是枝監督の政府祝意辞退と公権力2

脱俗と経済・社会基盤に戻ります。
日本の歴史上有名寺院が、権力者の子弟を受け入れて出身身分に応じてすぐ高位に就任できるには、相応の経済関係があってのことです。
例えば、6代将軍足利義教は急遽還俗したものです。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

足利 義教(あしかが よしのり、正字体:義敎)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 – 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。
・・・・応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた[要出典]。その後一時大僧正も務めた

世俗と縁を切ることができるのは、権力や経済力がバックにあってこそ可能です。
漂泊の詩人として有名な西行法師も世俗バックの仕送り(だけでなく安全保障)があってこそ、世俗との縁を切って諸国行脚できたのです。
是枝監督は公権力と距離を保つというのですが、年金も健康保険も保育園も生活保護も救急車も駅前広場や高速道路も交通整理も、飛行機便の発着が安全に行えるのも何もかも政府が関わっているので、政府の関与することには一切世話にならないというなら主張が一貫しますが・・。
そこまでの覚悟があるならば、ゴーン氏が外国に逃亡したように、活動の場を外国に移してからいうべきではないでしょうか?
このあとで書いていきますが、政府は国民の代表ではありますが、公共の福祉に反する行為(主に犯罪)を取り締まる秩序維持の機能があり、これが公権力を背景にしているのですが、現在では表現の自由の関係で映画内容には公権力介入の余地が皆無と言えるでしょう。
各種助成金審査も権力意思と遠く離れたそれぞれ業界の人材で構成される委員会等で審査されるのが一般的です。
芸術文化系審査はその最たる分野でしょう。
このように公権力介在と縁の遠いはずの分野の人が、なぜ公権力と距離を置くという理由で補助金交付機関の代表らの祝意を跳ねつけたのか?です。
社会全体の基盤の上に成立しているのが文化・スポーツなどですから、特定分野の興隆に直接応援したこともない国民でも、自国出身者のノーベル賞受賞や国際大会での活躍等を誇らしく思うのです。
まして具体的補助金を受けていながら、その補助金交付機関代表者からの祝意に対して「距離を保つ」と称して拒否するのは異常ではないでしょうか?
大相撲で内閣総理大臣杯授与という儀式がありますが、優勝者の決定に権力介入の余地がないし、その他書道会などの各種展示会での大臣賞(地方の菊や盆栽展では県知事賞?)など枚挙にいとまがありません。
こういう場の表彰に「公権力から距離を置く」とあえて禍々しい権力を持ち出して、否定的評価を演出すると格好いいのでしょうか?
格好いいと評価する人と不快感を持つ人がいるからニュース価値があり報道を賑わしているのでしょう。
不快感を持って欲しいと願って発言する人がいないとすれば、彼の関係者にはこういう姿勢を歓迎・評価する傾向の人が多いからでしょうか。
芸術表現が結果的に政治影響力を持つことがあり得るし、それ自体構わないというか当然の効果としても、内面表現をした結果政治的反響を呼ぶ・政治効果を持つ場合と政治主張を通すために表現したのとでは意味が違うように思われます。
政治活動であれば言動に対する政治責任を負うべきですし、芸術でもその表現によって実際に不快に思う人がいれば、不快感レベルに応じた報復を受けることになり結果責任を負うのは同じかもしれません。
政治主張するための芸術表現利用が激しくなれば、対立勢力も対抗上これを行う芸術家と組むようになるでしょうし、芸術業界全体が自ら政治介入を招くようになりますが・・。
ここにきて昨年だったかの愛知ビエンナーレ騒動を想起しました。
