アメリカの自治体3(州・地方政府の関係)

今回のシリーズでは自治体にどのような権限があるのか?ですが、外国制度は理解に時間がかかりますが、順を踏んで行くしかありません。
まずは連邦と州の関係を見ておきましょう。

https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdfによれば以下の通りです。
65第2章アメリカにおける連邦・州・地方の役割分担
橋都由加子
1.アメリカの政府構造
アメリカの政府は、合衆国憲法に根拠規定をおく、それぞれ主権を持つ連邦政府と州政府と、州の下部単位である地方政府から成っている。
2. 連邦・州・地方の法的な役割分担
2.1 合衆国憲法
合衆国憲法における地方自治の規定は、1791年に成立した憲法修正第10条による。
ここでは「憲法が合衆国に委任し、または州に対して禁止していない権限はそれぞれの州または人民に留保されている」と定めていることから、連邦と州の間での役割分担は、連邦の権限が具体的に列挙されて州が残余権を有するという、州権の強い形となっている。
2.1.1 連邦の立法権
連邦の立法権は、第1条第8節に列挙されている。
・・列挙事項省略・・稲垣
2.1.2 州の立法権
州は一般的に州域のすべての事項について権限を持つが、その権限は合衆国憲法によりいくつかの制限を受けている。
まず、第1条第10節第1項には、以下の州への禁止事項が列挙されている。
1 条約・同盟・連合の締結
2 捕獲免許状の付与
3 貨幣の鋳造、信用証券の発行、金貨・銀貨以外による債務弁済
4 私権剥奪法・遡及処罰法もしくは契約上の債権債務関係を害する法律の制定
5 貴族の称号の授与また、同節の第
2 項と第3項では、以下の州の一定の行為は連邦の同意を必要とするとされている。
1 物品検査法執行のために絶対必要な場合を除き、輸入税または関税を賦課すること
2 トン税の賦課
3 平時における軍隊もしくは軍艦の保持
4 他州もしくは外国との協約もしくは協定の締結
5 現実に侵略を受けたときもしくは猶予しがたい緊迫の危険があるときを除き、戦争行為
2.3 州憲法・州法における地方政府条項
2.3. 1地方政府条項13
州憲法における地方政府や地方自治の規定は州によって異なっている。例えば、アラスカ州憲法では「地方自治」が明確に規定されており、オクラホマ州憲法には地方政府に関する制約や規制に関する条項が多く盛り込まれている。一方で、州によっては、「地方政府」に関する条項や「地方自治」に関する条項が規定されていないものもある。しかし、それらの州憲法にも「収入支出制限条項」があり、カウンティや市などの地方政府について言及しているため、地方政府について全く規定がないわけではない

