弁護士会・強制加入の必要性があるか?1

公式弁護士会に対抗する集団結成のコスト負担が新集団結成の妨害・抑制にはなるでしょうが、不満者が増えればいつかは反対組織が生まれて来るでしょう。
そうなると自分たちの集団も公式の単位会として認めろ=「会費の二重払いは御免」と言う運動に発展して行きます。
結果的に「一定数以上の会員が集まれば別の単位会を作る自由を認めろ」となり、将来的には強制加入制度が空洞化して行くリスクを孕んでいます。
一旦この動きが始まってしまうと外部勢力を巻き込む結果、会内だけでは収拾がつかなくなりますから、主流派がそこまで追い込まない自制心が必須です。
ここで弁護士自治の制度的担保とされている強制加入制度について、思いつき的ですが検討してみたいと思います。
弁護士は人権擁護が主目的ですが、多くは社会の少数派・ひいては社会多数から指弾されている人・権力から迫害される人をそれでも弁護するのが本質的立ち位置です。
その極端な場合・犯罪者とされている場合でもその人の立場になって耳を傾けてみる・・被告人は気がつかついていないが弁護士の立場で調査してみると色な証拠が出て来て無罪のこともあるし、有罪には違いないが、相手にかなりの落ち度がある場合の外社会制度に問題がある場合など、いろんな隠れた事情があります。
社会から圧迫されている人の極端な場合である刑事被告人まで行かなくとも、その前段階で村八分のような人権侵害を受けている人もいます。
こう言う人の立場になって弁護するのは、その弁護士まで一緒に非難される危険があってとても勇気がいるものです。
「勇気があるからこそ弁護士になっているのでしょう」と言えば簡単ですが、やはり人間の強さには限界があるので支えあい励ましあう仲間が必要です。
難病その他困った人たちの支えあう会が有効なのと根が同じです。 
弁護士数が増えて行くに連れて同業者内意見交換的グループが発生してその内地域別・・全国組織に発展して行ったと推測することが一般的に可能です。
ただ、一般的歴史を見ると前近代・・ギルド制度の延長で、権力支配貫徹のために許可を受けた者しか業界参入を認めない・・許認可・強制加入制度は弁護士会に留まらず、全ての業界を通じて元々政府による統制支配の道具でした。
弁護士会も例外ではなく、多分司法省の監督権があって監督便宜のために強制加入になっていたのです。
職権処分も出来る睨みを利かしながら各種業界内で自主的処分をさせて(異議申立権を与えて監督官庁の最終処分にする)間接統治するのが近世以降統治の普通形態でした。
例えば今でもヤクザと警察のなれ合いがトキに問題になりますが、暴力団組織を完全に粉砕して全員一匹オオカミ状態になると情報収集が極めて困難になります。
「・・そこまでやると黙ってない・・兎も角これだけの事件をやった以上は、シラを切っていると組織壊滅までやりますよ・・」と言う脅しが利かなくなる・・これが良いか悪いかの議論は別とてこうして取締側も何とか格好がついている場面があります。
組織の方は「あいつははぐれ者で大分前から組織を抜けているので・・」と逃げを打っても・・それなりの人脈がある筈だからかそこを組織の力で探し出してくれと言う「脅し」が入ります。
これが捜査能力の低い天領中心に幕末各地で顔役・・侠客が成長して博徒など違法集団の二足のわらじがはびこった背景です。
想像は別として、権力統制・・各種業界に張り巡らされた強制加入制度を戦後民主化のためにGHQがドンドン破壊して行く中で、弁護士会(だけ?)に何故強制加入制度が残ったのか?逆張りの関心になって来ます。
弁護士会の論理によれば、自治が貫徹されれば、政府統制の害がなくなるから強制加入を制を残しても非民主的にならない・・という存続要請論理は戦前の強制加入制度存続のための論理です。
政府による統制のためにあった強制加入制度を「自治に必要だから」と存続運動して成功し、今も強制加入制度こそ自治の本丸・死守すべき制度と言うのですが、元々政府による統制のためにあった制度の存続によって、残っている制度だと知っておく必要があるでしょう。