芸術活動を標榜すれば、天皇や政敵肖像の大型映像を引き裂いたり、踏みつけたりして騒ぐのも良自由だという主張をするようになれば、かえって芸術活動そのものへ信用を落とし芸術・文化を冒涜し貶めることになるのではないでしょうか?
我が国が誇る和歌・俳句、能や歌舞伎・源氏物語や浮世絵が、政治批判したからレベルアップしたのではありません。
どんな主張するのも言論の自由としても、言論戦は言論の自由市場でやるべきで絵画、彫刻、音楽映画等々は、それぞれその分野で頑張れば良いのであって、そこで負けそうだから違った分野から応援を求めるのはいわば、リング外の場外戦に持ち込もうとするようなものです。
争いには一定のルール・・自ずから品位が必要ということでしょうか?
国内言論戦で負けているからか、左翼系は国連人権委員会の決議がどうのという外部権威を持ち込みたがります。
しかし日本の国情に合うかどうか・・民族の知恵・総意が何かの議論をするのに、よその人の意見が国民総意より優先するかのようにいうのは・・論理矛盾です。
まして今回の新型肺炎に対する科学的事実認定にさえ、中国のゴリ推しが国連機関の意見表明の決め手になるような(印象を受ける)国連機関の現状を見るとなおさら国連意見に頼る人らの信用性に関わるでしょう。
死刑廃止論の根拠に諸外国の死刑廃止がどうなっているという主張が多いのですが、国内政治そのものである刑法の処罰・特に死刑のようなものは(電子商取引や税関のあり方など技術的分野と違い)宗教観・死生観と絡み民族意識が最も強固な分野ですし、商取引の商品と違い、民族個性があっても無理が少ない分野ですので、これを決めるのに国際標準を持ち込むのはおかしな風潮です。
アメリカに比べて弁護士数が少ないというが日本には膨大な周辺士業がいるのに米国では税理士や司法書士あるいは不動産の宅建資格などの業者がなく皆弁護士とカウントされている違いがあるように、欧米では死刑廃止している代わり犯行現場で容赦ない射殺が行われている日々の報道・現実を無視した議論が多いようです。
日本では現場射殺される事件は何十年に1件もないでしょう。
今日の日経新聞夕刊13ページには茨城県で警官跳ねて逃走した車に向けて発砲したとの見出し記事がでいていますが、これだけでニュースになる社会です。
日本民族では生命尊重の精神が行き渡っていて、(猿など野生動物が出ても追い回すばかりです)現場での射殺は恐れ多すぎる・裁きは神に委ねたい日本人の深い心情を表しているようです。
キリスト教の精神が死刑廃止論に影響しているかいないかの議論が提起されて、死刑廃止論はキリスト批判の学者の議論から始まっているからキリスト教精神と関係ないという意見がありますが、神が死んだとニーチェが言えば彼の思想の根元にキリストの影響がないという人がいるのだろうかとふと気になりました。
キリスト教の布教でなく単なる欧米思想だったら死刑廃止論が正しくなる訳ではないでしょう。
要するに民族の死生観・むやみやたらに殺生して良いのか?と・死刑はダメだが犯人射殺は現場判断で良いというのは、牛肉を食べても良いがクジラは許さないという議論とどこか似ていませんか?
キリスト教がない社会でも無宗教社会でなく別の宗教がある場合があるし、シャワーのない社会でもお風呂があるし、米がないから野蛮でなく小麦加工が進んでいる社会もあるなど、パスタがないから野蛮でなく、うどん、そうめんやそばがあり、それぞれの社会ごとに補完する何かがあるので、どちらが合理的かは別問題であって何でもそのまま取り入れなければならないと言えません。
ニュースを見ると欧米では現場射殺が多いのですが、欧米諸国における年間犯人射殺数を公開してその関連で議論してほしいものです。
以下の通り銃乱射のような事件でない・・刃物を持っているだけでも安易に即射殺が欧米流儀です。
https://www.bbc.com/japanese/51352236

