袴田再審事件2(メデイア・日経新聞)

弁護側に不利な虚偽報道があれば弁護側は手持ちの判決書や決定書ですぐに反論できますが、内容に合わない「不当判決」の宣伝報道や内容捻じ曲げた報道があっても裁判所も検察も反論できないので、虚偽〜フェイク〜内容のない根拠ない誹謗・・何でも報道されっぱなしになります。
弁護側の主張が否定されると決まり文句のように出る「不当判決、不当決定」の垂れ幕がこの象徴でしょう。
本来大人の感覚で言えば、自分の意見が通らない都度、論争相手を「不当」と罵るなどはやるべきことではありません。
サッカーやスポーツで負ける都度対戦相手の試合が不当だと、罵っていて国際関係がなりたつでしょうか?
不当と言う批判の洪水ほど不当な批判の仕方はありません。
何が間違っているかの事実適示がないまま、不当(市民感覚が許さない)と言う根拠のない意見表明では批判された方が反論できない決めつけ報道になりますので、こういう報道は、批判とか意見と言うのも恥ずかしい動物の咆哮レベルのシロモノです。
上記のとおり裁判所等がなんら反論できない仕組みが出来上がっていることからこのような事実無視・・事実を論じない粗雑報道がはびこるようになったのではないでしょうか?
一旦メデイア攻撃の対象になると、国や大手企業に限らず個人でも全く反論できない点ではほぼ同様です。
もしも権力に属する裁判所や検察が、「裁判批判が間違っている」とひとことでも言えば言論弾圧といって(メデイアが煽って)大騒ぎになるでしょうから、「自由な言論市場で勝負すべき」と憲法学者が言うものの、メデイア攻撃の対象にされた組織や個人は何も言えない・言わせない仕組みを作り上げた上で「あることないこと無茶苦茶」報道してこれが「世論だ」「市民感覚」だと強弁する習慣が出来上がっていると言えるでしょうか?
戦前の美濃部教授に対する天皇機関説事件はまさにその種の総攻撃でした。
企業誘致その他公聴会等でも反対派はいくら動員しても良いが、賛成派が動員したことがわかるとメデイアの袋叩き・大政治問題になります。
企業側・公務員が何か釈明反論すると「そんなこと言って良いのか!」という非合理な非難大合唱で、最後は平謝り・土下座強要の繰り返しで、いつの間にかメデイアの応援を受けた庶民は怒号し放題という構図が出来上がっています。
平安末期に僧兵が神威をかさに着て日枝神社の神輿を担いで問答無用で暴れ回っていた横暴なやり方を、根拠を示さない「庶民の声」「市民感覚」に置き換えただけのように見えます。
ようするに日本では、メデイアが一方の立場で洪水的攻撃を始めると誰も反論できないまま、(妄言批判等で大臣がクビになり政治生命をなくす)社会から抹殺される時代が続いてきました。
うっかり疑問を呈すると「市民感情を理解できていない」と根拠不明の基準で袋叩きになる社会・・言論の自由市場・対等合理的論戦できる仕組を破壊し尽くしてきた結果、メデイアの応援を受けた批判者は言いたい放題・・批判する方は何を言っても言論の自由で免責される仕組みです。
道路占拠の屋台などを行政が是正しようとすると「部落民を差別するとかいじめて良いのか」という「えせ同和」が蔓延るようになったのと同じ構図です。
この類縁が(弱者の)「在日をいじめるのか!」と何でもゴリ押しがとおってきた習慣・.京都の公園不正使用が恒常化していた原因しょう。
韓国では一旦弱者のメデイア的地位を得るとやりたい放題の傍若無人ぶりが(たとえば飛行機遅延だったか?軽微な不手際事故では米国の飛行場だったかでクルーに暴力を振るう乗客の映像や、セウオール号事件では1年以上経過しても体育館だったかに泊り込みを続けている例が知られています)報道されますが、日本にもメデイアを通じてそのやり口が浸透しすぎているように見えます。
これは日本のエセ同和や在日のやり口が韓国に浸透したのか、韓国系の心情政治が日本のメデイア界に浸透したのか、どちらが先か知りませんが、「メデイアによって一旦弱者報道されれば何をしても言っても良い」という方向性は共通です。
いわゆる「在日特権」というのも特権でもなんでもなく、在日の場合ゴネてうるさいので窓口で役人が「こと勿れ主義」で対応して来た結果、在日を事実上特別扱いしているに過ぎないでしょう。
こうして在日の生活保護受給率等が高まり、京都の公園不正使用が既得権化していたのです。
「人の噂も75日」といわれるように判決等の内容を半年後に一般専門家が目にする頃には、世間の関心が移っているというか都合の悪い事実をメデイアが報じないので、マスメデイアによる世論誘導力は甚大でした。
今やネット時代で、コネがあれば担当弁護士から「決定書」をメールでもらって、そのままコピペ拡散できる時代です。
裁判所が自分で反論しなくとも、弁護士の名(郷原氏は隠れ裁判所か?)で拡散できます。
メデイアの誤読や意図的誤読報道はすぐにネットで反論されるようになります。
ひと昔前までは、何かあると北朝鮮や中国は「すべて日本の責任だ」という公式発言が普通でしたが、朝日新聞を筆頭にメデイア界では今でも何が何でも「人権?」と名のつく方に捻じ曲げて権力批判の結論だけ報道する傾向がまだ変わらない状態です。
6月17日の日経新聞朝刊社説にも、一度再審開始に決まったものが、同じ証拠を見る人によって正反対の結論になるのはおかしい」といい、「無罪方向に決まった場合には、事実の有無に関わらず覆せないようにすべきだ」と言わんかのような論調です。
念のために正確に引用しておきましょう。