戦後弁護士自治が始まったばかりの弱いときに、任意加入になると組織に人が集まらない・・自治が維持出来ないと言う弱みがあったのかも知れません。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/statistics/data/white_paper/2015/1-1-1_danjo_nenrei_suii_2015.pdfのデータによると1950年で全国5827人です。
私の登録した1974年では、9830人ですから、1950年から約二倍に増えています。
私が1974年に千葉県弁護士会に入会したときに私たち新規会員をプラスして漸く100人を超えた記念すべき年でしたが、その前・・約1年半実務修習していた栃木県弁護士会では、会員数が全県下で40人前後の印象(お客様・・お世話になっていただけでしたので詳しい数字までは知りません)でした。
50年比で約二倍になっていると言うことは、50年ころには、栃木県・・多くの地方県では20人前後〜終戦直後ではもっと少なかったでしょうから、自由参加では組織体にならない・・全県一区の単位会強制が必要であったことが想像出来ます。
以下はhttp://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-988.htmlの引用です。
GHQの・・「リーガルセクションは、当初、強制加入を「好ましくない」とし、さらに日弁連会員が、弁護士会と個人弁護士であるという二重構造の必要性も疑問視したとされています。これに対し、水野東太郎や柴田武は、次のような論法で説得したといいます。
 ① 強制加入を認めないと、少なくとも刑罰に至らない程度の非行の責任や弁護士一般の信用を害する行為の責任追及を断念するか、他の機関に委ねなければならない。このことは、せっかく確立した弁護士会の自由独立を捨てるか、弁護士一般の信用の危殆を傍観するしかないことになる。
 ② 弁護士会が官庁の指揮監督を離れ、独立自由を獲得するために強制加入があり、これによって団体自治が確立され、真の法的自治ができる。
 ③ 日弁連への二重加入は、弁護士に対する懲戒手続きを各地の弁護士会が追行しない場合、日弁連が直接懲戒する必要が生じるためである。(第二東京弁護士会「弁護士自治の研究」) 
上記は書いた人の要約ですから正しいかどうか分りませんが、主張の中核が弁護士一般の信用を害する者に対して懲戒処分・統制が利かない→品質保持出来ないと弁護士に対する信用が崩れ、ひいては自治が維持出来ないと言う点にあるようです。
弁護士会の自治の必要性を自明の前提として根拠を書いていませんが、自治を維持するには(選挙等による確認によらないとしても)国民の弁護士全体に対する信頼・支持が必要と言う趣旨でしょう。
この論理から言うと入って来た後の弁護士の品質チェックには自治・自主的懲戒処分権があるだけで、加入を認める入口での資格チェック権がないと一貫しません。
権力に楯突く弁護士などは少ない方が良い・・試験を余程の秀才でないと合格出来ない・・厳しくして弁護士を出来るだけ少なくする政策の場合、弁護士会側からすれば入り口の品質保証は問題になっていなかったように思われます。
強制加入制存続要望の本音は、任意加入だと人数が少な過ぎて「発言力のある団体」にならない心配が中心だったからではないでしょうか?
反権力になり易い弁護士は少ない法が良い・・立派な資格だから厳重なテストが必須として合格者を絞って来ましたが、その結果却って弁護士に対する信用が上がります。
そこで、これを逆張り的発想で政府が弁護士の品質劣化を招くために資格試験を易しくして大量供給すればどうなるかの実験をしたのが平成の大量供給政策でした。

政党と弁護士会・学者の違い4

弁護士会の政治行動の場合、日弁連が国に1つしかない・・消費者が選べません。
学問の自由の場合、(学会内部で能力のない人が牛耳れても)権力が介入出来ない代わりに企業内研究所との競争や国際競争があります。
内部で多数派の横暴があっても弁護士自治を理由に外部がチェック出来ない・・しかも市場競争もない・・これにあぐらをかいているとどうなるでしょうか?
