司法権の限界2((良心に従う義務)

いつ地震が来るかその程度も分らないならば専門家がいらないか?と言うとそうではなく、確定出来ないと言うだけで専門家情報はそれなりに意味があります。
喩えば、インテリジェンス情報で言えば、それをどういう風に深読みし現実政治に応用するかは政治家の役割と言うだけで専門情報自体不要でありません。
あるいは大規模地震予測不能との比較で言えば、競馬は走ってみないと分らないと言うのが一般的理解で、そうとすれば生まれて直ぐの庭先取引あるいは競り段階ではケイバ馬の将来の個別勝敗はなおさら予測不能な例ですが、それでもプロの世界では海のものとも山のものとも分らない段階の庭先取引が主流になっている・・その後一定の競り値がついていて、競りでも値がつかないようなバカ安い馬が三冠馬どころかG1でさえ勝つ確率がゼロに近い実態を見れば、一人一人で見れば、当たり外れは大きいものの大勢のプロの目による平均値になれば、結果的に大方の馬主の予想があたっていると言えます。
ですから「不確定」と言ってもプロの方が不確定の幅が狭いことになります。
以上のように分らないなりに専門家の識見・・それも大勢の総合判断が重要になります。
それぞれの専門分野の知識・情報を総合すれば良いかと言うと、科学的に決め切れない分野こそ科学者の総合判断を前提にゴーかストップか静観するかの最終判断は、民意を吸収している政治家が担当するべきです。
専門家の意見は重要ですが、民意吸収や利害調整能力のない専門家が最終決定するのは(国民主権原理からして)行き過ぎで、民意を受けた政治とのミックスで決めて行くのが合理的です。
今では、いろんな分野で専門化が進んでいるので、各種審議会や委員会等の透明的制度設計で決めて行くしかない分野が多くなっているのはそれ自体合理的です。
原発の安全性等は、・・地震学者のみならず設備そのものの安全性・・それには地震波がどのように作用すると原子炉の構造(に対する深い知見)にどのような作用を及ぼすかなど総合的知見が必須です・・マサに各種専門家と政治家決断力の合作が必要な分野です。
これを「裁判官と科学者の合作」あるいは「裁判官が上段の席にいてせいぜい2〜3人の学者意見を参考として聞いた上で裁定する」方が優越性があるとする根拠は何か?です。
科学者総動員の英知を結集した上での政治決定に対して、実害の生じる前の段階で失敗しないとは言い切れないと言う論理を前面に出して、失敗可能性がある限り司法権が事前停止命令できるとなれば、人間活動の全否定に繋がりかねないので神様のような超越的権限を憲法が与えていることになります。
元は審判は神判でもあり神託から始まったものとしても、これが王権そのものとなった(イギリスでキングズベンチと言うのがその名残です)ものの、次第に合理化されて王権の恣意によることは出来ない専門家の職分になって行きました。
その後王権が制限され遂には国民主権国家になって行ったことは周知のとおりですが、これは経済分野の市場原理・「神の手」論の政治分野への応用です。
民意の総合をどうやって知るか?
裁判で事実を知るために訴訟手続があるように民意を知る手続としては選挙制度があって、これによって選任された政治家が民意の代表者となり国会で民意の総合的結果としての法を創造する仕組みです。
司法の分野においては、民意を直截吸収することを逆に禁止され、専門家は、法廷に現れた証拠のみを前提に判定するように手続法(証拠法則)が整備され、しかも法・憲法と良心に従って判断する義務が課せられています。
専門家・・司法官が従うように義務づけられている法は、民意を吸収した国会で作ったものですし憲法も国会経由で作られます。
以上によれば、司法官は「法・憲法と良心」に反して直截民意を慮って判断することは許されません。
憲法は、国会を唯一の民意吸収装置として位置づけた上で、国権の最高機関と定めているのであって、民主主義国家においては至極当然のことです。
三権分立と言うのは、学者が比喩的に言っているだけであって、日本は国民主権国家であり、国民意思を反映する国会が最高意思決定機関である・この決定意思=法に従うべきは疑いを容れません。

憲法
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第七十六条  すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2  特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3  すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

日経新聞3月12日朝刊一面の「春秋」欄によれば、司法が福島原発事故について国民が感じている重みを自由「心証」でなく「心象」風景として感じたことを反映したのだろうという趣旨で書いています。
大手新聞によるこの時点での遠慮がちで洗練された評価が見えて面白い書き方です。
※ただし、翌13日朝刊社説では、明白に仮処分決定を批判する意見を書いていますので、この間に決定書を吟味出来たのでしょう。
憲法は司法権が「国民心象を感じ取る能力」が政治家よりすぐれているとは認めていない・・心象感受性を特に高いとして司法権に優越する権利を与えていません。
むしろ上記のとおり、司法官は厳格な証拠法則に従って入手した証拠以外から私的に入手した証拠で事実認定してはいけないルールですから、「心象風景」と言う私的な感想や主観で判断するのは憲法で定められた「法と良心のみに従う」義務に違反しています。