ロンドン南部で男に刺され3人負傷 仮釈放中の容疑者を射殺
2020年02月3日

是枝監督の政府祝意辞退と公権力1

補助金をもらわない人でも、各分野で活躍している多くの人々、スケートの浅田真央さんや羽生結弦、テニスの大坂なおみや野球のイチローなどが、国民の祝福を受けたくないのでしょうか?
国民代表である政府大臣の祝意表明行為をあえて「公権力と距離を保つ」と政府機能の一分野だけを抽出表現して拒否するレトリック自体に疑問があります。
政府の祝意表明は公権力行使である→距離をおくと言う図式のようですが、政府の行動のうち公権力行使に当たる分野は何かとあまり考えたことはなかったですが、なんとなく違和感を抱く人が多いでしょう。
菅直人氏が、総理現職中に警察等は物理的強制装置・・いかにも害悪の根源のような発言をして物議を醸しましたが、このような一方的な定義づけは、私が司法試験受験当時の基本書であった政治学原論だったか?に書いていたのを思い出したものです。
脳の柔らかい若者の多くがこういう洗脳に染まったまま成人し総理になっているのか?と郷愁を覚えたものです。
教育機関ではまだこのような思想を教えしている教授が牛耳っているのでしょうか?
韓国文在寅大統領はいわゆる86世代と言って学生運動家上がりで、その刷り込みで現実無視の政治をしているから韓国政治が無茶苦茶になっているという評価が出ています。(どの評価が正しいかは歴史評価を待つしかないですが・・)
文大統領は何となく菅政権の後をなぞっている印象ですが、日本のように政権が民意に敏感でないというか、制度上任期が5年間と固定されている関係で国民が困ろうと観念論を推し進める気配で、抵抗する官僚を抑えるために?
まず検察官の総配置変えの断行を始めたようです。
これが終われば、左翼系政権得意の粛清政治を思い通りに行える予定でしょうか?
左翼政治家の信奉する旧ソ連や中国の粛清弾圧体質を理想社会と仮定すれば、菅元総理のいうとおり「警察組織は政府の物理的強制装置」・・悪しきものの代表でしょうが、
日本の場合、武士の発祥に知られるように自警団・明治以降は身近な駐在さん→今は交番・・道案内や、動物が逃げたとか野生の猿が出たと言っては駆り出される・日頃困ったことがあれば相談に行く重要な存在ですので、社会のなりたち・意味が違います。
「交番のおまわりさん」というだけで嫌悪感を感じる国民が何%いるかの調査などないのでしょうが、神の声・国民総意を直感的に感得すれば、大多数の国民が、地元で揉め事などで暴力に発展しそうなリスクが生じた時に弱い方が真っ先に、いざとなった時のために交番にあらかじめ相談をしておこうとなる人が大半ではないでしょうか?
ヤクザに脅されそうになったりしたら弁護士相談と並行して警察相談するのが普通です。
国民の多くは警察を頼りにすることがあっても、見ただけで嫌悪感が走るような人はヤクザ等特殊な人以外に滅多にいないでしょう。(これは直感で書いています。)
パトカー通報後いかに早く来てくれるか、早い方がいい人と遅い方がいい人とどちらが多いか?
是枝監督は、日本ではもはや化石化しつるある左翼ガリガリ運動家の吹き込み・・警察=暴力装置論による知識を前提に格好良く発言したつもりなのでしょうか?
こういう程度の社会理解を前提に社会派?映画を作って動向のグループで賞賛しあっているのでしょうか?
話題を公権力に戻します。
公権力に関する一般的な理解では強制力を伴う行為・刑事処分に限らず各種行政処分・・許認可処分・・今回のコロナウイルス騒動での強制隔離処分等がありますが、学校教育も保健衛生分野も一種の公権力の外延でしょうが、国民国際的な快挙に対する大臣祝意表明になると駅前広場や公園整備等より権力性が弱いように思われます。
ウイキペデイアで公権力を見ると以下の通りです。

公権力(こうけんりょく)とは、政府の統治行為のうち、物理的な力により執行されるもの、あるいは服従しなければ刑罰を科せられるものを指す。また、公権力を執行する機関である警察・検察・裁判所・税務署・軍隊も指す。
公権力は様々な行為によって行使されるが、代表的な例は逮捕・収監・召喚のほか、行政処分(強制収用・徴税・かつての徴兵)などがこれに当たる。

