PKO1と国際常識1

トランプ大統領就任直後に訪問した安倍総理にトランプ氏が気前よく「よっしゃ任せておき・・」と睨みを利かせてくれる約束を取り付けることが日本国民の被害を減らせる最大の成果です。
この大成果を無視して追随外交だと批判していますが、(中韓系運動家にとっては大きな痛手だったからでしょう?)日本は軍事予算を今の2〜3倍にしても自分だけでクニを守れるわけがないし、孤立するのはとてもリスキーなことは明らかです。
無い物ねだりというか、アメリカの保障などない方が(中韓には)良いと言う立場の代弁主張でしょう。
この時点でトランプ氏と対立するのと日本の安全保障うを勝ち取るのとどちらが総合的メリットが大きいかこそが、判断基準であり、軍事同盟締結可否の基準であって、「付き合いで一人でも被害が出るのは困る」とか、派遣先周辺が危険かどうかなどの基準がテーマではありません。
1対1の日米安保でよりも、もっと多くの多角的関係がある国連のPKOでも(1対1の同盟よりは負担を軽くする必要がありますが)少しでも危険があれば許されないかのような国会の議論が盛んですが、これもズレています。
元々国連PKOは、危険だからこそ「軍」の派遣になっているのであって、これを危険かどうかで議論するのは子供の喧嘩みたいで意味がない・・どの程度の危険を冒してでも国際的義務を日本が果たす気持ちがあるかどうかの議論のためにはどの程度の危険があるかの事実吟味は必要です・・その上で「この程度の危険がある場合撤退すべきではないか」と言う意見を主張するのは合理的でしょうが、ノッケから政府を追及するの早過ぎます。
国際協力可否・・日本だけ協力しないのでは、その代償をどこかで払わない限り国際孤立になりますから、協力しないときの損益(湾岸戦争では日本は巨額冥加金を払っても評価されませんでした)こそが議論のあり方です。
日本が中国に侵攻されたときに「アメリカが軍を出してくれずに、金さえ出してくれれば良いのか」と言えば分り易いでしょうか?
大災害時に何の人的応援もしないで大金を送っても、目の前で実際に助けてくれる人に被災者が感謝するのとの違いです。
戦争と災害は違うでしょうが、命の危険が迫っているときに守ってくれる人やそこへ逃げ込めば安全と言う施設がある方が良いに決まっている・・殺されたり障碍者になってから、医療や応援資金を出すが緊急応援しないのとどちらが有り難いかの違いです。
こう言う客観情勢を無視して一人二人でも犠牲が出たらダメどころか、今の議論ではスーダン派遣基地の近くで戦闘があったかどうかを大騒ぎしている民進党のスタンスには驚くばかりです。
元々危険だから国連の要請で「軍」を派遣しているし、危険だからこそ「駆けつけ警護」があるのですから・・駆けつけ警護の妥当性を危険かどうかで議論するのでは既に国会を通った「駆けつけ警護制度」を認める国会議決の蒸し返しです。
相互性の緩いPKOにどの程度協力するか、国際協力の程度がどうあるべきか・・その議論の前提としてどの程度の危険まで引き受けるべきかこそが論点でしょう。
国連が派遣する平和維持活動の必要な場所とは、平和の保たれていない危険な場所と言う意味です。
まして【駆けつけ警護」は元々危険性が具体化したときを想定している・・それでも撤退しない新たな権限付与をしたものですから、以下に紹介するようにPKO発足時とPKOの派遣条件が変わって来た・・社会意識変化に対応する狙いもあったでしょう。
発足当時には、停戦合意発効などつかの間の安定・・抽象的危険状態の現状維持が目的であったものから、具体的紛争がまだ収まっていない//あるいは紛争再燃時の住民保護の役割・・一定の混乱状態下の積極的平和構築に軸足・任務に変わったことは明らかです。
相互性の緩いPKOと軍事同盟とは違いますが、たった一人〜数人の被害でもイヤ・・その危険があるだけでもイヤと言うならば、我が国は危険のあることは一切分担しない自分勝手なクニとなります。
こんな無茶が通用していたのは「戦争放棄」と言う非常識憲法があって、これを強制したのが外ならぬ超大国米国であったから、国際的に免責されていたに過ぎません。
戦力放棄の非常識憲法が世界の非常識と認識されるようになって、事実上の戦力を持つようになった以上は、日本も一般的な国際的義務を果たす必要が出て来ます。
たった一人の被害もなくクニを守れるならば、世界で孤立していても良いし同盟国はいらないでしょうが、日本が一睨みすれば、周辺の韓国や中国やロシアが怖じ気づいて引っ込んでしまうほど日本は強いのでしょうか?