ここ10〜20年に及ぶ弁護士大増加政策がテーマになっていますが、市場競争をもたらしつつある点はプラス評価すべきかもしません。
どんな業界でも苦境が来ると先ずは価格競争やサービス低下に走るのが一般的ですが、価格競争を脱して新機軸を出せた企業だけが新たな時代に生き残れるのです。
弁護士会も大量増員後多くの弁護士は目先の価格競争(本来国選や法律扶助→法テラス案件では事務所維持費が出ない・・収支マイナスなので「公益義務」として受任義務が弁護士倫理として掲げられている状態でしたが、この15年前後ではこれを争って受任する傾向・・これが主たる収入源とする若手〜中堅が激増して来ました。
元々事務所家賃その他経費ににならない程度の報酬しか出ないので受任義務を課していたのですから、これを主たる収入源にしているのでは若手の貧困化は推して知るべきでしょう。
この勢いでその他一般民事でも受任単価低下競争や同じ単価で従来基準の何倍もの手間ひま掛けるサービス競争などが進む一方になって来ました。
良質サービスが低廉化するのは、消費者にとっては良いことですが・・中国の出血輸出同様で、原価割れ競争は長く続きません。
この結果弁護士界の疲弊が進む一方で、(この種統計が出ていますので、周知のとおりです)司法試験受験魅力激減→優秀な受験生の敬遠・能力低下の悪循環・・商品で言えば品質低下が始まりました。
いわゆる「産みの苦しみ」に堪え兼ねて?大増員政策に対する大反発が起きていますが、これを転機に新業態工夫の大転換に動く契機に出来るかどうかは弁護士業界の能力次第と言えるかも知れません。
ただし、弁護士業務の場合にはマンツーマンでしかも懇切丁寧な説明が従来以上に求められているので、高齢者〜身障者など弱者向けサービス・・従来の何倍も説明などの時間が必要になる・・一般産業のような効率化努力の逆方向に進んでいます。
社会の進化と逆方向かと言うと今後AI化が進めば進むほど社会で余る労働力が癒し系?マンツーマンサービス濃厚化に進む筈ですから、間違った方向とはエ言えません。
健常者向け弁護士業務自体も事件そのものが例えば離婚原因も暴力のような単純系から、長い間の確執がテーマにするようになって来ると長時間事情を聞かないとどちらが悪いから分らない事件が普通になって来ました。
医師の3分診療批判が良く言われますが、大規模病院ではバックシステムの効率化がありますが弁護士業務の場合、元々事務系の業務に占める比率が低い結果、システム化よりは、(携帯電話やパソコン普及で電話番、タイピストや、郵便宛名書きや書類お届け要員もファックス利用で大幅に減りました)バックシステム不要化が逆に進んでいる状態です。
人数さえ増えれば、新規業態を発明発見出来るよう分野ではありません。
少数派無視の政治運動に戻しますと、どこかで書いたと思いますが、自治を楯に外部に口出しさせない制度に頼っていると逆説的ですが、自治を破壊する遠因になります・・大増員政策採用は唯我独尊に対する社会からの逆襲の一環だったかも知れません。
この大増員による弁護士業界の地盤低下政策は失敗だったように思われます。
弁護士会内部でも、大増員政策に最も激しく抵抗していたグループは、もともと反政府運動が生温いと言う(過激な?)勢力が中心になっていたことからも政府による大増員の本質が透けていました。
ところが、大増員による弁護士会追いつめ政策によって、弁護士し業界の仕事の質がその割に下がらず・・消費者側の信頼指数が下がらなかった上に・・大増員反対運動は思想的に見て弁護士会内の左右を問わない共通意識になって来てしまいました。
政府が弁護士業界を増員で追い込み過ぎたので多くの若手弁護士が左翼系牙城の消費者系などに吸収されて行ったことや貧困化が進んだ結果、左右勢力が内部争いをしていられなくなって、却って増員反対では左右一致団結になったように見えます。
今や従来単位界や日弁連執行部を握っていた主流派=言うまでもなく反政府運動中心母体ですが、対外交渉をして来た結果、(その分いろんな妥協をして来た)主流派と妥協を許さない過激(原理)系の争いが表面化して来て保守系が表面に出る幕がなくなっています。
世間から見れば殆ど政党と言えないほど惆落した旧社会党同様の主張に凝り固まっている最左翼に見える日弁連主流派が、弁護士会内では穏健・中道グループになってしまったことになります。
日教組や旧社会党のように純化が進めば進むほど社会意識から遊離して行きます。