私が考えているよりもずっと狭い・いわば物理力行使=中核的行為のみに限定するようです。
こう言う狭い定義が一般的理解とすれば、是枝監督の「公権力と距離を保つ」という声明?は、何を言いたいことになるのでしょうか?
警察権力等と距離を保つとの主張と理解した場合でも文部大臣の祝意を拒否するのとどういう関係があるのか分かる人は滅多にいないでしょう。
文部大臣が上記権力定義とどう言う関係があると言う主張か不明であるばかりか、祝意拒否がなぜ上記権力活動と距離を保つことになるのかも飛躍がありすぎで不明です。
警察権力との距離と限定しても、彼は強盗や泥棒被害にあっても自分の子供が誘拐されても警察に何も求めないし、交通事故や契約違反等の損害を受けても裁判所を利用しないのでしょうか?
文部大臣の祝意拒否が「公権力と距離を保つ」ことになるとすれば、上記ウイキペデイアの定義より広いイメージ・・私のいう程度の定義よりももっと広い・・なんとなく政府行為には全て距離を保ちたいというかのようなイメージが伝わります。
しかし、この世の中で水滸伝で有名な梁山泊みたいに政府と距離を置ける場所はない・・竹林七賢は世俗を離れて生活できていたか?というと、彼らは名門貴族の子弟で、権力闘争から離れただけで実家からの仕送り(今で言えば軽井沢の別荘)で優雅に暮らしていられたのは、権力による庇護(治安維持)があったからです。
日本の権力者子弟・皇族や将軍家子弟が出家して叡山等に入っても・相応の仕送りをしているから成り立つし、修行らしい修行もしていないのに天台座主などになれるのです。
今回中国のコロナウイルス蔓延に対してWHOの対応の遅さに対する批判的社説が日経新聞2月1日朝刊にでました。
同紙3ページは、中国の資金とWHOへの人材送り込み・・中国の巨額援助国エチオピアを事務局長として推して当選させたことなどの掘り下げた記事が出ています。
個々人宛の賄賂の有無は不明ですが、WHOやエチオピアへの大規模資金注入があるような解説記事です。
映画に限らず各種文化活動はこれを受容し育成すべき社会の経済力あってのことです。
自分の社会に敵意?距離を置いて文化が育つのでしょうか?

任命5と市場競争(是枝監督の政府祝意辞退1)

1月21日「任命の効力4→選択権1」の続きです。
競合権力多数並立の場合、武将や武士、足軽等階層にかかわらずどの豪族〜戦国大名に従うかの選択肢があり、日本の戦国時代の英雄豪傑で言えば島左近や後藤又兵衛や藤堂高虎のように戦国大名を自ら袖にして有力大名家を渡り歩く例が多く見られました。
豊臣秀吉だって、小者の頃には渡り歩いて(今川家の陪臣松下加兵衛に仕えたことが知られています)最後に信長の小者になって落ち着いた遍歴です。
高名な英雄豪傑に見限られた大名は面白くないので、戦国末期で大名間交際が安定してくると黒田家?のように「奉公構」という回状を回して後藤又兵衛の再就職を妨害する例も出てきます。
企業で言えば、楯突いてやめた社員の再就職妨害行動をするようなものです。
のちに黒田家から後藤又兵衛との関係修復を目指して幕府に斡旋依頼したようですが、うまく行かない内に大阪の陣に突入して行くようです。
群雄割拠・並列競合状態が終わって最高権力・国家権力が確立すると、最高権力者=国家からのお召があると、これに応じないのは謀反の疑いがかかるので、契約以前に喜んで参上するようになっていたから契約概念が育たなかったのでしょう。
ところが経済水準が上がり、主食以外の嗜好品や寒さを防ぐだけでなく、おしゃれを楽しむ衣料品、その他文化芸術や娯楽性サービスが発達し、勤め先となる民間企業が発達してくると、国家権力に連なる分野以外の働き先が増えてきます。
今でも景気が良くなると、公務員応募が減るなど民間雇用状況次第の傾向が強まっています。アベノミクスの成果で民間は働き手不足で困っている→公務員に任命してやるありがたいだろう!という優越的関係が薄れてきました。
形式上一方的任命精神同様に叙勲や祝意は、一方的に授けるものでした。
最近国家の叙勲や祝意を辞退する(是枝監督のような)人が出ますが、これの盲点を突くと同時に国家権力の相対性をアピールしたい人がやるものでしょうか。
「公権力と距離を置く」と言うのが趣旨のようですが・・。
任命のように義務を伴わない一方的叙勲や祝意拒否は国家政府などに褒められたりおめでとうと言われたくない」という・・国家権威無視の態度をはっきりさせたものでしょう。
とはいえ、能力発揮・特に文化発露は個人の遺伝的能力のみによるものではなく、長い歴史・文化蓄積を切り離して考え難いものですから、生まれ育った社会を代表する公的な祝意・民主国家においては政府が国民代表です・・政府からの祝意は、生まれ育った、社会そのものからの祝福です。
これを受けられないと言うのは自分を育んでくれた社会や自然を否定したいという意味でしょうか?
よほど自分生い立ちに不満があるのでしょう?・・育った環境に不満があっても逆教を跳ね飛ばし、名を挙げ功を遂げられた以上は、結局感謝するのが凡人の心情ですが、こういう人が出てくると凡人には違和感を感じる人が多いから反響を読んだのでしょう。
いや、自分を育んでくれた友人先輩、環境に感謝しているが、今の政府におめでとうと言われたくないだけ・と言うのでしょうか?
今回のテーマ・・任命と拒否権の関連に戻り大臣就任要請を断るのは、一定の政策目標実現組織である内閣と意見が違う場合当然の権利ですし、政府の文化政策と意見を異にする場合それに協力しないのは映画人当然の権利ですが、是枝監督が映画製作段階で政府が介入したのをはねつけて映画を完成したなどの特別な遺恨があるのでしょうか?
それならばそれを公表すれば良いことですが、武士の情けで公表していないのでしょうか?
https://www.asahi.com/articles/DA3S13532802.html

