司法権の限界7(政治と場外乱闘1)

学問にはいろんな賛否の意見があるのが普通ですが、大規模地震や津波発生時期・規模に関しては科学者のうちで誰独り「俺は知っている」と言える学者がいないほど「誰も分らない」点に関しては自明の状態です。
上記のとおり誰も分らないことが明らかな状態でありながら、しかし、何かの基準を決めるしかない・・「分らないから何もしない」か「現状で出来るだけの備えをして前に進むか」は政治(国民意思)が決めることです。
科学界の英知を集めて一応の基準で前に進むと政治が決めた以上は、ある産業を進めるのに反対する人は、政治の世界で議論を尽くして議論の説得力によって多くの支持者を集める努力をすべきです。
安全保障政策で言えば、中国と組むかアメリカと組むのが良いかも科学的に決められないので、高度な政治判断で決めること・・選挙を経た政治の専権行為です。
これが砂川事件大法廷判決の意味するところです。
民主国家においては言論の自由・・自由で公平な選挙制度があるのですから、自由な政治の世界での論争に負けた以上は、次の選挙で勝つまでは潔くこれに従うのが民主主義のルールです。
(多数決に決まっているから議論がいらないのではなく、議論を尽くしておくと議論経過次第で少数意見の方が説得力があると次の選挙への効果があります・・逆に合理的意見を相手が少数だからと無視して裁決に走ると信用を失うので、安易な強行採決が出来ませんので、討論さえきちんとやれば、多数党の横暴を防げます。
日本の場合ひっきりなしに各種選挙がありますので、多数党が一度勝てば4年間安心と安閑としていられない仕組みです。
※アメリカや韓国の場合大統領が任期制であるだけでなく議会も日本のように解散がありません・・4年間そのままです
日々有権者の視線に曝される日本では合理的討論の影響力が大きいのですが、反対討論をきちんとしないで審議拒否や揚げ足取りばかりしていて強行採決に至った場合に「多数の横暴」と宣伝しても空虚な主張になります。
多数党が横暴かどうかは選挙民が議論の経過を見て判断することであって、少数党がマトモな審議をしないで揚げ足取りに終始しているような場合に「横暴と」言えば横暴になるものではありません。
政治の世界のルールに従った勝負で負けた場合でも国会の場できちんと議論することによって巻き返すチャンスがあるのですから、これをしないで、「国民の理解を得られていない」(国民に野党の意見が合理的だと言う宣伝をするのは野党の責務です・・これをしないで審議拒否ばかりでは理解を得られないの当たり前です・・)などと言う訳の分らない宣伝をして場外乱闘・正当な政治手続外の勝負(・・別のルール)に持ち込むのは民主主義社会のルール違反です。
テロや反政府運動が許容される場合があるのは,その社会では民主的運営がされていない・・本来の多数派が多数になれない・選挙制度の不正や賄賂や強迫など・・不正があって民意が素直に反映されない仕組みが、合法的に是正されないときに政治弱者による抗議としての意味があります。
ちなみに選挙区人口比を基準にして、人口比に大幅に反していることを理由に憲法違反と言う意見が普通ですが、人口比だけを単純比例した意見は、一見合理的なようで誰も反対していませんが、地域代表の要素を無視している点で如何にも皮相な印象です。
特定地域からの代表者を決める基準は得票数(独り1票)で決めるべきは論を俟ちませんが、ある地域と別の地域の代表者数を人口比で決めるべきかは本質のちがう問題です。
人権派やマスコミが、憲法論で負けそうになると次には「世界標準がどうの・・」 と国連の意見などを持ち出すのが大好きですが、人口比そのもので地域代表を選んでいる国がどこにあるかと言うデータに関しては一切報道していませんが、世界中で人口比で代表を選出している国がいくつあるでしょうか?
彼らの言い分によれば世界の決めごとも、すべからく人口の多い中国やインドの言い分どおりにしなければならなくなります・将来的にはそう言う目的で布石を打っているのかな?
最高裁の判断は2倍が許容範囲と言うのですが、中国は日本の2倍どころの人口比ではありません・・この種の理屈が行き着く先は、日本と中国の論争はいつも中国が正しいことになるのでしょうか?