ところで、弁護士全体が疲弊→弁護士になる夢がなくなると応募者レベルが下がります・・日本産業界の国際競争上問題が出て来る・・世界で互角に戦える人材養成には数十年以上かかりますが、結果が出てから人材優遇を始めても数十年以上の空白が生じてしまいます。
今は国際競争は武力や技術力だけではなく、海外進出計画段階から現地法務事情の研究アドバイスから必要で・・中間的には知財の争いその他法的争いが主戦場になり、将来的に国際司法解決による場面が増えて来ると国際裁判所等へ人材供給層を厚くしないと日本の国益を守れない時代がやって来ます。
こうした数十年先の弊害を考えたのか?(日弁連の努力もあるでしょうが・・)1昨年から政府は産業界の危機感を背景に弁護士会敵視政策を程々に修正せざるを得なくなったようです。
1昨年から合格者ワクを2000人を1500まで下げ、昨年だったか司法修習生に対する給費制復活も認めましたが、その程度の修正で様子を見ているのでは、収まらない状態になってきました。
以上の結果を見ると政府・・外部からの大増員圧力・・弁護士会の地盤沈下を力づくで押し進める政策は失敗だったことになります。
政治活動の是非は国民世論の動向による内部改革努力を待つ・・高裁判決のように自治能力に委ねて口出ししないようにするしかない・・弁護士会の自発的民主化しないことになって来ます。
北朝鮮も穴時で圧力をかければ余計依怙地になるだけと言うことが一杯あります。
政府が口出しし圧力をかけなくとも、少数意見が無視される不満が鬱積して来ると、普通の組織の場合不満な人の脱退する(フィットネスクラブでもサービスが悪い飛とどんドン入会者が減りやめて行く人が増えます)のですが、弁護士会の場合強制加入なので脱退すると弁護士資格を失ってしまいいます・政治的意見の違い程度で折角の取得した弁護士を辞めるしかないのでは、不満があっても脱退出来ません。
そこで意見の合う者同士でさしあたり派閥みたいな集団結成が行なわれることになるのでしょう。
今のところそう言う動きがまだ起きていない・・あまり知られていないと言うことは、少数意見の不満が大したことがないとも言えます。
私的な派閥を結成すると派閥維持経費が別にかかるので、派閥加入者は既存弁護士会費との二重負担になります・・。

政党と弁護士会・学者の違い3

革命の成果によって憲法が制定されることが多い歴史を見ても分るように憲法内容をどうするかこそは、多くの政治運動の中でも優れて政治的要素が高い・・最も尖鋭な政治そのもの・中核行為です。
憲法・・国家の基本がどうあるべきかの尖鋭な(多くは血塗られた革命の結果生まれています)政治運動ですが・・、これを憲法遵守義務から導き出して弁護士会の目的の範囲内・高裁判例を引いて、弁護士の思想信条を侵害する政治運動ではないと言う主張は「現行憲法が改正されるまでは現憲法を守るべき」と言う遵守論と議論をすり替えているように思われます。
非常識なすり替えをそのまま言い張る体質を見ると、北朝鮮や中国が何かあると自己の非を棚に上げて「全て日本が悪い」と言い張るのと似て、専制支配の思想体質の延長で見れば理解可能です。
権力を持つ者が「馬を鹿」と言い張っても廻りが「違います」と言えない社会・権力さえ握れば「黒を白」と言い張れる歴史経験が強固で、その思想影響下にある場合、民主国家においても外部の影響力を遮断出来る組織内では、こう言う無茶な主張を言い切って持続可能です。
すなわち、日弁連や単位弁護士会は政府から独立性があって、外部世論による修正余地がない・・独立性担保がある点で「唯我独尊」的になり易い制度的欠陥を持っています。
内部的には専制支配でないものの、外部批判を一切受け付けない・・国民支持を直截必要としていない・・専制君主以上の権限があります。
絶対君主でが王権神授説を必要としたように、権力と言うものは何らかの正統性担保が必要です。
共産党一党独裁とりわけ、スタ−リン独裁の正統性のために、下部組織から順次の意見持ち上げ組織であるから一党独裁は民主的制度であると言う言い訳が一般化していました。
・・私の司法試験受験時に選択した政治学では、当時その道のオーソリテイーの基本書で勉強しましたが、「独裁は民主主義の一方式である」と政治学原論で習った記憶です。
そのころには「北朝鮮は地上の楽園」とマスコミで賞讃されていたことを考えると昭和30年代半ばの頃に政治学の権威者になった人ですから当時の学会では共産主義礼賛のまっただ中だったからでしょうか?
