クリスマス・イヴ1(GHQ執務場所跡とKITTE内東大博物館見学)

明日はクリスマス・イヴなので、例年の習慣に従って日頃の連載は休んで今日明日の特番です。
今年の年末は、22日の土曜日から23日の天皇誕生日(平成天皇の来春ご退位によって天皇誕生日はこれが最後です)24日は振替休日で3連休となりました。
平成天皇最後の記憶に残るプレゼントになり、良き巡り合わせでした。
私は、12月7日に日弁連の委員会出席の帰り午後3時頃に東京駅前のKITTEという旧中央郵便局を残した高層ビル1階にあるコーヒー店で都内に住む末の娘と待ち合わせてコーヒーを楽しんだことから、偶然東京大学(当時は工部大学校)草創期の旧研究室の備品?らしきものの展示室が目に入り、そこへ入るとレトロな雰囲気と明治初期に研究用に集めた色々な品々の素晴らしさ!窓外に目をやると東京駅前広場を取り囲む高層ビル街の電気のきらめきが一気に気に入りました。
気に入った勢いでこの連休初日・22日に、妻ともう一人の娘の三人で、銀ブラならぬ、丸の内ブラを楽しみながら、KITTEに再び行くことになりました。
日暮れを目指して自宅を出て、まずは旧GHQのあった明治生命ビルの見学をして、日暮れどきの丸の内のイルミネーションを楽しみながら目的のKITTEへ行くコースで楽しんできました。
気候は雨模様でしたが、いきなり寒くなった1週間ほど前の気候にくらべて穏やかな日でしたので、しっとりした空気の中で気持ちよく散策できました。
東京駅前の広場では、多くの人もくつろいだ様子でイルミネーションや高層ビルの夜景を楽しんでいて、見ているだけで平和な社会を実感できて良い雰囲気でした。
私にとっては、旧GHQ本部跡の明治生命ビルの見学は、10年ほど前に妻と一緒に行ったことがありましたし、両方とも2回目でしたが、(今回は各所の説明がデジタル化されていて)2回目の方がよりよく理解できた印象です。
GHQ執務場所跡の方は10年ほど前に行った時と見学者は同じ程度マバラでしたが、KITTEの方は12月7日に行ったウイークデーと違い3連休中初日であったこともあって、しかも中央吹き抜けのクリスマスツリーの大人気のせいか?人出が多く、その余波か?東大博物館?もかなりの人出になっていました。
(12月7日は館内に見学者が4〜5人程度しかいなかったのですが・・)
見ていると、明治初期に欧米の模倣で大学というものを創設しものの、(藩校その他の文系教育の経験があっても)理系学問所としての経験のない日本では、何から手をつけて良いのかわからず手当たり次第に多方面の標本等を集めていたような印象を受けました。
展示品はそれぞれは精巧なもので感心しましたが、今のように理学、工学、電気、化学、鉱石学・民俗学や生物学その他理科系分業の進まない状態で、民俗学的資料に至るまで(アフリカや南米のお面まで)幅広く研究材料を集めていたイメージで、草創期の大学は大変な状態であったことがわかります。
明治生命ビルでは、GHQ接収時には、明治生命ご自慢のせっかくの文化的内装を嫌って?緑いろのペンキを塗りたくられていたので、昭和31年にGHQから返還されると明治生命はすぐに旧に復する工事をした経緯も説明されていました。
ペンキで塗りたくった行為は、庶民ではなく最高司令官の執務場所を仕切る側近の文化レベル・・・日常接している最高司令官の文化レベルを表すのでしょうが(・・幕末ペリー来日時同様に?)他国文化というものを理解できないのが、アメリカの文化レベルというべきでしょうか。
マッカーサーは単なる軍人としてではなく、日本占領統治を委ねられた以上は、幕僚には経済や軍事、法律、宗教や伝統文化関連等の専門家がいたのでしょうが、良い建物だからこそ司令部執務用に接収しておきながら、室内をペンキで塗りたくる神経が異常です。
一般的に言えば現地文化の理解力・基礎教養の低さを表すとも言えるし、逆に征服者の傲慢さを見せつけるためにあえて行った地元文化無視の示威行為だったとも言えます。
この辺は、セブン・イヤーズ・イン・チベットという映画・・中国軍圧迫に抵抗していたダライ・ラマ14世が最後にチベット脱出を敢行したときの映画を見たことがあり、そのとき強烈に残っている印象をもとに書いているのですが、日本撤退後中国軍の圧迫に恐れをなしたチベット側が、中国使節を迎えるために今で言えば式典用に王族等が歩く通路に絨毯を敷き詰める場所に、絨毯の代わりに人民・・チベット族最高技術者を駆り集めたのでしょうが、丹精込めて足元にチベット仏教の精神模様らしきものを描く場面があって、その直後に到着した中国軍人がせっかく丹精込めて作り上げた足元の文様をあえて中国高官が蹴散らしながら、いばり散らして傲慢に宮殿(寺院?)に入っていく状況を活写していました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/セブン・イヤーズ・

