米中韓の価値観一体性7

嘘でも何でも宣伝すれば宣伝の多い方が勝つと言う方針で、歴史を改ざんし恥ずかしげもなく実行し続ける中韓両政府の価値観自体にも驚くばかりですが、何回も書くように米中韓に共通の価値観(陰口の多い方・宣伝の行きわたった方を正しいと受入れる)絶対的正義感のない社会・・結果的に多数を握った勝者か否かしか、価値基準のない社会であるから成り立つことです。
アメリカの信奉する民主主義→相対的価値観の社会は、絶対的価値観のない社会の裏返しです。
いろんな出自の移民で構成される社会では、ア・プリオリな先験的絶対価値観が形成されません。
だから相対的価値=内容如何にかかわらず相対多数意見が正しいとするしかないのは仕方のないことですが、多数であればどんな悪逆非道なことも許されるとなるのは,必然的な病理現象と言うべきでしょう。
これを徹底したのがナチスのユダヤに対する悪行です。
良く知られているように、ナチスは政治学では民主国家という定義です。
アメリカも民主国家ということですが,対日本では焼夷弾攻撃によって約50万人に及ぶ惨殺・・死屍累々・・似たようなことをしています。
ナチスの悪行が非難されているのにアメリカがやった戦争犯罪・・戦時国際法違反には何の反省もないのですから,これでは正義の国という看板は虚偽そのもの・・強いかどうかにしか基準がないことをアメリカは自己証明しています。
中国では勝者=権力者に都合の良いルールを作るのに,今風の民主的装い・レトリックが未整備というだけで、勝敗絶対的重視社会の価値観はアメリカとそんなに変わりません。
結果から見れば、アメリカも中国も金力や人脈・権力次第・・公害・自然破壊など気にしない・・価値盲目社会である点ではほぼ共通の国です。
日本では勝者が作った勝手なルールを践んでも、その先の人道に反することは許されないという価値観で古来からやってきました。
この辺は非理法権天の法理として、01/21/04「中世から近世へ(国家権力の強化」1」で紹介しました。
米中韓の法理・価値基準は、言わば覇道またはそれ以前の山賊の論理であって王道ではありません。
安倍総理は価値観外交を唱えていますが、民意反映のための手段である民主主義政体か否かという価値観では日米の方が中韓よりは共通性が高いですが、それだけのことです。
スポーツで言えばレフリーに従うと決まれば、レフリーの買収し放題というのが米中韓ですし、買収が禁止されれば今度は新たなルールに従って許される限度で影響力を行使しようと努力を怠らないのが米中韓と言えるでしょうか?
レフリーの買収合戦に熱を上げるのは恥ずかしいこと・・真摯に練習に励むだけというのが日本精神です。
スポーツで日本が勝ち始めると直ぐにルール変更するのもアメリカでした。
こうやって日本が黙っていると中韓両政府によるあり得ない架空の犯罪行為を宣伝されていますので,日本も困ってきました。
非武装中立による平和国家という空想的理想論が色あせて来て日本も自衛力を高めないと山賊に囲まれている以上どうにもならないという意見が高まってきました。
黙っていても正しいことが通る社会と信じて来たのが日本人ですが,現実世界はそうではない・不正でも大きな声の方が通る世界構造であることが分って来ると、日本も黙っていないで世界に向かって正しい主張を発信して日本の立場を防衛して行くしかありません。
繰り返し書いていますが,日本は世界レベルから見て数千年単位で道義の進んだ国ですが、世界の民度が幼稚園児みたいに大きな声で騒ぐ方が信用される社会にとどまってる以上は、当面世界の低レベルに合わせるしかありません。
ルールさえ守れば良いというのではなく、その先の本質的価値観(やって良いことと悪いことがあるでしょう・・と言う基準)を重視する日本と多数派さえ形成すれば何をしても良いという米中韓とは意識として本質的な違いがあります。
価値観共有と言えば,米中韓の方が本来的な気が合うでしょうから、絶対的正義を探求する日本は孤立する運命にあるのは避けられないと思われます。
日本人は何百年かかっても「お天道様に反した行為」は許されないと考えていますし、無差別爆撃を続けた残虐非道な米軍の殺戮行為・・これを正当化するために,逆に日本を悪い国と貶め続ける行為を忘れることはありません。
このいじめっ子の仲間になっている国々も、きっといつかは天罰を受けると誰もが信じています。