上記によれば一般に言われている「州兵保持」と連邦憲法の関係がどういう関係になるのか・個別同意によるという程度の弱いもののようです。
日本の幕藩体制では、各大名家保有の兵力は天賦不可譲の権利の扱いでしたが、アメリカの場合連邦政府結成の条約で連邦政府の同意によってのみ州が独自の軍を保有できる弱い関係になっていたことがわかります。
もしかしたら南北戦争で懲り懲りしたので再度の内乱を恐れてこうなったのかもしれません。
同意が必要と言っても、事実上全部同意する前提で憲法が成立したのでしょうが、いざとなれば(州の独立運動になれば)同意を取り消せるのかもしれません。
日本では武士以外の刀狩がありましたが、アメリカの場合(10日ほど前にもラスベガスで大規模な銃乱射事件が起きましたが)個々人の武装権の放棄が進んでいない点は周知の通りです。
州と連邦の関係では、独立戦争時には州から出す兵力中心で連邦政府軍自体がないのですから州軍の存在価値が高かったでしょうが、連邦政府軍が充実していくと各州が独自兵力保持する必要がなくなっていきます。
せいぜい州内の大規模騒乱鎮圧の仕事?くらいですから、日本の警察の有している機動隊程度で十分です。
対外兵器である大陸間弾道弾や核兵器や戦闘機をいっぱい作っても内政に寄与しません・内政が充実していない・・これが端的に現れるのは道義の退廃・治安悪化の結果個々人の自衛権を放棄させられない現状を表しています。
日本で秀吉の刀狩りが成功し明治の廃刀令が浸透したのは、もともと応仁の乱〜戦国時代と言われますが、武士団同士の領域争いであって、庶民はおにぎりを食べながら合戦を見物していたような「のどかで・安全な社会」が続いていました。
刀狩りがあっても庶民が身の安全を守るためにはそんなに困らなかったのでその通り従ったし、明治維新後の廃刀令がそのまま受け入れられたのも、当時治安が良くて武器携行義務の方が武士にとって重荷になっていたからです。
アメリカは国の外形を腕力で大きく囲ったが、(文字通り大ふろしきを広げただけ)未開の原野を広く囲っただけの国土でしたから、(中東やアフリカ等で人為的地図上の直線の国境線びき同様)その中身がスカスカ状態で始まっている点が特徴です。
スカスカの原野に一定の集落・コミュニュテイーができたらその都度申請によって自治・組織体を認めるという仕組みで、日本などと発展の順序が逆である点に問題があると見るべきでしょう。
日本の場合、・・・濃密で阿吽の呼吸で理解し合える信頼関係のある原始氏族共同体〜生活規模の拡大に応じて順次協調していき、氏族を超えた集落共同体へ〜ムラ社会〜と一体感を育成し、必要に応じて市が立ちさらに遠隔地の集団と折り合いをつけながら生活ルールの共通化を図ってきました。
城下町や門前町の発達〜幕藩体制になりましたが、各大名家間の往来が頻繁でしたから御定書のシリーズで10年ほど前に書きましたが幕府の判例を各大名家が導入参考にするなど事実上価値観一体化が進んでいました。
だから、廃藩置県で多くの藩が一つの県になるのをスムースに受け入れ、ほとんどの県で一緒になった住民間でも違和感を感じず民族的軋轢が生じなかったのです。
(部分的に長野県では南信地域と北信地域の反感が根強いことと福島県では会津を中心とする山間部と海岸線の文化の違い・いわゆる「浜通りと中通り」に分かれている程度でしょう)
このように日本列島では、近代〜広域自治体へと順次発展し・民族一体感を築き上げてきた社会ですが・・アメリカの国づくりは何もないところに広大な領域だけ囲った・集落関係は自治体はまだ原始的初歩段階にあると11日のコラム末尾に少し書きました。
その弱み・・空白地帯の大きさ〜コミュニュティ関係の一体感欠如が治安問題に端的に現れていることがわかります。
この後で事例紹介しますが、警察署設置のためだけの自治体結成が行われている事実・・必要に迫られていることからも分かります。
10月12日に引用文で紹介しましたが、環境その他広域処理しなくてはならない事項がどんどん発生しているのに、我が国のような広域連合構想や自治体広域化のこころみが全て挫折している・各自治体のエゴ主張が強くてまとまらない・・現状にも現れています。

アメリカの州・郡(County Government)と市町村の関係2

アメリカの場合、州の規模が大きいので隣の州で日常規制・ごみ収集方法が違ってもあまり関係がないと言えば分かり良いでしょう。
例えば、関東地方だけで7都県もありますが、アメリカの場合で言えばカリフォルニア州の何分の1です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116683326によると以下の通りです。

カリフォルニア州面積:411,045平方km
(日本の面積の1.1倍)

以上のように州(ステート)と連邦の成り立ち・・歴史が違う上に事実的な意味を持つ面積規模もまるで違うアメリカの州の連邦の政府に対する自治権を理想化して日本の小さな都道府県や市町村に当てはめる議論は間違いです。
アメリカの場合、主権国家内の自治権というよりは独立国の条約による連合体・・EU加盟国がマーストリヒト条約等に従う義務によって、もともと100%あった主権が制限されている関係と見るべきです。
上記歴史経緯や地理条件などを総合すると、州に対して郡(County Government)や市町村がどのような自治権を有しているかの研究こそが日本の自治の参考にすべき基準です。
以下はカリフォルニア州政治に関する17年10月7日現在のウィキペデイアの記事からです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%BA%9C地方政府

「カリフォルニア州は郡に分割されており、郡が法的な州の小区分である[8]。州内には58郡があり、480の都市、約3,400の特別地区と教育学区がある[9]。特別地区は具体的な公共計画と公共設備を有権者のために運営し、「その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」として捉えられている[10]。
地方政府の権限の詳細を支配下に置くために州議会は1963年にサンフランシスコ郡を除く全郡に地方機関結成委員会を創設した。」