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(Seven Years in Tibet)は、1997年のアメリカ映画。ジャン=ジャック・アノー監督作品。
アイガー初登頂で知られるオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝の映画化。彼がチベットで過ごした7年間、彼と若きダライ・ラマとの交流を描く。
映画に対する中国の反応など
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の公開後、中華人民共和国政府は、映画の中で中国人民解放軍の士官が意図的に無礼で傲慢な人物として描かれている、また中国人民解放軍兵士がチベット人に対し虐殺したかのような演出がされたとして強く非難した。このため『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は中国で上映禁止となった(言論統制)。また、映画の監督および主演者のブラッド・ピット及びデヴィッド・シューリスは中華人民共和国支配地域への立ち入りを無期限で禁止されたが、ブラッド・ピットは2016年11月に出演作の宣伝のため中国を訪問している[3]。

以上によると約20年前に見たことになります。
映画を見たときに「中国って怖い国だな!という印象づけを受けた映像でしたが、(中国が政敵を倒すと何十マン人も穴埋めしたり、生け捕りした敵将に対して捉えた親の肉を切り刻んで食べせるなど、人とは思えない残虐行為の歴史を想起する仕組みでした。
これは米国的価値観による中国批判ではなく、支配者になり優位に立ち被征服民を牛馬や犬猫のごとき扱いをするには、「相手の文化を全面無視にする」ことから始めた方が良いという米国の価値感が背景にあったのかもしれません。
ただし、中国が映画を批判しているようですが、現在ではウイグル族100万人以上を監禁しては拷問などを続けているという批判をうけています。

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会3

マッカーサーが選任された時には、SWNCCの申し子として対日占領政策遂行の現地トップとして信頼されて選任された(彼自身フィリッピン撤退に関して個人的に対日報復意識が強かったことは周知の通りで、その彼を選んだSWNCCの基本姿勢がわかりますし、本来合理的制度としては、マッカーサーが個人的報復をしすぎないための監視役だったはずなのに、)着任後マッカーサーが日本擁護役に回って背後のWNCCと政策対立が始まったとすれば不思議です。
マッカーサーが天皇との会談で感銘を受けたことによると言う意見がありますが、この点はあとで触れるとして対日政策は国際政治の一環ですから背後には複雑な関係があるでしょうから、この面から見ておきます。
GHQ内に国内対立が持ち込まれていて民政局と情報治安局との対立があったことは一般的に知られていますが、一般的には天皇制に関する意見相違というよりは、容共スタンスかどうかの違いをいうものが普通です。
外見上そう見えますが受ける印象は、アメリカ国民は悪くないが民主党政権になると、反日的で日本は民主党政権いなるといつもひどい目にあっているとという論旨展開です。
中国などの常套文句である日本国民は敵ではないが、軍人が悪かったとか、今は自民党支持が揺るがないので自民党を批判しないで、安倍政権だけゆるせないという論法にそっくりです。
メデイアはその通りの受け売りで総選挙前には内閣支持率が低いという宣伝ばかりしていましたし、どこの野党か護憲勢力か忘れましたが、憲法改正について、内容の議論前に「安倍政権での改憲を許さない」という子供じみた主張を臆面もなくしていました。
ここまでくると幼児並み主張です。
憲法や法律は将来を拘束するものであって、数年内に退陣する現政権とほぼ関係がありません・内容の議論こそが必要でしょう。
日本にとって良いことであっても、あの人がいうから反対・テストの結果が良くてもあの子は落第にしろというような感情論を煽っているのです。
内容に入りたくないから、多くの憲法学者が反対しているとか、憲法には憲法改正できない限度があるというような抽象論が幅をきかすのでしょう。
http://www.sankei.com/politics/news/180115/plt1801150005-n1.html