 「信頼される司法のために」
静岡地裁が・・再審開始を決めた・・その最大の決め手が、袴田被告の来ていたとされるシャツについた血痕のDNA型だった。弁護側の推薦した鑑定人の鑑定では元被告や被害者のものと一致しなかった。
ところが・・高裁は鑑定のやり方について、「深刻な疑問が存在する」と信用性を否定。再審開始決定を取り消した。
裁判官が違えば異なる事実の認定や判断がなされることがありうる。
それにしても同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。
・・無罪につながるような新たな証拠が見つかり一度再審の開始が決まったらその扉の外で延々と争うのではなく、速かに再審の裁判に映る仕組みに改めるべきである。

以上のように日経は、高裁決定で1審の結果が変わるのでは、司法の信頼が揺るがしかねないという主張です。
それを言い出したら三審制度が成り立ちませんし、最高裁まで行って確定した有罪判決を一地方裁判所が取り消すような再審開始決定自体が、司法の信頼を根底から揺るがすことになりませんか?
だからこそ、再審査手続きに入るかどうかの手続き入り口で慎重な手続きが予定されているのです。

西山事件とハニトラ1

ハニトラ的取材で世間を騒がした大事件といえば昭和40年台中頃・毎日新聞の西山事件でした。
しかも西山事件(毎日新聞は個人プレーで知らなかったと逃げていたでしょうが・・)と異なり、今回のテレ朝日記者事件は個人プレーではなく、場所設定や費用などテレ朝日側で出していたとすれば(なぜか重要事実不明の記者会見ですが、給与所得の公務員が自腹で1対1の個室?飲食代を日常的に自腹で出していたとは考えにくいところです・この辺の質問を一切しない暗黙合意があったのでしょう)、悪質性が際立ってきます。
ハニトラ取材の悪習是正でいえば、責任を負うべきはこういう取材方式を常態化していたメデイア界自体でしょう。
記者会見の質疑では取材方法に対する国民の疑問に答えるための質問が一切ありませんが、メデイア界全体が触れたくないからでしょう。
メデイア業界が西山事件の教訓を得ていない点で今回のセクハラ疑惑は社会意識の変化に気が付かなかった次官の言語対応の問題とは本質が違い、しかもメデイア界は西山事件を経験しているので初犯ではなく、西山事件の時よりも組織化し常習化していたとすれば責任重大です。
沖縄密約に関する西山記者事件は、女性に対するハニトラ利用による国家の秘密情報取得が違法判断の決め手になった記憶です。
新聞記者は国家公務員ではないので公務員としての義務はない・・普通に取材して秘密情報をたまたま入手しても、取材方法が相当性の範囲であれば取材した方に国家公務員法違反の共犯にはならないのでないかという争点になったからです。
このような記憶を想起してみると、西山事件の教訓を学ばずメデイア界は約50年間の長きにわたって女性官僚には男性記者をむける・・女性官僚には男性記者を向けるなどハニトラ的違法収集をしてきたのか?の疑念が生じます。
世界的に見れば子かっ機密のスパイ行為は犯罪そのものですが、日本では「違法すれすれ行為」で終わっているのは、日本には秘密保護法がなかったからです。
国家公務員法違反だけですと公務員でない民間人には同法の適用が原則としてありえない・いわゆる身分犯ですから、情報を得た方にかなりの違法性がないと共犯にはなりません。
どのような男女関係か?一方的情報収集目的で近づいたのかという機微に触る情報・訴訟認定ができない限り、本当の恋愛関係や偽装結婚に持ち込めば、「夫婦会話でちょっと聞いて何が悪い」漏らした公務員であって聞いた方には違法性がないとなりますので、 スパイ防止法がない・・民間のスパイを処罰できない法制度の欠陥です。