選挙区区割りや代表者数は、選挙区の出来た歴史経緯や実情等を綜合して決めて行くべきことで、人口を機械的に割り振ってどんな歴史経緯や実情があろうとも2倍が限度と言う裁判所の形式的決め方は、(民族感情等を?踏まえた)高度な政治折衝で決めて行くべきことに裁判所が介入している越権の疑いがあります。
日本には地域別民族感情などないと言う意見が多いと思いますが、「民族」と言う言葉の意味は別として、会津の人は未だに長州に対する怨恨を抱いていると言われますし吉良の人は吉良上野介のファンだと言われます。
関東の人は逆賊であった平将門を英雄視しています。
東北の人にとっては藤原氏3代の栄華は地元の誇りでしょうし、戦国末期の伊達政宗も郷土の誇りですし甲州の人は武田信玄、越後の人は上杉、信州の人は真田幸村などなどい言い出したら切りがありません。
個人名を挙げなくとも、関西人と東北人、近畿、北陸や四国九州、山陰山陽では意識・文化・気質に大きな違いがあることを否定する人はいないでしょう。
選出代議士数の基準としては人口はかなり大きな要素であるとしても、地域性を無視し切れない点でこの塩梅は実は非常に難しい・・領土問題同様にナーバスな問題ですから、政治で決めて行くべきことにして憲法では決められずに先送りしたのです。
人口比で決めるのが正しいと簡単に言えるならば、憲法に簡単にその原則を書けた筈です。
「人口比2倍を超えるのは違憲」と言うすっきりした意見の先に、もしも人口の少ないある地域の代表がゼロになっても良いのかと言う議論が先にあるべきでしょう。
ゼロに出来ないと言う暗黙の意識・・人口数だけで決められないと言う国民意識を前提に、人口増加地域の定員を増やして来たのがこれまでの経過でした。
地域代表をゼロに出来ないが大きな地域性はある、日常行動範囲が広がり「細かな地域代表はいらない」道州制論に近い?政治合意が出来るならば、先に現行都道府県制度から変えて行く国民議論をしていくの政治の常道であって、裁判所がどうしろと言うのは越権です。
現在の合区論だとある県の定数をゼロに出来ないので、県をまたがった代表選出する仕組みにならざるを得ないのですが、議論の順序が逆・・地域の一体化が先行して対外共同行動が増えた結果、県などの合併があるのではなく、民意によらない裁判所が違憲と言って、強制しているからこうなるのです。
ちなみに私自身は何回も書いているように(千葉のようによそ者中心の土地に住んでいる関係からか?・このように地域性が大きな影響を持ちます。)細かな地域性を重視し過ぎるのはどうか?と言う意見ですが、「裁判所が議論を強制するのは逆でしょう」と書いているだけです
現憲法制定時にも、地域形成の歴史・実情を無視出来ないので、慎重に地域の実情に合わせて地域ごとの話し合いを経て決めるようにと言うことで、憲法では基準を決めずに選挙法に委ねたと見るべきです。
選挙法が学問上「実質的意味の憲法」と言われている基礎です。
日弁連の事例で言うと、会長選挙制度は総投票数の過半数をとっても単位会の3分の2以上で多数を取れないと、再投票する仕組みです。
現に宇都宮健児氏を選んだときに再投票再選挙になったことがあり、同じことを2回も3回繰り返すのでは終わりがないとから改正しようと言う動きになり、
改正案が1昨年から昨年にかけて検討されましたが、理事会にかける前に単位会の反対でつぶれました。
衆議院選挙無効訴訟に熱心な日弁連自体が、自分のことになると人口比で決めるのに大反対で議論にさえなっていない状態です。
アメリカの例で言えば、各州の選出議員数を人口比で簡単に増減出来るかと言うことですし、イギリスで言えば、ウエールズ・スコットランドその他地域別選出数を人口増減に比例して増減出来ているとは、想像すら出来ません。
多分アメリカやイギリスの裁判所が人口比で「上院や貴族院議員の数の増減を論じること自体が憲法違反になる」意識が自明なのでそう言う裁判すら存在しないと思われます。
私見によれば人口比を基礎にする選挙無効訴訟・・違憲状態判決こそは、民意無視を絵に描いたような机上の空論だと思いますが・・。