その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」ということは、要約すればこれと言った自治権がない・・州政府の末端行政機関であるかのような位置付けです。
別の記事を見ると郡は条例制定しても市の批准がないとその市内では適用できないというので相応の条例制定権があるようですが、上記カギ括弧書きの要約と合わせると州政府の下位機関としての行政執行を具体化する範囲程度のイメージです。
そこで各州と郡を一体として・・市町村の自治体との具体的な関係を見ていきます。
自治体とは何か?政府とは何か?となると意外に難しいのに気づきます。
昨日書いた通りアメリカは、もともと独立国家の連合体ですから、州内の統治をどうするかについて連邦憲法に何も書いていないことになります。
ですから州政府と郡や自治体との関係も州ごとに違うことを前提にする必要があります。
そもそも州の憲法事項になっているかを最初に問題にすべきでしょう。
https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdfによれば以下の通りです。

2.2
地方政府の法的位置づけ10
地方政府は各州ごとに州憲法や州法によって規定されており、その種類や機能は一律に定義することができない。歴史的には、地方政府を州の一部局として自治の範囲を狭く解釈する見解と、州からある程度独立した組織として自治の範囲を広く解釈する見解との対立があった。
地方政府の機能や権限を狭く限定的に解釈する前者の代表としては、
「ディロンの法則(Dillon’s Rule)」と呼ばれる解釈基準がある。この基準によると、地方政府は州憲法や州法によって付与された権限のみを行使することができる。
一方で、地方政府の固有の自治権を主張する議論として「クーリー・ドクトリン(Cooley’s Doctrine)」が挙げられる。クーリー裁判官は1871年にミシガン州最高裁判所で、「州憲法による黙示の制限」によって地方政府の権利は州議会の権力から保護されており、「純粋にあるいは基本的に地方的な事務については、地方政府の法が州法に優先する12」と述べている。
・・・・このため、南北戦争の頃になると州議会の過剰な介入に反発した地方政府や住民が、地方の自治権を主張して各地でホームルール運動を起こすようになった。この運動が一定の成果を挙げて、各州の州憲法や州法において、人口等の一定の条件を備える地方政府に対する、州政府の介入を制限・禁止する規定や、州憲法や州法に違反しないことを条件に、地方政府に自治憲章を制定する権利を認める規定が定められることで、地方政府の自治が保障されるようになった。ただし、実際にはこの特典が得られる地方政府は限られており、また自治憲章に関する規定は州憲法や州法にもとづいている。自治憲章のための権限は、あくまでも州政府から地方政府への授権であり、州政府から独立した自治権を地方政府に与えるものではない。」

以上要するに州法で許容される範囲の自治権しかないということでしょう。
各州が自由に決めてきたとは言っても江戸時代の各大名家が周辺大名家のいいところを吸収模倣して行ったように時間の経過でおのづと共通化していきます。
アメリカでは学校制度から何か何までいろいろあって自由な国だという評価する人が多いですが、ただ発展段階が原始的〜初歩段階にあるからに過ぎないのではないでしょうか。

アメリカの州・郡(County Government)と市町村の関係1

日経新聞の10月4日夕刊1面には柏崎崎原発「合格」と大見出しで出ています。
あとは新潟県知事の同意を得られるかがテーマらしいですが、新潟県の同意が何故必要になったのかの疑問です。
「昔は越の国だった」という主張を始めるとは思えませんが・・?
新潟県も思うように原発反対で補助金をうまく取れなくなると「昔は中国の領土だった」という主張を始めるのでしょうか?
そこまで行かなくともあちこちの県が何かある都度エゴむき出しで行動するようになると、なにかあっても助け合いたい気持ちが薄れて民族一体感が次第に蝕まれていき、民族維持のために自己犠牲を厭わない勇猛果敢な精神がすり減っていきます。
これが中韓の狙いでしょう。
そもそも地方自治制度がなんのためにあるか?という疑問になってきます。
現在憲法改正論が(反対論を含めて))盛んですが、この辺で憲法で定める地方自治の限界・自体首長が、その自治体領域が日本の領土ではない(とは言っていませんが・・)かのような主張をすることが許されるかを議論する必要があるように思われます。
地方自治制度は、アメリカの意向で現憲法で導入された制度ですから、当然にアメリカの連邦と州の関係をモデルにしていると見るべきでしょう。
以下に比較紹介するように大日本憲法には地方自治の章節がありません。

