GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

昨日の資料の続きです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.htmlからの引用です

3-4 極東委員会の設置とGHQとの会談
終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。
とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。3-7 憲法改正権限に関するホイットニー・メモ 1946年2月1日
極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、GHQに憲法改正の権限があると、マッカーサーに進言したホイットニー民政局長のメモ。
1946(昭和21)年に入り、極東委員会の発足(2月26日)が迫っていたとき、ホイットニーらは、その前身である極東諮問委員会との会談のなかで、彼らが憲法改正問題に強い関心を持っていることを知った。この文書が作成された2月1日は、GHQ草案作成の重要なきっかけとなった、毎日新聞のスクープ記事が掲載された日でもあった。GHQは、独自の憲法草案作成を決断するにあたり、その法的根拠について検討していたのである。
3-28 極東委員会の関与
極東委員会は1946(昭和21)年2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。
そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。
東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。
しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。
このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。
マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。
極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。
4-6 極東委員会「日本の新憲法についての基本原則」
1946(昭和21)年7月2日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、新憲法が盛り込むべき原則を初めて示したが、これは半年前に米国政府がマッカーサーに伝えていた「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基本としたものであった。同委員会内ではかねてより天皇制に対する強い反発があったが、結局SWNCC228を踏襲して、「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。
マッカーサーは、この基本原則に異議は唱えなかったが、この「指令」を公表すれば、憲法改正に対する日本国民の自発的努力が連合国による強制という性質を帯びることになるとして、公表を抑えさせた。

上記の通り、マッカーサーは極東委員会をうまく手玉にとっていたことが分かります。
マッカーサーが極東委員会をコケにしたのは(ソ連に口出しさせない)本国の意向であったのか、それともマッカーサー個人の意見だったのか断定できませんが、もともと本国の決定機関・・「米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)」は上記の通り「天皇制廃止」意向が強かったのが、マッカーサーの意向を反映して1月7日公式文書の「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。」という中立的な表現に変わったものの、対日政策方針でマッカーサーとの間でぎくしゃくしていたと言われていたように思います。
この1月7日のSWNCC文書発令前にアイゼンハワー参謀総長からマッカーサーとの書簡応答があった資料を1月10日コラムに引用しましたがもう一度ここで引用しておきます。

3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

「天皇を戦争犯罪者として裁くべきかの調査命令発出・・元々本国では「天皇の戦争責任を問うべき」とする意見が強かったことが推測され、・・マッカーサーの意見は、この方向を変えるエネルギーになった可能性があります。
この報告書を受けて、戦犯追及意見が下火になり、1月7日のSWNCC228の公式(最終)意見となったのでしょう。

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