高浜原発停止と司法権の限界1

原発事故の被害想定が過大であったかどうかは別として、そもそも国民の信任を受けない司法が、どの程度の確率の安全ならば良いかについて最終決定権があるのでしょうか?
地震予知は科学的合理性では不明の状態にある・・現在科学では何年も前から具体的な地震予知が出来ないことが世界の常識です。
100%確かではない事柄は世の中に有り余るほどありますが、それでも日々何かを決めて行くしかないのが現実社会です・・。
企業で言えば、設備投資リスクや企業買収や、国外工場進出のリスク不明でも一定の情報でやるかやらないかを決断するしかないのですが、その代わり失敗すれば決断したトップが責任をとるしかないのが政治責任と言うものです。
原発安全基準もどの程度の地震がいつ来るか全く不明なので、原発設置するべきか否かも工場進出同様の政治決断しかない分野です。
政治が決めた決定基準・・その道のプロ集団がしている安全基準や適合性判断を司法権が否定するのは憲法違反行為です。
革新系は頻りに政治運動で負けると憲法違反を叫びますが、本来政治で決めるべきことを司法で決めるべきだと裁判を仕掛けること自体が憲法違反を(ガードの甘い裁判官が一定割合でいるでしょうから、)誘発するための運動になります。
権限外の判断をして憲法違反するのは担当裁判官であって、仕掛ける弁護士の責任ではないとしても、しょっ中仕掛ければタマにドジな裁判官に引っかかると言う意味で違反を誘発する方にも相応の道義責任があります。
国家にとって重大な事柄を、本筋の訴訟手続でない簡易な仮処分で決めるとなれば、二重に権限逸脱の可能性があります。
上記のとおり慎重審理の本案訴訟の結果決めても司法の範囲外・・権限外の疑いがある上に、軽易迅速を旨とする仮処分手続で決定をするには慎重審理する時間を待てないほどの巨大な被害が起きることプラス緊急性認定が必要です。

民事保全法(平成元年十二月二十二日法律第九十一号)
(申立て及び疎明)
第十三条  保全命令の申立ては、その趣旨並びに保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性を明らかにして、これをしなければならない。
2  保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性は、疎明しなければならない。

上記保全の必要性がこれにあたります。
保全の必要性とは本格的訴訟手続による判決を待てないほどの緊急性と被害の大きさの掛け算です。
これまで被害想定の重要性を書いてきました・・・・昨日伊方原発再稼働にはコストがかかり過ぎるので断念するとのニュースが出ていましたが、過大に被害想定すると対策費用がこれに比例します・・産業を活かすも殺すもコスト次第・被害想定次第であることが明らかにされたと思います。
以下事案の緊急性認定に関心を移して行きます。
判例時報などで決定文が活字化するのは約半年後ですので、まだ決定理由を見ていませんので詳細不明ですが・・。
どこかネットに出ているかも知れませんが、私は仕事の合間にこのコラムを思いつきで書いているのでまだ見る暇がありません・・判例時報に出れば仕事の一環として読むヒマがあります。
高浜原発のある地元福井地裁の停止決定が(同地裁の別の部か高裁だったか記憶していませんが)最終的に否定されているのに、もっと遠い隣県の大津地裁の方が危険・・本案訴訟の結果を待てないほどの緊急性があると言う決定になったのが不思議です。
(ただし決定の違いが危険性の差であるとした場合です・・)
28年3月11日に医療事故のミス認定判断との比較で書きましたが、実害が起きた後の医療ミス判断は、いわゆる「後講釈」ですからそれほど難しくないし、司法判断に馴染まないとは思いません。
交通事故や予防接種などを見ても分るように、事故が起きた以上は余程のことがないと、過失なしと言う判決を受けるのは難しいことも国民が納得しています・・。
実際に死亡事故など実害が起きている場合、相応の補償か賠償して補填すべき必要性もあります。
しかし,事故が起きる前に道路交通法の基準・・あるいは建築基準法の基準・・飲食で言えば保健衛生基準等々が緩過ぎるかどうかの合理性を事故前に司法が判定して良いか・・しかも他の批判を許さないかのような即時効(仮処分)を認めて良いかは別問題です。
数学の公理のようにはっきりしている分野では専門家が最終決定する仕組みで良いのですが、上記のとおり専門家でも地震予知不可能である以上は最終的に政治が決めるべきです