「地上の楽園」検索で出た本日現在のウイキペデイアの記事です。
帰還事業・・1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航し[2]、数度の中断を含みながら1984年まで続いた。
「在日朝鮮人の間では、朝鮮戦争による荒廃からの復興が進まず、また政情不安を理由に、韓国への帰国を不安視する一方で、社会主義体制のもとで千里馬運動により急速な復興を実現したとされていた北朝鮮への憧れもあった。当時、北朝鮮と韓国の体制間競争は北朝鮮が優位に立っており[注 1]、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・革新団体が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促した[6]。特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたといわれる」
「吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』で知り合いの帰国を喜ぶ場面があるように、一般の日本人も帰国事業に概ね好意的だった。このため、日本のマスコミは左右を問わず帰国事業を人道的な事業と捉え、新聞各紙はこぞって帰国事業を歓迎し賛同する記事を書き連ねた。1959年12月24日付産経新聞の「暖かい宿舎や出迎え/第二次帰国船雪の清津入港/細かい心づかいの受け入れ」、1960年1月9日付読売新聞の「北朝鮮へ帰った日本人妻たち「夢のような正月」ほんとうに来てよかった」、さらに1960年2月26日付朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。
“ 帰還希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想を尽かしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎振りや、完備した受け入れ態勢、目覚しい復興振り、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ」
話題がそれましたが、昭和3〜40年代には委員会方式が民主的運営方式として賞讃された時代で、ソ連崩壊後の今でもこれが続いている印象です。
弁護士会の会内民主主義も、全て下部委員会からの持ち上がりで機関決定を経ていることは確かです。
ソ連が崩壊した現在これが・・委員会審議による持ち上がりでさえあれば民主主義組織と言えるのかの検証が必要でしょう。
April 9, 2015「,弁護士大増員の影響」(弁護士会費負担の脅威)1November 1, 2015「弁護士会委員会の運動体化1」October 19, 2015「サイレントマジョリティ10(会内合意のあり方3)」等々で書いて来ましたがその再論または続編でもあります。
下部組織・委員会から意見が持ち上がる形式のソ連型民主主義制度は、実際には内部が硬直してスタ−リン独裁・逆らいそうな気配があれば直ぐに粛清されたりシベリア送りになっていたように、物事は形式ではなく実質です。
中国の現在政治も共産党内部は形式的には民主的に持ち上がるようになっていても、実際には権力掌握者の動向をしっかり見定めてその御先棒担ぎをするような意見しか出せない・執行部に楯突くような意見を言えない・・全員一致しかない集会です。
異論を言うどころか反対姿勢を匂わせようものなら、早速汚職容疑や反党分子として引っ張られてしまうでしょう。
一旦支配者が決まるとこの体制が崩壊するまで専制支配者の鼻息をうかがうしかない・・まさに古代から続いて来た専制支配体制を委員会組織に置き換えたに過ぎません。
委員会形式は専制支配の言い換え組織・・ソ連崩壊後・いまでは委員会組織・・機関決定さえあれば民主的決定と言えないことは世界の常識でしょう。
私が好き勝手にいろんなことを個人的に自由に書いていることから分るように、弁護士会内部がそう言う状態でないのは確かですが、それと組織内で公式な意見交換が自由闊達に行なわれているかは別問題です。
政治論について本当に充分な議論が会内で出来ているかは別問題である上に、活発な議論が行なわれていてもその結果をどうするかは別問題です。
会内で活発な議論が出来たとしてもソモソモ政治的意見で集まった団体ではない上に強制加入の本質からすると・議論の結果に納得出来ない少数意見を、どうするかは別問題です。
例えばある同好会がテニスや旅行目的で集めた資金を多数で決めれば特定政治家への寄付に使って良いかということです。
会内民主主義システムとしては弁護士会の場合直截選挙もありますし、ソ連や共産党組織とそっくり同じではありませんが・・ここでは委員会組織さえ経由すれば民主的手続を尽くしたと言うまやかし・・形骸化について書いています。
さらに内部民主化さえあれば、独り善がりで良いのか、外部チェック・・選挙による支持率上下による外部評価を受け付けなくても良いかも大問題です。
レストランでも衣料品でも皆同じですが、従業員株主全員の民主的同意さえあれば、消費者の好まない商品を提供した場合・・誰も買わないので結果が出ます企業内全員一致で新商品を開発して売り出しても、社会に受入れられなければ失敗であることは同じです。

政党と弁護士会・学者の違い2

日本国民の人権・平和を守るための国防がどうあるべきかが議論になっているときに、現行憲法が唯一正しいと言うべきか、もうちょっと変えた方が良いかの議論はまさに政治論であることは論を俟ちません。
その他の憲法条項改正の可否も同様です。