110番通報で警官の出動を求めたら、危険性が低いなら直ぐ行くが危険度が高いなら行かないと言うことが許されるでしょうか?
あるいは喧嘩最中の現場には危ないので行けないが、喧嘩が終わって落ち着いてからならば、直ぐ行きますと言うのが警察の役割でしょうか?
危険なときに助け合うのが軍事同盟ですし、平和が侵されている・・危険に曝されているから現地住民保護のため派遣するのが国連PKOです。
平和で危険がなければ、派遣する必要がありません。
PKOに関する変遷はウイキペデイアによると以下のとおりです。
「平和維持活動は、「国際の平和及び安全を維持する」(国際連合憲章第一章)ため、国際連合が小規模の軍隊を現地に派遣して行う活動である。従来は、紛争当事国の同意を前提に派遣されていたが、冷戦後は必ずしも同意を必要とせずに派遣する例もある。平和維持活動については、憲章上に明文の規定はないが、「ある種の国際連合の経費事件」において国際司法裁判所がその合法性を認め、国際連合総会が1962年の第17回総会でこれを受諾している(総会決議1854)。
1994年のルワンダ虐殺では、当事者間での停戦合意が失われており、中立性維持のためPKO部隊が住民の保護をせずに撤退し、国際世論から大きな批判を受けることととなる。これを受け1999年には、コフィー・アナン国連事務総長が、国連自体が紛争当事者になることを前提に、国際人道法(武力紛争法)の遵守を告示するに至り、PKOの変質が明らかになった[5][6][7][8]。
さらに2013年には国際連合コンゴ民主共和国ミッションにおいて、先制攻撃も可能な強制介入旅団(FIB)の設立がなされ、程なくして反政府武装勢力3月23日運動の掃討に成功する[9]。
2016年7月に内戦中の国連加盟国である南スーダン国軍により、首都ジュバの住民に多数の犠牲者が出た際には、加盟国との交戦を避けるためPKO部隊による住民の保護がなされず、再び国際世論の批判を招くこととなる。
「日本は国際平和協力法に基づき、1992年の第2次アンゴラ監視団 (UNAVEM II) に選挙監視団として3名を派遣したのが始まりである。以後11のPKO等に要員を派遣している[15][16]。この国際平和協力法で1992年に定められたPKO参加5原則では、紛争当事者の間で停戦合意や、紛争当事者が日本の参加に同意していること、PKOが特定の紛争当事者に偏ることなく中立的立場を厳守することなどを参加の要件としているが、上述のように内戦状態にある南スーダンで国軍による住民被害の防止を求められるなど、現状と乖離した規定となっている[17][18]。」
上記のとおり元はと言えば、停戦合意の監視団・・緩衝剤として始まったものですが、今では、目前の市民被害阻止の役割が国際的に期待されていて役割が積極化しているのです。
目の前で市民被害が起きて逃げ込んで来るようになると、紛争にまき込まれるからと拒否し、見殺しにして傍観している・・これが人道的に許されないことから駆けつけ警護の必要性が、認識されて国会を通過したのです。

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