憲法違反の疑いと司法権2

「憲法違反の法律を許すな!と言っても、そもそも国会が違反かどうかの決定権を持っていないし事前審査制度がないのですから、法案段階で事前規制を言うのは憲法の国民主権主義に反しています・・。
代議士も審議権を持っていないテーマに付いて、国民の支持を求める行為は代議士としての行為ではなく、個人・市民活動の分野です。
憲法違反かどうかは、裁判所以外に誰も決められないことですから、誰も分らないことを前提に主張していることになります。
ですから、これらスローガンで主張している本当の意味は、単に「この法案反対」を「どう言う害があるから反対するかの理由を言わずに・言えずに)憲法違反と言い換えているに過ぎないことになります。
相手の主張に対して反論しないでどうせあいつは「アカ」だから・・・と言うのと同じです。
法案の成否テーマを憲法論にしてしまうと、代議士も法律専門家でないので良く分っていないし、国民も難しい憲法論が分りません・・結局「悪いことなんだな!」と言うイメージ操作・・宣伝次第になります。
この辺は国民理解が進まないと言うマスコミ宣伝も同じです。
「国民理解」などと言う誰のもわからない単語が出て来て、国民が惑わされている点で同じと言う意味です。
具体論で負けそうになると古くはプライバシー侵害と言う外来語を使って惑わし(グリーンカード制その他新技術をこれでいくつも葬ってきました)、この4〜5年では近代法の法理違反〜憲法違反、果ては立憲主義違反〜国民理解が進んでいないなどと次々と抽象概念を繰り出して混乱させる戦法の1つです。
我々弁護業務で言えば、事実説明途中でイキナリ違ったこと、「先生には分らないでしょうが・・」と言って業界隠語などの説明を始める人がいますが、用語説明が終わってから、「用語の意味は分ったがそれと今までの話の流れとどういう関係があるの?」と聞くと何の関係もないことが多く、話をそらせて誤摩化そうとしている印象をうけることがあります。
国会は「言論の府」・・冷静論理的に議論出来る「選良」?が感情論に走らず具体的冷静に議論して問題点を詰めて行き、意見対立が解消されないところで議決して行くことが憲法上予定されています。
内容をマトモニ議論しないで、憲法違反の主張ばかりを平然とする政党があるとすれば、(野党がしているかどうか知りませんが)国会で法律制定権や憲法改正の手続を定めている憲法の制度仕組みを真っ向から否定するもので、・・憲法違反の存在ではないでしょうか?
憲法違反になるから内容の議論に応じられないと言い張っている政党があるとしたら、新規法律制定必要性の実質議論では負ける(国民の支持を受けられない)から、この議論を避けて入り口論で終始しているのでないかと疑われます。
政党はまさか国会ではそんな主張はしていない・・国民向けスローガンで主張しているだけと言う場合もあります。
場外ならば何をしても良いと言うものではありません。
社会変化に対応すべきどんな法律案にも内容の議論をせずに反対することを目的に国会議員になっているとすれば、憲法が予定している立法権・・時代変化に合わせて新規立法を制定し改正することに参加すべき代議士の職務・・立法府・国会の存在意義を踏みにじるもので憲法違反の存在です。
現行(憲法)法に反すると考える法案には内容の議論さえ応じないと言う立場は、自分の気に入らない社会変化対応に全て反対すると言う基本精神を示していることになります。
交通取締法等の改正も排ガス規制強化も増えて来た空き家をどうするかも、社会変化適応によるものですが(考えようによれば私有財産権の制約等憲法問題が背後にありますが・)、この程度の変化対応に付いては憲法違反の議論が起きません。
憲法論が起きるのは、社会のあり方が急激に大きく変わる大変化適応・法制度上も追認して行くかに関する場合でしょう。
基本的に変化に反対する傾向のある(日本の進歩政策に何でも反対するかの背景事情にはいろいろあるでしょうが・・)超保守政党が、大きな変化に対して反対する名目に憲法論を持ち出す傾向があります。
(旧社会党は何でも反対の社会党と言われていて消滅?しました)