是枝監督「公権力とは潔く距離保つ」 カンヌ最高賞、文科相の祝意辞退

https://bunshun.jp/articles/-/7743では「万引き家族』是枝裕和監督の「祝意辞退」と「助成金」の関係で「辞退」に対する擁護論らしく、是枝監督の映画が如何に素晴らしいかを書いていますが、最後に以下の引用があります。

文化庁の「日本映画製作支援事業」の定義を確認してみましょう。
「我が国の映画製作活動を奨励し、その振興を図るため、優れた劇映画、記録映画の製作活動を支援する。新たに、日本映画の魅力や多様性を強化し、その基盤を維持するため、中小を含む制作会社や新進映画作家向けの助成枠を設ける」。
助成金は「優れた劇映画」を作るための支援です。カンヌでパルムドール受賞を果たした『万引き家族』は、まさに正しく助成金の目的が達成された例といえるでしょう。

上記意見は、どちらかといえば政府助成金をもらっていても政府の祝意辞退は問題ないという擁護論のようなトーンですですが、その最後に解説なし引用があるので、擁護論の根拠としての引用かな?と予想されますが、読んでみるとこれが何故祝意辞退擁護根拠になるのか不明です。
上記引用部分によれば一党一派の立場からでなく、国民全体・国税を使った助成を受けたので自民党からの祝意を受けなくとも矛盾しないと言外に言いたいのでしょうか?
しかし、文科大臣の資格において祝意を示すのは出身母体はどの党であろうとも国民代表としての祝意です。
政府所管大臣/長官が補助金を出し、その時は自民党大臣だから受け取らないと拒否したなら一貫しますが、自民党政権の大臣あるいは長官から補助金を受けておきながら、祝意辞退の時だけ自民党政権の大臣から受けられない・嫌だというのは矛盾がないのでしょうか?
私の基本的立場は、補助金以前に同じ日本人としての快挙に素直に喝采したい人が多いのではないか・・政府は国民代表として祝意を表したいということではないでしょうか。
大臣個人は主観的にその映画を良いと思ったかどうかは別として、公人としての職務行為をしている以上、大臣の好みを持ち込むこと自体が許されないはずです。
国民の大方の気持ち・・総意を汲み取って国民代表として政府が祝福するのを自民党政権だから嫌だというのであれば自分の方から政治的立場の違いを芸術活動に持ち込み政治化するための発言でしょうか?