2018.1.15 07:07更新
安倍政権下の改憲反対54% 共同通信世論調査

上記を見るといわゆる安倍叩きが奏功していて不合理な意見が影響力を持っていることが分かります。
右翼系ネットで「アメリカは良いが民主党が悪い」という運動が盛んになったのは、日本左翼の政治運動の真似でしょう。
裁判闘争の真似を始めたのも同根ですが、左翼系の方は「一日の長」どころか何十年もの経験差があって真似では勝てないでしょう。
容共かどうかばかりで天皇制について全く触れないのは「共産主義勢力にとっては君主制そのものが議論以前に容認できない立場であった」・自明だからこの種の論者は天皇制に対するスタンスがどうであったかの紹介をしていないのかも知れません。
以下はhttp://dorian.en-grey.com/徽宗皇帝のブログで引用されている意見を引用したものです。
ここには主張根拠を書いていませんが、検索してすぐ出たことと、一般に知られていることですが、この主張が正しい事実に基づくかどうか不明のままのあんちょこ引用ですが/事実であるか否かは読者の事実調査にお任せします・・これを引用しておきます。

「当時GHQの内部には二つの路線対立があり、国務省系のGS(民政局)は占領内政担当で民主党左派すなわちニューディーラーによって構成されており、国防総省系のGⅡ(情報治安局)は軍務担当で共和党員が中心になっていた。
このGSとGⅡが激しく対立していたのである。民主党の影響下にあるGS(民政局)は日本をマルクス主義化する実験と併行して「ウィークジャパン(弱い日本)をつくる」と主張しており、一方GⅡのウィロビー少将はニューディーラーたちが日本を左翼国家へ改造しようとする「実験」に強く反対し、「不必要なまでの日本の弱体化は国際共産主義を利する」と考えてストロングジャパン政策を主張していた。」

要するに国務省・民政局(民主党系/容共系)対国防省(共和党系・反共)の路線対立があったとの主張です。
これが最近言われているルーズヴェルトの容共政策→日本はその犠牲になったとする一連の議論とも繋がっているのでしょうし、左翼系論者には受け入れらない議論でしょう。
ただ、上記「徽宗皇帝」のブログ執筆者自身が上記引用文を、「GHQ内部の社会主義者グループと反共主義者グループの対立について簡潔にまとめた文章を探して、検索の最初のあたりにあったものを適当に拾ってきた。文章の調子からすると右翼思想家のもののようだが、書かれた「事実」自体は他の人のGHQ関連著作に出てくる内容とほぼ同一だから、書き手の偏見的記述にさえ気をつければ読むのに問題は無いだろう。」自分と立場が違うが、事実として問題がなさそうとして引用しています。
ただしこのブログ自体も執筆者の自己紹介がない・責任を負いたくない意思表示でしょうから、元々無責任意見として読む必要があります。
毎日からの引用です。
https://mainichi.jp/articles/20150504/org/00m/010/997000c

制定過程をたどる 2015年5月4日
2 天皇制守った「象徴」 GHQ、戦争放棄と「セット」
1946年2月13日、東京・麻布の外相公邸。連合国軍総司令部(GHQ)のホイットニー民政局長は「日本案は全然受諾できない」と宣告し、タイプで打った21枚の用紙を差し出した。
・・・ぼうぜんとした表情を浮かべる吉田茂外相と松本に、ホイットニーはくぎを刺した。
「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国の圧力から天皇を守ろうと決意している。この諸規定が受け入れられるなら、実際問題として、天皇は安泰となる」
このときホイットニーは「天皇のperson(身体)を保障できない」とも述べたという説があるが、吉田は否定している。
象徴天皇制と戦争放棄はGHQ案の核心部分だった。米国は太平洋戦争中の42年から、天皇制を利用して日本を間接統治する道を探っていた。終戦後の45年9月27日、マッカーサーは東京の米大使館で昭和天皇と会談し、天皇の戦争責任を問うべきではないという思いを強くしたとされる。
しかし当時、米ギャラップ社の世論調査では、米国民の約6割が昭和天皇の起訴を支持していた。オーストラリアが天皇を戦犯リストに入れるよう主張するなど、国際情勢がGHQに必ずしも有利でない中、マッカーサーには、ソ連や中国などもメンバーの極東委員会が介入する前に憲法改正を終えたい思惑があった。
・・・マッカーサーは2月21日、幣原喜重郎首相との会談で率直に伝えている。「私は天皇を安泰にしたいが、極東委の議論は不愉快なものだと聞いている」「ソ連とオーストラリアは日本の復讐(ふくしゅう)戦を恐れている」
政府は翌22日の閣議でGHQ案の受け入れ方針を決め、幣原らが昭和天皇に報告した。GHQの記録によると、天皇は「最も徹底的な改革を、たとえ天皇自身から政治的機能のすべてを剥奪するほどのものであっても全面的に支持する」と語ったという。
2月26日、極東委員会の第1回総会がワシントンで始まった。ただ、昭和天皇の訴追論議は盛り上がらず、4月3日、天皇の不起訴方針が事実上決まった。結果として、マッカーサーの描いた戦略は功を奏した。
東京裁判に詳しい日暮吉延帝京大教授(日本政治史)は、強硬姿勢だったオーストラリアが矛を収めた背景を「日本の軍事的脅威がなくなれば、天皇を裁判にかける必要性もなかった」と説明する。
GHQが天皇制の存続と引き換えに改正案の受け入れを迫った一連の経緯は、現在の「押し付け憲法論」の根拠の一つだ。しかし、天皇を守ることは日本政府にとっても最大の課題だった