司法権の限界6(人権・正義の相対性2)

夫婦別姓に関する最高裁合憲判決に戻りますと、社会の道義や正義はその社会が決めると言うあたりまえの前提・・誰か偉い人が正義を決めるべきではないと言う確認が必要です。
人権や平和と言う名目で反日行動する勢力は、日本の上位機関として国連を想定しているらしくそこへ食い込んで、ご託宣を得れば良いと言うやり方が多いようですが・・かれらは社会ごとに正義があると言う前提を無視していることが分ります。
国や民族の意思をバカにして上に聳える?超然たる正義を決める神のようなモノを措前提する勢力と言えます。
別姓支持勢力からは最高裁判決に対して落胆の声がありますが、国民多数の支持を得ているならば政治決定を求めれば実現出来ることであって、法改正を求めずに何故裁判で決めようとするのか分りません。
本来法律改正で間に合うものをあえて司法での決着を求める勢力は、国民意思に反している前提・・民意を超越した偉い人の御託宣が欲しいと言うに等しいことになりませんか?
民主国家においては多数の支持を受けた意見が法になり得るので、国民の支持を受けている勢力は憲法違反など主張する必要がありません。
何か気に入らないと直ぐに憲法違反と主張する勢力は、多数からの支持を受けられない・・民意=多数意思を無視するか軽視している勢力のことになります。
憲法が気に入らないと国連決議や勧告、報告を持ち出します。
国民の支持を受けられない勢力=民意を代表しない勢力が、「多数市民の意見を無視している」とか、「大衆迎合主義」とか自分を支持しない国民を衆愚(バカ)扱いして都合良く分類していることになります。
政治の場で議論するべきことをしないで、(あるいは政治論争で負けて)司法に持ち込む運動は、憲法の予定している国民主権原理を無視した・・憲法違反の主張になります。
別姓に関しても時代・・国や社会を越えた超越的価値観がある訳ではありません。
「同姓めとらず」の原則による中国・朝鮮では別姓のママですが、別姓論者の基礎的価値観は中韓の価値観を下敷きにしているように見えますが・・。
中韓の方が古代から人権意識が優れていたと思う人はいないでしょう。
西洋系でもクリントン大統領候補で周知のとおり、前クリントン大統領夫人ですが中韓を除けば、世界中で同姓が普通です。
別姓に関しては(女性に不利だと言う意見を中心に)多様な意見があると思いますから、社会意識の落ち着き・・民意を汲むのは政治家の仕事です・・政治の場で決めたら良いことです。
他所のどこかの原理を持って来て、司法権がどちらの方が優れていると決めるのは行き過ぎです。
意見が分かれている分野・・法で決め切れていない分野で司法がどちらの方が良いと決める権利はありません。
意見が拮抗しているときにどちらを進めるかこそが政治家の決断力の見せ場ですが、新たに国民の進べき方向を司法権が決めるのは権限外です。
またこれを司法に求める運動・憲法を守れと言う運動は・・逆説的ですが、司法に民意を超越したどこかの外国意見の強制を求めるもので、憲法違反をさせようと唆す犯罪的運動です。
安楽死で言えば、担当裁判官が、個人意見として安楽死させるべきと考え、あるいは国連から「安楽死を認めるべきだ」と言う勧告があっても、国民意思による刑法改正をしていないのに、合法であると判断することは法創造をするものであって許されません。
この後で「法と良心」の定義で書きますが、司法による法創造が許されないだけではなく、個人の主観的意見による法解釈は「良心」に反するものであって許されません。
歴史的に見て、天皇制に限らず権力維持するには権力の乱用をしない・・余計な口出しをしない・・謙抑性が必須要件です。
裁判所の最終決定(全国的影響のある事件は最終的には最高裁まで行くのが普通ですが諫早事件でのように政治利用が進み過ぎると却って、高裁どまりになって困っている事件もあります)にどの機関も異議を唱えられないことを良いことにして、最高裁を含めて司法権が出しゃばり過ぎる・・権限濫用すると司法制度自体の革命的改正機運が高まるでしょう。
似たような機関としては軍部があり、軍部がのさばってしまうとみんな怖くて黙っているしかない・・不満蓄積による革命的運動以外にこれを取り除くことが出来なくなります。
不満爆発まで行くと多くは勢いがつき過ぎるので,タイやエジプトのように一時の混乱を沈めるために已むなく軍が介入しても1日も早く軟着陸しようと努力しています。
司法権は国民から要請されてもいないのに、政治に介入するのは愚の骨頂です。
必要もないのに政治介入し過ぎて国民的反発を受け信用をなくすと、本来必要な司法機能(法暴走したときのチェック機能)まで縮小するリスクを心配しています。

司法権の限界5(人権・正義の相対性1)