アメリカの自治体5(地方政府の権能)

アメリカの自治体5(地方政府の権能)

在庫(書きだめ先送り原稿)整理の続きでテーマを2017/10/15「アメリカの自治体4」の続き・・アメリカの自治体の発展過程〜現状に戻します。
アメリカでの自治体が原発立地や自衛隊基地設置の同意権があるのか?に関しては、我々法律家に関心のある法的文言や条文が不明です。
(条文はいくらでも検索できるでしょうが、カリフォルニア州憲法だけで110ページもあると言われていますので専門家が抜き出した翻訳文がないとピンとこないという意味です)
州憲法に関するウィキペデアによれば以下の通りです。

「カリフォルニア州憲法は世界でも最大級に長い法の集積であり、110頁がある[1]。この長さの原因の一部は憲法修正条項という形を採る有権者発議が多いことによっている。」

これでまで見てきたところによると、各種許認可あるいは同意権・・権力的権限は、州政府の権限であって、自治体は設立目的に応じた各種契約やサービス供給権を持っているだけのようなイメージですが、正確にはまだわかりません。
日本でもhttp://www.seikatsuken.or.jp/database/files/n201209-188-001.pdfによると、地元自治体というだけで同意権→拒否権があるかどうか微妙な書き方です。
迷惑施設だから地元同意が必要という立論ですが、権利義務関係でははっきりしません。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82986520Z00C15A2KE8000/によれば以下の通りです。

原発と地域(1)再稼働の同意範囲 法的根拠あいまい
2015/2/10付日本経済新聞 朝刊
九州電力の川内原子力発電所(鹿児島県薩摩川内市)に続き、関西電力の高浜原発(福井県高浜町)が原子力規制委員会の安全審査に近く合格する。再稼働に必要な同意を得る「地元」の範囲が議論になっている。
再稼働に必要な法的手続きは安全審査の合格だけ。ただ立地する自治体は電力会社と「原子力安全協定」を結び、増設の際の事前協議

ただアメリカの自治体の例では以下のような事務分掌があることから逆算すると市の権能が見えてくる面があるので・・これを一応紹介しておきましょう。
17年10月12日から引用しているhttp://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdfによればカリフォルニア州の地方政府の権限・事務分掌は以下の通りです。

1 カリフォルニア州の地方自治体について
東海大学政治経済学部政治学科教授牧田 義輝29
第 1 節 州南部の都市トーランス市(City of Torrance)
1 トーランス市はどのような自治体か
(1)トーランス市のはじまり
トーランスは、デベロッパーの個人名で、アメリカの地方自治体がどのように形成されるのかが、日本の場合と比較しても大変面白いので、次に紹介しましよう。・・・・
1921 年には、自治化され、ほぼ 1,800 人が住むようになった。最初のトーランス市の憲章が、1946 年8月 20 日に投票の結果、批准され、次いで 1947 年1月7日に州の総務長官によって受けつけられた。
同市の初期の発展は、石油の発見、産業拡大、およびいく度かの併合によって特徴づけられている。これらの結果、ロスアンジェルス・カウンティのうちで最も大きな自治体のひとつとなり、今日では人口は、146,204 人となっている。
2)完全サービス自治体の意味
同市は、理事会・支配人制政府形態として統治される憲章市である。このことは、自治
体としての統治の仕方に確固とした方針を持ち、「完全サービス自治体」であると宣言している。
トーランス市は、他の多くの自治体のように主要なサービスを「契約」によっていない。つまり、トーランス市は、自らの警察、消防署、図書館システム、公共事業、およびコミュニティ・サービス部を持っている。
このように、通常市政府によって提供されるサービスに加えて、同市は、自ら経営して
いる多数の「企業」を持っている。
これらには、空港、ごみ処理システム、水道会社、ケーブルテレビ・システム、および交通システムを含んでいる。
・・・同市は、産業の中心地となっており、昼間人口は、約 50 万人に達している。
2 市民自治の仕組み・市民意思反映のシステムはどのようになっているか
(1)市理事会
(a)市理事会の機能は、条例を通過させ、政策と予算を決定し、課税し、収入を確保
し、支出を決定する。
(b)市理事会は、毎火曜日夕
(c)<報酬>非常勤 月給 100 ドル
<経費>理事―月 250 ドル(市長―月 350 ドル)+交通費+交通費+保険給付+公
務職員退職制度+会議などへの旅費
(d)市議会事務局長(市書記)任期なし。常勤。
3 住民の意思を直接吸収するためのシステムはどのように作られているか
〔市民委員会〕
市理事会に対して一般市民の意思反映は、どのようにして行われているのであろうか。
まず、同市の場合、注目されるのは、市民から成る常設の委員会(Commission)、評議会(Board)、理事会(Council)と呼ばれる諮問委員会が作られ、市理事会、および関連機関に対して助言を行なう。
これらの機関は、課題ごとに設置され、常時一般の市民の意見を吸収するようにしている。

