端的に現れるのは道義の退廃・治安悪化の結果個々人の自衛権を放棄させられない現状を表しています。
日本で秀吉の刀狩りが成功し明治の廃刀令が浸透したのは、もともと応仁の乱〜戦国時代と言われますが、武士団同士の領域争いであって、庶民はおにぎりを食べながら合戦を見物していたような「のどかで・安全な社会」が続いていました。
刀狩りがあっても庶民が身の安全を守るためにはそんなに困らなかったのでその通り従ったし、明治維新後の廃刀令がそのまま受け入れられたのも、当時治安が良くて武器携行義務の方が武士にとって重荷になっていたからです。
アメリカは国の外形を腕力で大きく囲ったが、(文字通り大ふろしきを広げただけ)未開の原野を広く囲っただけの国土でしたから、(中東やアフリカ等で人為的地図上の直線の国境線びき同様)その中身がスカスカ状態で始まっている点が特徴です。
スカスカの原野に一定の集落・コミュニュテイーができたらその都度申請によって自治・組織体を認めるという仕組みで、日本などと発展の順序が逆である点に問題があると見るべきでしょう。
日本の場合、・・・濃密で阿吽の呼吸で理解し合える信頼関係のある原始氏族共同体〜生活規模の拡大に応じて順次協調していき、氏族を超えた集落共同体へ〜ムラ社会〜と一体感を育成し、必要に応じて市が立ちさらに遠隔地の集団と折り合いをつけながら生活ルールの共通化を図ってきました。
城下町や門前町の発達〜幕藩体制になりましたが、各大名家間の往来が頻繁でしたから御定書のシリーズで10年ほど前に書きましたが幕府の判例を各大名家が導入参考にするなど事実上価値観一体化が進んでいました。
だから、廃藩置県で多くの藩が一つの県になるのをスムースに受け入れ、ほとんどの県で一緒になった住民間でも違和感を感じず民族的軋轢が生じなかったのです。
(部分的に長野県では南信地域と北信地域の反感が根強いことと福島県では会津を中心とする山間部と海岸線の文化の違い・いわゆる「浜通りと中通り」に分かれている程度でしょう)
このように日本列島では、近代〜広域自治体へと順次発展し・民族一体感を築き上げてきた社会ですが・・アメリカの国づくりは何もないところに広大な領域だけ囲った・集落関係は自治体はまだ原始的初歩段階にあると11日のコラム末尾に少し書きました。
その弱み・・空白地帯の大きさ〜コミュニュティ関係の一体感欠如が治安問題に端的に現れていることがわかります。
この後で事例紹介しますが、警察署設置のためだけの自治体結成が行われている事実・・必要に迫られていることからも分かります。
10月12日に引用文で紹介しましたが、環境その他広域処理しなくてはならない事項がどんどん発生しているのに、我が国のような広域連合構想や自治体広域化のこころみが全て挫折している・各自治体のエゴ主張が強くてまとまらない・・現状にも現れています。

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