最近最高裁が夫婦別姓に関して、国民議論が熟していないとして違憲主張を斥けたのは・・司法の限界を弁えた賢明な判断だったと思います。
正義は数学の原理とは違って社会原理ですから、その社会の経て来た歴史経緯や実態を無視して抽象的・・超然として存在するものではありません。
日本には日本列島の経て来た歴史があるし、アメリカや中国インドそれぞれにちがった経験や歴史がありこれに応じた正義があります。
同じ社会でさえも、時間軸による差があります。
超短期的時間・・大規模テロ発生直後の現場では、全てのインフラ利用や人権保障を停止して先ずは救急救命や厳戒態勢の構築・捜査犯人検挙・連続テロ防止が優先されます。
中短期的にも、テロ被害が恒常化すると先ずは、治安を優先する必要があって・危機対処要員・・軍人の意見が優勢になるのと同様でその置かれた状況に応じた価値・正義の比重が変わります。
今、西欧で通信傍受その他の必要性(平時の人権が遠慮する必要性)が真剣に議論され始めたのが、その兆候・・アメリカでアップルの暗号解除が大議論になっているのもその一種です。
自分が安全なところにいて危険地帯での治安強化を非難していたのは、不公正な議論であったことを西欧諸国も身を以て知ったでしょう。
3月初めころに女系天皇を認めない皇室典範が、男女平等原則違反と言う趣旨(ネット報道なので文言不明)の国連人権委員会による対日勧告案(日本人弁護士委員長)が提示されて、おお騒ぎになりかけました。
憲法に平等の人権規定がありながら、同じ憲法に天皇制と言う世襲制度を設けている以上は、(男系優先まで含むかは別ですが・・)これは憲法の例外です。
まして以前書きましたが、天皇家・皇室は「国民」ではありません。
憲法がどうであれ、憲法に超越する上位規範を作って?皇室内にも男女平等原理や長子家督相続をやめて均分相続原理を認めるべきかとなりますが、天皇制がどうあるべきかは正に「国民総意」によることで国連・外国からとやかく言われることではありません。
こう言う問題提起している集団は憲法より上位の規範がある・・それを自分たちだけが知っている・・そのお墨付きを国連勧告などに求めているように見えます。
国民多数の支持を受けられない現実に対しては、多数派を衆愚とか大衆迎合主義者と言って無視し、自分が憲法を無視したいときには国連勧告や報告を持ち出すなど、都合良く切り分ける集団がいます。
この問題が大きくなると国連で誰がこんな画策をしていたのか!と言う大きな動きになりかねないと思ったのか?国連の(内で画策していたグループ?)方で直ぐに取り下げたので大騒ぎにならない内に終わりました。
国連委員会の勧告制度は、元々相手国がいやがることを勧告するものですから対立関係を前提とするものですが、日本の反応に驚いてホンの1週間ほどで取り下げになってしまった安直な動き自体おかしなものです。
以前の児童売買春に関する対日調査報告だったか記者会見もそうでしたが、やることが特定の反日少数グループによる安易な報告や勧告が量産されている印象を受けます。
何かと「国連で批判されている」と言う論法で憲法に優越する前提の主張を持ち出す論者には、人権と言えば国ごとの差が許されない人類普遍の原理・・遅れている国民の意見などいらないと言う選民意識がある(・・何かあると憲法違反論を主張する勢力と重なっているようですが・・本音は憲法や民意無視の勢力です)と思いますが、さすがに「天皇制そのものを批判するために国連を利用するのか!」と言う世論が沸き立つ前に早々と引き下がった印象です。
嫌韓感情の発火点は、李明博前大統領にによる天皇侮辱発言が伝わったことによります。
慰安婦騒動は韓国には迷惑をかけた以上はある程度の誇張は仕方がないとか、「またバカが言ってるか!」バカを相手にするとこちらまで品性が下がると思っている程度の人が多かったのですが、天皇侮辱発言となると、ついに民族感情が爆発してしまい日本人の韓国に対する思いやり・寛容の精神の限界を越えてしまいました。
韓国は国連のように直ぐに軌道修正すればよかったのですが、(国連委員会がすぐに修正出来たのは日本人委員がこのテーマに影響力を持っていたからではないかと推測されます)朝鮮人の民族性を発揮してパク大統領が開き直りに徹したので遂に修復出来ないところまで進んでしまいました。
今になって日韓合意になりましたが、日本からの観光客激減が続いていることに象徴されるように傷ついた国民感情を簡単に修復出来る訳がありません。
親族や友人間の裁判で和解したからと言って、・・その裁判での主張をこれ以上進めないと言う程度の合意に過ぎず、過去の人間関係が修復出来ることが皆無に近いのと同じです。
政治用語の「不可逆的」とは、法概念の「確定」「既判力」の言い換えです。
日韓合意に対するいろんな立場からの意見がありますが、裁判上の和解を下敷きにして考えると容易にその効果・・射程範囲を理解出来る筈です。
専制支配の経験しかない韓国では、指導者・政治家あるいはマスコミさえ抱き込めば良いと言う動きが最近急ですが、ボトムアップ社会の日本民族性を十分理解していないようです。
抱き込まれた政治家があまり露骨な動きをすると朝日新聞やフジテレビみたいな目に遭うでしょうから慎重です・・当面韓国批判をさせない間接的動き・ヘイトスピーチ禁止論から始めている印象です。
国連を利用した男女平等にかこつけた実質的天皇制批判・・勧告案に対する日本社会の憤激の大きさに驚いたのか、(韓国と違って機を見るに敏です)大急ぎで国連人権委員会が案を引っ込めたことから分るように、「人権」と言いさえすれば人類普遍原理・・国連が価値観を示して民族の総意を無視して主張出来る・・超越的高みから指導出来る訳ではない・・・社会ごとの人権・正義があることを認めざるを得なかったことを女系天皇騒動が証明しました。