西山事件では西山記者が情報入手後女性官僚との交際を露骨にあっさり切ってしまったので、女性公務員がこの関係を暴露したのではっきりしましたが、そうでない限り日本の法律ではスパイやり放題(外国女性スパイの場合本国に帰ってしまえば(例えばロシア中国のスパイの場合、ロシア等に引き渡し要請しても応じないでしょうから・・)おしまいです。
西山事件は大規模報道されていた・40年以上も前のことなのに私が記憶しているほどの大事件だったにも関わらずその後是正されることがなく、(当時は西山氏個人の行き過ぎとしてメデイアは責任を取らなかったと思われます)今回のテレビ朝日事件はもっと激しく企業組織的にハニトラ取材・嫌がる女性記者に無理に行かせるなど?が常態化していたことが明るみに出たように(情報をはっきりさせないので却って疑念を抱くという私の個人的憶測です・・念のため)見えますが、メデイ界ではその重大性に気がついていないようです。
西山事件に関する本日現在のウイキペデイアの記事です。

1972年、日本社会党の横路孝弘と楢崎弥之助は西山が提供した外務省極秘電文のコピーを手に国会で追及した。この事実は大きな反響を呼び、世論は日本政府を強く批判した。政府は外務省極秘電文コピーが本物であることを認めた上で密約を否定し、一方で情報源がどこかを内密に突き止めた[4]。首相佐藤榮作は西山と女性事務官の不倫関係を掴むと、「ガーンと一発やってやるか」(3月29日)と一転して強気に出た。西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、4月4日に国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。
毎日新聞はこの時点で両者の関係を把握していたが、表沙汰になることはないと判断し、引き続き政府批判を展開、当初は他紙も、西山を逮捕した日本政府を言論弾圧として非難し、西山を擁護していたが、佐藤は「そういうこと(言論の自由)でくるならオレは戦うよ」
参議院予算委員会で「国家の秘密はあるのであり、機密保護法制定はぜひ必要だ。この事件の関連でいうのではないが、かねての持論である」と主張した。『週刊新潮』によって不倫関係がスクープされ、時の東京地検特捜部検事佐藤道夫が書いた起訴状に2人の男女関係を暴露する「ひそかに情を通じ、これを利用して」という言葉が記載されて、状況が一変したといわれる。
『週刊新潮』が「“機密漏洩事件…美しい日本の美しくない日本人”」という新聞批判の大キャンペーンを張った他、女性誌、テレビのワイドショーなどが、西山と女性事務官が双方とも既婚者でありながら、西山は酒を飲ませて強引に肉体関係を結び、それを武器に情報を得ていたとして連日批判を展開し、世論は一転して西山と女性事務官を非難する論調一色になった。裁判においても、審理は男女関係の問題、機密資料の入手方法の問題に終始した。
西山が女性事務官に対して「君や外務省には絶対に迷惑をかけない」と言いながらそれを反故にしたことや、女性事務官に取材としての利用価値がなくなると態度を急変させ関係を消滅させたことを女性事務官が証言したことで[6]、西山の人間性が問題視された。
一審の東京地裁判決で西山は無罪となり、女性事務官は懲役6ヶ月執行猶予1年の刑を受けた。
最高裁判決
「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである」「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と判示し、秘密の正当性及び西山の取材活動について違法性と報道の自由が無制限ではないことを認めた[10]。なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。