メデイアと野党の政府追及4(小西参議院議員1)

軍部の気に入らない言論が不自由になって来たのは、これまで見てきたように・・戦前でも多くは野党やメデイアの要求によって政府が仕方なしに辞職を求めさせられたものがほとんどでした。(天皇機関説事件など)
戦後もこのような仕組みは同じで、国務大臣の靖国参拝や中韓両国の気に入らない発言を「失言」と称する野党やメデイアの大々的政府の責任追求の結果、国務大臣が辞職に追い込まれる例が大方でした。
平成に入る頃までは、戦争責任や朝鮮支配に関する持論を述べたのが失言として攻撃→辞任が多く、平成以降は意見自体に問題がないのに表現がどうのという上げ足取り的攻撃による辞任が主流になってきます。
いずれにせよ、言論の自由を標榜するメデイアが、「そんなこと言っていいのか!」という根拠のない攻撃でメデイアに対する反論を許さないかたちで攻撃し社会的地位を抹殺する点は同じです。
まずは閣僚の辞任を求めるのが政治家の目標になっている点に関する記事の紹介です。
https://news.infoseek.co.jp/feature/politicians_gaffe/の一部です。

小西ひろゆき (参議院議員)‏認証済みアカウント @konishihiroyuki
参院予算審議が終了。森友学園の追及で安倍総理はおろか閣僚一人も辞任に追い込めなかった。政権の支持率も非常に高い状況にある。予算委が終わると追及の場所が限られてしまうが、何とか打開したい。報道関係者からは民進党の質疑等への批判を頂いているが、党内で共有し残りの通常国会の糧としたい。
3:41 – 2017年3月27日
返信先: @konishihiroyukiさん
誰かを辞任に追い込めば自分たちが代わりに支持されて上に上がれる、という思い込みを改めたらいかがです。
チェスト‏ @chest01 2017年3月31日
政治そっちのけで他人にケチつけるのが仕事だと思ってる人は辞めてほしいです。

辞任を勝ち取るのが国会議員の仕事なの?っという炎上です。
戦前から今も野党の仕事はこの程度です。
政策を競う姿勢がないのです。
ついでに3月21日現在の小西氏の紹介をウイキペデイアで見ておきます。

NHK経営委員の交代を要求
2014年3月12日、参議院予算委員会の質疑において、日本国憲法を批判していたNHK経営委員の長谷川三千子について「こういう方がこの世にいるのかと驚いた」「NHK経営委員として適格ではない」と批判した。[5]。
また上記の質疑において、安倍政権下で任命された経営委員の顔ぶれについて、戦後初めて経営委員会に東北地方の代表者がおらず、全国各地方の公平性の考慮を規定している放送法に違反するとして長谷川三千子、百田尚樹両経営委員の罷免を要求した[6]。