大日本帝国憲法
目次
第1章 天皇(第1条-第17条)
第2章 臣民権利義務(第18条-第32条)
第3章 帝国議会(第33条-第54条)
第4章 国務大臣及枢密顧問(第55条-第56条)
第5章 司法(第57条-第61条)
第6章 会計(第62条-第72条)
第7章 補則(第73条-第76条)

日本国憲法
第八章 地方自治
第九十二条  地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条  地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2  地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条  地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条  一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」

憲法を見ると特定自治体の同意がないと国策遂行できないのは、その地方だけの特別法制定の場合に限定されています。
憲法上は全国的な国策の貫徹には、特定地方の同意がいらない仕組みです。
憲法上の要請ではないのにあれもこれもと地方の同意が必要な制度にしていたことが間違っているのです。
オナガ知事15年訪米時の記事からです。

http://vpoint.jp/media/44476.html
翁長雄志沖縄県知事の訪米は大失敗
江崎 孝  2015/6/05(金)  メディア批評|沖縄 [沖縄時評]
恥晒した権限誤解翁長知事の思い込みをはるかにしのぐほど、米国の要人や政治家は民主主義が何であるかを心得ていた。つまり州知事と州政府の安全保障に関する法的権限を厳しく峻別(しゅんべつ)していたということである。その点、外交・安全保障にかかわる地域の首長の法的権限を誤解し、夜郎自大な発言で、世界に恥を晒(さら)した翁長沖縄県知事とは雲泥の差である。
・・最後に付け加えると、出発前の記者会見で外人記者が発した「それ(訪米)よりも知事はなぜ安倍首相を説得しないのか」という質問の意味が理解できなかった翁長知事の責任を問うべきである。」

地方自治体首長が政府の頭越しに外国で国防・国家主権に関する事柄を政治発言をするのは、越権行為であり許されないということは、アメリカのように独立している各州が連邦を結成した場合には、州政府が連邦政府の専権事項である外交や防衛問題に口出しするのは条約違反になるという意味でより一層はっきりします。
ただし、元々自分らは先住民・異民族だから・・というのでは、同じ土俵での議論になりません。
冒頭に書いたように日本の地方自治制度は、長年の国内議論すらも必要性もなく敗戦時に歴史の違うアメリカ憲法を(法的素養のない人材が?)模倣して作られたものです。
日本の地方自治制度を論じるならばアメリカ各州内の地方自治の実態や歴史研究が必須です。
アメリカの連邦と州の関係は周知の通り独立国同士の連合契約・条約で成立しています。
合衆国ではなくUNIRED STATE OF・・・ステートの連合ですから、日本の地方自治体とは経緯・本質がまるで違います。
もともと百%の主権を持っている各州(国)が連邦を組むために主権の一部を連邦政府に移譲した関係・移譲しない部分にはもともと持っていた主権が残っているのは当然です。

https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdf
「2.1
合衆国憲法
合衆国憲法における地方自治の規定は、1791年に成立した憲法修正第10条による。
ここでは「憲法が合衆国に委任し、または州に対して禁止していない権限はそれぞれ
の州または人民に留保されている」と定めていることから、連邦と州の間での役割分
担は、連邦の権限が具体的に列挙されて州が残余権を有するという、州権の強い形と
なっている。」

軍で言えば同盟行動する以上、軍事活動時に一致協力する範囲で独自行動を制約される程度の関係です。
アメリカ連邦政府と各州の関係は、主権国家である日本がアメリカとのいろんな条約を締結すればこれを守る義務があるような関係の方が近いでしょう。
このような場合、日本やアメリカに自治権があるかという方向の議論ではなく、条約によってどこまで日本国内法が(商取引で言えば契約したらその契約を守られねばならない範囲のレベル・・人権がどこまであるかの議論でありません・・)制約されるかの議論であって順序が逆です。
自治の面でアメリカとの比較をするならば、アメリカの州政府と州内の郡や市その他の自治体の関係と日本の中央政府と県市町村の自治権を比較するのが本来の議論です。
日本の県の権限を連邦政府と対立・緊張関係にある(独自の軍を持ち)州の自治権?と同じように見る現在の暗黙の前提となっている議論自体が無茶過ぎておかしいのです。