西山記者が男性だから世間批判を受けましたが、記者が女性だと逆に被害者になるのかの疑問が起きてきます。
ハニトラに引っかかりやすいのは人情の基本ですから、(だからこそ国際的にスパイ行為の基本になっています)その被害に引っかかる官僚批判も必要かもしれませんが、ハニトラ攻勢を意図的に仕掛けるメデイア界の責任こそが政治テーマであるべきです。
今回の財務省次官のセクハラ発言問題は、その記者が「財務次官のセクハラ言動を嫌だ」と上司に訴えているのに上司に無視されて?あえてテレビ朝日が派遣したのは、これまでその女性記者が1対1の酒席に侍っての情報獲得に効果があったからでしょうか?
成績が悪ければ女性記者が「次官のセクハラ発言が嫌だ」と言わなくとも、役立たずとして別の人材に差し替えるのでないでしょうか。
近寄った方が女性であるというだけで、経緯周辺事情を明らかにしない被害発表(記者会見にお仲間しか入れない?ツッコミ質問を事実上制限)では、西山事件の逆バージョン・・男女入れ変わっただけではないのか?の疑念を膨らませる人が増えます。

メデイアと学者の煽り6(5・15〜2・26事件へ)

騒ぎが大きくなると民意に関係なく総辞職する方式は戦後も続いてきましたが、戦後は内閣総辞職しても野党が選挙で勝たない限り、政権が野党に変わらない点が戦前との大違いですが、社会党以来の野党が未だにこれをやっているのが不思議です。
政策論争をしないで揚げ足取りをすればするほど支持率が下がる・・今回の「森かけ騒動」でも今後どこまで真相に迫るか・・そもそも役人亜y政治家が総理やその妻の意向を忖度して最良の範囲内で動くことがどういう政治責任あるのか?という基本的意味についての意見が伝わってきません。
例えば総理や社長がきたら法(社内ルール)で接待方法を書いていなくとも法令違反しない限度で最大の待遇を敬意を持って接遇するのが普通ですし、社長や上司がこのプロジェクトを推進したい、あるいは否定的意向があると思えば、(顔色を読んで?)部下がその方向で調査するのが普通です。
調査等の担当者が不正を働いたかどうかが次の問題であって、その場合でも総理が自ら発言したのではなく周りが勝手に総理案件(私の事務所の客でも勝手に私の好物だと思ったと言って手土産を持って来るひともいます)と誤解している場合もあり、総理の知らないところで忖度して行われていることに総理の責任があるかはまた別の問題です。
今回総理案件と周辺が気を利かしてメモしていたとしても、社長が工場視察に来た時に受け付けの人が気を利かして、すぐに最上級の応接室にとおして最良のお茶を出しても汚職でもなんでないのと同様に、総理案件と思ったとしても審議会等の手続きを経て決まって行った過程でどこに法令違反があるかの事実が重要です。
このような手続きのどこに違法があったのか?違法がなくとも「総理の希望がこの辺にありそうだ」と周辺の引き継ぎ的メモがあったこと自体が総理の責任というのか論点がはっきりしないイメージです。
「忖度=違法行為があったはず」というだけではあまりにも論理に飛躍がありすぎます。
昨年の総選挙前から内閣支持率が下がったと報道されましたが、せっかく攻撃している方の野党の支持率は一向に上がりませんでした。
昨年の選挙結果を見れば、メデイア界の期待を民意のように誤報道・煽り報道していたことになります。
55年体制後の社会党は、揚げ足取りで政策停滞を求めれば求めるほど政党としての信用を落として長期低落傾向になりました。