死刑廃止運動も似たような弁護士であれば当然と言う論法で、日弁連は会員の意思を個別具体的に聞く必要を認めません。
以下はhttps://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/1992/1992_21.htmlからの引用です。
「国家秘密法に反対する日弁連の昭和62年総会決議の無効確認と日弁連運動の差止等を求める一部会員からの提訴につき、本日、東京高等裁判所第5民事部(川上正俊裁判長)は、日弁連側全面勝訴の判決を言渡しました。
この判決は、本件日弁連決議と日弁連運動が構成員である会員個人の権利を侵害するものではないという理由で、原告である一部会員たちの請求を全部棄却した本年1月30日付の一審判決を基本的に維持しています。
今回の判決は、その上で、次の点を積極的に認定・判断しました。
1 弁護士会の活動は、「目的を逸脱した行為に出ることはできないものであり、公法人であることをも考えると、特に特定の政治的な主義、主張や目的に出たり、中立性、公正を損なうような活動をすることは許されない」
2 しかし、「弁護士に課せられた」弁護士法1条の「使命が重大で、弁護士個人の活動のみによって実現するには自ずから限界があり、特に法律制度の改善のごときは個々の弁護士の力に期待することは困難である…ことを考え合わせると、被控訴人が、弁護士の右使命を達成するために、基本的人権の擁護、社会正義の実現の見地から、法律制度の改善(創設、改廃等)について、会としての意見を明らかにし、それに沿った活動をすることも」、目的の「範囲内のものと解するのが相当である。」
3 本件総会決議は、「本件法律案が構成要件の明確性を欠き、国民の言論、表現の自由を侵害し、知る権利をはじめとする国民の基本的人権を侵害するものであるなど、専ら法理論上の見地から理由を明示して、法案を国会に提出することに反対する旨の意見を表明したものであることは決議の内容に照し明らかであり、これが特定の政治上の主義、主張や目的のためになされたとか、それが団体としての中立性などを損なうものであると認めるに足りる証拠は見当たらない。」
日弁連としては、今回の判決が、十分な会内合意に基づく日弁連活動の実状とそれに関する日弁連側の主張を全面的に認めて、正しい事実を認定し、これに正当な法的評価を加えたことを高く評価するものです。
日弁連としては、今後とも、「基本的人権の擁護、社会正義実現」のために、ひろく国民の皆さまとともに、いっそう、弁護士会活動を発展させていく決意です。 1992年(平成4年)12月21日  日本弁護士連合会 会長 阿部三郎
上記のとおり弁護士会の目的の範囲内と言うのですが・・・。
テーマを政治活動経費に使った分の会費徴収が違法と言う争いにしているからそう言う結論になったのかも知れませんが、強制加入による脱退の自由がない点を無視または軽視した判断と思われます。
この判決書き事態の検索が出来ない・・探せないので、日弁連の要約しか分りませんが、どこかで読んだ記憶では、弁護士自治の重要性に鑑みよほどの逸脱がない限り裁判所は介入しないと言う趣旨を書いてあった記憶・・根拠を探せません。
この高裁判決以降弁護士会の政治運動は一種の治外法権みたいな結果になっていますが、この判例は以下の通り(いつも書くように個人的思いつきですが・・)おかしいと思います。
弁護士の政治運動は国民の一人として自由ですが、ここでは、弁護士会としての政治運動の許容範囲を書いています。
弁護士は強制加入団体のために、弁護士会で特定政治会派のための政治運動すると反対会派を支持する弁護士個人の思想信条に抵触する・・イヤなら脱退すれれば良いと言うわけに行かない・・強制加入団体の特質をどう考えているかの疑問です。
左翼系がよく持ち出す例では学校で国歌斉唱するのは、「歌いたくない児童に対する思想信条の侵害」だと言う意見ですが、左翼系が多数を占める弁護士会では逆に少数派派の信条など全く無視で良いのかと言う議論です。
今朝ユーチューブで聞いた長島議員の民進党脱退の記者会見を聞いていると似たような意見を述べていました・・曰く民進党は政府攻撃には人権人権と言うが自分の敵対者に対する(表現の自由と言ったかどうか忘れましたが、)人権など全く気にしない体質だという趣旨のクダリです。
個々人の政治信条に関係なく弁護士会が特定政治意見を発表したり政治運動するのは、会内少数者の意見無視・思想信条侵害で行き過ぎではないかと言う争いにこの判例がきちんと答えているのでしょうか?
実務を通じて知った問題点・法の不備を訴えるのは実務家集団として必要な職責です・・消費者問題ではこの種の弁護士会の前向き提言が多く、実務上も多く採用されていることからも・・前向き提言する職務性は十分理解出来ます。
その場合でも弁護士会は問題提起どまりであるべきであり、その解決策についてA案B案C案等が入り乱れ政党間の対立法案になったばあい、新法案や規制強化の方法については国民の信託を受けた政治の分野で決めていくべきであって、組織として特定案の立場で反対・推進運動までする必要がないし、許されないのでないかと考えられます。
日弁連要約によれば高裁は「法律制度の改善は・・」と書いていますが、上記のとおりの前向き提言の役割はまだ妥当するとしても新法制定反対や既存法改正反対運動・・要は反対運動が「改善運動になる」というのは、飛躍がある・似ているようでいて少しズレていませんか?
実務家として現状の不備に気が付くことが多いのは分りますが、現状の法令が唯一無比で改善の余地がない・・あるいは改善策には多種多様なモノがありますがどの改善策が一番良い・・その他は反対と何故分るのでしょうか?