 民主主義とは?2

東京電力が無意味な自然尊重みたいなイメージ広告を朝日新聞等に一面借りきりで巨額支出していることから、東電に対する批判が抑えられて来たことが原発事故後に明るみに出ました。
(広告出稿等の)金の力次第でドンドン宣伝する大手マスコミの誘導に従って一見自己判断をしているかのように誤解した有権者が投票するのと、候補者を直接知っている地元有力者のナマの声を信用して代議士を選択するのとどちらが本当に民主的かの議論が必要でしょう。
有力者による候補者の取捨選択の意見は、・・有力者の個人的な利害を隠して良いように説明するなどマイナス面がありますが・・聞いてる方がその有力者と地元で日常接してる関係から,説明する有力者個人人格をどこまで信用するかのチェックが出来るメリットがあります。
「あの人が推してるのでは胡散臭いからやめよう」と言う逆の評価も出来ます。
農業団体が推している・・共産党が推してればこう言う思想の人だろうと分りますし,このために政党隠しも行なわれることがあります。
これに対してマスメデイアの場合、一般大衆にはマスメデイアの編集者とは何の接点もないし、しかも一見中立っぽく報道するので却って国民は知らず知らずのうちに一定方向へ誘導されてしまうリスクがあります。
麻生総理現職当時の歪んだ顔や第一次安倍政権時の総理の頼りなさそうな面ばかりアップする手法です。
人間である以上は自信に満ちた顔をするときも困った顔をするときもあるでしょうが,中立っぽい報道が困った顔ばかり発表すると国民はこんな頼りない総理では困るとイメージづけられます
普通選挙は,ネットが発達した今でもなお概ねマスコミによるスクリーンを経た選挙だったとも言えます。
マスメデイア選挙の方が民主的だともてはやすのは、マスメデイアによる自己礼賛ではないでしょうか?
有力者に頼まれると断り難いのに対して、マスコミ宣伝による影響力の場合、受け身とは言え形式上自己判断である点が洗練されているということでしょうか?
露骨な汚職と政治献金の違い、強制と自主規制の違いのようなものでしょうか?
アメリカの大統領選挙は政策にもよるものの、結果から見れば資金力によって決まると言われていますので、戦国時代に収入力が5万石の大名と50万石の大名では、勝敗が概ね決まっていたのと結果から見れば本質的差がないことになります。
政策によると言っても成長戦略が必要というのは誰でも同じですし、介護の充実年金財政の解決の必要,保育所の充実も総花的主張ではみんな似たような主張で差異がありません。
マスコミがどんなに煽っても駄目なものは駄目で、マニフェストや人気によって資金力の差を逆転出来ることが稀にあるので、やはり個々人が最終的に決める権利があるのは重要だと言えるかも知れません。
しかしこの程度のことならば、戦国時代にも桶狭間の戦いのように資金力(総合軍事力)に劣る方が稀に勝つことがありますので,本質的な差とは言えません。
ココで書いているのは原則的な傾向を書いているものであって、モノゴトには例外があることはいつもお断りしているとおりです。
韓国や中国がアメリカで膨大な予算を使って広告宣伝・ロビー活動して史実を180度ねじ曲げても兎も角議会の多数さえとれば良いという運動が成り立っているのは、絶対的な正義か否かを問題にせずに,多数派工作すれば良いと言う社会・・これを受入れるアメリカ社会レベルにあります。
民主主義的価値観の共有と言っても正義不正義を問題にせずに,多数派支配を認めるという意味でしかないのです。
相手の陰口ばかり言っている人の方が日本社会では逆に信用を失うのが普通ですが、欧米や中韓ではそうではなく,嘘でも何でも宣伝に努めればみんながそう思うようになる・・多数さえ占めれば何をしても良いという社会です。
多数さえ占めれば「正義不正義にかかわらず」何をしても良いというのでは、専制権力が一旦権力を得れば何をしても良いと言うのと根本は同じです。
これまで書いて来たように専制権力に限らず、全て権力はそのときの多数派の支持で成立したものである点では今の民主国家と同じですから、一旦(正当に)得た権力で何をして良いかの道義心・高潔さの有無程度で、権力の持続的正統性が計られるべきです。