自民党内閣が何回も総辞職しているのに最大野党の社会党支持率が下がる一方だった事実=国民が総辞職の原因について与野党政権交代すべき争点でなかったと考えていなかったことがわかります。
戦後高度成長期には「昔陸軍、今総評」という標語が普及していましたが、メデイア界は戦前は軍部意向・・虎の威を借る代弁者であり、戦後は占領軍の意向に従い、講和条約後は左翼文化人や総評・中国・ソ連方向ヘ、ソ連崩壊後は中韓支持へと「回れ左」して来たのがメデイア界です。
日米開戦の時も日米軍事力格差を知っている軍部は簡単に応じませんでしたが、政治の力に押し切られて「1年程度なら持ちこたえて見せましょう」と応じたエピソードが知られています。
ちなみに軍部と言っても国際情勢に目配りし総合判断の利く人材もいますが、血気にはやり総体的視野のない人材が軍部内で力を持つようになっていたことが軍部独走の原因です。
極論を外部から応援して煽ったのがメデイア界です・天皇機関説事件もメデイアさえ外野で煽らなければ政府は一人くらいの跳ね上がり過激派議員質問など相手にしないで終わった事件でした。
満州事変(1931年〜)支那事変(1937年・昭和12年の盧溝橋事件に始まる)で政府の不拡大方針無視で現地関東軍が戦線をどんどん拡大して行った原因は、日露戦争以降、国際情勢無視で勇ましいことを言う運動を「民意」と称して煽っては慎重派政治家を次々と失脚させることが連続して行った結果、軍部による政府方針無視の風潮を生み出して行ったからです。
メデイアが総合判断の出来ない過激派(一定レンジ内の能力では秀才?)を長年かけて世論を煽って持ち上げてきた結果、若手過激(総合判断の利かない秀才?)派が増長した結果が出たのが、5・15事件(昭和七年・1932年・海軍軍縮交渉不満を理由とする若槻内閣総退陣→次期犬養総理の襲撃)や2・26(昭和十一年・1936年・大恐慌背景の君側の奸を撃つ?)事件でした。
いずれも一知半解の未熟な青年将校の行動でしたが、物事の根本を理解できない・知的階層としては外れ者の意見による運動であった点では、日露講和条約反対(7博士意見書)の動きと根は同じです。
すなわち、第一次世界大戦後戦場となった欧州では、平和を求める動き→軍縮交渉が世界の流れとなっていたばかりか、無駄な軍事費を削り民生費に投入することは外見上一等国であっても内実が弱い日本としては、最も必要としていたことであり、軍職交渉自体は日本にとって有利なことでした。
日露戦争以降日本は戦争には勝ったものの経済的に疲弊に苦しむようにになっていたことを紹介してきました。
(レーガン大統領によって軍拡競争を仕掛けられてソ連が崩壊したように、総力を挙げての軍拡競争には日本は米国についていけません)
2・26事件でいえば、三陸大地震と世界大恐慌による経済失速が背景でしたが、当時世界大恐慌にもっともうまく適応していた高橋是清蔵相殺害などを見れば、これも複雑化した金融理論その他経済原理無理解のまま「君側の奸」を排除すれば解決するという古色蒼然たる概念に酔いしれた単細胞将校が自己の能力限界を弁えない過激行動を起こしたに過ぎないことが分かります。
日露講和条約をまとめた小村寿太郎や彼を推挽した伊東博文は帰国時に迎えに行って自分が暴徒に襲われる覚悟であったとどこかで書かれていますが、当時の国民はそこまで実行するほどバカでなかったことがわかります。
ウイキペデイア・ポーツマス条約に出ている全権大使小村寿太郎決定時の記述です。