どのように改善すべきかは、(専門的見地から審議会委員になり、あるいは、参考人として専門的見地から意見を述べるのは自由)これら専門家の意見を前提にして最後は政治で決めるべきことです。
憲法擁護義務があるから改正反対運動は当然の行動だと言う意見がありますが、なぜ=で繋がるのか分らない人が多いと思いますが・・その主運動家から言えば分らないのはアタマが悪いから・・と言うのでしょうが?
その論理で言えば、「公務員は法律を守るべきである→業界等の情報から既存法令が不都合になった部分があっても改正に反対するべきである」から改正しようとして法案準備するのは法令遵守義務違反であるとでも言うのでしょうか?
何か新しいことを始めようとすると大方の場合、既存法令に抵触することが多いので新法令が必要ですが、既存法令遵守義務があることから、「新法令制定に反対することは全て正しいし、政治運動でも何でもない」となり、国会議員も憲法遵守義務があるから、改正論に先ずは反対すべきとなるのでしょうか?
「何でも反対しろとは言っていない」とすれば、その取捨選択行為をどう言う基準で行なうのか?この選択こそがまさに政治活動ではないでしょうか?
憲法遵守義務から憲法改正反対に結びつく・ならば、既存法令の改廃には、国民は法を守る義務があるから先ず反対すべきである・・社会変化拒否思想ですが・・まさに旧社会党が新しいことには「何でも反対して来た」思想的根源がよく分ります。
以上のとおり、法律家である以上憲法を守る義務がある=憲法改正に反対するのは、自動的に出て来る?活動であり、許された政治運動だと言う説明は詭弁そのものではないでしょうか?

政党と弁護士会・学者の違い1

成田空港・高速道路反対運動で飛行機や高速道路を利用しないのに庶民は被害だけ受けるとか、公害反対運動では金持ちは遠くの安全な住宅街で安穏と暮らしているとか・・・・弁護士になったばかりの頃に頻りに参加勧誘を受けて来たことを何回も書いてきました。
ところが、彼らの説明とは違い、モータリゼーションの進化、一般人の飛行機利用が活発化する時代を見越した政府の方が(空港開設や高速道などは数十年前から候補地選定〜用地買収など準備しないと間に合いません)先見の明があったことが分ります。
西洋19世紀型二項対立社会を前提に意識の低い庶民を指導する「前衛」と自称していた人たちの方が、保守党よりも数世紀後れの「後衛」だったことが次々と分って来ました。
西欧近代の革命理念は言うまでもなくアンシャン・レジーム・絶対王政否定の抵抗・・社会を近代化しようとする入り口のスローガンであって、近代社会そのものですらありません。
革命だけ起こせば、社会底辺までの近代意識が完成するものではなく、牢固たる慣習や意識払拭の戦いのためのスローガンが必要です。
リンカーンの奴隷解放宣言だけで直ぐに黒人奴隷が解放されみんな自由平等になったのではないアメリカの現実を見ても分るでしょう。
何十回も書いていますが、日本は国民との血族意識が強固で圧迫隷従の関係がない・社会の基礎が違うのですから、西欧革命前のアンシャン・レジームの存在を前提にこれをぶちこわす意識の高い前衛?であると自分で名乗っても、日本にはそう言う過酷な制度が元々ないのですから・・何を言ってるの!となってしまうわけです。
敗戦後占領軍政の先棒を担ぐ人・・ありもしない架空の搾取構造が日本にもあったかのように捏造する歴史家やカムイ伝のように史実に基づかない酷い搾取支配があったかのような捏造系文化人?が多く出て、この延長で慰安婦捏造物語が出来たと思われます。
ノンフィクション?を書いた吉田氏は文芸作品である以上創作して何が悪いか?と言うような意見だったと言われていますが、・・4〜5年前にアメリカで格差が問題になると直ぐに日本でも格差反対運動が起きるなど・・日本と欧米では元々国情・歴史が違うのを無視して欧米で起きた先端的騒ぎを持ち込む人がいますが、日本人には空疎な響きしかありません・・。
革新系政治運動家と言い、人権活動家・文化人と称する人たちは「後衛」と言うよりは、結果的に何でも反対し社会対立煽りたい人のグル−プじゃないかの評価が定着して来ました。
近代法の原理とはい言うものの上記のとおり破壊すべきアンシャン・レジームの残滓があって、その除去・戦いのための戦闘モード制度設計・・発展途上向けであり、信頼関係の確立した安定社会向けではありません。