憲法違反の疑いと司法権1

国会が憲法違反の法律を作れないならば先議事項ですが、憲法はそう言う制度設計にしていません。
制度的には、ある法律が憲法に違反するかどうかを国会が決めるのではなく、出来た法律を後に・しかも事件が起きて(具体的争訟性)から司法権がチェックする仕組みです。
実際上そうしないと、国会議決で決められるならば、多数派が合憲と決めれば、皆合憲になってしまうので、議会を縛るための憲法制度の意味がなくなってしまいます。
これがイギリスの国民主権=議会決定万能主義の欠陥・限界であり、これに抵抗したのがアメリカの独立革命でしたから、独立後のアメリカでは、民意であれば何でも良いのではなく、民意によって議会が法を制定しても良い代わりに「事後的に」違憲立法審査権を司法権が持つようになりました。
民主主義の本家を称するアメリカでも司法権が「事前に」憲法審査する仕組みではありません。
民意の洗礼を受けていない司法権が法・・国会の議論を事前チェック・検閲出来るとすれば、如何に考えても国民主権の原理に反して無理があります。
せいぜい「事後的チェック」があることによって「議会の暴走」を抑制する程度の意味を期待しているに過ぎません。
違憲立法審査権は、民意代表の国会の立法権を最大限尊重すべき暴走抑制がその本文ですから、微妙な疑いを審査する必要がない・・暴走に至らないギリギリの問題まで口出しするのは司法権の越権行為と言えます。
三権分立制度は三権による相互控制(チェック&バランス)であると説かれるのは、その意味であって「司法権の優越」は比喩的に言われるだけであって実際に優越して良い訳ではなく、謙抑的判断が求められています。
いろんな規制には、事前チェックと事後チェックの2種類がありますが、事前検閲の方が強力と理解されています。
まして憲法判断はこの後に書くように社会の大変化を背景に法的にも大きな変化が妥当かどうかを見るものですから、先ずは市場と言うか世間に法律が出た後の実際社会との適合状態を見てからの判断の方が間違いがないことになります。
この意味でも裁判官ですらなく、公的バックもない学者が個人の考えで(無責任に)言ったり、あるいは内閣法制局の役人などの意見で国会議論の方向性を決める事前検閲に類するようなことは、元々憲法が想定していません。
内閣法制局は昨日から書いているように法律の矛盾調整・・別の法律で引用している場合、同時改正の必要性や間違いを防ぐべくチェックするための事務局(テクノクラート)であって、国政を左右するような基本的意見を言うべき職務ではありません。
憲法論が大きな話題になるときは、(明日以降書いて行きますが、)日々の細かな社会変化に対する適応の問題(すでにある耐震基準やガス排出規制をより強化する程度を)越えて社会根幹の変更をもたらす大きな変革時にこの変化に合わせて法律まで変えていいのか等が大論争になったときに憲法違反かどうかが大問題になる傾向があります。
このよう社会大変革の認識の有無・許容の幅に関しては、社会変化が進んではいるものの法的にこれを求めることまでやるべきか(アメリカで言えば同性愛問題など)国民の総意で決めて行くべきです。
象牙の塔とは言わないまでも、民意と直接関係のない・・政治の現場を知らない学者や法制局の役人が、聞かれて参考意見を述べるのは自由ですが、聞かれもしないのに、率先して憲法違反を主張して集会など開いて国民を指導しようとするのは、学者の役割を越えています。
まして歴史上教養人知識人は、書斎中心のために現場の空気にうとい・・時代変化を読み取る能力が低く、超保守的立場に固執する傾向が多いことからも国家大変革受け入れの可否に付いて学者が口を出すのは、国家の進路を誤る危険な風潮です。
この後で書いて行く幕末開国の場合も学者が過去の洗礼「祖法」にこだわって攘夷思想の背精神的支柱になっていました。
社会の大変革問題にどう対応するかではなく、細かな技術改良に口を出す程度が学者・研究者の守備範囲ですから、社会大変革期に学者の意見など聞いていると国家の進路を誤ります。
あたかも国会が合憲違憲の先議権(事前検閲権)があるかのように、民意を受けた代議士よりも優先的に口を挟む権限があるかのように学者の意見を大々的に報道するのはおかしな現象で・・まさに憲法の前提を揺るがす悪しき風潮です。
日本国憲法は戦後アメリカ法の系列に入っていますので、憲法違反かどうかは法律制定後に司法権が最終的に決める制度設計になっていることについては、争いがない・・左翼・文化人が金科玉条にしている制度です。
実務上も、政府が法案提出段階で合憲を前提に提出しているのが原則ですから、道路交通法や建築基準法・食品衛生その他全ての法律に付いて国会が合憲議決してからでないと法案審議に入れないと言う制度にしても、結果的に合憲決議が(多数派の造反がない限り)通ってしまうので、無駄なセレモニーが挟まるだけになって国会空転時間が多くなるだけです。
ですから世界中の憲法で、そう言う制度・・違憲かどうかを先議する制度になっていないし、運用もそうなっていない筈です。
合憲違憲に関しては国会で議決するようになっていない・・国会の権限外のこととすれば、権限外のことについて議論することは意味がありません・・と言うよりは、三権分立制度の精神から見て国会が議論して議決するのは、司法権を侵害する越権・憲法違反行為でしょう。
この辺を野党が充分に国民に説明していないかごまかしている・・政府・与党が宣伝負けしている印象が、今国会の流れです。