 

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会2(SWNCC228)

昨日紹介した国会図書館の概説3−2の引用だけでは、ここで関心のある天皇制に関する米本国の動きが不明なので、日本国憲法の基礎になっているSWNCC228骨子を見ておきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/059/059tx.html#t005によれば以下の通り、ほぼ現憲法の(リフォーム)骨格が示されています。

Reform of the Japanese Governmental System(SWNCC228)
TOP SECRET
COPY NO. 66
7 January 1946
STATE-WAR-NAVY COORDINATING COMMITTEE
DECISION AMENDING SWNCC 228
REFORM OF THE JAPANESE GOVERNMENTAL SYSTEM
Note bytheSecretaries
1〜3省略(稲垣)
CONCLUSIONS
4. It is concluded that:
a. The Supreme Commander should indicate to the Japanese authorities that the Japanese governmental system should be reformed to accomplish the following general objectives:
(1) A government responsible to an electorate based upon wide representative suffrage;
(2) An executive branch of government deriving its authority from and responsible to the electorate or to a fully representative legislative body;
(3) A legislative body, fully representative of the electorate, with full power to reduce, increase or reject any items in the budget or to suggest new items;
(4) No budget shall become effective without the express approval of the legislative body;
(5) Guarantee of fundamental civil rights to Japanese subjects and to all persons within Japanese jurisdiction;
(6) The popular election or local appointment of as many of the prefectural officials as practicable;
(7) The drafting and adoption of constitutional amendments or of a constitution in a manner which will express the free will of the Japanese people.

ここで一応区切りますが、aによって上記7項目の(基本的人権の尊重や自由な選挙による国会の権能と政府・内閣が選挙民に責任を負う等)の基本原則(general objectives)が示されます。
命令/強制ではないというものの以下の一般条項が「should be 」・・されるべきであり、これを司令官は「should indicate」すべきということですから、この原則に反する憲法は認めない・・結局は、強制が目立たないように「巧妙にやれ」ということでしょう。
ですから、トップシーククレット文書でしたが、期間経過で公開されたので今では日本側の手に入っていることになります。
SWNCC228の続きです。

b. Though the ultimate form of government in Japan is to be established by the freely expressed will of the Japanese people, the retention of the Emperor institution in its present form is not considered consistent with the foregoing general objectives.

上記によればthe ultimate form of government(政体)は民意によって establishされるべきであるが、現状の天皇制を(そのまま?)維持するのであれば、上記7項目の基本ルールに適合するとは認められないと判定基準を示しています。

c. If the Japanese people decide that the Emperor Institution is not to be retained, constitutional safeguards against the institution will obviously not be required but the Supreme Commander should indicate to the Japanese that the constitution should be amended to conform to the objectives listed in a above and to include specific provisions:
(1) That any other bodies shall possess only a temporary veto power over legislative measures, including constitutional amendments approved by the representative legislative body, and that such body shall have sole authority over financial measures;
(2) That the Ministers of State or the members of a Cabinet should in all cases be civilians;
(3) That the legislative body may meet at will.