司法権の限界4(謙抑性1)

大学入試はテストによるしかない・・しかもテストにもルールがある・問題を予め教えたり、個人的耳打ち情報や裏金・コネで特定生徒の合格を決めたらいけないように、裁判も訴訟手続に出た資料以外の材料を判断材料にするのがいけないのが基本です。
野球や相撲でも大方ルールがあり、裁判には勿論ルールがある・・これを決めているのが訴訟法です。
訴訟手続を踏んで出されていない心象風景を判断材料にするのはルール違反です・・野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つのであって、別の人が投げた球を打ってもホームランやヒットにカウントされませんし、料理コンペでは同じ具材条件で競うものであって、こっそり別の調味料を加えるのはルール違反です。
ましてや政治決定の優劣を最終審査する権利は司法にはありません。
料理審査員が政治に口出ししているようなものです。
料理やスポーツ等の審査員が政治意見を言っても国家意思にはならず影響力程度のことですが、司法が判決で政治を持ち込むと国家意思の最終決定・・権力行使になるので、性質が違ってきます。
司法権の限界を越える=越権行為をする裁判官は一部の不心得者に限定されるとしても、仮に裁判官全体の一部の人でも自分の個人的主張を通すために裁判形式を利用すると、国家権力・強制力として効力が生じるので大変な影響力があります。
医師の独断による安楽死実行は、規範的効力がなく逆に規範により処罰される犯罪行為としてのインパクトでしかない・・被害者は個々人だけですが、国家意思としての司法決定は全国民の行動規範・・法の解釈となるので影響が大きくなります。
民間や行政組織は組織的決定を経ないで外部発表するのはルール違反ですが、司法・・裁判官は単独(多くは単独事件ですし、合議体でも対等者間ではなく経験10年以上の格差のある先輩後輩の3人でしかないことをMarch 12, 201「個人責任と組織の関係3(仮処分制度の領域1)」のコラムで紹介しました)で国家意思として強制力を持つところが大違いです。
医師は病気を治すのが本業ですが、人の生死に関連しているうちに生死を左右出来る権利があるかのように振る舞うようになると怖いものです。
医師の個人信念で安楽死をさせている事件が時々殺人罪のニュースになりますが、医師は生死の場に多く関わっているだけであって、生死を決める優越的判断権を有している訳ではありません。
テーマがズレますので簡潔に法的整理すれば、「自死」に関してどう言う場合に自己決定権を認めるべきかその援助を容認するかの国民合意形成分野です。
刑法
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条  人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
国民合意がないのに、特定医師あるいは医師会が勝手に国民意思を決めて実行する権利はありません。
このように一定の力を持つと限界をはみ出す人が生じ易くなります。
武道家がグレて違法行為に走ってしまうのに対抗する姿三四郎の映画や、チャンバラ映画のようなものです。
27日に紹介した日経新聞の「春秋の筆法?」によれば、大津地裁の仮処分決定は「国民の心象風景を認定しているように見える」ようですが、司法権には国民意思を認定して法をどのように創造すべきかを決める権利がなく、既存の法に該当するかどうかを「訴訟手続によって得た証拠を「自由心証」で評価した事実認定権限しかありません。
訴訟手続によらない心象形成・・独断決定は禁止されています。
とは言っても条文自体の解釈・・学問的甲論乙駁も定説もない分野では、裁判官の個人信条が反映され易くなる危険があります。
名古屋だったか三重県だったかで友人の子供を預かった間に起きた事故で、損害賠償を認めた事例が世間を騒がせました。
名古屋高裁の妻や長男夫婦の介護責任を認定した事件のように司法判断がおかしい・・司法権がそう言うことまで決めていいのかの疑問を持つ人が多いでしょう。
国民的議論がまだ熟していない段階で、司法が勇気を持って?率先判断を示すと「法」を創造することになります。
憲法上司法の最終決定が国の最終決定となることから、国は司法の決定に従わねばならない・・これを是正する方法がない分・・その分司法には自己規制・・謙抑性と言われています・・が要請されます。
憲法が司法に法解釈の最終決定権を与えた・最終決定機関と言うとはこれが誤っていても是正する手段が用意されていないことになりますから、その代わりに内在原理として自己規制・謙抑性が要請される原理ですが、最近これが狂っていないか、社会的に疑問をもたれる判例が時々出ます。
社会のあり方に関して国民議論が熟していない上に法の基準がない場合には、司法が率先して基準・法を定立しようとするのはおこがましい・・国民主権原理に反しています。