民主主義とは?1

ココでは民主的手続きによるか否かの違いがあるものの、多数派→権力さえ握れば(本質的正義に反しても)何をしても良いという無価値社会の批判・・日本流に「どんな権力者もお天道様に反することは許されないことがあるのじゃないか?」と言う疑問をもたない米中韓社会の共通性を書いています。
ところで民主的という意味は何でしょうか?
民意によると言えば、混乱を統一するのに成功した創業者・王朝の始祖も、そのときの多くの勢力の支持・・民意によるのではないでしょうか?
源平の争いに決着を付けたのも、足利尊氏も家康も結局はより多くの地方豪族(大小名)による支持を受けて政権獲得出来たものです。
数百人の兵力を動員出来る地方大豪族も、これを構成している数人〜数十人規模の小規模単位の多くの支持で成り立っています。
頼朝も、足利氏も自力で天下統一出来たのではなく、多くの豪族・武力集団の支持を集めたからですし,徳川家康も多くの支持者を集めて関ヶ原の合戦に臨んだのです。
漢楚の攻防で強い方の項羽が負けて、弱い方の劉邦が勝ったのも、民意・・どちらがより多くの集団支持を受けられたかによります。
いつの世にも権力はときの民意(多くの支持を集めた方が勝ち残る)によって成立していることが分ります。
民意獲得方法・・民主主義「的」か否かの基準が、普通選挙によるか否かだけであるとすれば、如何にも皮相的です。
地方豪族(大小名)の多くから支持を受けて天下統一に成功して創業君主になるのと、大統領選挙によるのとでは民意反映の直接性に相違があるだけです。
選挙制度が豪族・名門出身ではなくとも一定年齢以上であれば誰でも立候補出来るし投票権があるという形式があるものの、実際には一定組織の推薦・支持がないと立候補しても選挙にならないのが実情です。
我々日弁連の会長選挙には誰でも立候補出来ますが、実際には組織的支持があって立候補するのが普通であって、個人的思いつきで立候補しても恥をかくだけ終わります。
小選挙区の衆議院選挙でも同じです。
選挙制度は出自が豪族や地元有力者という家柄にこだわらないだけで、小単位から順次積み上げた支持・推薦がものを言う点は同じです。
直接選挙制と言われるアメリカ大統領も選挙人獲得による間接的選挙ですし,法の制定は議会=間接民主主義ですので、今や地方豪族・地方代表を民意・選挙で選んでいるかどうかの違いになります。
投票者の立場から見ても制限選挙に比べて普通選挙になると有権者が候補者を直接知らないことから判断基準がないので、古くは候補者を直接知っている有力者の意見/どんな人かの説明に従って支持を決めることが多かったので、結果的に有力者による制限選挙と効果に大差ありませんでした。
今でも自民党公認・・そのまた下位集団の医師会や農業団体推薦等々)等の強固な組織の支持表明で、大方の帰すうが決まるのが普通ですが、(革新系の場合連合や参加組合の支持)これなど戦国時代に上杉や織田信秀など各地域内の覇権争いに勝ち抜くには、地域内の豪族・小名の支持をどれだけ取り付けるかで勝敗が決まったのと本質が変わりません。
自由な投票行為が保障されていると言っても、せいぜい地元有力者や組織の機関決定に反感を持っている人が、組織の特定候補支持表明にかかわらず反対票を投じたり棄権出来る程度の自由が保障されるホンの僅かな例外的意味しかなかったことになります。
都市化が進み,大衆社会化が進むと都市住民は有力者との関係自体がなくなっているので、候補者に関する情報提供機能をマスコミが代わって果たすようになって来た結果、マスコミの宣伝戦(資金力)によって(選挙区が大きくなればなるほど)当落の影響を受ける時代になりました。
都知事選挙のような大きな選挙になると有権者の殆どが候補者と直接あったことがない・・マスコミによる露出の仕方・・中立を装った巧妙なマイナス宣伝または持ち上げ宣伝に左右されると言っても過言ではありません。
高度成長期ころからスポーツや俳優スター人気はマスコミの作り上げた虚像であると良く言われていましたが、政治家も実は同じです。
これが一気に露呈したのが、覚せい剤事件で世間を騒がした酒井法子の事件です。
彼女が清純派で裁判所の広告にまで使われていたのですから世間が驚きました。
この選挙パターンの普及が、マスメデイアが事実上の影響力・・政治権力を握るようになって来た源泉です。