どんなに良くできた一般法令(税制や建築基準)でも長期間の運用→技術革新・社会の変化に合わなくなる分野ができてきます。
担当者が運用上不都合が起きているのを知った以上は、その改正意見をいうのが公務員の義務的なものであって、放置する方が怠慢というべきでしょう。
この点は民間でも同じで、古いマニアルではこのような不都合がある・・こうした方がいいと思えば、それを黙っている方が職務怠慢・無責任であって、不都合を一番早く知る現場からの提言が求められています。
現実運用の不都合をいう以上はその前提として「こういう改善した方が良いのではないか」という建設的意見とセットになっているのが普通です。
現憲法に不都合があると思えば「このような改正が必要」と主張をするのは文字通り言論の自由であって憲法擁護義務を前提とした意見(守る気持ちがなければ改正の必要がありません)ですから憲法擁護義務違反と関係がありません。
旧社会党あるいは、現野党も政府批判するときには批判とセットで「今の制度ではこういう不都合があるから自党の改善案はこれだ」と示せば国民も与野党どちらの主張が良いかの選択する余地が生まれます。
ところが、戦前の野党に始まって現野党に至るまで、最近の例で言えば、「保育所落ちた日本シネ」の批判も、「政府案ではダメ、民進党ならば、こうやって保育所増設のスピードを上げる」という対案提示がありません。
今国会の「働き方改革」も批判するばかりで・データが違うと言うのですが、「正しいデータであればこのような改正案になるべきだ」という何の提案もない・政策実現の妨害をしているとしか思えません。
森カケ問題と働き方改革とどういう関係があるか知りませんが、早く法案を通したいならば「大臣の首を差し出せ」という「戦略論?」ばかりが見え透いています。
そのほかに上記小西氏の国会追求発言は戦前から言論弾圧に道を開いていった野党の体質を引きずる重大な問題を含んでいます。
憲法改正意見を持っているものが公職についてはいけないという「思想による差別」を野党が率先してしかも国会で公式要求しているのには驚きます。
思想・言論については、思想言論の自由市場で堂々と反論すればいいことであって(天皇機関説事件の時の政府答弁は学問のことは学問の世界で議論すべきものであって、国会で論争することでないと答弁していたことを3月21日冒頭に紹介しましたが、メデイアに押し切られてしまったものでした)公職追放を国会で求めるのは美濃部事件で政府追求に精出していた戦前の野党体質そのものです。
憲法改正意見に対する反論ができない・・内容の議論では負けてしまうからこういう攻撃しかできないという事でしょうか?
日弁連や野党の憲法論は「立憲主義を守れ」「近代法の法理違反」「平和主義」というスローガンばかりで内容の議論を(寡聞の私だけのことかも知れませんが・・)聞いたことがありません。
野党やメデイアが国民不満を煽っては、審議拒否で困らせて審議を進めたい政府がやむなく担当大臣を辞職させるしかなくなるのを待つのが仕事・・・閣僚の首を取るとかのマイナス要求ばかりで、戦前から戦後にかけて一貫して前向き提言がないのが一般的ですが、憲法改正意見を持っているという理由でNHK委員の解任を公式に求める野党の体質が現れています。
公器・中立を求められるNHK経営委員に特定思想の人が影響を持つのがおかしいというのでしょうが、それを言い出したら特定思想による学校教育がいけないとなり(日教組の存在自体が許されないのかな?)戦前の美濃部事件・・機関説の教育を許さない・・刑法では滝川事件の主張を正当化する意見・昨日見たように野党が引き起こした事件なので正当化したいのでしょう?
その野党が言論の自由を金看板にして「戦前の暗黒政治復活を許すな!というのが基本姿勢ですから不思議です。
彼らのいう言論の自由とは、自己の主張が通れば言論の自由が窒息してしまっても良い・単に政府要職の首を取ることだけが目的であり(天皇機関説の攻撃が野党のよって立つ政党の存立基盤崩壊の結果が生じることを無視して目先の効果・政府要人の辞職を勝ち取ることだけを目的にしていたのと同様で)「手段を選ばない政治活動の自由」と言う狭い意味を主張しているように見えます。
小西氏に関するウイキペデイアの続き・小西議員の国会発言を明日続いて引用しますが、これが民進党の公式憲法論なのか?不思議ですが紹介しておきます。
民進党は、高学歴者が多いことが自慢で、相手が東大卒でないとこれをバカにする傾向を批判されていますが、批判されても自分の学歴を自慢するしかないまともな議論をする能力がない政党でしょうか?