命がけの抵抗・大革命の結果、人民のための政府を目的に樹立されたとは言っても、気を抜けば直ぐに先祖帰りする・・政府は信用出来ないから三権分立で相互監視すべきとか政府は信用出来ないから人権保護のための令状主義・・そう言う不信を基礎にしたシステムです。
いわゆる西欧近代法の法理とは、命がけで反抗しなければならなかったほど王権(西欧の多くは異民族支配で支配者と庶民は体格からシテ違います)に苦しめられて来た民族が命がけで抵抗して勝ち取った特殊な歴史を前提にした発展途上の制度です。
命がけで勝ちとった以上は「近代法の法理を守れ」とか「憲法を守れ」と言うのは、せっかく抵抗に成功して王の支配権を奪ったもののなお基盤が危うく(フランス革命は帝政〜王制〜共和制などの揺り戻しの繰り返しでした)・猜疑心ばかりで構築されているのは歴史の当然です。
日本のように古代から温和に上下共に相互信頼関係でやって来た社会で猜疑心を煽り分裂させようとするのは無理があります。
ただ、怠惰な人にとっては西欧の歴史が素晴らしく「相互猜疑心のある社会ほど良いものはない」と学校教育で受けたお題目を唱えていると自分で考える必要がなくて楽だし、素朴に人を信じる人には「お前こんなことも知らないのか!と偉そうに言えるし・・と言うことで何でも新しいことに反対しているのかも知れません。
日本の前衛・進歩的文化人?活動家は、数世紀前に漸く「民を大事にしろ」と革命を起こしたに過ぎない程度の社会を有り難がっているのですが、にっぽんでは古代からそんな過酷支配がなかったのですが、現実を見る目がないのでその違いが分らないのでしょう。
そこで、欧米の革命運動家を気取って自分クニでも政府のすることに何でも反対することが進んだ行動だと誤解しているようですが、猜疑心で凝り固まり抵抗ほど素晴らしいならば、中国〜北朝鮮〜ロシア程度の社会に行って、庶民のために政府権力と戦ってこそ本当の人権活動家と言えるでしょう。
ところで政党の場合、国民に選択権があるので、日本より数千年レベル遅れた社会モデル・搾取構造を基本にして反対ばかりしていても、どこのクニのな話をしているの?となって支持が減る一方です。
ところが大学や弁護士会は、学問の自由や自治が保障されて来た結果、世間から遊離した馬鹿な主張を繰り返していてもどこからも是正されません。
政党支持率の変遷・・学校秀才や学者の言うとおりの主張する政党の支持率低下を見れば、学校教育が数世紀後れの社会を基準にしていて社会実態に合っていないので、普通の判断力のある子供→20〜50年経過した有権者に受入れられていないことが分ります。 
世の中にはメデイアを通じて洗脳される人もいる・・誤解がはびこっているので念のために書きますと、法律家は現憲法を守って行動すべきですが、憲法規定が社会にとって有害・・不都合な事態が起きれば、これを改正する必要があれば提言することが職務違反ではありません。
憲法擁護義務があるから改正反対の運動は、政治活動にあたらないから弁護士会は会員の思想信条に関わらず会費拠出など(強制)出来ると言う詭弁が流布しています。
こう言う詭弁がまかり通っていることを見ると、この程度の詭弁に簡単に騙される人が多いと言うことでしょうか?
あるいは詭弁に気が付いているが、弁護士自治があって外部から文句が言われないから無理を承知で言い張っていると言うことでしょうか?
北朝鮮や中韓が何かあると何でも「日本の責任だ」と強弁するのに辟易している人が多いともいますが、正義・マトモな会話の通じない集団と世間から思れているのでしょうか?
弁護士は法運用の先端にいる以上いろんな不都合に早く気が付くものですから、いろんな法令に不都合があれば率先して改正提言することこそ職務上要請されていますし、公務員も法令遵守義務があっても実務をしているので取引内容の変化に合わせて新たな規制などを研究するのが普通です。
憲法や法令遵守義務と現行法令改廃に反対する義務は=ではありません。
日弁連や単位界が会員から集めた資金を憲法改正反対運動に使って良いかが議論になると、弁護士であれば憲法を守る義務がある→憲法改正反対運動は政治活動でない・憲法遵守義務から憲法改正反対義務が要請されているかのような珍妙な議論がまかり通っています。
あるいは平和憲法を守るのは人権擁護を職責とする弁護士の義務だと言う人もいます。
義務行為であるから政治運動ではないかのような主張です。

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