司法権の限界3(証拠による事実認定)

政治決定の場合、情報源・判断資料が何かを開示する義務がありませんし、国民もAと言う政治家を選んだ理由を説明する義務がないどころか、誰を選んだかも秘密に出来ます。
司法権は国民から政治決定の委託を受けていない専門家と言う位置づけですから、専門的判断である以上は判断根拠を示す義務があります。
しかも根拠とする事実は、証拠によって認定された事実に限られます。
刑事訴訟法
第四十四条  裁判には、理由を附しなければならない。
第三百十七条  事実の認定は、証拠による。
第三百十八条  証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
第三百三十五条  有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。

民事訴訟法
(判決書)
第二百五十三条  判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  主文
二  事実
三  理由
以下省略
2  事実の記載においては、請求を明らかにし、かつ、主文が正当であることを示すのに必要な主張を摘示しなければならない。
(自由心証主義)
第二百四十七条  裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。

「自由心証主義」と聞くと自由自在のような印象を受けますが、証拠評価について自由な心証によると言うだけで、(法律論としては「法定証拠主義」でないと言うだけで「事実の認定は証拠による」義務があるので)証拠のないことを認定することは許されていません。
上記のとおり、判決するには、訴訟手続で厳格に管理された「証拠によらないといけない」のですから、証拠調べしていない・・裁判官が個人的に知っていることや感じたこと・・心象風景を判断根拠に持ち込むのは、ルール違反になります。
訴訟に出た証拠からそのような事実認定が合理的であるかの基準には、経験則が用いられ当事者が不満の場合には上訴審でチェックを受け・・社会的影響力のある事案では、学者や世間の批評対象になります。
昨日紹介した日経の意見によれば、社内で証拠を吟味したところ、証拠からは決定理由となる事実を導けない・・・・だから証拠以外の心象風景を根拠にしたのではないか?と言う遠回しの評価意見になったと思われます。
訴訟手続の技術論を離れて司法権と政治の関係に戻りますと、司法権の優越性と言われることがありますが、国民心象・民意・・心象風景を理解し実現する政治判断能力ではなく、法の解釈・精神がどこにあるか・事実が法に合致しているかの最終認定能力・権限でしかありません。
憲法上は、国会が国権の最高機関ですし、実質的にも妥当です。
法の解釈を司法手続内でしか覆せないので、最終決定権者のように見えるだけです。
それがいつの間にか、拡大されて法そのものを創造出来るかのような振る舞いを始めようとしているように見えるのが、現在社会と言えるでしょうか?
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙したくなり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわいます・・台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きますが、特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
何事でも熱心になるとツイ、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とする現在の制度が合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質からすれば当然です。
自分らの気持ちを代弁して主張を通す能力のある人に託すのが合理的ですから、一定の説得力・・弁論能力が要求されますが、先ずは良く聞いてくれる人が第1の要件です。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
民意吸収能力差を基準にすると秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙するようになり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわい、台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きます。
特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民救済)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
つい、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とするのが合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質を理解していないからです。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
政治決定する正統性の根拠が、民意吸収能力差であるとした場合、秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから選挙を経た公認資格がないだけではなく、実質的にも無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)

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