結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。
小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった[10]。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている[11]
小村寿太郎に関するウイキペデイアの記事からです。
帰国時には怒り狂う右翼団体からさまざまな罵声を浴びせられ、泣き崩れた小村を両脇から伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったという。
また、日比谷焼討事件や小村邸への投石など暴徒化した国民の影響で、妻のマチは精神的に追い詰められ、小村は家族と別居することを余儀なくされた。

今の中国やロシアで政府が国際合意をしたことに対する反対運動が起きて、それが暴徒化して政府要人を襲撃するようなことが考えられるでしょうか?
日露講和条約時の政府は戒厳令を布き処罰すべきはするなど毅然とした対応したのですが、この後は毅然とした態度を取れずに騒動が起きるとその都度内閣総辞職の慣例になっていきます。
これではメデイアや半可通の学者がやりたい放題になるのは当然でした。
それがメデイアの煽り・・極端な(軍部若手)主張を正当化する煽りによって彼らが日増しに増長して行ったことが、その後の満州事変〜支那事変など政府の不拡大方針無視の現地判断による戦線拡大をしていった遠因でした。

学問の自由安売り2→天皇機関説事件へ

学者の公式意見であるならば合理的根拠が必要で、根拠なし(日清戦争でいくら取れたから大国のロシアからはその何倍を取るべきという程度での主張では庶民の皮算用レベルで学者の意見とはいえません)に願望を書くだけならば、庶民の感情論と同じです。
ただし、これまで書いてきたように、(ウイキペデイアの解説には出ていませんが)「賠償金を取らないと日本経済が持たない」と言う危機感を持ってその種の説明もしていたのでしょうが、「日本に金が必要」ということと相手のあることで相手から金を取れるかは別問題ですから、いまの韓国のように「国民感情が許さない」と国内事情を対外的に喚けと主張していたことになります。
日露戦後に戦時経済の穴埋めために巨額資金が必要である点では異論がなかったと思われますが、賠償金獲得は資金手当の一方法でしかなかったことになります。
賠償金で賄うほどの戦勝ではなかった客観事実・・「負けないうちに終われてよかった」のが実態である以上は、その現実を受け入れて、戦後経済・復旧資金をどうやって工面するか、資金手当が無理ならば従来の拡大政策を修正し(民間企業でいえば、出店計画を縮小して台風や水害等で荒れた既存店舗工場の補修資金・死傷した従業員や下請け納入業者の支援などに優先配分する)腰を矯める時期・・どうやって戦争経済を平時モードに切り替えて行くかの提言こそが、学問のある人のなすべきことでしょう。
取れそうもない賠償金要求を貫徹しない政府・担当大臣を国民感情が許さないと言って政府を非難し、内閣総辞職を勝ち取ったものの、それで一件落着・結果を受け入れるしかないとなると、今度はその不平感情のはけ口・代償として満州への傍若無人な進出を煽っていったことになります。
アメリカは日本の賠償金要求を取り下げさせて満州権益を認めることで講和を仲介した以上は、「日本の満州進出に文句いえない筈」という程度の浅はかな意見で煽り続ける・・結果的に満州への傍若無人な進出を当然とする感情論が広がっていったのでしょう。
賠償金を取れなかったのは、アメリカによる不当な介入(多分日清戦争後の三国干渉の結果同様のアメリカに不当に干渉されたかのように煽っていた印象です)によるのではなく、日本の実力からみれば最大限の利益を図ってくれた現実無視の「感情論」(・・アメリカ系教会襲撃を見れば)であったように見えます。
最近のネット世論?に出る、その道の通らしい人・〇〇評論家の意見を見ていても、左右を問わずこの種の前提事実を独断的な読み方をした上で、一方的邪推の上に邪推を重ねれればこうなると言う議論が広がっていることが散見されます。
最近の憲法学者の憲法関連声明も研究論文発表とはとても言えない代物が中心である点では同様です。
憲法学者は憲法の専門家であって、政治の現場にいないのですから政治声明を出す以上は、肩書きによらない個人意見であるべきでしょう。
日比谷焼打事件でも帝大教授の肩書で出すのではなく、自己の意見が正しいと思うならば、肩書きなしで自説を展開し、国民がその意見だけを見てどのように受け止めるかでしょう。
酒の鑑評会では出品者を不明にして味を見るのがルールになっているのと同じです。
このように本来学問研究成果と関係のない政治意見(3月31日に紹介した7博士意見書を読むと学術研究論文ではなく、単なるアジテートに過ぎません)を学者の名で発表し政治運動に利用することにより、本当に必要な学問の自由を侵害する危険がこの頃から始まっていたのでしょう。
えせ学者の跳ね返り行為が過ぎたことによって、せっかくの親日国の米国に対日疑念を抱かせ仮想敵国視(いわゆるオレンジ作戦の対日適用)へ移っていく切っ掛けになっていった原因です。
紹介したウイキペデイアに

「暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」

書いていますが、(政府は謙遜に勤めていたのに)7博士は余計なことをしたものです。
米国は7博士の主張を危険視したのではなく、米国はこのような過激派を煽る民衆運動に弱い日本政府の傾向を読みとったのは慧眼というべきでしょう。
以降学者もどきの政治運動が政治を動かす傾向が続き騒動が起きる都度事なかれ式に内閣総辞職が慣例となってしまい、日本を取り返しのつかない方向へ走らせていくのです。
現在もそうですが、「学問の自由」とは学問発表の自由であって、政治運動する行為は政治運動というべきであって、それは「学問の自由」となんら関係がありません。
それは学問ではありません。
一旦学者になれば何を言っても何をしても全て免責されるかのように主張するのは、学問の冒涜です。
「学者」という特権身分があるものではありません。
帝大教授の肩書きで発表し国民を扇動しても何をしても許されるというのは傲慢です。
単に権威を利用した政治運動にすぎません。
日露戦争後約30年後に起きた天皇機関説事件も政府が始めたのではなく、メデイアが騒ぎ、これに便乗した野党の追求によって始まったものです。
政府は学問のことは学問論争に任せせればいいであって政府は関知しないという答弁をしているのに、メデイアの応援を受けた野党がこれを追求していたことが以下の記事でわかります。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。
岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」

結局美濃部氏の告発まで政府がやらざる得なくなる方向へ進みます。
政友会やメデイアの政権攻撃は一見反政府運動・民主的運動になりますが、いつも背後に軍部内の小数強硬意見・跳ねっ返りの支持を受けて「虎の威を借りる」運動形式だったのが本質だったのではないでしょうか?
政権党が野党になると軍部の強硬派意向を背景に今度は次の政権を追い詰めることの繰り返しでした。
戦前の議会では非常識な軍部内の経論を持ち込んでは審議妨害・倒閣運動ばかりが華やかになったのは、当時のキングメーカーであった西園寺公望の憲政の常道論によります。
彼の憲政理解・・「時の内閣が総辞職すれば当時の野党に組閣させるの正しい」という形式理解による交代論が、戦前議会を歪な方向へ曲げてしまった原因です。

思想「弾圧」4(天皇機関説事件)