米中韓の価値観一体性6

アメリカに限らず大統領制は議会・裁判所による控制がありますが、原則が大幅な権限ですから,任期の区切りしか本質的縛りのない制度です。
軍事作戦を考えれば分りますが,古代から、作戦遂行能力は一任した将軍に委ねてプロではない王様が口出ししないのが原則です。
カエザルの故事から分るように、統領制は元々軍制から出発したものでこれを国内政治スシステムに持ち込んだものです。
大統領制は一任・独裁制を原則としていることから、専制・恐怖政治に陥るリスクがあるので、フランス革命以降これを抑制するために三権分立が唱えられるようになりました。
我が国のように元々権力に内在する抑制機構・・内部利害調整した結果ボトムアップして行くシステムが予定されていないことが、ポッキリ折れる革命または王朝転覆を必要とし,結果的に三権分立・・外部から牽制するようになったことが分ります。
議会や裁判所が外からチェックする仕組みですから、一々同輩・豪族間の利害調整・・現在では各地選出同僚議員と相談しながらやって行く前提の我が国の議院内閣制とは本質が違います。
統領制は対等者間の合理的議論の結果、より良い結論を導いて行く能力のない社会・・元は軍事行動で大将や隊長の命令一下、無批判に行動する程度・・これが平和期になると専制政治しか知らない国民レベルの低い社会に適合した政治制度となります。
民主的なのは選任権があるだけで、選任後は(国民にはよく分らないことを前提にした)全面お任せの社会です。
後は法に違反しなければ良いと言う程度の縛りだけで,不都合があっても人気中は我慢しなければならないのが統領制です。
途中の解任権がありません。
王制〜終身制→世襲制の場合、任期がないので、我慢し切れないと暴力による革命あるいは王朝転覆が必要になります。
守銭奴的・金金金の汚職社会の中国経済に比べてアメリカの場合、市場経済・政治献金制度というルールこそ整備されているものの、ルールに従いさえすれば如何に天文学的巨額な給与を取ろうと、公害をまき散らそうと市場競争に勝った方の勝手と言う超格差の結果是認社会である点は同じです。
民主制とは言うものの選任したら圧倒的権力を握る(議会ルールに縛られるものの)点では、中国の専制制と結果は同じです。
民主国家のアメリカと専制の中国とでは、結果が同じでもルールがあるかないかでは大きな違いと言えそうですが、ルールさえ守れば何をしても良い・・極東軍事裁判のようにシロを黒と言いくるめるのに、裁判という手続きを踏んでいる以上文句ないだろうというのがアメリカの価値観です。
中国や専制性の国では権力者であれば、何をしても良いとなる専制制の国との違いはルールに従っているか否かだけです。
専制制の国も専制制(帝王の命令が絶対と言う)というルールがあるのですから,ルール制定過程とその実施過程に民主的チェックが入れるどうかが、議会制民主主義に依るか否かの違いでしかありません。
民意と言っても結局は、多数派支配・・金または力のあるものがルールに従いさえすれば好きなようにやれる社会です。
中国の場合露骨な資金力による直接強制ですが、(日本に対してレアアース禁輸したり、フィリッピンと領有権を争うと直ぐにバナナ輸入制限したりするなど露骨過ぎます)アメリカの場合、資金力に比例するマスコミ利用に依る宣伝活動で民意を間接誘導・大統領選の勝敗が資金力次第になっている現状は結果的に中国と同じです。
(・・武力によるか宣伝力・資金力によるかは別として、兎も角混乱社会を統一出来た勢力は)創業当時の最大勢力の代表者が君主になったものであって、多数派による支配である点は民主国家と同じです。
違いは世襲制か否か・・長期間経過後には、多数派の支持を受けなくなっているかも知れないのに・・と言うくらいでしょう。
この程度の違いでしかないとすれば、大統領制の本質が任期にあることが理解出来ます。