d. The Japanese should be encouraged to abolish the Emperor Institution or to reform it along more democratic lines. If the Japanese decide to retain the Institution of the Emperor, however, the Supreme Commander should also indicate to the Japanese authorities that the following safeguards in addition to those enumerated in a and c above would be necessary:
(1) That the Ministers of State, chosen with the advice and consent of the representative legislative body, shall form a Cabinet collectively responsible to the legislative body;
(2) That when a Cabinet loses the confidence of the representative legislative body, it must either resign or appeal to the electorate;
(3) The Emperor shall act in all important matters only on the advice of the Cabinet;
(4) The Emperor shall be deprived of all military authority such as that provided in Articles XI, XII, XIII, and XIV of Chapter I of the Constitution;
(5) The Cabinet shall advise and assist the Emperor;
(6) The entire income of the Imperial Household shall be tuned into the public treasury and the expenses of the Imperial Household shall be appropriated by the legislature in the annual budget.

以下省略

dでは、「The Japanese should be encouraged to abolish the Emperor Institution or to reform it along more democratic lines. If the Japanese decide to retain the Institution of the Emperor, 」として、日本国民が、天皇制廃止またはより民主的天皇制へのリフォームについてエンカレッジされるべきだが、民主的天皇制維持を決定したときには最高司令官は(これを尊重しながらも)日本当局者にCおよび以下の列挙事項(1)〜(6)を示すべきであるとし、そこには、現行憲法同様の内閣の助言承認や天皇の統帥権の剥奪、皇室年次予算の必要性などを書いています。
上記の通り1月7日には、既存天皇制を否定するだけではなく、むしろ存続させる方向性がありうることを示唆しています。
この時点では、戦犯として被告席に立たせる方向性が100%否定されていたことが明らかです。

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

昨日の資料の続きです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.htmlからの引用です

3-4 極東委員会の設置とGHQとの会談
終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。
とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。3-7 憲法改正権限に関するホイットニー・メモ 1946年2月1日
極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、GHQに憲法改正の権限があると、マッカーサーに進言したホイットニー民政局長のメモ。
1946(昭和21)年に入り、極東委員会の発足(2月26日)が迫っていたとき、ホイットニーらは、その前身である極東諮問委員会との会談のなかで、彼らが憲法改正問題に強い関心を持っていることを知った。この文書が作成された2月1日は、GHQ草案作成の重要なきっかけとなった、毎日新聞のスクープ記事が掲載された日でもあった。GHQは、独自の憲法草案作成を決断するにあたり、その法的根拠について検討していたのである。
3-28 極東委員会の関与
極東委員会は1946(昭和21)年2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。
そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。
東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。
しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。
このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。
マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。
極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。
4-6 極東委員会「日本の新憲法についての基本原則」
1946(昭和21)年7月2日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、新憲法が盛り込むべき原則を初めて示したが、これは半年前に米国政府がマッカーサーに伝えていた「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基本としたものであった。同委員会内ではかねてより天皇制に対する強い反発があったが、結局SWNCC228を踏襲して、「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。
マッカーサーは、この基本原則に異議は唱えなかったが、この「指令」を公表すれば、憲法改正に対する日本国民の自発的努力が連合国による強制という性質を帯びることになるとして、公表を抑えさせた。

上記の通り、マッカーサーは極東委員会をうまく手玉にとっていたことが分かります。
マッカーサーが極東委員会をコケにしたのは(ソ連に口出しさせない)本国の意向であったのか、それともマッカーサー個人の意見だったのか断定できませんが、もともと本国の決定機関・・「米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)」は上記の通り「天皇制廃止」意向が強かったのが、マッカーサーの意向を反映して1月7日公式文書の「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。」という中立的な表現に変わったものの、対日政策方針でマッカーサーとの間でぎくしゃくしていたと言われていたように思います。
この1月7日のSWNCC文書発令前にアイゼンハワー参謀総長からマッカーサーとの書簡応答があった資料を1月10日コラムに引用しましたがもう一度ここで引用しておきます。

3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

「天皇を戦争犯罪者として裁くべきかの調査命令発出・・元々本国では「天皇の戦争責任を問うべき」とする意見が強かったことが推測され、・・マッカーサーの意見は、この方向を変えるエネルギーになった可能性があります。
この報告書を受けて、戦犯追及意見が下火になり、1月7日のSWNCC228の公式(最終)意見となったのでしょう。

天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

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