原発問再稼働(司法の限界)9

日経新聞朝刊4月23日記載の「大機小機」論説紹介の続きです。
昨日書いたように裁判所が何%まで許容すべきかを決める権限があるかどうかの重要な議論を省略して、直ちにどちらの結論が正しいかの問題に入って行く展開の仕方は、暗黙のうちに裁判所は何でも最終決定出来ると言う前提意識を国民に無意識のうちに植え付ける・・洗脳機能を果たしています。
これに続けて「ホーリズム」とか「要素還元論」などと難しい聞き慣れない単語を使っているので撹乱させられますが、ホーリズムで考えれば答えは決まっている・・国民・・被害を受ける可能性のある地域の住民は「100%安全性を要求する」に決まっていると言う意見を書いていますので、国民意識を誘導するための論説のように読めます。
これまで書いているように、安全性に付いてどの程度のリスク率があるかを決めるのは当時の関連学会で「科学的に」決めるべきことです。
(この基準の妥当性に付いて門外漢の司法機関が裁定する権限はありません=伊方原発訴訟の最高裁判例も同旨・・あるのは科学界の水準に反しているかだけであってそのときの科学水準を決めるのは学会の構成員の能力です。)
科学界の当時のレベルで決めたリスク率を前提に、どの程度のリスクまで許容するかを決めるのは国民総意によるべきであって裁判所(マスコミ)ではありません。
マスコミが原発絶対反対論ならばその立場を明らかにして書けば良いことであって、中立・公正な意見のように見せかけて結論を誘導するのは国論(国民総意)を歪めてしまう危険性があります。
慰安婦に関するマスコミの偏りが指摘され始めましたが、まだ偏った意見を何気なく刷り込んで行くやり方が多く残っているのに気をつけるべきでしょう。
ちなみに25日朝刊社説では、尤もらしく裁判所が科学者の総意?否定するのは穏当ではないと言う趣旨の社説を書いています。
表ではそう書きながら、同じ日の紙面で裁判所の最終決定権を前提にした論説を何気なく乗せて国民を無意識のうちに一定方向へ誘導しているのです。
基準そのものではなく、国民意思が決めた(例えば80%の安全率なら許容すると言う国民意思が決まれば)その許容範囲に収まっているかを審査した規制委の審査が妥当であったかチェックするのは裁判所の権限です。
原子力規制委員会は専門家委員会らしく100%安全とは言えないと言う報道ですが、地震・津波に関する100%予知能力がないことが知れ渡っている現在の科学水準では妥当な意見でしょう。
一定のリスク判断をした後は(一定のリスク判断すら出来るのか?と国民が心配している状態です)どの程度のリスクで稼働するかは、政治(国民総意)が決めることです。
規制委が100%安全とは言い切れないと言っているから、(福井地裁仮処分決定を良く読めばそんな単純な論理ではないでしょうが・・新聞報道しか知りません)100%安全ではないと同義反復して「停止を命じる」とすれば、司法の役割をはみ出していて、行き過ぎの印象です。
(新聞報道が正確かどうかは分りません・・新聞は誘導的記事を書くことが多いので実態は不明です)
10月17〜18日ころに書いたように、どんな機械でもどんな技術(ソフト)でも100%の安全とは、言い切れないのが原則ですから、司法が100%安全を要求するのは、司法の名において新技術を禁止するのと同じです。
世の中に100%の保障はあり得ないのですから、どの程度のリスクを許容するかは国民の信託を受けた政治が決めることであって、許容限度に付いて非政治家・・民主的選任を経ていない法律界が口出しするのは越権です。
司法に限らず「規制委」と言う政治責任をとらない半端な組織を作ってそこに事実上の政治決定権まで付与している・・政治家が責任放棄している(原発推進か否かを明言出来ない)かのように見える政治家の方にも責任があると考える人が多いでしょう。
原子力政策をどうするかは国家の重大事・・100年の大計ですが、それだからこそ国民の総意も揺れ続けているのです。
国民総意を見極めるために・・あるいは国論が落ち着くところに落ち着くのを待って長期計画を決めたいと言うのも1つの見識かも知れません。

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