メデイアの煽りといえば、天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」

美濃部の告発まで進みます。
日露講和条約反対で言えば、講和の損得などの機微について詳しく知らない庶民や右翼が、焼き討ちするまで盛りあがるには、盛り上がるにたる一方的な(国民を煽る)情報を流布して反政府運動をもり上げるメデイアがあったからです。
このようにメデイアと野党の二人三脚による追及で失脚するのを弾圧事件と言うのが正しいかどうかは別として、失脚の程度を天皇機関説事件に先立つ滝川事件について見ておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6によれば以下の通りです。

1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解[注 2]などを理由として発売禁止処分[4]を下した。翌5月には齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した[5]。

この休職処分(ここ数日のテーマ関心は処分が正しいというのではなくこれを「弾圧」とは過激な表現でないかの疑問で書いています)に教授会や学生が抵抗したので大騒ぎになったものです。
上海の「新生」事件では、中国政府は懲役1年2月の実刑判決を宣告し、発行者は実際に服役しています。
日本で教職や辞職すれば済むのとは大違いです。
紹介した論文の一部引用です。
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf

2-1 杜重遠と『新生』
・・・1934年『新生』を発行した。1935年7月、「新生事件」で懲役1年2ヶ月の判決を言い渡され、上海の漕河涇監獄に入り、1936年9月に刑期を終え出獄した。

今でも習近平政権になってからの政敵弾圧では、失職どころか全て長期服役が原則です。
スターリン粛清のようにシベリヤ流刑になるどころか、以下に紹介するように滝川事件では次の大学教授の職まで政府が用意しているのです。
昨日見たウイキペデイア続きです。

瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった[注 3]。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長[注 4]が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。
松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一(のちに立命館大学学長)、宮本英雄、森口繁治、末川博(のちに立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授のみを免官[6]としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。
事件のその後
滝川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍した。また、瀧川自身も事件後は立命館で講義を行うようになった[7]。立命館への受け入れは、立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ、元京大法学部長で立命館名誉総長だった織田萬と相談の上で運ばれた[8]。結果、立命館をはじめ京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。
・・・この事件で予期せぬ漁夫の利を得たのは、立命館大学だった。立命館は、安い給料で当時一流の学者を招聘できた。また、戦後になって立命館がGHQに睨まれた際にも、この京大事件で追われた末川博を総長に据えるなど、大学の民主化を図って切り抜けた。

上記によれば、西園寺公望の政治力で、立命館で彼らを引き受けることにして収拾を図ったようですが、同氏は当時政界随一の実力者でした。
西園寺公望に関するウイキペデイアの紹介です。

明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[1]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

右翼も立命館教授になった滝川教授らをそれ以上追求しないで終戦を迎えています。
日本の思想弾圧とか戦前の「暗黒時代」という大げさな報道や教育刷り込みの割に実は極めて穏健なものです。
中国のように皇帝の逆鱗に触れるとすぐに九族皆殺しにあったり、トーマス・モアのようにヘンリイ8世の離婚がキリスト教の教えに反すると言い張って死刑になってしまったイメージとはまるで違います。
キリスト教国の異端審問・・思想自体を裁くものとしては、ジャンヌダルクの火あぶりの刑で知られているように過酷です。
ソ連では「収容所列島」と言われたようにスターリンのご機嫌を損ねるとたちまちシベリヤ流刑になる時代が続きました。
アメリカではアメリカ国籍を持っているにも関わらず日系人というだけで(文字通り人種による処罰です)全財産を没収した上で女子供を含めて荒野に鉄条網で囲った収容所に閉じ込め犯罪人扱いをしましたが、(男女年齢を問わず収容所送りと言う点では、ガス室に送られなかった点が違うだけでナチスの人種迫害と変わりません)日本は日本国籍を持たない在日米国人に対してさえそんな事をしていません。
日本政府の反対思想に対する対応は「弾圧」と言う禍々しい表現よりも、ソフトな不利益待遇(政府権力者による弾圧よりは、メデイアがうるさいからちょっと閑職に退いてくれないか)程度ですから、諸外国に一般的な弾圧という表現は実態にあっていません・・政治不利益扱い〜抑圧程度に表現するのが適当でしょう。

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