州の刺使と国司

中国の場合、これまで何回か紹介しているように古代から清朝が辛亥革命で倒れるまで約3000年間?ずっと専制君主制ですから、國を功臣や親族に与えるのは領地のホンの一部でしかなく、その他殆ど全部が州や郡縣(直轄領地)です。
しかもそれは政権草創当時だけで(成立時に協力してもらったお礼をしなければならないので・・)皇帝権力が安定してくると少しでも直轄領地を増やして行くのがそのやり方です。
日本の場合政権成立直後が政権の最大で、徐々に中央権力が縮小して地方政権が強くなっていくのが原則だったのとは反対ですが、これは日本は細かな地域に分かれた水田耕作社会であったことに帰するのです。
北条家が鎌倉幕府執権職で独裁的権力を握った場合でも、一家だけで握れず多くの北条家に分化しながら持ち回りで執権職をやっていたように一定規模以上の領有を維持しきれない社会です。
逆に明治以降中央集権化が成功し、戦後の地方自治制度が形骸化している(自治体警察などは直ぐに形骸化しました)のは、産業構造の中心が稲作社会ではなくなったからです。
政治家が地方主権を唱えても、経済基礎に反した構想は意味を持ち得ませんので、せいぜいトキの政権攻撃材料に利用して国民の歓心を買うための減税党があるのと同じです。
減税だけでは国家運営を出来ないでしょうから、何を考えているの?単なるバラマキ政党と同じです。
経済活動のグローバル化を前提にすればむしろ地方行政単位は広域化の時代でしょう・・今回の震災被害の結果を見ても部品不足その他広域対処が必要なことがもっと明らかになった筈です。
前漢でも政権成立直後は(韓信のような)功臣を遇するために国を与えたりしましたが、政権の基盤が出来てくると徐々に取りつぶしたり国の権限を縮小して行ったので、景帝の時代にこれに不満を持った呉楚7国(王)の乱・・抵抗が起きるのですが、この抵抗を待って、皇帝軍が叩きつぶして、次の武帝の時にはついに郡国制がなくなってしまう・・全部直轄領・・郡縣制になってしまいます。
我が国の場合5月1日に書いたように朝廷であれ、将軍家であれ直轄領地を殆ど持たないのが原則ですし、あったとしてもそれを家臣に分知して譜代大名に治めさせるのでその家臣が力を持ってしまいます。
(足利時代の大大名・・応仁の乱を引き起こした管領の細川家も元は足利一門です)
漢時代の各地方の郡大守は地方派遣の公務員でしかなかったうえに、彼らに軍事警察権を与えていなかったし、世襲の地位でもなかったので彼らは任期中目一杯私腹を肥やす傾向がありました。
(これが農民暴動に発展して漢王朝が崩壊して行くのですが・・・専制君主制の場合、側近(外戚または宦官)政治になる→賄賂政治になるのが避けられない法則です。)
この汚職横行を改善するために、武帝は郡大守を監察する目的から監察官がいくつかの郡を監察する管轄区域として州制度を始めたことを5月5日紹介しました。
州は地名ではなく観念的な管轄区域の名称が始まりになります。
現在スーパーなどの多数店舗経営の場合何店舗かまとめて仕入れるなどの広域担当者を置いているのと同じ発想だったでしょう。
大和朝廷成立時の各国造は、軍事警察権を持つ半独立国(造あるいは地元豪族が領域内の税収をどう使おうと勝手・・使い込み・汚職の概念がないのですから、彼らの上に「不正」を監察する目的の役人を派遣する余地がありませんでした。
律令制を始めるにあたって漢が州を作ったのに倣って、元々の国の領域を狭めていくつかの評・郡に分割しておいて、これら少し小さくなったコオリをまとめて1つの単位を作りますが、これを州と言わずに元からある国(くに)としました。
しかし、漢の制度に倣って監察するには無理がありますので、「不正取り締まりではなくキチンと政治をしているかの親心?での監督のために似た名称の国司を置いたのが日本的と言うところでしょうか?
国司は昔からある国造を引き継いだ郡司の上にいきなり作った制度ですから、当初は(その後次第に権限を増やして行きますが・・・)せいぜい郡司らの意見調整(司会の司)ときちんと政治をしているか/ひいては朝廷に逆らわないように監督するくらいしか仕事がなかった筈です。
刺使が後に牧になると事実上支配権が強くなって行き、管轄下の各郡の意見調整して支配する方向へ進みますので、前漢の武帝が州に置いた監察官と結果的に職務が似ていたことになります。

郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

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