米中韓の価値観一体性5

アメリカでは何か行事のある都度、戦争に必須の国旗に異常なほどの熱意を示すのは、(普通の演説程度で国旗に何故そんなにこだわるのか不思議に思う人が日本人では多いでしょう)外敵に向かって団結することしか団結理由になるものがないからです。
国旗・・軍旗が敵味方の目印として始まったものですから、我が国では徳川家の紋章や信長の旗に異常な敬意を払う場面は歴史上知りません。
個々人や所属する組織への忠誠心が問われるだけであって、年がら年中旗指物に敬意をあらわす国民性ではありません。
源平の赤と白の旗も、合戦のときだけ敵と味方の区別を分り易くするために重宝していたに過ぎず日常的に軍旗を飾っていたことはありません。
我が国では国旗の外に海軍旗(旭日昇天旗)という区分けがあるのはこうした歴史に依ります。
団結・忠誠心の基礎には郷土を愛し守り抜く基本思想があって、その上に郷党組織の一致団結があるのです。
アメリカには日本のように郷土を愛する共通価値観がないことが,外的に対抗するために団結する意識しか育たなかったことが分ります。
住んでいる土地が都合が悪くなればあっさりとゴーストタウンにして棄てて行くアメリカ人には郷土愛そのものが理解不能でしょう。
郷土愛には攻めて来る外敵から守ることも含まれますが、それは滅多にない一部の機能であって、災害や飢饉等から郷土の仲間をを守ることなどを中心とする幅広い愛・団結心です。
日本は人間の外敵から守る必要が千年に一回あるかないかの国でしたが、気候不順による凶作や災害の方はしょっちゅうやって来るので、災害時の助け合い意識が根付いています。
日本では災害が発生すれば助け合いに飛び出して行くのが国民性で,この機会に略奪するなど考えられない国ですが、米国の場合,都合が悪ければゴーストタウンにして棄てて行く国民性ですから、郷土を守ると言っても外敵の攻撃から守る程度しか共通目標がありません。
だから警備機能が麻痺するような大災害があると、助け合うどころか逆に100%の頻度で略奪が発生します。
実際にアメリカが侵略の危険を感じたのはいわゆる独立戦争のときだけですから、結果から見れば建国後現在までアメリカが必要として来た外敵の必要性とは、いつも自分が侵略・膨張目的で外敵と戦うことだったことになります。
国旗を中心にいつも気勢を上げるしかない政治・・逆から言えば政治家・指導者が地位維持のためにはいつも外敵を必要としている点では、中国・韓国の政治家と共通です。
アメリカ建国以来の近隣侵略膨張の歴史は誰でも知っているとおりですが、国家制度の成り立ち・・構造要因と言えるでしょう。
第二次世界大戦で日本から南洋諸島や奄美諸島〜沖縄や小笠原諸島などを奪った後には,自分が正義の戦いだったと宣伝している以上は,植民地拡大が許されなくなって、これ以上膨張が出来なくなると世界の警察官と称して,実質的世界支配を拡大・侵略を続けて来たのがアメリカの歴史です。
中韓両国が日本を非難する主張を聞いていると自分の悪い点をそのまま相手がやっていると思い込んで宣伝している・・自白しているかのように見えます。
激しい非難の場合、自分が過去にやって来たことを全て日本もやっていると想定して相手に押し付けて非難していることが多いのですが、日本を軍国主義と決めつけたのはアメリカの制度設計の弱点を言いたかったからでしょう。
日本の政治は平安〜鎌倉、足利、徳川とどの時代をとっても明治憲法でも軍国主義どころか、内政中心で外国と戦うための国・制度設計ではありません。
(幕府成立と言うと如何にも軍事政権のようですが,支配階層が武士層に移ったと言うのが本質であって、武断・恐怖不政治をして来たのではありません・・鎌倉府は史上初めても問注所を作るなど利害調整に腐心してきました)
利害調整能力に優れた人材が党のトップに立ち、総理になって行く我が国では元々対外交渉や攻撃用指導者を前提としておらず、これを必須とする韓国・中国やアメリカはまるで成り立ちが違います。
日本政治家は対外戦争目的の行動力ではなく、内政調整能力が最初に問われる資格です。
アメリカとどちらが軍国主義に馴染み易い体制か?となります。
話題を元に戻しますと、アメリカに限らず大統領制の国では、選任された以上は原則的に一任する制度・・任期中独裁権力行使が前提であることを民意に基づく政治2(大統領制と議院内閣制1)July 14, 2013〜「民意に基づく政治4(大統領制と議院内閣制3)」July 16, 2013等で以前書いたことがあります。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC